ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 中学校における「発表活動」を充実させるために | トップページ | 授業を堂々とサボれる保健室 »

中学校の発表活動の「基盤」づくりとは何か

 中学校の授業を見学するとき,私が必ずすることがある。

 生徒全員の姿を見て,発表できそうな生徒を探す。

 つぶやきそうな生徒を探しておく。

 声(音)がしたときに,だれが話しているのかを確認できるようにするためである。

 また,授業の準備ができていない生徒を探し,その中から,学習に課題を抱えているように見える子どもの近くにポジションをとる。

 また,教室の掲示物を見て,学級委員を探し,できれば近くに行けるルートを確保しておく。

 先日,訪問した中学校では,たまたまこの二人が前後で並んでいたので,私はその中間地点にいた。

 気づいたことを細かく書けば,10日分くらいの記事の分量になってしまうので,ここでは「発表活動」に関することだけにふれる。

 授業の中盤で,「発表活動」の時間になった。

 そのとき,教師の次のような投げかけに対する,学級委員のつぶやきには驚いた。

 「だれか,発表したい人はいますか」

 「そんな人,いるわけないじゃん」

 学級委員の一言は,決して軽いものではない。

 教科経営だけでなく,学級経営も破綻していることは明らかである。

 中学校で「発表活動」を充実させるためには,必ずできるようにしておかなければならないことがある。 

 それは,どんな人の言葉でも,聞くときは聞くという態度がとれる生徒に育てておくということである。

 発表する人間が,相手の反応を全く気にかけず,原稿だけを視界に入れて,ただ棒読みするだけなら,発表への抵抗は少し減るだろうが,すこし余裕のある生徒・・・・たとえば学級委員のような・・・・が発表すると,「聞いていない人」「理解できていない人」が気になりだす。

 そして,何の質問も帰ってこず,何の反応も感じられなければ,そもそも発表などする意味はない。

 ましてや,発表で言葉の読み間違えなどに茶々を入れたり,笑ったりするような「嫌な態度」をする生徒がいれば,発表などしたくなくなる。

 「言語活動の充実」というテーマで研究を始める学校が多いが,これを「教科」の中でやろうとするから,たいてい,無理があるというか,それまでの教科指導がまずかったことが露呈して終わりになる。

 中学生には,私的な会話=私語のようなものではなく,公的な発言や指示等ができる機会をたくさん用意してあげなければならない。

 これを,多くの学校では,教師がやってすませてしまう。

 だから,生活全般をはじめ,教科の時間でも,

 教師が何かしてくれることを待つのが中学生の常識になっている。

 何か話してくれることを待つのではなく,今の自分たちが,話すべきことはないのか?

 それも,公的な問題で。そういう機会を与えられないで育った中学生に,

 「自治」とか「主体的な行動」を求めるのは無理な話である。

 「発表」活動の基盤は,

 生徒から生徒へ,きちんと「連絡」なり「情報」が伝達されることができるようになっていることである。

 指導力のない教師が授業すると,私語などが多くて,

 「静かにしなさい」などという注意が飛ぶ。

 生徒が話すときも,同じである。

 「静かに」という声自体が「うるさい」のである。

 「発表」活動の基盤は,「聞く力」があること。

 子どもの通っている幼稚園では,ここにとても力を入れてくれているのがわかる。

 小学校に上がると,こういう幼稚園出身の子どもが,小学校教師と同時に「困難」を感じる場面が出てくる。

 小学校1年生には,その「困難」を解決する手段がない。

 小学校教師に「困難」を克服する指導力があるかないかで,残り8年間が決まってしまうといったら,言い過ぎだろうか。

 経験上,「ここで失敗すると,ずっと克服できないで終わる」タイミングをいくつか知っているが,

 小学校の場合はどうなのだろうか。


にほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 

« 中学校における「発表活動」を充実させるために | トップページ | 授業を堂々とサボれる保健室 »

教育」カテゴリの記事

学校評価」カテゴリの記事

学力向上」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 中学校の発表活動の「基盤」づくりとは何か:

« 中学校における「発表活動」を充実させるために | トップページ | 授業を堂々とサボれる保健室 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より