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体罰の報道に「公認体罰」を封じる力はあるか?

 体罰をめぐる報道に,

 「困ったニュースが流れてるな」という自覚のある教師は多いだろう。

 「自分も同じことをしている」という自覚をもっている教師は,実際の処分経験の有無にかかわらず,

 「公認体罰」を繰り返している人なら,

 少なくとも,「何となくやりにくい感じ」を抱いていることだろう。


 「体罰があったら,先生が悪い」といったら,「歓声のような声が上がった」

 という記事を繰り返し書いている人がいる。

 これは,教師が語るべき言葉ではない。

 警察官が,市民に対して,

 「警察官が市民に暴力をはたらいたら,それは警察官が悪い」

 と言っているようなものである。

 なぜこんな言葉が出てきてしまうのか。

 一言で言えば,生活指導に対する認識が甘すぎるのである。

 小学校の教師で,荒れた中学校現場の現実を知らない人が少なくないだろう。

 子どもの機嫌をとるのが教師の仕事だと誤解している小学七年生を,「中学生」にするのにかなりの時間を要するのが中学校現場である。

 認識というか,ピントがずれている教師は, 

 「体罰がある」ということと,「先生が悪い」という言葉の釣り合いがあまりにも悪すぎることに気づいていないだろう。

 だから,これを書いている人間は,なぜ生徒から歓声のような声が上がったか,想像することすらできないだろう。

 「体罰が行われた」のは,「生徒が問題を起こした」のが原因であることが多い。

 規律を重視している学校や,気迫を重視している部活動では,「問題」というレベルのことをしていなくても,

 「規律が足りない」「気迫が足りない」ことを理由に体罰を受ける。


 「先生が悪い」という言葉を,中学生は何ととらえるのか,想像できるだろうか。

 これほど寝ぼけたことを教師から聞くことになった学年の子どもたちは,

 「解放の喜び」を味わったことだろう。

 それはそれで,とてもよいことである。

 しかし,これほど強烈な「指導の方向転換」の宣言は,実際には逆効果になる場合の方がはるかに多い。


 結果オーライで満足できるのも感性の乏しい教師の最大の「長所」である。

 さて,報道が相次く「体罰問題」に,

 常態化していた「公認体罰」を抑止する力はあるだろうか,というのが記事の趣旨であるべきだった。


 結論から言うと,「公認体罰」をさらに「神格化」するおそれがある,という危惧を指摘しておく。

 部活動のように「治外法権」が成立してきた場所が,そう簡単に変わるはずもない。

 でも,本気を出せば,変わらざるを得ない。

 どうするか。

 私服警察官を「体罰が予想される現場」に潜入させるのである。

 子どもの方も,問題を起こせないし,教師ももちろん現行犯逮捕されたくない。

 本気で「根絶」をねらうなら,それしかない。

 それでも「問題の根っこ」はなくならないだろう。

 教育に情熱を感じていない教師は,決して体罰を行わない。

 決して少なくない数の「国民」は,「(処分などをこわがらずに)体罰ができる先生だから敬える」という一面をもっている。

 多いとは言えないだろうが,「体罰によって問題生徒を『鎮圧』している先生が学校からいなくなると,自分たちが困る」と思っている生徒がいる。

 今でも,処分を受けた時にもらった紙をためておいて,その「厚さ」を自慢している教師はいるだろうか。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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