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2013年1月

教育とは,思考停止を促すもの

 悪魔の辞典に書かれているかもしれない言葉です。

 教育実践について語られる言葉のうち,それが単なる経験に基づいた「感想文」ではなく,本当に「教育」にとって大切なエッセンスとして感じられるものは多くありません。

 私が「吐き気」を覚えたのが,小学校教師たちが使う言葉の「群れ」でした。

 自分たちが「いかに子どもを大切に教育しているか」を示そうとする言葉の「群れ」です。

 その「群れ」が,単なる「飾り」にすぎないことを,

 自分たちの行動によって示してくれる,こんなに「恥ずかしいこと」はないはずなのですが,

 その「飾り」は,「思考停止」を生むだけでなく,「感性の喪失」をも招くもののようなのです。

 「ちゃんと教育した気になる」言葉の「群れ」が氾濫している「研究会」はありませんか?

 そういうところにいて,「いい気分」になっている人はいませんか?

 教育とは,思考停止を促すためのものですか?

 自己矛盾にどうして気づけないのでしょうか?

 中学校の教師と,小学校の教師は,どうして「ここまで」違ってしまっているのでしょう?

 それは,

 小学生は,まだ教師が「だませる」子どもなのですが,

 中学生は,教師を「だませる」人間に成長しているからかもしれません。

 子どもたちが気の毒です。

 「思考を促している」ようにみえる授業の中に,どれだけ徹底した「思考停止」のしかけがあるか,気づける人はいないでしょうか。

 自分の頭で考えるチャンスを与える教育を阻害しているものは何でしょうか?

 授業は,「板書」を見るだけで,教師の「教育思想」が見えてきます。


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「現代の名言」と教育-3  佐々木則夫

 成功の反対は失敗ではなく,「やらないこと」だ

*******************

 ジョブズの「ベストを尽くして失敗したら,ベストを尽くしたってことさ」という「名言」にも近いものがある。

 「教育失敗学」を,「教育やらない学」に改名しなければならないか。

 実際に,「教育が行われていない現場」がある。

 高校の未履修もしかり。

 穴埋めプリントで終わる社会科の授業もしかり。

 ただサッカーのゲームをしているだけの体育の授業もしかり。

 ただ音楽のCDを流しているだけの音楽の授業もしかり。

 内容の理解が伴わない話し合いが延々と続いている「学び合い」の授業もしかり。

 
 生徒の側からすれば,学力がつかない理由は,

 「学習をやらされていないからだ」というかたちで説明がつく。

 
 黒板に書いただけで,「ああ,それ,教えただろう」という教師がいる。

 「学ぶとは何か」という「教育観」がないのだ。

 
 「そこに,哲学をもて」という指導を,同僚の先生はときどき口にされる。

 中学生にかけられている言葉を,

 教師もかけられなければならないのか。


 授業で,教師が尽くしている「ベストの姿」とは何か?

 
 それは,子どもに聞けばよい。

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学力をめぐる1960年代の話

 半世紀以上前の学力の話をくり返している人がいる。ご隠居は,長閑でうらやましいものである。

 非常に閉ざされた世界で生きていると,学力観も時間が止まったままになってしまうらしい。

 全国一斉学力テストが導入されたのが,1961年。

 このとき日本教職員組合は,「学テ反対闘争」を宣言した。

 そして,どういう成果を現場に残してくれたのか?

  話がそれるのでここではふれないが,

 学力調査が復活しても,

 「学テ反対闘争」という「歴史」は繰り返されなかった。

 そして,現場は今,どういう成果を残しているのか?

 「教師の質が下がった」と言われる理由の一つに,

 私の周辺では,

 「教育論を戦わせるような場や機会がずいぶんと減ったこと」を挙げる人がいる。

 それを嘆いている人がいるということは,今でもやっていることを意味するが,

 本当は,この教育ブログでも,「教育論で戦う」ことがあってもいいはずである。

 だが,それがなかなかできない。

 ある人は,議論をいっさい望んでいないし,ある人は,鏡に向かって説教しているだけである。

 識字率と国語力を同列に並べるようなドンデモ「学力観」など,化石そのものである。

 それだけ,学校の教師の頭の中というのは,「変化」に対応できない仕組みになっているのではないか,という危惧さえ感じる。

 それを突破するには,「議論」しかない。

 私には,なぜそれほど低レベルな話を堂々と公開できるのかが不思議でならない。
 
 「教育」をどうしてそこまで甘く考えられるのかが不思議でならない。

 実践ができない立場なのに,教育を語る資格がない,とは言わない。

 ただ,「自分のようになってはいけない」というメッセージを発してほしい。

 50年前に読んでも何の違和感もないだろう,という文は,ある意味では貴重である。

 教育の本質に大きな変化はないはずだからだ。

 しかし,シリーズものに何の変化も内容の豊かさもないのは,さびしくてならない。

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「現代の名言」と教育-2 ベッケンバウアー

 強い者が勝つのではない。

 勝った者が強いのだ

 ***************

 勝負の世界には,

 「参加することに意義がある」ではすまされない厳しさがある。

 飛躍して恐縮だが,

 教師の世界には,

 「とりあえず授業が成立していればそれですむ」という甘さがある。

 その反動が,部活動に来る。

 冒頭で紹介したのは,

 「座右の銘」にしたい「名言」のトップに来た,ベッケンバウアー・元サッカー西ドイツ代表選手の言葉だが,

 体罰の問題で揺れている部活動の世界からその言葉をながめてみると,

 「勝つこと,勝つことを目指すことの意味の大きさ」にめまいを感じる。

 部活動の顧問は,

 「強さ」を求める。

 そこには,「試合に勝つ」ことで示せる「強さ」もあるが,

 700年にわたって日本を統治してきた「武士」の気質にあたる「強さ」も求められていると感じる。

 つまり,「心の強さ」である。

 鬼のような顧問の前でも動じない,「心の強さ」が「勝利への鍵」と信じてやまない人たちがいることは,容易に想像できる。

 多少の叱責や「体罰」には動じない,「心の強さ」を求められている生徒たちは,少なくないと思われる。

 「そんな心の強さは必要ない」と言い切れることが,

 部活動をもっている教師たちにできるだろうか。

 「体罰」で処罰されることなどには決して動じない,そういう教師は少なくない。

 そして,そういう覚悟をもっている教師が高い信頼を得ていることも否定できない。

 「体罰」を消し去るためには,あらゆる方面からの意識づけ,はたらきかけ,動機づけが必要である。

 学校や教育委員会のレベルでは,限界があろう。

 学校や教育委員会の「隠蔽体質」が,今回の「体罰問題」を通してみても,

 いかに「浸透」しているものかがよくわかる。
 

 
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学力とは ~量より質の話を~

 根本的な学習観・指導観がずれているから,

 量でごまかそうとする行動にでる。

 内容が乏しいから,恥の上塗りになっている。


 学習の質より量を重視していることが,文章からひしひしと伝わってきてしまう人がいる。

 以前に紹介した話だが,

 ある図工の公開授業で,教師が

 「のびのびとした自由な子どもらしい色で表現させる」

 ことを目標にして指導を行った。

 私には,子どもはのびのびと自由に描いているようには見えなかった。

 その理由は,授業中に教師が授業の感想を述べさせてくれたのでよくわかった。

 何人の子どもに聞いても,

 答えは一つ。

 「はみださないで塗ることができました」

 ふだんから,教師の言うことはこれだけだったのだ。

 教師の指導に子どもは本当によく従っていた。

 その結果,のびのびと楽しく絵を描くという時間にはなっていなかったのだ。

 授業実践というのは,それだけ「怖い」ものである。


 さて,量でごまかそうとするのは,

 学力が低い生徒がレポートでいい評価をもらおうとするときに陥る特徴の一つでもある。

 
 文章量は多いが,同じことの繰り返しである。

 電気のしくみをどれだけ書こうが,

 「学力」向上の話には結びついていない。

 こういうのを「ピンポイント思考」というのだろう。

 認知スタイルでいえば,「場依存型」である。

 こういうタイプの人は,外発的動機づけの条件下ではよりよく学習するが,学習には明確な教授が必要となる。しかし,それをしてくれる人がまわりにいないので気の毒である。

 また,「集中型」「収束型」思考の持ち主である。

 事例の紹介の仕方から言うと,「演繹型」の思考スタイルを重視していることもわかる。

 すでに知られている法則・原則を具体的場面に適用することによって理解することを好む。

 さらに,「反省型」ではなく,「直観型」であり,一度気に入らないと判断すると,自分自身への批判をいっさい忘れてしまう。

 何も自己批判はしていないのに,なぜか「自分も反省したい」という言葉だけは残しているところも,ワンパターンである。


 「理科の教師が間違っていた」というスピーカーの話をもとに「学力を語りたい」という衝動はどうしてもおさえられないようであり,話の繰り返しが多い。

 学力を語る上で大切なのは,

 「理科の教師が間違えた」ことを指摘することではなく,

 「ある誤解は,どのような条件のもとで生まれるのか」

 「そのような誤解を防ぐには,どのように『問う』ことが適切なのか」と問い,

 それを指導にどう生かすかを考えることである。


 価格の変化に関する問題を出すときに,

 「需要量が増えました。価格はどうなりますか?」
 
 と教師が問うとする。

 生徒は,どう反応するのが正しいか?

 ある質問をしなければ,正しい答えを出すことはできない。

 「供給量は変化しなかったのですか」


 常に,「問い」が大切なのだ。


 演繹型の思考だけでなく,帰納型の思考もできるように,

 集中型の思考だけでなく,拡散型の思考もできるように,

 直感型の思考も大切な場合があるが,反省型の思考がしっかりとできるように,

 試行錯誤型の思考も大切にして,洞察型の思考と行動ができるような人間に育てる。


 これが教師のつとめである。 

 
 
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学力とは ~理科におけるエネルギーの学習=学習指導要領の解説を読もう~

 学習指導要領はおおまかなことしか示していないので,そこではどのような学習を具体的に展開していいのか教師は分からないし,教科書もつくりにくい。

 だから,学習指導要領には,「解説」というのがある。

 そこには,教師が教育内容を取り扱う上で,どういうことに配慮すべきかも具体的に示されている。

 たとえば,エネルギー問題を考えていくためには,

 好きな電気のことだけ詳しく知っていてもダメなのである。

 以下に,解説における第1分野の内容の「(7) 科学技術と人間」の内容を引用する。

*****************

(7) 科学技術と人間

 エネルギー資源の利用や科学技術の発展と人間生活とのかかわりについて認識を深め,自然環境の保全と科学技術の利用の在り方について科学的に考察し判断する態度を養う。

 中学校第1分野では,第2学年で「(3) 電流とその利用」と「(4) 化学変化と原子・分子」,第3学年で「(5) 運動とエネルギー」と「(6) 化学変化とイオン」など,物質とエネルギーについて学習している。

 ここでは,エネルギーについての理解を深め,エネルギー資源を有効に利用することが重要であることを認識させるとともに,科学技術の発展の過程や科学技術が人間生活に貢献してきたことについての認識を深め,自然環境の保全と科学技術の利用の在り方について多面的,総合的にとらえ,科学的に考察し,適切に判断する態度を養うことが主なねらいである。

 なお,「ウ(ア) 自然環境の保全と科学技術の利用」の学習は,第2分野の「(7) 自然と人間」と関連付けて総合的に行い,自然環境の保全と科学技術の利用の在り方について科学的に考えさせ,持続可能な社会をつくっていくことが重要であることを認識させる。

ア エネルギー
 
 (ア) 様々なエネルギーとその変換

 エネルギーに関する観察,実験を通して,日常生活や社会では様々なエネルギーの変換を利用していることを理解すること。

 (イ) エネルギー資源

 人間は,水力,火力,原子力などからエネルギーを得ていることを知るとともに,エネルギーの有効な利用が大切であることを認識すること。

 (内容の取扱い)
 ア アの(ア)については,熱の伝わり方も扱うこと。また,「エネルギーの変換」については,その総量が保存されること及びエネルギーを利用する際の効率も扱うこと。
 イ アの(イ)については,放射線の性質と利用にも触れること。

 ここでは,生活の中では様々なエネルギーを変換して利用しており,変換の前後でエネルギーの総量は保存されること,変換の際に一部のエネルギーは利用目的以外のエネルギーに変換されること,人間は石油や石炭,天然ガス,核燃料,太陽光などによるエネルギーを活用しており,それらの特徴を理解させ,エネルギー資源の安定な確保と有効利用が重要であることを日常生活や社会と関連付けて認識させることが主なねらいである。

 (ア) 様々なエネルギーとその変換について

 中学校では,電気がエネルギーをもつこと,化学変化には熱の出入りが伴うこと,運動エネルギーと位置エネルギーが相互に移り変わること,化学エネルギーが電気エネルギーに変換されることなどの学習をしている。

 ここでは,これらの学習と関連を図りながらエネルギー変換に関する観察,実験を行い,日常生活や社会では様々なエネルギーを変換して利用していることを,エネルギーの保存や利用する際のエネルギーの効率と関連させながら理解させることがねらいである。

 例えば,模型用のモーターを発電機として利用し,様々な方法で軸を回転させて発電させたり,太陽電池(光電池)に光を当てて発電させたりして,その電気で光や音,熱などを発生させる実験を行い,それぞれの現象をエネルギーの変換という視点からとらえさせ,日常生活や社会ではエネルギーを適宜変換して利用していることを理解させる。これらを基に,様々な形態のエネルギーが相互に変換されることや,変換の前後でエネルギーの総量は保存されることを理解させる。

 その際,エネルギーの変換では,エネルギーの総量は保存しながらも,エネルギーの一部が利用目的以外のエネルギーとなり,はじめのエネルギーをすべて有効に利用できるわけではないことを理解させ,エネルギーの利用効率を高めることが重要であることを認識させる。

 例えば,回転しているモーターでは温度が上昇することを扱い,電気エネルギーがすべて運動エネルギーに変わるのではなく一部が熱エネルギーになること,また,例えば,照明装置として白熱電球,蛍光灯,発光ダイオードなどで電気のエネルギーを光に変換する際,照明装置の種類によって効率が異なることを理解させる。

 また,熱の伝わり方には,伝導や対流,放射があることを理解させる。放射については,例えば,熱い物体に手を近付けると触らなくても熱く感じることなど,具体的な体験と関連させながら,熱が放射により伝わることを理解させる。

 (イ) エネルギー資源について

 ここでは,人間が水力,火力,原子力など多様な方法でエネルギーを得ていることをエネルギー資源の特性と関連させながら理解させるとともに,エネルギーを有効,安全に利用することの重要性を認識させることがねらいである。
 
 日常生活や社会で利用している石油や天然ガス,太陽光など,エネルギー資源の種類や入手方法,水力,火力,原子力,太陽光などによる発電の仕組みやそれぞれの特徴について理解させる。その際,原子力発電ではウランなどの核燃料からエネルギーを取り出していること,核燃料は放射線を出していることや放射線は自然界にも存在すること,放射線は透過性などをもち,医療や製造業などで利用されていることなどにも触れる。

 また,日本はエネルギー資源が乏しくその安定確保が大きな課題であること,化石燃料には長い年月の間に太陽から放射されたエネルギーが蓄えられていること,その大量使用が環境に負荷を与えたり,地球温暖化を促進したりすることなどから,省エネルギーの必要性を認識させ,エネルギーを有効に利用しようとする態度を育てる。
 
 さらに,今後,環境への負荷がなるべく小さいエネルギー資源の開発と利用が課題であることを認識させるとともに,太陽光,風力,地熱,バイオマスなどのエネルギー資源の利用,燃料電池や新たなエネルギーの開発の現状や課題についても触れる。

 イ 科学技術の発展

 (ア) 科学技術の発展

 科学技術の発展の過程を知るとともに,科学技術が人間の生活を豊かで便利にしてきたことを認識すること。
ここでは,具体的な事例を通して科学技術の発展の過程を理解させるとともに,様々な科学技術の利用によって人間の生活が豊かで便利になってきたことを認識させることがねらいである。

 (ア) 科学技術の発展について

 ここでは,科学技術の発展の過程について具体例を通して理解させるとともに,科学技術が人間の生活を豊かで便利にしたことを認識させることがねらいである。

 例えば,科学技術が著しく発展した産業革命から現代までを中心に取り上げ,化石燃料のエネルギーを利用して連続的に大きな力を取り出すことができる蒸気機関が発明され,産業革命が起こり,工業が急速に進歩したことなどを理解させる。

 また,例えば,天然素材を用いていた時代からプラスチックのような合成された素材を利用する時代に変わってきたことなど,素材の変遷を取り上げ,使用目的や用途に応じた機能を備えた素材が開発され,日常生活や社会に役立ってきたことを理解させる。

 このような科学技術の発展により,現代社会では豊かで便利な生活を送ることができるようになったことやこれからの科学技術の可能性を理解させる。例えば,資源やエネルギー資源の有効利用,防災,医療,農林水産業,工業,交通及び通信などに科学技術が役立っている平易な例について調べさせたり,エレクトロニクス,ナノテクノロジー,宇宙開発など最新の科学技術を調べさせたりすることが考えられる。コンピュータや情報通信ネットワークなどを利用したり,施設などを見学したりして情報を集め,整理してまとめさせたり,発表させたりすることが大切である。

 その際,科学技術の負の側面にも触れながら,それらの解決を図る上で科学技術の発展が重要であることにも気付かせる。

 ウ 自然環境の保全と科学技術の利用

 (ア) 自然環境の保全と科学技術の利用

 自然環境の保全と科学技術の利用の在り方について科学的に考察し,持続可能な社会をつくることが重要であることを認識すること。

 (内容の取扱い)

 ウ ウの(ア)については,これまでの第1分野と第2分野の学習を生かし,第2分野(7)のウの(ア)と関連付けて総合的に扱うこと。

 ここでは,第1分野と第2分野の学習を生かし,科学技術の発展と人間生活とのかかわり方,自然と人間のかかわり方について多面的,総合的にとらえさせ,自然環境の保全と科学技術の利用の在り方について科学的に考察させ,持続可能な社会をつくっていくことが重要であることを認識させることがねらいである。

 このねらいを達成するため,中学校最後の学習として,第2分野(7)のウの(ア)と併せて一括して扱い,科学的な根拠に基づいて意思決定させるような場面を設けることが大切である。

 (ア) 自然環境の保全と科学技術の利用について

 ここでは,我々の生活は,科学技術に依存している一方で,科学技術の利用が自然環境に対し影響を与え,自然環境が変化していることを理解させる。エネルギー資源など,我々の生活を支える科学技術に利用可能な資源は有限であることに気付かせる。

 このことから,限られた資源の中で環境との調和を図りながら持続可能な社会をつくっていくことが課題であり,そのために,自然と人間の共存が不可欠であることを認識させる。

 第1分野及び第2分野の学習を踏まえ,例えば,エネルギーや物質の利用と自然環境の保全など,科学技術の利用と環境保全にかかわる事柄をテーマとして取り上げ,生徒に選択させるようにする。テーマとして,次のような例が考えられる。

 ・新エネルギーの利用と環境への影響

 ・原子力の利用とその課題

 ・バイオ燃料の利用とその課題

 ・環境保全と資源の利用

 このようなテーマを設定して調査を行わせ,調査結果を分析して解釈させ,レポートにまとめさせたり,発表や討論をさせたりする。調査の際には,テーマに関する情報を適宜記録して整理させたり,図書室,博物館,情報通信ネットワークなどを活用して調べさせたりする。分析して解釈させる際には,科学的な根拠をもって推論し,
判断させるようにする。そうした学習の過程で,理科の学習で習得してきた知識や技能を活用し,論理的な思考力,判断力,表現力などを育成する。

 指導に当たっては,設定したテーマに関する科学技術の利用の長所や短所を整理させ,同時には成立しにくい事柄について科学的な根拠に基づいて意思決定を行わせるような場面を意識的につくることが大切である。

 (内容の取扱い)

 内容の(1)から(7)までのうち,内容の(1)及び(2)は第1学年,内容の(3)及び(4)は第2学年,内容の(5)から(7)までは第3学年で取り扱うものとする。

 学習の内容の順序に関する規定について,平成10年告示の学習指導要領では,各分野の内容の(1)から(7)までをこの順序で取り扱うように示していた。今回,これを改めて,内容の(1)及び(2)は第1学年,内容の(3)及び(4)は第2学年,内容の(5)から(7)までは第3学年で取り扱うよう,各学年ごとに標準的な内容を示すこととした。これ
は,地域の特性などを生かした学習ができるようにするためであり,中学校理科の第1分野と第2分野の内容の系統性に配慮し学習の全体を見通して指導計画を作成し指導を行うことが重要である。

**********************

 このとおりの指導が実現されれば,中学校における学習内容がとても充実したものであることがおわかりいただけると思う。

 学習指導要領を読んだだけで教員がつとまるほど簡単なものではない。


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35人学級のしくみは必要ない ~教員のばらまきには反対~

 学級の規模に関する判断は,文部科学省ではなく,財務省が正しい。

 単純な教員増は,教育の質の低下を招くことの方が心配である。

 35人学級の効果は,

 たとえば学力調査の結果,体力測定データの結果から分析してみればよい。

 少人数指導にすれば学力が向上するという単純なものではない。

 過疎地ならともかく,

 都市部で

 1学年に36人程度しかいない学校が,そもそも適正かどうか。

 35人学級なら,

 18人,17人の2学級になる。

 教師はたくさん必要になる。

 その効果がどれだけあるというのか。

 今,学校がみんな小規模化してしまって,

 学校の中で若い教師が育っていく環境が失われている。

 団塊の世代がまとまっていたころは,学校規模が大きく,若い教師が学ぶ機会も多かった。

 今は,初任者が単学級の担任,つまり学年主任をつとめる時代である。

 こんな学校に安心して子どもを任せられる親がいるだろうか。

 学校によって,新入学の生徒の規模はさまざまである。

 学校選択自由化の地域では,人気のある学校は常に定員いっぱいである。

 こういう学校では,いい教育はできないのか?

 魅力がないので入学希望者の少ない学校は,学力向上が実現しやすい学校なのか?

 定数は,弾力的に考えるべきである。

 40人学級でよい,と判断する学校は,40人でよいではないか。

 35人という数字は,中途半端なのである。

 36人なら,まだわかる。

 1クラスの人数は,どれだけが本当に「適正」なのだろうか。

 数字を1つだけあげてくれと言われたら,

 多くの教師は36人と答えると思われる。

 6×6,4×9,3×12,2×18・・・・機能に応じたさまざまな規模の集団ができる人数である。

 ただ,36人を上回ってはいけない,ということになると,

 37人だったら18人と19人の2クラスになってしまうのである。

 2クラスになってしまうのならば,37人の1クラスの方がやりやすい,という声もあろう。

 弾力的な運用が求められるのである。

 教員の「ばらまき」よりも,

 重点的な配置が大事だ,という考え方はまっとうである。

 ぜひそのようにしてほしい。・・・というか,実際にはそうなっている。

 学級の人数の規模は,実態として,学校によって様々である。

 今度は,学校の適正な規模を話題にしてほしい。


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子どもの不幸をネタにする教師たち

 ブログ村の(元)教師たちの中には,自分たちの問題にはふれず,

 子どもの方の問題ばかりを披露している人間がいる。

 教師に都合がいいことを書くために,

 不幸な子どもの実態をばらす。


 これが,教師が社会から信頼されていない最大の理由の一つである。

 かつて荒れた学校の内部の様子を実況中継のように綴っていた教師がいたが,

 どのような学年経営や教科指導をしてきたか,全く見えなかったので,話はかみ合わなかった。

 学校の問題点に対する指摘は,保護者の立場からのメッセージとして受け取ってほしかった。

  
 私は現場の教師だが,保護者の立場でもあるし,教育委員会では保護者との間で学校を飛び越えて学校の問題点をやりとりしていた立場でもあった。

 どうしても,「保護者の立場」を認識してくれない教師が多いが,

 「親ではないから親の気持ちはわからないのだ」という教師への批判のされ方があることには強い共感をおぼえてしまう。

 
 私は社会科の教師で,社会科教育の専門家の立場としてのブログは,他のカテゴリで紹介している。

 社会科に限らず,教師の実践報告というのは,生徒の学習の成果が如実に表れているものを示すのが一番である。

 生徒の作品があれば,それを公開すればよい。

 たとえば,試験問題を公開して,その得点分布や解答例を紹介するという方法もあろう。
 
 ただ,私たち教師や元教師だった人間が気をつけなければならないのは,

 公にすべきでない情報の扱いに配慮することである。


 これもただのつくりごとであってほしいのだが,

>私が中学校で学年主任をしている時、生徒の自殺未遂事件疑惑が起こったことがある。

>死者は出なかったが、生徒が自宅でガスを吸って自殺をはかったとの連絡があった。

>今日の自殺事件と同様、親からは学校不信の態度があらわになった。

 ということを平気で書ける人間がいる。

 これを読んだだけで,親から不信に思われる学年主任であったことは明らかである。

 子どもが教師をかばって怒りがおさまった,というのがオチだそうだ。


 「自殺をはかった」ことはもちろん,

 「自宅でガスを吸って」という具体的なことを公開するのは,守秘義務違反にあたる。

 地方公務員の教員だったら,

 地方公務員法第34条

 “職務上職員は、職務上知り得た秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後も、また、同様とする。”

 に反する行為となる。

 
>私も実名は出していませんが、ブログ名はペンネームのようなものと考えています。

>事実、私の周りの人は知っていて、私自身はそういう人たちも含めて、日頃、なかなか話ができない人たちにも発信しているつもりです。

 
 確信犯ということになる。


>彼は「鬱(うつ)」という診断を受けていますが、医者が鬱と診断する中には、本当は統合失調症なのだという人もいるようです。

>医者は仕事などに差し支えないように、あえて鬱ということにしているのだそうです。

>その融通のきかない彼は、完全に統合失調症の症状で、この病名は昔は精神分裂症と言ったように、その名の通り、思考は分裂しています。

 こういうことが平気で書ける人間が,教師だったのだ。


 そして繰り返し書いているように,


>暗記力は、文字通り暗記するだけの力である。

>しかし、暗記力によって手順やデータを記憶していなければ、知能を発揮して利口になっていくことはできない。


 こういう学力観,学習指導観をもっている人間は,今の教育現場では少数派だが,

 子どもたちは「勉強はまず暗記から」という誤った学習観にとらわれ,

 「私は暗記は苦手」→「私は勉強ができない」という自己信頼感の欠如した子どもが次々に生まれている。

  
 子どもとはいえ,その知能が生かされるためには,

 「まず暗記しろ」などといって人間が「機械のように扱われる」ことを否定するところから始めなければならない。


 暗記が苦手な子どもは,

 「お前は機械以下だ」

 というメッセージを教師から受け取ることになるのである。
 
 日本の子どもたちが学習に「自信をもっていない」原因の一つがここにあるのだ。
 

 
 「覚えていないからできない」という学習観・指導観は,「覚えていればできるはず」という安易な学習観に直結している。
 
 小学生は大人と違って,だまって教師に従って「暗記」してくれる。

 中学生は「テストに出るぞ」「高校に行けないぞ」と脅せば,「暗記」してくれる。

 
 広い意味の学習指導は,教育をする場としての学校がその価値を試される機会である。

 だから指導観のいい加減な教師をどうにかしなければならない。

 
 現場では,学習指導観をきちんと議論できる研修・研究の場が,学校内で設けられるようにすることがまずは重要である。


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こんな人が現場の教師だったとしたら・・・

>よほど変なことをしない限り、いちいち、文部科学省の指導要領はどうなっているかを気にする必要はありません。

>それは、文部科学省は大筋を示し、実践は現場に任せているからです。


 教師の中には,学習指導要領の解説を読んでいないと思われる人がいる。

 上のことを書いているのは音楽の教師だったから,

 音楽という教科は,それで何の問題もないものなのだろう。

 入試に関係がない教科というのは,こういう言い方をすると失礼だが,

 気楽な仕事である。

 私のように音楽の時間は物思いにふける時間と決めていた生徒にとっては,

 ただCDを流すだけの教師が本当にありがたかった。

 指導要領など必要ないのである。

 ついでに言えば,免許など必要ない。

 実践の話はほとんど書いていないのに,なぜか中学校教育のカテゴリに参加している。

 音楽の専門家なのに中学校教育に役立つ音楽の実践を持ち合わせていないのか,

 音楽教育のカテゴリには参加していない。

 言っていることとやっていることの整合性が全くとれていないブロガーでもある。

 この人は,平成14年度にはまだ教育現場にいたはずである。

 しかし,今,現場に苦労をかけている評価のことを全く知らないようだ。

 でなければ,冒頭の2つ目の文は出てくるはずがない。

 おそらく,自校の教育課程も分かっていない。

 そういう教師が現実としてたくさんはたらいているのも事実だろう。

 この私自身も,初任者のときは,いくつかの学校の教育課程を並べられて,どれがあなたの学校のものですか?と聞かれても,正しく選ぶことができなかっただろうと思われる。

 教育課程には,非常に重要なことが書かれている。

 しかし,それを知らないでも,その学校の教師がつとまる。

 メニューに書いてある料理の材料が何もない,

 その調理もされない,提供もされない,そういう学校がふつうに成立できてしまうのが,

 「教育課程の管理」がなされていない今の公教育の実態である。

 高校の「未履修問題」のように「わかりやすい不正」ならいいのだが,

 小学校の学級王国の内部では,何が起こっているのかを正確に把握するのは不可能だろう。

 
>よほど変なことをしない限り、いちいち、文部科学省の指導要領はどうなっているかを気にする必要はありません。

 
 本当によほどのことがない限り,こういう教師を現場から去らせることができないのがくやしい限りである。

 免許更新制の見直しにも,早急に着手してほしい。
 

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学力についての「無責任な発言」とは,このこと

>暗記力プラスアルファーがなくては、学力があるとは言えないということだ

>私の考えでは、暗記力プラスアルファーとは、覚えた知識を駆使して応用できることであり、そういう力が学力という用語にふさわしいと思う


 「暗記力」がベースになっている「学力観」など,

 まともな教師がつとめている学校現場には存在しない。

 学力のイメージは,学校教育法の第30条にある,

「生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。」

 をベースにすべきである。

 基礎的な知識はなぜ「覚えさせる」のではなく,「習得させる」必要があるのか。

 「覚えた」「暗記した」に過ぎない「知識」は,テストが終われば「忘れ去られる」運命にあるからだ。

 基礎的な知識は,「覚える」ことで身に付く,と考えている教師はいないはずである。

 それを身に付けるまで,いろいろな体験や試行錯誤をくり返すうえで,自分の頭でしっかり「考える」ことをするから,「習得」できるのである。

 授業で穴埋めプリントを用意して,その(   )に入る言葉だけをただ黒板に書いてみたり,言葉で伝えるような授業では,基礎的な知識は「習得」されない。

 「暗記力」をベースに学力を考えるような人間には,教壇に立つ資格はない。 

 だれに向けて発信しているのかは不明だが,

 目糞鼻糞を笑う

 レベルの指摘である。


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正体不明の「聖職者」擁護論者

 学校の教師が教育ブログをつづると,ふつうは

 「何をしている先生か」が記事の内容からだいたい想像がつくが,

 どの記事を読んでもそれが全く伝わってこない「教師」がブログ村にいる。

 昔,小学校の教師か?と質問したら,否定していたので,「それ以外」としか言えない。

 やたらと「教師擁護」の主張をするブロガーである。

 ふつうは「身内にいい顔をするのは恥ずかしい」という感性がはたらいたり,

 「教師は常に互いをかばい合っている」という批判を避けたいから,

 やらないはずのことを,

 平気でやっている。

 正体不明だから,余計に気持ちが悪い。

 このブロガーの特徴を典型的に示す例の一つが,

>国が教師に聖職者としての尊厳を認めていたということが重要

 という趣旨の発言である。

 戦争末期の話か?

 問題がカネではないのなら,

 59歳の教師に遠慮して,60歳の教師は潔く「聖職者らしい」ところをみせてほしい,

 と主張するのならわかるが,退職金減額に対して,

>教員としての尊厳を踏みにじった

 というような言い方をする。

 59歳より若い教師たちにもあてはまることなのに。

 こういう発言をする教師がいるから,

 だれも教師を「聖職者」などと思わなくなるのである。

 こういう教師のように,

 教師は「身内に甘い」のである。

 だから,校長を退職した人間が教育長になると,O市のようになる。

 正体不明の教師のように,

 カネがほしいので早く退職する教師を「聖職者」と呼びたい教師がいる一方で,

 あの体罰教師を「聖職者」と呼びたい生徒がいるのが,

 学校現場というところの実態である。

 

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体育科入試停止に教師は何を思うか

 教育ブログには,ずいぶん世間の常識や学校の常識とはかけ離れた意見が登場している。

 教師がそれを発している場合は,

 「やはりそういうおかしな教師がいるのだな」

 ということを納得させてくれる存在がある,ということだ。

 こんな趣旨の発言がある。

>体罰を伴う「指導」が異常な状態だと認識できない学校(学科),体罰を根絶できるかどうかがあいまいな学校(学科)に行かなくてすむように,市長と市教委が受験生を守った

 教師でなくても(教師でないからこそ?)気づくことだが,

 こういう「守り方」をするためには,当該高校の入試停止だけでは不十分であることが,なぜわからないのだろう。

 (異常な状態としての)体罰がこの学校だけで行われていたと信じているのだろうか。

 視野の狭さにあきれるばかりである。

 ただ,こういう思考形態でしか,自分たちを守れないのが教師のさびしいところでもある。

>よりよい学校づくりをする使命は,教師などにではない,生徒にこそあり,その責任は重大だ。

 体罰をふるうのは,教師である。

 そういう教師だとわかっていて,顧問を持たせ続けているのは校長である。

 そういう教師だとわかっていて,異動させないのは,教育長である。

 なぜ生徒の責任が「重大」なのか?

 「よりよい学校づくりをする使命が生徒にある」・・・・・・???

 元教師が何もわかっていないことを自ら証明するような発言をする場合は,

 「こういう人がもっと大勢現場からいなくなれば,少しは学校がよくなるかな」

 と期待をもたせてくれる存在がある,ということだ。

 体育科入試停止に,教師は何を思うか。

 多くの教師は,

 「入試停止では,何も変わらない」と考えているはずである。

 当該の学校だけのことを考えても,本当に「変われる」か?

 問題は,「体罰だけ」ではない,ということが,理解されていない。

 もっと根は深いのである。

 それが,学校現場というところである。

 橋下市長のリーダーシップは,すばらしい。

 しかし,学校現場は,この程度のリーダーシップでは,何も変わらない。

 内田樹もブログでふれているように,

 「ばれた学校だけ,大きな問題となった学校だけが損をする

 結果だからである。

 もし橋下市長が,長期的な視野で,

 公立高校を日本からなくすこと・・・

 すべてを私立高校にして,コストを下げ,授業料を税金でまかなう・・・

 といった政策を考えているのなら,話は別であるが。


 当該高校の生徒の主張は,まっとうなものである。

 体罰を犯した教師は,もちろん処罰を受けなければならない。

 しかし,責任は,校長や教育長にもそれにふさわしいかたちでとる必要がある。

 明らかに,監督して指導する責任を放棄してきたと,私は考える。

 
 「監督して指導している」ことにしているだけの,

 管理職のあり方や教育委員会のあり方が問われているのである。


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化石に近い教師の実像

 大学が改革の嵐に巻き込まれて,

 「化石」のような教授たちがアップアップしている一方で,

 まだ小学校の現場は,「化石」の宝庫である。

 私は,「化石」には「化石」なりの良さもあると考えている。

 それは,「標本」としての価値である。

 「失敗学」の「教材」である。

 久しぶりに,その「化石」にブログ記事で出会えた。

 記事づくりの趣旨は一貫している。

 「責任逃れ」である。

 そして,「批判」「反対意見を受け付けない」ことである。

 書かれていることから伝わってくるムードは,あの体罰教師が子どものころの教育の話である。

 書いている人は,あの体罰教師より少しだけ上の年代の教師である。

 本当に,懐かしいにおいがする。

 あのころの教師のにおいである。

 こういう教師が,再生産されている地方があるのだ。

 むしろ,都市部の学校で再生産されており,地方は「新・新人類」の鍛錬の場となっている。

 体罰への意識が過剰であるのは,仕方がないが,

 視野が狭すぎる。 

 その人物は,

 生徒の意見表明を否定するばかりか,

 教育委員会を擁護している。

 見識の低さにあぜんとするばかりである。

 教育委員会の姿勢の意味がわかっていない。

 「ばれたからだめ」「問題になったからだめ」という姿勢の意味が。

 この人物には,生徒の死が意味していることがわかっていない。

 26年も教師をしていると,

 こういう「化石人間」になってしまうのか,とあらためて情けなく思う。

 中国や北朝鮮で教師する方が,日本よりしっくりくるのではないか。

  
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教師を「導く」のはだれか?

 教師というのは,教育についての専門的な知識をもち,20年も30年もつとめていたら,豊かな経験をもって『実のある指導』ができる人間であるはずだ。

 そういうのが「建前」になって,税金が投入され,公教育が行われている。

 だから,保護者の立場だと,

 「これを教師に言ったら,あべこべの関係になってしまう」

 ということが気になって,結局,何も言えず,現状を変えられずに終わる。

 現場の教師も,たとえば退職間際の教員に,これを言ってももうしかたがないだろう,

 というかたちであきらめてしまう。

 「建前」を前提としないと,何も始まらない「学校」という場は,とても悲しいところである。

 子どもはだませるのである。

 ある教師生活27年目の人間のように,子どもの「意見表明」に圧力をかけるような人間もいる。

 しかし,大人になると,

 「建前」と「実態」のギャップを否が応でも感じさせられる。

 そして,「ホンネ」を心に抱くようになる。

 親として,学校で子どもが世話になっている場合は,伝統的に,

 「ホンネ」は心にしまっておかなければならないものであった。

 ただ,それも限界に達するときがある。

 その臨界点が,「生徒の死」であってはならない。

 教育委員会ですら,臨界点の認識が甘かった。

 体罰教師を放置しているのは,校長であり,教育長である。

 体罰について毅然とした「指導」を行ってきた「実績」が問われている。

 ただ「処分を下して終わり」「研修を受けさせて終わり」になっていなかったか。

 「再発防止策」は存在したのか。

 おそらく,新しいガイドラインがどの教育委員会でもつくられる。

 ただの飾りにすぎず,存在意義の乏しい市町村教育委員会では,都道府県のができあがるのを待っている。

 ここは,教育長の出番である。

 その存在感を示せるのは今である。

 あいさつ文を部下に書かせているような教育長のもとでは,校長も育たない。


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体罰依存症は,まだ表面的な問題に過ぎない

 体罰で「補完」する教師の姿勢は,教育問題の一面でしかないことに,もっと多くの人に気づいてほしい・・・・どうしてもマスコミだよりの考え方になってしまうかもしれないが・・・。

 学校教育が,社会のルールとは別の「慣習」のもとに行われていることを,改革すべき重要な問題であると提起してくれる人はいないだろうか。

 たとえは悪いかもしれないが,律令制は廃止になっていないまま,武士の政治が始まった。

 律令制は完全に過去のものではなく,現在でも引き継がれているものがある。

 この律令制を今の法律におきかえて考えると,学校での慣習は御成敗式目にあたる。

 武士の慣行を成文化したものが,御成敗式目である。

 学校の慣行には,不文法・不文律に基づいているものがある。

 この代表が「体罰」である。

 これ以外にも,授業を自習にしてまで,つまり,本来は専念すべき職務を放り出してまで,学校外の用務で出張させることがあるという慣行もある。

 勤務時間が過ぎても,部活動の指導は行う,

 土曜日曜も試合を組む,というのが,一部の(多くの)教師にとっては都合が悪い不文律である。

 いい加減な授業をして,いい加減な評価をしても,

 責任は問われない,というのが不文律である。

 日本社会には,強い要素もある。

 が,反面,自分たちのルールで勝手に動く,という弱いところがある。

 その「弱さ」を「強烈に教育している」のが,学校という場所である。

 それが「強さ」の原動力になっているから,やるせないわけである。

 「体罰」だけを見ていては,学校は変わらない。

 
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70万円惜しさに現場を去る教師たち

 退職金の減額が,埼玉県の学校現場を揺らしている。

 教師というのは,タイトルのような趣旨によって,

 その「見苦しい去り方」を批判されるのが,

 一般の事務職よりは「つらい」職業である。

何しろ,「働くことの尊さ」を教えてきた身である。

 「結局,最後に大切なのは,『カネ』なんだね」ということだ。

 70万円は,けっして「少額」ではない。

 「同情票」も多いだろう。

 そもそも,2ヶ月間,仕事をしない人が,仕事をした人よりも70万円余計にお金をもらえるという仕組みそのものが問題であることは明らかだが,

 決して「きれい」な教師生活の終わり方ではないはたしかである。

 それだけの「汚点」を残し,卒業式には「来賓」として出席するのだろうか?

 「お別れ会」はいつするのだろうか?

 「離任式」には出席するのだろうか?

 ネット上のアンケートでは,今のところ自分なら

 「やめる」「やめない」が半数くらいずつである。

 
 それにしても,

 日本は「ドミノ式」「雪崩現象」が一般的な国である。

 自分の尻にも,火がつきかけていることに気づかなければならない。

 終身雇用・年功序列にあぐらをかいてきた人が,ここに来て

 焦るとは,全くの「想定外」のことだっただろう。

 給与のあり方も含めて,大きな見直しを図るとしたら,

 今しかないかもしれない。


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「体罰」ではないものに目が向かない理由

 今,体罰がこれだけ問題になっている理由を考えてほしい。

 もし,どうだったら,体罰が問題にならなかったかを考えてほしい。

 それがわかっていない報道が多すぎる。

 教育の問題は,根が深いものである。

 本当は,ありとあらゆるものが「考える」過程には入ってこなければならない。

 現場にいない人にとっては,どうしても「考える」題材が

 「焦点化」してしまう。

 特に,スポーツに縁のなかった人間が書いているものは,

 しかたのないことだが,表面的すぎる。

 経験していない人間,当事者ではない人間の語る言葉は軽い。

 今,わかりやすいメッセージばかりが,報道を介して目立っている。

 もっと重要なことはないか?

 それは実のところ,報道ではふれられないことである。

 報道でふれられないからといって,重要ではない問題であるわけではない。

 ここが,教育問題の一つの限界である。

 あまりにも,表面的な話ばかりで時間が浪費されているが,

 根っこの部分に斬り込んでいくには,相当勇気がいるだろう。
 
 現場を退いた人こそ,そういう部分にふれてほしいのだが,

 現場にいなくてもわかるようなことばかり書かれていて残念である。


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子どもの喜びを自分の喜びにできる人が教師になろう!

 相手チームを0点におさえた野球のピッチャーとか,試合で逆転サヨナラホームランを打ったバッターならともなく,吹奏楽などのコンクールの一員として参加したにすぎない人間が,「全国一位になったのは,自分のおかげだ」と思うことはまずないだろう。

 仮に,そういうことを言っている自意識過剰の人間をみっともないと思ったとしても,全国一位になったときに,「自分はどれほどこれに寄与できたか」などと悩む必要はない。

 自分がどれだけ足を引っ張ったとしても,全国一位になったことに変わりはない。

 おそらく,メンバーの人たちは素直に喜んでいたのだろう。

 こういう人の姿を見て,人は感動するものである。

 でも,「感動しない」人間がいるらしい。

 「感動しない」人間に欠けているものは何だろう。

 「感動しない」人間が,持ちすぎているものは何だろう。

 それは,両方とも,教師には向かないものであると同時に,

 そういう人間が教師になったときに,子どもが迷惑するものである。

 「お前の思考は分裂している」

 「お前には国語力が欠けている」

 と自分がブログ上で書き散らしていることを「みっともない」

 と思ってくれない限り,

 自分が謙虚であろうとすることはただの「仮装」に過ぎず,

 「目下の人間」は自分に対して「謙虚であれ」と強要したいことが

 ばれてしまうというだけの話である。
 

 これが困った教師の典型的な姿だから,わざわざこの

 タイトルをつけたブログで取り上げているだけなのだが。
 

 
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何も変えられない教育論という名の戯言

 社会のしくみを変えるのは,簡単なことではない。

 だれかがそのときの「勢い」でその場は変えることはできても,やがて戻っていく。

 本当に必要な改革は,必ず現場の抵抗で実施にうつされない。

 今の学校現場は,底に穴があいた船である。

 漂流船もあれば,沈没船もある。

 間違った針路をとっている船もある。

 そういう船で生活している生徒たちは悲惨である。

 漂流している船の甲板の上では,罰として「希釈塩酸を飲ませる」教師も登場している(愛知県)。

 こういう問題が,次々と発生する。

 以前から,この教育論の場には,

 「罰を安易に用いる教師は指導力が低い」などの

 当たり前のことが氾濫していた。

 漂流船は,魚が生きていない海を航海しているのだ。

 「船」ではなく,「海」に目を向けることが,

 教育改革には欠かせない,という視点を行政は持つべきである。

 東京オリンピックの招致活動が活発のようだが,

 大きなハードルは,国内に反対派が多いことである。

 高速船は,波が高かったり,海面が凍っていては,何の役にも立たない。

 自然現象は人間の力の及ぶところではないが,

 人間社会は,人間の力で変えられる。

 学校でも,船底の穴をふさぐことは不可能ではない。

 一つふさいでも,それをしているすぐ横で穴をあけている教師もいる。

 穴をあけるペースよりも,ふさぐペースの方をあげることしかない。

 もちろん,すぐれた教師は多忙になる。

 穴をあけている教師も,穴をあける作業だけで多忙である。文句ばっかり言っている。

 穴をふさぐのは,無言でやっている。忙しいとは,そういうことである。

 文句を言っている暇がない状態を,忙しいという。

 穴をあけるのは,不満をまきちらしながらやっている。

 自分が教育界にとっていかにおろかな存在であるかを,

 自らが気づいてもらうしかない。

 
 そういう意味で,こういう教師がいたら,絶対にそれには気づけないだろうな,という人が,この村で自分を批判した人と,「病気の人」にさかんにケチをつけている。

 今度は,過去の恨みからかどうか知らないが,裁判官にまでケチをつけ始めた。

 現場では,そういう人は「おだてる」ことで,とりあえず「穴あけ作業」の手を休ませることができる。

 ネット上では,自分を自分で「おだてて」,さらに「穴あけ作業」に没頭している。

 穴をあけすぎて,底が抜けているのに,まだ穴をあけ続けることができるのが,

 この仮想空間である。

 現場はそうはいかない。

 メルトダウンを防がなければならない。

 教師のためにではない。

 子どものために。

 この国の未来のためにである。


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怒鳴られることに慣れた子どもたち

 「怒鳴る」ことができる教師は今,どのくらいいるだろう。

 教師には,大声で怒鳴らないければならない瞬間がごくまれに訪れる。

 しかし,怒鳴ることが習慣になっている教師もいる。

 本人は,「怒鳴る」というより「大きな声で端的に指示を出している」つもりである。

 これが別の人から見れば,「怒鳴っている」ように見える。

 子どもは慣れているから,その声に敏感に,

 というか,条件反射のように反応し,指示に従う。

 あまり慣れ過ぎていると,そういう声は,ただの「スイッチ」に過ぎなくなる。

 「怒鳴られた子どもたち」が生き生きして活動している姿を見て,戸惑う教師がいるかもしれない。

 「慣れ」の問題は,「体罰」も同じである。

 「体罰」も,単なる「スイッチ」にすぎなくなる。

 私もバレーボールの顧問をしていたときに,練習試合の会場で見たことがある。

 選手の動きが,見違えるように変わるときがある。

 慣れていない顧問が物まねでそういう行動に出ると,生徒は委縮してかえって動きが悪くなるから,

 子どもが「慣れているか」どうかが,よくわかる。

 こわいのが,この「慣れ」なのである。

 人間は「習慣の奴隷」なのである。

 体罰も,強圧的な指導?も,「空気のように当たり前」になってしまう「こわさ」を,

 今の時代,おそらく,一度も味わうことなく教職を続けられてしまう人がほとんどだろう。

 その代わりに,「指導できない教師」というのが「空気のように当たり前」になってしまう現実の問題も深刻である。


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内田樹流の体罰問題へのアプローチ

 内田樹は,橋下市長を批判することに強い使命感を抱いているようで,

 体罰問題も,それに対する橋下市長の動きを批判するためのネタとして使っているわけである。

 
>生徒の自殺は,政治的水準では,教育現場への強権的干渉を正当化する「千載一遇の好機」として功利的に活用されようとしている。

 としているが,こういう

>「ひとの痛み弱みを功利的に利用して成果を上げる」技術の有効性を信じているという点

 では,内田樹も同じことである。


 橋下市長が本心で考えていることは,おそらく内田樹もわかっていると思われる。

 しかし,それが「わからないふり」をして,いかに橋下市長がやろうとしていることが「おかしいことか」を延々と書いている。

 体罰問題を,橋下批判という「使命」を果たすために「功利的に利用」しているわけである。

 大事なのは,次のように述べているとおり,体罰が有効であるという考え方をどう「やっつけるか」だ。

>批評的に対象化すべきなのは「処罰の恐怖のもとで人間はその限界を超えて、オーバーアチーブを達成する」という人間観そのものだと私は思う。

 これについて,どうお考えなのか,発表されるのを楽しみにしたいところであるが,

 「体罰」よりももっと「怖い処罰」も学校にはあるわけで,それが子どもに与える影響がどうなのかも,私たち現場の教師は検証しなければならない。

 「体罰」だけが,問題ではないことに,もう少し早く気づくべきだった。

 教師が生徒を「脅す技術」の解明を急いでほしい。


 
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刺激が強すぎる教育論・教育問題

 2つ記事を書いたのだが,冷静に読み返してみて,これはさすがにお蔵入りにせざるをえないと判断した。

 題材は教育改革の方法である。

 今,教育行政は,

 底に穴があいている水そうに,ひらすら水を流し込んでいるだけである。

 そして,「なぜ水がたまらないのだろう」と言っている。

 どうしてそんなとぼけたことを言っているのかというと,

 「穴は存在しない」ことにしているからである。

 だから,教育行政には穴をふさぐ気はない。

 教師も,その穴がないことにすることに加担している存在である。

 教育改革で最も重要なことは,

 「穴」が広がる前に,ふさぐことである。

 だれがこの「穴」をふさぐことができるのだろうか。

 私が「最有力候補」として挙げたいのは,「校長」である。

 ・・・・・もちろん,「本物の校長」ではない。

 「一日警察署長」というのがある。

 これと同じパターンで,「一日校長」を,一年間に50日,つまり50人につとめてもらうのである。

 おもな役割は,教師と子どもの評価である。

 50通りの評価に,「こたえる」ための時間が残りの百数十日である。

 とりあえず,この程度に薄めて,

 「本物の校長」ではない,「本物の校長」を,学校現場に入れる・・・・ことを改革の第一歩として,提案したい。


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狐はどこに行っても狐

 どうしても「威張っていたくてしかたがない」人がいる。

 こういう人が,ときどき教師になってくる。

 教師は「上」,子どもは「下」という関係は絶対にくずれないものと信じて,やりたい放題である。

 困ったときだけ,「上」=校長のせいにする。

 「虎の威を借る」自分がよくわかっているようで,

 全国一位をとったことがあるのをわざとらしく書いて,

 「あまり感動はなかった」などとやっている。

 こういうのをだれも「謙遜」とは感じない。

 狐というのは,どこに行っても狐である。

 なぜか,いつも他人の「国語力の低さ」を記事にしている。

 これは,人を見下すことで心が安定するからであろう。

 指導力のない教師は,いつも人の文句ばかり言っている。

 意図が伝わらないことを人のせいにすることにかけての情熱は半端ではない。

 人から見下ろされることが,死ぬほど嫌なことであるから,

 相手が「狐」であろうとなかろうと,「虎」の雰囲気がしたらそれだけで不満になる。

 自分の矛盾に気づかなければならない。

 しかし,指導力のない教師が,

 自分の指導力のなさに気づけないメカニズムがあるように,

 言っていることとやっていることが違うことに,全く気づけない。

 なぜ「上」「下」「バカ」の話ばかりなのか。

 それこそが最も見苦しい姿である。

 自分はバカな狐を利用している虎のつもりなのだ。

 ・・・・しかし,今,世界や日本を動かしているのはみんな「狐」なのかもしれない。


 
 
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体罰を子どもに受け入れさせるしくみ

 年代別に見ると,体罰を受けた経験が最も多いのは40代だそうだ。

 私も40代だが,小学校でも,中学校でも体罰を受けた。

 グローブをなくしてしまってのを隠していたことが知られ,父親にも体罰を受けた。

 こういうのが当たり前だったのが,40代である。

 40代の人が子どものころは,アニメでも学園ドラマでも,体罰とかしごきが当たり前だった。

 40代の人間というのは,

 「体罰」とは「どこにでもあるもの」で,

 「体罰ができない教師」が間抜けというか,臆病者に見えるときすらあった。

 子どもにやられる教師も当時は多かったが,情けないと思った。

 対教師暴力の標的になったのは,体罰ができない人や中途半端にやる?人だったのか?

 「私は体罰などしない」などと言っていた教師の学級では,授業が成立しなかった。

 指導力があるとかないとか,そういう問題ではないと多くの教師は感じていたのである。

 遅刻してきた生徒に「どうして遅れてきたんだ?」なんていきなり声をかけるような教師には,「指導力」の意味は逆立ちしてもわからないだろう。

 ひどい時期を経験しているのが,40代である。
 
 そして,40代の人間を教えていた教師というのは,団塊の世代とその上の人間たちである。

 こういう人間たちの過ちをくり返さない,という強い自覚をもった40代も多いだろう。

 そして,時代は変わった。

 体罰を「されたことがない」だけでなく,「見たことがない」生徒がいる時代である。

 親も,子どもに体罰をしなくなった。

 だから,子どもが体罰を受けた,なんてことを知ったら,大騒ぎになる。

 学校を飛び越えて,即,教育委員会へ,という時代である。

 なぜか,虐待とよばれるまで極端な体罰をする人はいるが。

 今,体罰をしている教師というのは,

 「絶滅危惧種」である。

 「危惧」ではなくて「歓迎」しなければならないのかもしれないが。

 「あの橋下市長」も,中学校まで毎日のように体罰を受けていたという桑田投手の言葉に打たれて(か,あるいは「利用して」),体罰撲滅へと動くという。

 そのとき,教師個人ばかりに目を向けてはいけない。

 子どもが「体罰を受け入れてしまうしくみ」をどうにかすべきである。

 
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AAA(トリプルA)政権に負けない教育のAAA政策

 安倍首相,麻生財務相,甘利経済財政・再生相の頭文字を合わせてトリプルA。

 これが歴代政府の実績を示す「格付け」になってくれることを期待したいが,

 「良いネーミング」が「良い印象」を与え,「支持率の向上」に結びつくという「好循環」になる可能性はあろう。

 ただ,失望するような結果になると,その「落差」の大きさから,また「政権交代劇」が繰り広げられることとなる。

 政治はこきおろされるのが一般的なので,

 こういう「好印象」を受けるネーミングというのは珍しい。

 日本人は,ネーミングに弱いのだ。

 それだけで,商品を買ってしまう,なんてこともありうる。

 質よりも人気。味よりも人気。

 行列ができる店については,そんな話も聞いたことがある。

 教育界では,

 「生きる力」とか「言語活動の充実」,「学力向上」というネーミングによって,

 多くの教師たちが「ふりまわされている」。

 「習得・活用・探究」のように,ちょっと覚えにくいものは人気がでない。

 「トリプルA」などと総称されるようなものならいいのだが。

 学校に求められるのは,

 「安全,安心,愛着」

 「Achievement(目標の達成),Accountability(説明責任),Attraction(魅力)」

 教師集団にほしいのは,

 「Accordance(調和),Acumen(鋭い洞察力),Adjustment(調整)」

 日常の教育で実感したいのは,

 「Advance(進歩),Altruism(利他主義),Awe(畏怖)」

 実際に私が目にしてきたものは

 「Abandonment(放棄),Aberration(逸脱),Anarchy(無政府状態)」・・・・

 それに対抗するための三原則は

 「(人に)当たらない,あきらめない,甘えない」
 
 困る子どもの姿は

 「新しもの好き,遊び過ぎ,甘え過ぎ」

・・・・・東京も,すごい雪です。

 
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「現代の名言」と教育-1 池上彰

 日本経済新聞のNIKKEIプラス1「何でもランキング」(2013年1月12日)の

 覚えておきたい「現代の名言」から。

 「座右の銘にしたい」の3位は,池上彰のちょっと長い言葉。

 一度地獄を見ると,世の中につらい仕事はなくなるんです。苦しい経験を若いうちにするからこそ,得られるものもある

 なるほど,初任者研修の宿泊研修のとき,

 担当の指導主事が私に向かって,

 「2校目は荒れた学校ね」と言っていたのがよくわかりました。

 初任者として赴任したのは,地域でナンバーワンの学校。

 学力は高いは部活動は強いはで,

 生活指導が異常に厳しいことを考えなければ,最高の学校でした。

 そして・・・・。

 今の自分があるのは,確かに2校目の学校の経験があってこそ,ということは確かです。

 しかし,最初から
 
 「地獄のような学校」に赴任してしまうと,

 それだけで完全に未来への希望を失ってしまう人がいるかもしれない。

 また,人によっては,

 苦労しないですむなら,それに越したことはない。

 というのが正しい。

 教育委員会の意味なく長い時間,しばられることが「地獄」に思える人もいるでしょう。

 いずれにせよ,平和な国は,「地獄だらけ」,

 本当に地獄のような国には,「天国」の方が身近なものなのかもしれません。


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学校週6日制復活へ

 教育に対する「民意」が反映されようとしているのが,

 「学校週6日制」の復活である。

 Yahoo!意識調査では,調査初日の今日,賛成が72%,反対が23%となっている。

 東京都小学校PTA協議会が2010年に実施した調査では,保護者の86%と教員の38%が「必要」,保護者の7%と教員の52%が「反対」だった。

 教員の数字が,公立学校の実態をそのまま反映しているといえる。

 私は,4割も「賛成者」がいることに驚いているほどだが,

 保護者の9割近くが希望していることに,反対している教員が半分以上いる現場,

 というのは,公的でない「サービス」を提供する組織ではあり得ない。

 私の意見は,小学校の場合は6日制を急ぐより,

 学習指導要領を見直すことが先決である,というものである。

 現在の時間数で,今よりはるかに多くの内容を学ぶことができることは明らかであるから。

 教科担任制にして,しっかりとした内容を「学ばせることができる」学校をつくれば,土曜授業は必要ない。

 一方,中学校や高校の場合は,6日制導入は不可欠である。

 5日制になって,土曜日が本来の趣旨通りに使われてきたとは言い難い。

 「教育内容が減らされた」ことと,教師の勤務が「ふつうの人らしくなった」というだけの話である。

 質的な面はともかく,量的に測定できる「学力」が低下するのは当たり前である。

 5日制で質がよくなった,ことは実証しにくいばかりか,

 そもそも「質の高い」教育を行う条件は,「学習指導要領を改訂すること」ではないことくらい,

 教師をやっている人間や,授業を受けている子どもならわかるはずである。

 土曜日は,部活動があるから,生徒は実態として,学校に通っている。

 土曜日の午前中4時間の授業で給食まで実施すれば,月曜~金曜の午後に,より充実したことを教師も生徒も行える。

 給食が不可能なら,土曜日だけ「弁当」を納品してくれる業者を利用すればいい。

 最大の難関は,週40時間勤務をどうクリアするかだが,

 教員や教育の質を落としてしまっては,元も子もない。

 非常勤講師に頼らずに,平日に休みがとれるような時間割が組める学校規模を「標準」として,

 統廃合を加速し,「同じ質の教育を行う」という公立学校にとって最も求められるはずの条件を,「同じ規模で実施する」ことで満たすように努力することである。

 学校選択自由化をしている地域では,歩いていける範囲に

 人気が集中する大規模校と小規模校が近接していたりする。

 基本的な学区域をつくり直し,選択自由化の制度は残したまま,

 学校の数を減らす。

 子どもの数は激しく減ってきているのに,学校の数や教員の数は,それと同様に減ってはいないのだ。

 だから,教員の数は増やす必要はない。学校の数を減らし,

 たとえば「どの学校でも35人×数学級」の規模がもてるようにすれば,

 35人学級も,

 学校週6日制も,

 学力向上も,

 不可能ではない。

 教員には研修が義務付けられているが,これは満足にできていない。

 しかし,平日に休みをとって学校を自由に離れるようなことができるようになれば,

 地域の学校や先導的教育を行っている学校にいつでも訪問し,授業を見学したり学習指導法を学んだりすることができるようになる。

 結局,教員に「休みはない」状態になるかもしれないが,

 これが「教育に情熱をもつ教師」の姿なのであろう。

 

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教育に理想のない人間の「言い逃れ」

 小学校の教師にはよくわからないことかもしれないが,

 中学校や高校の部活動というところは,

 顧問と生徒という関係以外に,非常に重要なものがある。

 それは「上級生」と「下級生」という関係である。

 部活動の教育効果は,教師なしのところで発揮できる部分が大きい。

 そういうことがわからない人間が部活動のことを語ると,

 見当はずれだったり,大切なものを見落としたりする結果になる。

 自意識過剰の人間は,

 「教育」を常に自分と生徒との関係の中で考えてしまう。

 しかし,「教育の理想」をもつ人間は,そんな「小さな」人間ではない。

 小学生ですら,「教育力」をもっている。

 異年齢集団の活動は,小学校でもある程度はなされているだろう。

 中学校の場合は,委員会活動や部活動,大きな行事でこれが行われる。

 体罰は,教師が子どもにふるうものを一般的にはさすが,

 部活動の先輩が後輩に対して同様の行為をする場合がある。

 なぜ,そういうことをするのか。

 どんなに弱い部でも,同じようなことがあるかもしれない。

 しかし,常に全国大会がねらえるような位置にある学校というのは,

 視野の狭い指導者が言うような

 「顧問や学校の名誉のため」ではなく,

 「自分たち部員のため」に,厳しい練習を貫こうとしているのである。

 こういう集団に対して,やる気のない顧問がとる態度の典型が,
 
 あるブログで紹介されている。

 自分が考える「教育的な姿」を子どもに押しつけようとするのだ。

 全国大会で金賞がとれる学校ばかりか,

 コンクールの審査にまで難癖をつけるような人間は,

 「見下されることが大嫌い」だから,

 「賞がとれない」ことというよりは,

 「自分たちより上」と見なされるものが存在すること自体が気に入らないのである。

 その人間にとっては「残念」であろうことに,

 私が勤務していた中学校の吹奏楽部は,全国大会金賞の常連校だったが,

 その活躍の場は非常に多彩で,「金賞をとるため」に日々の練習があるのではなく,
 
 「金賞はとって当たり前」,「優れた演奏を様々な機会に紹介するのは当たり前」,

 「地域で定期演奏会を開くのは当たり前」,「自治体のセレモニーで演奏するのは当たり前」,

 「学校の成績もよくて当たり前」,「生活の態度はよくて当たり前」,

 「学級委員など,学校の自治に積極的にかかわるのも当たり前」

 などといった姿勢をもつ集団であった。

 それは,教師が「教える」のではない。

 部活動に入部した子どもが,そこで先輩の姿を見て「感じ取る」のである。

 はじめは,「評判」だけで入った子どもも,入学後して入部してから,もっと

 「広い意味」の部活動の意義を知る。

 教育に理想のない人間というのは,

 子どもから「離れられない」という特徴をもち,

 「勝ち負け」にこだわり,

 見苦しい「負け惜しみ」を公開しないと気が済まない。

 もういい加減,「離れる」決断を下してみたらどうか。

 呼ばれたから行く,
 
 のではなくて,

 そういう人間を必要としない

 さまざまな学校を自分で訪問して,

 実際に自分の目でたしかめてみたらどうか。

 そして,子どもの声に耳を傾けてみたらどうか。

 一つだけ,ある学校によっては,正しいことを書いている部分がある。

>よい賞をとったところで、その瞬間は子どもも喜ぶのかもしれませんが、感動はない

 その通り。賞をとって当たり前の学校は,賞をとるためにコンクールに出ているわけではない。


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愛に飢えている人たち ~人を差別する人間の心の貧しさ~

 なぜ,体罰をふるう教師の中に,子どもたちから絶大な信頼を得ている人間がいるのだろう。

 なぜ,体罰など絶対ふるうことはない教師なのに,子どもたちから「見捨てられる」人間がいるのだろう。

 それは,「教育愛の違いである」と語る人がいる。

 親が子どもに体罰をするとき,

 「これは愛情表現だ」という人がいるだろう。

 常態的な体罰が愛情表現とは思えないが,

 子どものとき,親に殴られて初めて,

 「親として,本当に心配してくれていることがわかった」

 と改心した経験のある人は,少なくはないだろう。

 学校現場では,

 「おれはお前たち生徒を愛している」などと口にする人間は,まずいない。

 「わたしはみんなが好きだ」と口にした小学校教師はいたらしいが。

 本当の教育愛を求めている子どもは,

 そんなことを「口にする」人間を信用しない。 

 子どもは大人の言葉を簡単には信用しない。

 なぜなら,いつも「言葉」とは異なる「行動」をとるのが大人だということを知っているからだ。

 愛は,その言葉そのもので伝わるものではなく,態度で伝わるものである。

 本当の教育愛を感じたことがない人は,

 「愛がわかる人」「愛がわからない人」に分類できると考えてしまう。

 「愛を知る人」と「愛を知らない人」がいるという分類こそが,人間に対する最大の冒涜である。

 「愛を知らない人」を差別し,見下し,こきおろすという態度をとる人間に,

 どうして「愛を語る」資格があるといえるのか。

 「愛」とは何かが,わかっていないのだ。

 それはある意味で,本当に気の毒な人である。

 私は,孤独に耐える方法の一つとして,人を傷つけて生きている子どもを何人も見てきた。

 その子も,決して「愛を知らない」わけではないのだ。

 「愛に飢えている」人は,愛は「与えられるべきもの」ではなく,「与えるべきもの」であることを知らない。


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学校に求められる「CPU」

 コンピュータの中央演算処理装置のことをCPU(Central Processing Unit)と呼ぶことは,

 中学生でも授業で学んで知っている。

 では,ワシントンで使われている「CPU」とは何か。

 これは,「コミュニケーション・アンド・ポリシー・ユニット」といって,

 志と政策思想を共有する仲間のことで,大統領を支える側近たちである。

 2006年の安倍政権は,「お友達内閣」と呼ばれて批判された。

 「お友達」と何の面識もない一般人も,そのネーミングに影響を受けて,

 「望ましくない内閣」という印象を植え付けられた。

 マスコミの尻馬に乗る人間は多い。

 自分の頭で考えたつもりになっていることが,やっかいなことであるが,気の毒なことでもある。

 竹中平蔵は,日経ビジネスの1月14日号で,その批判への反論をしてきたことを述べている。

 上の「CPU」の話も,ここで紹介されている。

 「お友達」を「側近集団」と名付けても,日本語ではまだ「イメージ的に悪い」。

 日本の場合,内容はよくても,ネーミングが悪ければ,人は納得しない。

 逆に,ネーミングが良ければ(良さそうな印象を受ければ),内容がなくても支持される。

 今の教育界の,

 「言語活動の充実」

 とか

 「生きる力」

 などがそれに該当する。

 安倍政権の「CPU」と呼べばどうなるか。

 それは,結局,「そういう印象のいい言葉を使いたくない」という本音が見えてしまう質問になると言える。

 さて,「CPU」が必要なのは,政治リーダーに限ったことではない。

 学校リーダー=校長にも,「CPU」は必要である。

 学校には,主任たちで構成される会議が存在する。

 誤解も生むたとえで恐縮だが,

 それは株式会社なら,取締役会のことである。

 職員会議は,株主総会に当たる。

 (実際には,職員会議は,そういう目的で開かれるものではない。)

 主任たちで構成される会議で,学校の経営方針は固められる。

 本来は,この組織が「CPU」でなければならないが,

 主任には,「年齢が上」という理由だけでついている人が必ずいる。

 だから,本当の「CPU」は別にあった方がよい。

 しかし,日本ではそういう組織をつくると,「取り巻き」などと呼ばれる。

 「~チルドレン」と呼ばれる。

 実際には,校長を支えるのは,本当の意味での「CPU」である。

 ただそういう役職だから,仕方なくやっている,という人間たちではない。

 政治の世界では,「アーリー・スモール・サクセス」が重要である。

 教育現場にも,「アーリー・スモール・サクセス」をおこせる組織づくりが求められている。


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病気の人を差別する人間が「個人主義」を語る目的

 「知能の低い人」「国語力の低い人」「頭がおかしい人」などと人を見下して,

 「個人主義」と「利己主義」を混同するのはおかしい,

 などと主張すること自体の「おかしさ」に,人々は慣れている。

 そういう教師による教育を受けてきた人が多いから。

 自分がやっていることを,やってはいけない,と説教する人間に,子どもたちは慣れている。

 「そう言わないといけない立場だから,言っているだけで,本気でそう思っているわけではないだろう」

 と子どもは考える。

 本音と建前が違うのが,この国の「暗黙のルール」なのだ,ということを学校で学んで,社会に出ていく。

 「個人主義」を尊重しなければいけない場合と,

 「集団主義」を尊重しなければいけない場合の違い

 が理解できていないから,

 何の意味もない主張をしている自分に,気づけない人が多いのだ。

 残念ながら,今の教師には「権威」はない。

 だから,教育活動で「個人主義」を損ねているとか,そういう話に意味はないのだ。

 結局のところ,自分は利己主義です,と言っているにすぎない。

 個人主義の「個人」とは,「オレ様」のことなのだ。

 文章からその「思い」がにじみだしている。

 でなければ,たとえ病気の人でも,差別はしないだろう。

 足並みをそろえて校庭をランニングしている野球部員に,

 「個人主義は大事だと思いますか?」

 と聞いてみたら,どういう反応をするだろう。


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体罰防止の研修より効果的なこと

 各教育委員会では,校長会に対して,月ごと程度の

 「(体罰などで)処分を受けた教師とその理由」に関する情報を提供している(と思われる)。

 しかし,多くの校長は,その情報を学校に戻って教員たちに伝えているとは思えない。

 内容が多くて伝える時間などないのが,学校現場である。

 紙でプリントして配るような内容でもない。

 どうするか。

 学校では,こういう内容は口頭で伝えられるのが普通であるが,

 耳から入った情報というのは,ほとんどが印象に残らず,

 「聞き流される」結果になる。

 教師の処分を関する情報をより印象の強いものにして,

 問題の抑止力をもたせるためにはどうしたらいいか。

 職員室に,52型程度の大画面TVを設置し,パソコンの画面が

 いつでも写せるようにしておく。

 普段は,通常の連絡事項がスクロールして繰り返されるような状態にしておくが,

 朝の打ち合わせのときなどに,

 処分を受けた教師の情報を画面に映していくのである。

 最も効果的なのは顔写真だが,そこまでやるか!という批判が必ず出されるだろうから,

 学校,教諭名,年齢,担当教科などでいい。

 体罰,セクハラ,わいせつ行為,自動車事故など,途切れることなく処分を受ける教師は生まれ続けている。

 目から入った情報というのは,かなり記憶に残るのだ。

 ついでに言えば,いつでも見ることができるような文書は,

 忙しい教師は目を通そうとする気がおきない。

 文書を配布するのはやめて,

 プレゼンだけですます。

 内容を詳しく知りたい人だけ,資料を請求すればいい。

 学校は,紙の節約をもっと真剣にすべきである。

 体罰がいけないことは,だれでもわかっているから,

 「研修」をいくらやっても,効果はない。

 しかし,「体罰」をすれば,どんな「罰」を受けるのかを繰り返し目にすれば,

 その記憶はきっと抑止力になる。

 体罰に関する生々しい映像を見たければ,

 あるスポーツの強豪校で体罰が当たり前の顧問の様子を

 練習試合などに潜入して撮影し,職員室で公開してみるのもいい。

 気の小さい教師は,見ただけで吐き気をおぼえるだろう。

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「体罰の調査」という間抜けな指示

 「あなたの自治体では,法律違反がどのような頻度で,何回くらい行われていますか?」

 という「アンケート調査」あるいは「電話調査」を各教育委員会事務局がすることになるらしい。

 下村文科大臣が本当に言い出したのかどうかわからないが,

 国会などで「実態はどうなっているのだ」

 という質問が出されれば,

 調査をしてから答えることになる。

 一般市民からみても当たり前のように思えることだろうが,

 実態はそんな方法ではつかめない。

 嘘をつかれて終わりである。

 「回数を聞かれても,多すぎてわからない」という人もいるだろう。

 官僚をみんな集めて,自分の中学校時代のことを思い出させてみてはどうか。

 自分が体罰を受けた経験がある人は,官僚には少ないかもしれないが。

 実際に受けたことがある人は,教師の名前を忘れてはいないだろう。

 名前もわからない教師に殴られるほど,公立学校は落ちぶれてはいまい。

 実態の解明は,進まない。

 だからそのうち,

 「いじめ相談電話」のような

 「体罰相談電話」が設立される。

 その結果,体罰によって子どもとの信頼関係を築いている教師の話は一切聞かれず,

 子どもとのコミュニケーション能力がない教師が標的となる。

 「体罰の実態調査」をして,

 何がわかるか?

 「信頼されている教師の体罰は許されている」

 「体罰をした後のフォローがうまい」

 「スポーツの世界では,活を入れるという目的で体罰が行われる」

 それがわかっておしまいか?

 それとも,

 本格的に「狩り」を行うつもりだろうか?


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「山奥の僻地の学校」の教師を「見下す」人

 タイトルの話とは別のことから書くが,

 優れたリーダーは,「上から目線で話す」ようなことはしない。

 リーダーとはそもそもそういう「立場」ではない。

 はてなキーワードの意味が検索上一番上に出てくるからそこから引用すると,

 「目上でない相手から受ける、他人を見下すような雰囲気や言説」が

 「上から目線」の意味である。

 対等・あるいは自分より下の立場にいるはずなのに、相手の発言が上から物を言っているように聞こえるときに使う言葉。相手の人格を非難する言葉の一つで、言い換えるなら、まあ「偉そうなお前の態度が気に入らない」という感じ

 と解説している人もいる。

 
 この言葉を使う人間は,

 「目上でない人間が,自分を見下すようなことを言っている

 と言いたいだけなのである。

 リーダーシップが求められる場に,リーダーとして立った経験のない人にはわからないかもしれないが,

 リーダーというのは非常に孤独な存在である。

 そういう立場の人間は,「上から目線で話す」ように思われてしまうような失態はなかなかおかせない。

 「上から目線」というのは,立場でそうせざるを得ないでする,というものではない。

 「下の立場のくせに偉そうに」

 「たいして偉いわけではないのに」

 「ただ立場が上だというだけなのに」

 というのが,「上から目線」と表現する人の心にある感情である。

 

 自分が「下」ではないことを前提に,「上」とか「下」とかにこだわる人間は,

 何の抵抗もなく,

 「山奥の僻地の学校」などという表現ができる。

 
 そして,「優れた楽器をもっていても,それは飾りに過ぎない」というニュアンスの言葉が平気で投げかけられる。

 「上から目線」を「山奥の僻地の学校」の教師から感じたから,「上から見下ろす人」という内容の記事の中に,そのエピソードが登場したのである。

 結果も示して明らなように,

 「自分の方が上だ」ということを言いたいだけである。

 本当に,心の底から,

 「見下ろされること」が大嫌いなのである。

 「山奥の僻地の学校」などと呼んでみたり,

 「国語力が低い」と言ってみたり,

 「人を見下すこと」は大好きなのである。

 だから,「私は謙虚な人間が好き」という意味のことを書き続ける。

 「謙虚な人間はすばらしい」という表現が,人からどう受け止められるかということが,なぜわからないのだろう。

 
 自分自身は謙虚でないということを,なぜここまで徹底してオープンにしないと気が済まないのだろうか。
 
 
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体罰の報道に「公認体罰」を封じる力はあるか?

 体罰をめぐる報道に,

 「困ったニュースが流れてるな」という自覚のある教師は多いだろう。

 「自分も同じことをしている」という自覚をもっている教師は,実際の処分経験の有無にかかわらず,

 「公認体罰」を繰り返している人なら,

 少なくとも,「何となくやりにくい感じ」を抱いていることだろう。


 「体罰があったら,先生が悪い」といったら,「歓声のような声が上がった」

 という記事を繰り返し書いている人がいる。

 これは,教師が語るべき言葉ではない。

 警察官が,市民に対して,

 「警察官が市民に暴力をはたらいたら,それは警察官が悪い」

 と言っているようなものである。

 なぜこんな言葉が出てきてしまうのか。

 一言で言えば,生活指導に対する認識が甘すぎるのである。

 小学校の教師で,荒れた中学校現場の現実を知らない人が少なくないだろう。

 子どもの機嫌をとるのが教師の仕事だと誤解している小学七年生を,「中学生」にするのにかなりの時間を要するのが中学校現場である。

 認識というか,ピントがずれている教師は, 

 「体罰がある」ということと,「先生が悪い」という言葉の釣り合いがあまりにも悪すぎることに気づいていないだろう。

 だから,これを書いている人間は,なぜ生徒から歓声のような声が上がったか,想像することすらできないだろう。

 「体罰が行われた」のは,「生徒が問題を起こした」のが原因であることが多い。

 規律を重視している学校や,気迫を重視している部活動では,「問題」というレベルのことをしていなくても,

 「規律が足りない」「気迫が足りない」ことを理由に体罰を受ける。


 「先生が悪い」という言葉を,中学生は何ととらえるのか,想像できるだろうか。

 これほど寝ぼけたことを教師から聞くことになった学年の子どもたちは,

 「解放の喜び」を味わったことだろう。

 それはそれで,とてもよいことである。

 しかし,これほど強烈な「指導の方向転換」の宣言は,実際には逆効果になる場合の方がはるかに多い。


 結果オーライで満足できるのも感性の乏しい教師の最大の「長所」である。

 さて,報道が相次く「体罰問題」に,

 常態化していた「公認体罰」を抑止する力はあるだろうか,というのが記事の趣旨であるべきだった。


 結論から言うと,「公認体罰」をさらに「神格化」するおそれがある,という危惧を指摘しておく。

 部活動のように「治外法権」が成立してきた場所が,そう簡単に変わるはずもない。

 でも,本気を出せば,変わらざるを得ない。

 どうするか。

 私服警察官を「体罰が予想される現場」に潜入させるのである。

 子どもの方も,問題を起こせないし,教師ももちろん現行犯逮捕されたくない。

 本気で「根絶」をねらうなら,それしかない。

 それでも「問題の根っこ」はなくならないだろう。

 教育に情熱を感じていない教師は,決して体罰を行わない。

 決して少なくない数の「国民」は,「(処分などをこわがらずに)体罰ができる先生だから敬える」という一面をもっている。

 多いとは言えないだろうが,「体罰によって問題生徒を『鎮圧』している先生が学校からいなくなると,自分たちが困る」と思っている生徒がいる。

 今でも,処分を受けた時にもらった紙をためておいて,その「厚さ」を自慢している教師はいるだろうか。

 
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評価をすればするほど教育の質が低下する悪循環

 新しい政府による教育再生の動きは,

 「改革」ではなく「再生」だから,

 「再び(同じような成果を)生む」結果を想定している。

 単純に,テストで測定できるような範囲の学力を向上させるのは,それほど難しいことではない。

 テストをする前に,その問題を教えてしまえばよい。

 ある小学校では,監督の先生が答えを教えていた。

 ある高校では,採点のときに先生が子どもの答案を正しく書き換えていた。

 こういう不正をしなくとも,

 「テストで出される問題の傾向」がわかっていれば,
 
 そういう問題だけを繰り返し解かせる訓練をすれば,結果はよくなる。

 こういう教育を続けてきた「結果」は何だったのか。

 その反省に基づいてできた学習指導要領で,今の子どもたちは学んでいる。

 だから,新しい学習指導要領が次に改訂されるときの方向性は,今から見えているようなものである。

 問題も,おそらく「再生」される。

 一見,達成されたように見える「結果」もあるだろう。

 しかし,問題も発生する「結果」となろう。

 この世の中で最も難しい「評価」の一つは,

 子どもの「評価」ではない。

 教師という公務員の「評価」である。

 問題は,その「評価」の質である。

 単純に,学力検査,学力考査の得点を高くすれば「成果」だとされるようなら,

 そういう「成果」は得られるかもしれないが,教育の質は「下がっていく」。

 教師のそういう「態度」を,子どもはきっと,将来,マネをするようになる。

 長い目で見て大切なことに,今,犠牲をはらって我慢するような人間はいなくなってしまう。

 よい教師というのは,「質の低い評価の結果」を無視して,

 本来の目標を達成するための教育に全身全霊をかけて「たたかう」のだ。

 こういう教師が,どのくらい確保できるのだろう。

 目標を再確認したい。

 目標を誤れば,

 学校教育は,もはや,「教科書」などは使わずに,

 「塾のテキスト」をつかって学習した方が,高い「成果」が出せる場になってしまう。


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体罰の「黙認」は「公認」と同じこと

 体罰関係では,昔,A県の問題を取り上げたことがありましたね。

 管理教育と体罰は今でもセットであるようです。 

 子どもは,家で親に殴られ,学校では教師に殴られ,そして弱い生徒を殴る。

 とても簡単な「方程式」があるのです。

 さて,教師向けの本で,

 いかに手抜きで授業をするか・・・・これは,板書の仕方まで紹介した本で「授業」の準備をするようなことを指しますが・・・・というものはたくさん目にしますが,

 部活動の顧問として,どうやって生徒を伸ばすか,

 というものはあまり目にしません。

 ゲーム世代の教師が「攻略法」などという,

 無神経な言葉を開けっぴろげに語っていますが,

 「正解を本から探す」という発想の人間には,まずつとまらないのが中学校の部活動の顧問です。

 若い先生に「子どもの殴り方」を教えているベテランの先生は,A県ではまだ健在なのでしょうか?

 そんな内容は本に載せられませんね。

 部活動が「弱い」学校,「いい加減な」学校に赴任すると,ほっとする教師も多いでしょう。

 自分もさぼれるから。

 一方,部活動が「強い」学校,地域も子どもも非常に熱心な学校に赴任すると,もうそのプレッシャーだけで教師が続けられなくなる,という人もいます。

 今までずっとコンクールで金賞を取り続けていた学校で,自分が顧問になったとたんに賞がとれなくなれば,普通の人間なら責任を感じるでしょう。

 運動部などはもっと悲惨で,審判ができないと,それだけで「迷惑な顧問」扱いになってしまう。

 審判ができないということは,競技経験はもちろん,ルールも分かっていない顧問も中にはいて,子どもの力を伸ばせずに親をがっかりさせることになってしまうのです。

 そういう教師が,運動部の練習試合で,いえ,大会の会場でも平気で子どもを平手打ちしているような場面に出くわすと,反応はいくつかに分かれます。

 「これが教育か?」

 「そこまでして,勝ちたいのか?」

 最悪なのは,「ああすればよいのか」と誤解してしまうケース。

 これが,運動部だけで起こっている問題とは限らない,ということを,知っている人は知っている。

 子どものいじめの暴力などと違って,

 部活動中の体罰は,

 「他の人間に見せる効果」もねらって行われるので,

 「目撃者」はたくさんいるはず。

 「傷害の現行犯」がそこにいるのに,多くの場合は,「しかたがない」と見て見ぬふりをする。

 保護者の目の前で行われていても,

 「土日も本当にお世話になっている」という気持ちから,本気で問題にしようとしない。

 「~先生だから,いいか」ということになってしまう。

 管理職も,だれがそれをやるかくらいはわかっている。

 だから,そういう人間が引率している部活動には,管理職は帯同したがらない。

 体罰をなくす気があれば,やるべきことはいくらでもあるのに,やらない。

 体罰を本気でなくす気がないのが,今の学校現場だということです。

 教育委員会も,冊子をつくって配るのに,

 今までいくらお金をかけてきたことでしょう。

 配る相手は,一部だけで十分なのに。

 いえ,結局冊子などを配布しても,効果はないですね。

 体罰は,法律で禁止されているから,やってはいけない,というものではありません。

 なぜその法律があるかをまず理解しなければ。

 いじめでもそうですよ。

 「黙認」というのは,「公認」と同じです。 


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「小学生攻略法」の次は「同僚の攻略法」?

 指導要録の意義が分かっていない小学校教師のブログに対するコメントは,残念ながら勝手に削除されてしまいました。

 学校の教師の「事務仕事」については,あまり知られていないことが多いものですが,一般の人が学校評議員になっても,こういう点をチェックする機能がないのは残念なことです。

 本来は校長の仕事ですが,行政の方でもそこまで細かいチェックはできない。

 やろうとすると,「通知表を出す前の通知表の内容の事前確認」なんていう,どうしようもない「指示」が飛び出してしまう。

 学校,行政,セットで「何をしているのか?」という思いは,O市の一件と同じようなレベルのものです。

 以前にこのブログでも紹介しましたが,

 「いかに充実した教育活動を行うか」

 ではなくて,

 「いかに教育活動をしっかりしたつもりに見せるか」

 「いかにラクができるか」(そういう本が小学校教師向けに何冊か出版されています)

 に熱意をかける教師は,なぜかそれをブログ上で公開することに時間を費やしているのです。

 しかも,学校運営がきちんと機能していないことを

 自分の勝手な「仕事術」によって公開してしまっている。

 そんなことを書いている私も,

 「学校運営とは何か」をきちんと語れるようになったのは,

 教育管理職の研修で勉強をしてからのことでしたが。

 時期的には,次年度の教育課程を提出する本格的な準備に入っているのが今です。

 来年度の予定もほぼ決まりつつあるところでしょう。

 学校の1年のサイクルは,本当にあっという間に終わってしまいます。

 一つの行事なり,大きな研究大会なりをふり返るのに,

 それが終わったしばらく後,というのでは「遅すぎる」のがPDCAサイクルの基本的な考え方です。

 企業では当たり前の話が,学校のように「成果」が見えにくい教育活動の場合には,

 常に「なあなあ」ですまされて,形だけの学校評価でお茶を濁しているだけのところが多いのです。

 基本的には,管理職が主導権を握っていて,主幹(各分掌主任)が何をいつまでにどうすべきかをしっかり理解したうえで,何のどこかどうようになぜ不十分だったかを考えながら職務を遂行しているかどうかを見ていなければなりません。

 校長があまりにも学校の中の仕事を副校長に任せ過ぎている現状が続くようなら,

 管理職は一人でも十分です。


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批判の相手は,コンピュータでなく,人間である

 教師の中には,自分が批判されていることに気づけない人がいる。

 これは正真正銘の「才能」に近い能力で,本人は頑強な

 「壁」

 で守られているのである。


 年度当初の時間割作成には,私も何度かかかわってきた。

 当然,ソフトウェアを使う。

 しかし,完全にはコマは埋まらない。

 人間の手作業で最後のコマまで埋めなければならない。

 条件がきつすぎることで,物理的に時間割が組めないことがある。

 この場合は,かなりの数の条件を,いくつかのランクに分けてもらい,調整する必要が出てくる。

 ある教師にとっては何でもない条件も,

 気難しい教師にとっては,重大問題である。

 だから,一律にこなすべき仕事だが,実際には,

 先生方に納得してもらえるような「根回し」が必要になる。

 この「根回し」が下手な人間だと,あとで「恨み」を買うことになる。


 自分が批判されていることがわからない人間というのは,

 自分の仕事の「正しさ」が絶対なのである。

 すべて相手の方が間違っている,相手が悪い,というのが前提の「知能」をもっている。

全否定か全肯定なのである。

 だから,アレが「つくりもの」「妄想の産物」であることがすぐにばれてしまうのだ。

 こういう人間にとっては,

 ある先生にとっての「1時間目に授業を入れないでほしい」という要望は,

 別の先生から同じような要望があっても,「同じ要望」になってしまうのだ。

 「同じ要望」でも,「違う」のだ。

 それが,個性なのだ。
 
 なくすべき個性だが,あるのだから仕方がない。

 こうした問題は,私も経験者だからわかるが,

 時間割はコンピュータではなく,人間の作業として行っているものだ,
 
 という重要な「事実」をわかってもらう努力を怠るべきではない。


 「お前が仕事をしているから気に入らないのだ」と直接的に言ってくるほど,教員も非常識ではない。

 時間割作成の苦労は,普通の人間ならわかるものである。

 「冷たい」と批判されているのがコンピュータではなく,それを使っている人間だということに気づけるような「知性」がほしい。

 たとえコンピュータを使おうが,仕事に人間性を感じさせるのが教師の重要な資質である。

 それが自らに欠けていることをなぜわざわざ公にしたがる人間がいるのかがわからない。

 自分自身の「ナントカの壁」にもっと早く気づくべきである。

 しかし,二度と同じような「失敗」をしないですむような教訓がもらえる,という点では,

 極めて「教育力」のある情報である。

 心から感謝したい。


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自動採点機で採点できてしまうようなテストは,塾に任せればよろしい

 大昔のコンピュータの導入を得意気に語っている人間がときどきいるが,

 その内容を読めば,どのくらいのレベルの教育を行っていたかがよくわかる。

 マークシートで実施できるようなテストは,採点の効率を考えているだけで,テストを受ける子どもの本当の「学力」を測定する気などさらさらない。

 学校でこのようなテストを得意がってやっていられるようなレベルだから,塾に先を越されるのである。

 「子どもに向き合う」と言ったとき,それは単に子どもの前に立っていることを指すのではない。

 子どもが1つの作文を書いてきたとする。

 その作文に対して,子どもの文章量の何倍ものコメントをつけて返せる教師が,「子どもに向き合っている」姿の一例である。

 そういう仕事は,部活動の指導が終わった後にするのが,普通の教師である。

 事務作業があるから部活動に出られない,という教師は,「子どもに向き合っている教師」とよばなくてよいのは当然のことである。

 学習指導要領の改訂の趣旨をよく読んでほしい。

 子どもの学力向上は,教師の質にかかっている。

 テストの質を変えれば,学力は今よりもっと向上する。

 「記憶」ですむようなテストばかりを繰り返しているから,問題解決能力がつかないのだということは,戦前の教師ですら,わかっていたことである。

 それにしても,アイロンがけまで自動の洗濯機はどこで売っているのか,教えてほしい。

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6・3・3・4制を見直す前に・・・

 「教育再生」という言葉を聞いても,

 自己反省や自己評価の機能及び能力が不十分な「学校」という社会のみで生きてきた教師たちには,意味がわからないだろう。

 小学生を1週間,中学校という「世界」で生活させてみれば,そのあまりのギャップに驚くことだろう。

 小学校の教師が,最も自信のある教科で,「その続き」を中学校で授業してみたらどうだろう。

 中学校の教師が,小学校で専門の教科を教え始めたらどうだろう。

 小学校の教師で,4年間,「地図帳」を上手に使いこなせるように子どもを教育できた人はどれだけいるだろう。

 その「結果としての子どもの姿」は,中学校の教師ならよくわかる。
 
 まず教師自身が,「教育再生」の必要性を痛感するような場をつくることが大切だと考えている。

 本当の意味での「教育再生」は,

 「教師の指導力の向上」抜きには達成し得ない。

 ただの小中一貫に,賢い保護者が期待を寄せるわけがない。

 学力上位層が中学受験で一気に抜けるのを防ぐ策も考えるだろう。

 子どもの高い能力を信じて,

 中学受験をする子どもたちが学んでいる内容を,多くの子どもに体験させるのもいいだろう。

 しかし,その結果は,

 小学校の教師が「学力の本当の格差」に愕然とするような事態が生まれるだろう。

 自分たちが,何をしてきたのか,その意味を見失うことにもなりかねない。

 中学受験を経験せずに,より高い学力を身に付けることができる学校が期待されている。

 そのためには,より高い指導力が発揮できる教師が今まで以上に求められる。

 制度が変わっても,

 それを動かす人間が変わらなければ,ただ混乱するだけになってしまう。

 指導要録の記載すら,基本的な理解がないような学校現場である。

 何かを変える前に,

 今,なすべきことがなされていない現状をどうにかしなければならない。

 そういう意味での「教育再生」が何よりも大事である。


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【重要】 小学校の先生へのお願い ~指導要録をつくる上で~

 あるブログで,指導要録に記す評価の方法について,自分の考えを述べている小学校教師がいましたが,それが誤った考え方に基づく「仕事術」なので,ここでお願いをしたいと思います。

 引用させていただくブログ名は,『小学生攻略法』で,記事名は『指導要録に成績をつけながらいつもひっかかるのは』です。

 「いつもひっかかる」ことだそうですので,誤った「仕事術」が,何年にもわたって繰り返されている可能性があります。また,それが小学校の教師たちにとって「一般的」であるおそれもあるので,確認しておきたいのです。

 まず,指導要録は,形式的な単なる事務的帳簿ではなく,指導と評価の重要記録だということです。

 記事には観点別学習状況の評価のうち,「関心・意欲・態度」についての「ひっかかり」が紹介されていますが,その基本的な考え方は,誤っているとは言えません。

 このブログでもたびたびふれているように,「挙手が多い」=「意欲がある」ではないのです。

 しかし,この教師は,「各教科の学習の記録」として「関心・意欲・態度」をとらえようとしているかどうかが,あやしい気がします。しかも,指導要録の評価が「総括」として位置づけられていない点が問題なのです。

 学習指導は,教科ごとに目標があり,単元ごとに目標があり,毎時間ごとに目標があります

 それぞれの目標に照らして,観点ごとに学習状況を把握するのが「観点別学習状況の評価」です

 ですから,毎時間ごと,単元ごとの評価を総括すれば,指導要録に記載する評価ができあがるのです。

 やってはいけないことは,「冬休みに評価をつけてしまう」ことです。

 なぜだかわかりますね。

 それは「予想」にすぎません。

 3学期の学習が残っているわけですから。

 3学期の学習の単元にも目標はありますが,学年末ということもあり,この1年間の学習成果が発揮できるような場面を積極的につくり出すことです。

 全教科は無理かもしれませんが,総括的な評価にふさわしい,「作品」「文章」をつくらせるべきなのです。

 教師は,そのように「表現」されたものから「確かな学力」を把握するしかありません

 「見た目の印象」で「評価」してはいけないのです。

 「関心・意欲・態度」の「態度」面は,確かに難しい評価内容です。

しかし,少なくとも,各教科の目標に照らして実現してほしい「関心のあり方」や「意欲の実態」を明文化しておき,そこから見て「十分満足なのか」「おおむね満足などか」を評価すべきなのです。

 私は個人的には,小学校でのみ,この「観点別学習状況の評価」は実効性があると考えていますが,こういう教師ばかりだと,小学校ですら,「ただの事務仕事」にすぎないものになっており,教育的価値を見いだせなくなってしまいます

 指導要録をつける上で,すべての教員が読んで知っておくべき文書とは,

 22文科初第1号(平成22年5月11日)付けの

 小学校,中学校,高等学校及び特別支援学校等における児童生徒の学習評価及び指導要録の改善等について(通知)

 です。

 ここでふれている学習評価の基本的な考え方とは,

 「きめの細かな指導の充実や児童生徒一人一人の学習の確実な定着を図るため,学習指導要領に示す目標に照らしてその実現状況を評価する,目標に準拠した評価を引き続き着実に実施すること」です。

 評価は,点数をつけるためのものではありません。

 作品をつくってもらうのは,単に「評価結果」を出すためのものではありません。

 良い点を示して意欲を高めるほか,課題を指摘して,「よりよくする方法」を自ら追究させたり,実際に改善させたりするのが「評価」の役割です。

 そうすることで,「学習の確実な定着」を図るわけです。

 ここでは中学校における,保健体育科の体育分野(1,2学年)の「運動や健康・安全への関心・意欲・態度」の評価の観点の趣旨をご紹介します。これを読むと,教師はどのような指導を心がけるべきであるかも自ずと明らかになり,実現状況がよくない場合,それは教師の指導力に大きくかかわっていることも,わかると思います。

 「運動の楽しさや喜びを味わうことができるよう,公正,協力,責任などに対する意欲をもち,健康・安全に留意して,学習に積極的に取り組もうとする

 運動神経がよくて,ただ自分のやりたい運動を好き勝手に一人でやっている子どもではだめだということがわかります。

 教師の指導要録の作成にかかわる

 関心・意欲・態度

 が問われているのかもしれませんね。


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結果だけを重視するから個性を奪う教師になる

 成果主義の欠点は,

 「結果」と「成果」の区別がつかない人間が,よい「結果」だけを求めて仕事をするようになってしまうことである。

 単なるよい「結果」は,必ずしも次の成功につながらず,「失敗の原因」になることがある。

 簡単な話,一夜漬けでテストでいい点がとれた。次も前の日にしっかりやろう。・・・そして,だめだった,というケースがそれである。

 教育における「成果主義」は,単なるよい「結果」を求めるものではない。

 単なるよい「結果」よりも,良質の「過程」を重視する。

 
 「問いから答えまでの距離を遠ざける」

 のが,教師の仕事である。

 それを近づけることに情熱を燃やしているのが,教育産業(最近は,その批判を意識してか,もっと遠回りのことにも目を向けるようにはなっているが)である。


 だれがやっても同じような結果になることは機械に任せればいい・・・という発想の人間は,

 私の考えでは,絶対に教師には向かない人間である。


 それは,「過程」が視野に入っていないからだが,

 さらに言えば,そういう発想でいながら,なお「結果」にすら目を向けようしない人間がいる。

 「機械は間違えない」という「信仰」のせいだろう。

 こういう人間は,たとえ現場の教師でなくても,おかなしな言葉で教育を「汚染」するおそれがある。


 教師は,多くの場合,

 個性よりもよりよい「結果」を重視している。

 個性を重視している教師は,すぐその場での「結果」よりも,「過程」を重視しているから,子どもにかける言葉の質が,結果重視の教師と全く異なる。

 幼稚園の子どもが,家では描いたことのないような,「立派な」自画像をつくっていたが,自分よりも担任の先生に顔が似ていた。この作品に,担任の先生は何と声をかけてくれたのだろう。


 ある家族の話である。

 子どもが,今日は家族全員でそろって食事がしたい,と言い出した。

 (今,平日に父親抜きで夕食をとっている家庭は5割を超えているという)

 父親は,「今日は早く帰る」と言った。

 子どもはとても喜んでいた。この食事のことを作文にすると決めていたからでもある。

 しかし,父親は,急な出張で隣の県で泊まることになってしまった。

 子どもは,おなかがすいたと言う。

 しかし,家族全員でそろって食事がしたいとも言う。

 ここで,母親は何という言葉を子どもにかけるか。

 「あの方」なら,

 子どもにキレて「病気だ」と言いかねない。

 どうしてそういうことになってしまうのか。

 それは,教育とは何の縁もないものの考え方にとらわれ続けているからである。

 「個性」を単なる「違い」と言ってみたところで,何も始まらない。


 「個性」はその人の「こだわり」によくあらわれてしまうものである。

 だから,人から「嫌われる」個性もあることを,自分自身が自覚しておかなければならない。


 なつかしい話を思い出した。
 
 ある人が,自動販売機である飲み物を買ったとき,違う物がでてきて怒っている人をバカにする記事を書いた。

 なぜバカにしているかというと,「おまえが違うボタンを押したとしか考えられないから」だそうだ。
 
 「機械が間違えるはずがない」という考え方にとらわれてしまっているからである。

 しかし,自販機に飲み物を入れているのは,機械ではない。

 「入れ間違え」ということが,100%起こらないとは言えないのである。

 実際に,私も2度ほど経験がある。

 「だれがやっても同じ結果になること」を機械に頼ろうとする人間は,機械に泣くことになる。

 いや,そういう人間は,機械には怒れないから,泣き寝入りするしかない。


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タイトルの見直しが必要 ~個人主義が誤解される原因がそこにある~

 ブログのタイトルが誤解を生むもとになっている。

 そして,記事のタイトルも誤解たっぷりのものである。

 多くの人が誤解している,と決めつけていることをなぜか「常識」にしたてて,

 その誤りを得意がって説明している人がいる。

 おそらく,特定の個人かせいぜい数人の記事に使われている誤用を持ち出して(引用の出典を明示しないので,何とも言えないが)いるだけであるから,

 「常識の見直し」というタイトルはおかしい。

 「自分の知識を疑ってみる」という大事なことを書きながら,

 自分自身の知識や書いていることにはいっさい「疑う」ことや「訂正する」ことをしない。

 こういう,現場から去った人間による,

 現場の人間への言葉は,

 「実践ができない」人間だから,いけない,とは言わない。

 実践ができる人間だったのかどうかは,書いている言葉を読んで判断できる。

 おかしな主義・主張が正面から批判される場が,教員にはなかった。

 だから,本当におかしい主張する人が,学校内でもまかり通っていた。

 今は違う。

 こうやって公の場で,「問題点」を指摘される時代になったのである。

 何をPRしているのか。

 現場を去った人間の中に,

 一定の「病気」の人間を差別扱いし,いや,不適切な表現によってこきおろし,

 「こんな人間が教育現場に立っていたのか」

 という思いを抱かせることを,熱心に書き続けている。


>授業が成り立たないので,授業で教室に行っても生徒はみな勝手に自習をしている

 ような教師は,たしかにまずい。

 (いや,学校によっては,「生徒が自習してくれている」だけでもましなのかもしれないが)

 しかし,こういう教師を,病名を挙げて詳しく説明しながら,

>文字通り頭の「おかしい人」

 ということが平気が書ける人間が,教育現場に立っていたのである。

 障害をもつ子どもたちが,どんな目にあっていたか,想像するのもおそろしい。

 「迷惑な個人主義」というものの見方が成立してしまうから,誤解のもとになるのだろう。


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生徒からもらう年賀状から思うこと

 今年度は,中学校の全学年の生徒を教えた関係からか,生徒からの年賀状をたくさんもらいました。

 ここのところの傾向を感覚的に言うと,

 本人の言葉が一言もない年賀状が増えたことでしょうか。

 宛先も機械で印刷されているので,親が勝手に出しているのではないかと疑いたくもなります。

 特に,親の愛情がたっぷりの年賀状を見ると,こういうのをもらってもうれしくないタイプの大人もいるのではないか(私は自分が同じようなのをつくっているので,そうではないですが)と思ってしまいます。

 ほとんど話をしたことがない生徒からもらう年賀状にコメントなしのものが多いので,これは反省材料になります。

 震災後,「家族の絆」が強まったのではないか,という「想像」がなされていますが,

 確かに,20年近くのお付き合いのある方の年賀状が今までと異なり,家族写真入りになった,というものもありました。

 どの年賀状からも,とてもあたたかい雰囲気が伝わってきて,

 これは電子メールや無料通話アプリによる挨拶では伝わらないものだと感じました。

 ちょっとぎこちない,手書きの「決意表明」なんてものを見せられると,

 自然にその生徒の日常に目がいってしまう・・・・というのも,「ひいき」の一例ですかね。

 年賀状は,「私的」な「文書」のやりとりです。

 でも,まさかそれを禁じている学校はないと思いますが・・・。
 
 しかも,その理由が「先生の仕事(年賀状の返事を書く)を増やすことにならないように」

 だったら・・・・。

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できる子もできない子も気に入らない

 小学校で「とてもいい学級で,何の問題も起こったことがない」なんていうクラスから中学校に進学してきた子どもは,決まって大きな問題を起こしてくれます。

 わかりやすい例は,

 「問題を起こさないようにしよう」という,変わったスローガンで学級経営されていたクラスの子ども。

 「問題を起こす」子どもがいるとクラス目標が達成されませんから,徹底的にたたかれます。

 我慢に我慢を重ねてきた子どもたちは,中学校で一斉にストレスを発散し出します。

 経験のある中学校教師は,事情がわかっていますから,

 別の方法での「ストレス発散」の道を教えたりしているうちに,

 いつの間にか子どもは落ち着いていきます。

 これを中学校でさらに蓋をしようとすると,非行や問題行動の爆発力が増してしまう。

 間抜けな小学校教師が,

 「小学校時代にはあんなに落ち着いていたいい子どもたちが」

 などと言い始めるのを想像しながら,

 「言いたいことが言えない超閉鎖空間からの脱出おめでとう」

 の気持ちで子どもに接していくと,

 やがて小学校教師へのストレートな不満も聞くことができて,次々に「収穫物」が増していくのです。

 このあたりのコントロールというか駆け引きは,小学校のことがわかっていればいるほどやりやすくなるのですが,初心者では難しいですね。

 中学校の教師は,近隣の小学校の運動会に1時間だけ参観に行くべきです。

 だいたい1時間で状況がつかめます。

 原因と結果の関係を理解するためには,とっても大切な情報があるのです。

 今日は,集まった親戚の方から,またつらい小学校時代のいじめの話を聞きました。

 いじめの対象は担任の教師で,その仲間に加わらないといじめの対象になる,という,

 崩壊学級の話です。

 どう考えても,「この人に責任を負わせるのは無理だ」という学級担任がいる。

 公立の小学校では,こういう問題への解決の方法がなかったのですね。

 新しいところでは,とにかく何でも「平等」でないと気がすまない先生の話。

 なぜか,「結果の平等」にこだわる。

 だから,「できる子」と「できない子」がうざったくて仕方がないらしい。

 生活や行動だけでなく,学力まで「みんな同じ」であることを理想とするようなクラスにおける

 同調性圧力の質は,想像の域を超えていました。

 「均一性圧力」がかかる学級の教育というのは,どんな結果を生んでいるのでしょう。

 最近はやっている「評価」の話を聞いても,

 「品質を一定にする」

 という製造業の発想で,何だか話を聞いているのもムカムカするような研究だったりする。

 おそらく今まで,「個性」「個性」と言いながら,だれもその意味を理解しないで教育をしていたようです。


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教育に情熱をかけるのに邪魔になる行為

 旧年中は当ブログをご覧くださりまして,まことにありがとうございました。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 文部行政をはじめ,教育におけるよい変化の年となりますことを祈念しております。

 
 さて,長野県の新年の教育ニュースは,

 問題教師の情報が異動先の学校に伝えられていない,

 ことが問題としてとりあげられていました。

 
 市町村教委と県教委の関係の問題もありますが,

 これは,管理職から管理職への情報伝達をすればすむ話だと思います。

 問題教師ほど「回転」は早いですから,

 どうあがいても,自分の学校にやってくる日が来ます。

 
 前の管理職は,正直に,一番大事な情報

 ~子どもへのわいせつ行為など,信用失墜行為にあたることの履歴~

 を次の管理職に伝えるべきです。

 
 ただ,こういう「マイナス情報」を,

 おそらく「教育的な配慮」として,伝えない人間が教師には多いのです。


 中学校に上がってくる児童の「問題」を,きちんと伝えない小学校教師が昔は多かったですね。

 指導要録という,公的な記録には,「問題」は記載されません。

 ですから,小中学校では,わざわざ,

 小学校の担任と中学校の新担任が顔を合わせて,情報交換をする会を開くのです・・・・・

 そんなことをしていない?

 それだけ,「信頼感で結ばれている」小中なら,いいですね。

 でも,より強い「信頼感」で結ばれるためにも,

 「引継」は大事です。

 
 小学校時代の「いじめ」など,情報によって,中学校で避けられる問題はいくつもあります。

 これを「伝えない」小学校教員の信念とはどのようなものでしょうか?

 
 「子どもを色眼鏡で見させない」

 そういう考え方をする人間ほど,強く子どもを「色眼鏡」で見ていたことが経験上わかります。


 中学校教師は,簡単にわかるのですよ。

 子どもは,小学校時代よりも,高い「言語力」にもとづいて,当時の状況を説明してくれます。

 
 「悪い情報は,教育をするのに邪魔な情報になる」


 という考え方がいるのは,「教育」を別の言葉に書き換えれば,
 
 「なるほどね」

 と思われるものになるでしょう。


 「悪い情報」を隠す

 これこそが,教育にとって本当に邪魔な行為なのです。

 
 小学校教育にとってネックなのは,

 「そんなにたくさんの問題があったクラスなんですね」

 と言われるのが嫌だから,「問題」を伝えない教員がいること。

 
 教科担任制の導入を,急いでほしいと思います。

 これで,硬直した6・3・3制度の見直しにもつながります。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より