ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 理科・数学の学力は向上したか? ~TIMSSの結果より~ | トップページ | 小学生でもわかる「政治と選挙の関係」 »

「ゆとり世代」への攻撃とお詫び

 これからしばらく,「ゆとり世代」の新社会人が続く。

 小中学校で,他の世代と比べ,受けた授業の総数が少ないというのは事実である。

 教科の学習時間を減らされただけでなく,「総合的な学習の時間」という学校格差の大きな授業を受けてきた世代の人たちが,今後,何かにつけて「ゆとり世代」と揶揄されるのは,宿命のようなものである。

 「ゆとり」の中で,何を学んできたのか。

 この世代の人たちには,逆に発信してほしいことがある。

 「総合的な学習の時間」で,自分たちに身についた力は何か,ということである。

 「生きる力」を懸命に育成されたはずの世代である。

 では,この世代の人たちにとって,学校時代にはぐくまれてきた「生きる力」とは何なのか。

 選挙では,教育の話題が上がることがまずない。

 目先の問題ばかりである。

 そういった目先の問題を,この教育ブログで展開する人もいる。

 教師の立場から言うと,選挙を前にした「目先の問題」とは,

 若い人が選挙に行かないという問題である。

 「だれが内閣総理大臣をやっても同じ」などと,多くの若い人たちは「本気」で思っている。

 そのことと選挙に行かないことは別だと思われるが,それが「選挙に行かない正当な理由」になっているようである。

 アメリカの場合は,政治や選挙は,クールな話題だそうである。

 日本の場合は,「だれがやっても同じ」と公言するのがクールなスタンスだとみられる。

 悪しき伝統である。

 こういうムードをつくっているのは社会だ,と教師の立場で切り捨てることはできるだろうか。

 社会科教育は何をしていたのだ。

 学校における自治活動とは何だったのか。

 自らに問わないといけない。

 「ゆとりの中で生きる力をはぐくむ」教育を受けた世代は,今,何を思っているのだろうか。

 これがもし本当の「失敗」であったのなら,

 そのことを「ゆとり世代」が本当に自覚しているのなら,

 それを今,あるいは,後世に伝えてほしい。

 私たちは,「お詫び」をしなければならない。

 逆に,自分が受けた教育のおかげで,今の自分がある,という人は,そういう声も届けてほしい。

 私の予想では,「ゆとり世代」というのは,死語になりにくい言葉である。

 「いい理由」よりも,「悪い理由」を人は探したがる。

 その「悪い理由」として最もわかりやすいのが,「ゆとり」だから。

 まだ,「総合的な学習の時間」は各学校で行われている。

 その本当の意味での「検証」はできていない。

 教科書がないから,一般の人にはわかりにくい。

 テストがないから,わかりやすい評価ができない。

 学校によって異なるから,一般論が言いにくい。

 しかし,「やめるべきもの」と多くの人が実感しているのなら,なるべる早く「やらない」という選択肢を与えた方がいい。

 私の予想では,「やらないでよい」ということになれば,「総合的な学習の時間」は一斉になくなると思われる。

 逆に,中学校では,選択教科が復活するようになるだろう。

 平成10年版の学習指導要領の「課題」は,まだぬぐいきれていない。

 この指導要領は,教師の高度な指導力と,地域や社会のバックアップがなければ,理想が実現できないものだった。

 平成20年版の学習指導要領には,「ゆとり脱却」という側面もあるが,「つけたし」スタンスもある。

 落ち着いて考えてみれば,「つけたし」というより,「否定」の意味が隠れていることに気づける。

 「言語活動の充実」というが,そんなことは,「総合的な学習の時間」でめいいっぱいできていたはずである。

 むしろ,「総合的な学習の時間」の成果が,「言語活動が充実し,思考力・判断力・表現力が伸びて・・・」という「よい影響」であるはずだった。

 しかし,学習指導要領の改訂では,いつも「前のではダメだから変える」というのが一般の人の感覚であろう。

 実際にそういう側面があるから。

 とりとめがない文章になってしまったが,勢いのまま,掲載することにする。

 「お詫び」を教育界がすべきかどうかは,「検証」を経てからにしたい。

 「ゆとり世代」の声を待ちたい。


にほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

« 理科・数学の学力は向上したか? ~TIMSSの結果より~ | トップページ | 小学生でもわかる「政治と選挙の関係」 »

「ゆとり教育」」カテゴリの記事

ニュースより」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/56307592

この記事へのトラックバック一覧です: 「ゆとり世代」への攻撃とお詫び:

« 理科・数学の学力は向上したか? ~TIMSSの結果より~ | トップページ | 小学生でもわかる「政治と選挙の関係」 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より