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政治家への批判ができて教育への批判ができない深海魚

 ここは,教育ブログの場所である。

 ただ,教育に対して本当の意味での関心がない人間が紛れこんでいて,日本の教育への希望を打ち砕くような態度をとっている。

 教師の責任放棄は,政治家のそれよりも「軽い」ものだろうか。

 比較の対象にはならないが,「当事者」としての姿勢が感じられない言葉には,何の意味も感じられない。

 ブログタイトルで「勘違い」をしてしまって,ある記事にコメントしてしまった方が,相変わらずのコミュニケーション不全を経験させられることになった。

 そのブロガーは,教師ではない(ことがプロフィールに書いてある)。
 
 教育現場の問題に正対しようとはしていない。

 個人的なうらみつらみはときどき顔をのぞかせているが,どう改善すべきかという具体的な話はない。

 教育問題を取り上げようとしても,かなり「深くて暗いところ」に沈んでいて,何も見えていないことがうかがわれる記事が多い。

 たとえば,教師は上ばかり見て,仕事をしなければだめだ,子どもを見ろ,と書いている。

 では,上ばかり見ていれば,上にあがれるのか。

 それは無理なのである。

 深海にいては,海底以外は上しかない。

 ものを「俯瞰する」ことはできない。

 優れた管理職のもとで子どもを指導できた教師は,優れた管理職になる資質も体得していく。

 (優れた教師に指導された人は,自分が優れた教師になる資質を体得していく。)

 もちろん,全国の報道を見れば,たよりにならない校長が登場してくる。教育長が出てくる。

 隠蔽体質は,社会主義国だけの問題ではない。

 資本主義国でも官僚主導によって,同じ結果を生む。

 信用できない教育長は,元校長だったりする。

 しかし,今,何もできない教師が校長をしてつとまるほど,学校は「終わってしまって」はいない。

 教務主任をしたことがなくて,いきなり副校長や教頭になるのはつらいだろう。

 生活指導主任をしたことがなくて,校長をつとめると,苦労がたえないだろう。

 学年主任をしたことがなくて,教師たちとうまく協働していくことは難しいだろう。

 地域によっては,こうした「主任」の仕事の質が劣っているところがある。

 特に小規模校では,必要な実力が備わっていない教師ばかりだと,悲惨なことになる。

 人事部では学校運営に支障がないように教師を配置するが,限界に来ているという。

 (東京都では,管理職のなり手がいなくなっていく。)

 教育の質を上げるには,学校の数を減らすのが一番である。

 管理職のなり手(希望者数・能力がある人の数,の両方の意味で)がいないから,という理由もある。

 統廃合で空いた学校は,後期高齢者のための健康施設にすればよい。医療費の負担を減らすためにも,そういう政策をすぐにでも実施した方がよい。

 話がそれた。

 政治家が信用できない,という話は,

 教師が信用できない,という話と比べると,あまりにも「遠い世界」の話である。

 あしもとからきちんと見て,正しく判断していく,そういう生き方をすることが,大切なのである。

 教師の多くが,「遠い世界」の批判ばかりして,

 「その場」の問題を放置していることには,子どもの方もあきれている。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より