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中学校の発表活動の「基盤」づくりとは何か

 中学校の授業を見学するとき,私が必ずすることがある。

 生徒全員の姿を見て,発表できそうな生徒を探す。

 つぶやきそうな生徒を探しておく。

 声(音)がしたときに,だれが話しているのかを確認できるようにするためである。

 また,授業の準備ができていない生徒を探し,その中から,学習に課題を抱えているように見える子どもの近くにポジションをとる。

 また,教室の掲示物を見て,学級委員を探し,できれば近くに行けるルートを確保しておく。

 先日,訪問した中学校では,たまたまこの二人が前後で並んでいたので,私はその中間地点にいた。

 気づいたことを細かく書けば,10日分くらいの記事の分量になってしまうので,ここでは「発表活動」に関することだけにふれる。

 授業の中盤で,「発表活動」の時間になった。

 そのとき,教師の次のような投げかけに対する,学級委員のつぶやきには驚いた。

 「だれか,発表したい人はいますか」

 「そんな人,いるわけないじゃん」

 学級委員の一言は,決して軽いものではない。

 教科経営だけでなく,学級経営も破綻していることは明らかである。

 中学校で「発表活動」を充実させるためには,必ずできるようにしておかなければならないことがある。 

 それは,どんな人の言葉でも,聞くときは聞くという態度がとれる生徒に育てておくということである。

 発表する人間が,相手の反応を全く気にかけず,原稿だけを視界に入れて,ただ棒読みするだけなら,発表への抵抗は少し減るだろうが,すこし余裕のある生徒・・・・たとえば学級委員のような・・・・が発表すると,「聞いていない人」「理解できていない人」が気になりだす。

 そして,何の質問も帰ってこず,何の反応も感じられなければ,そもそも発表などする意味はない。

 ましてや,発表で言葉の読み間違えなどに茶々を入れたり,笑ったりするような「嫌な態度」をする生徒がいれば,発表などしたくなくなる。

 「言語活動の充実」というテーマで研究を始める学校が多いが,これを「教科」の中でやろうとするから,たいてい,無理があるというか,それまでの教科指導がまずかったことが露呈して終わりになる。

 中学生には,私的な会話=私語のようなものではなく,公的な発言や指示等ができる機会をたくさん用意してあげなければならない。

 これを,多くの学校では,教師がやってすませてしまう。

 だから,生活全般をはじめ,教科の時間でも,

 教師が何かしてくれることを待つのが中学生の常識になっている。

 何か話してくれることを待つのではなく,今の自分たちが,話すべきことはないのか?

 それも,公的な問題で。そういう機会を与えられないで育った中学生に,

 「自治」とか「主体的な行動」を求めるのは無理な話である。

 「発表」活動の基盤は,

 生徒から生徒へ,きちんと「連絡」なり「情報」が伝達されることができるようになっていることである。

 指導力のない教師が授業すると,私語などが多くて,

 「静かにしなさい」などという注意が飛ぶ。

 生徒が話すときも,同じである。

 「静かに」という声自体が「うるさい」のである。

 「発表」活動の基盤は,「聞く力」があること。

 子どもの通っている幼稚園では,ここにとても力を入れてくれているのがわかる。

 小学校に上がると,こういう幼稚園出身の子どもが,小学校教師と同時に「困難」を感じる場面が出てくる。

 小学校1年生には,その「困難」を解決する手段がない。

 小学校教師に「困難」を克服する指導力があるかないかで,残り8年間が決まってしまうといったら,言い過ぎだろうか。

 経験上,「ここで失敗すると,ずっと克服できないで終わる」タイミングをいくつか知っているが,

 小学校の場合はどうなのだろうか。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
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  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より