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そろそろ偽の評価の看板をおろすとき ~学力向上の足を引っ張る評価~

 先日,質ではなく単なる数や量で示される誤った評価基準=ルーブリックが使われ出していることを指摘した。

 「ルーブリック」の広まりが,「評価」の信頼性の低下をさらに加速させることへの危惧である。

 すでにこのブログでは,観点別学習状況の評価の運用が学校現場で適正に行えていないことを何度も述べている。

 学校教育法にしろ,学習指導要領にしろ,子どもに求めている学力の質は高いものである。

 法律で,「基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力を」はぐくむことが規定されているのである。

 授業を数回にわたって参観するだけでわかること,定期考査問題を1回分見ればわかることは,「思考力ははぐくまれていない」こと・・・というより,「思考力を必要とするような学習が行われていない」ことである。
 
 こういう授業で,「十分満足な状態の中でも特に程度の高い=5」という評定をつけられるわけがない。

 教師たちは,知識を習得させることでいっぱいいっぱいである。

 しかも,その習得への姿勢がよくない。

 法律では,「主体的に学習に取り組む態度を養うこと」に特に意を用いることも規定しているが,そういう学習は,学校よりむしろ塾や通信教育で行われている。

 表現力をはぐくむためには,表現する時間の確保が重要だと短絡的に考えて,

 話し合いや発表の時間を増やしている学校が多いが,

 これによって知識や技能の習得のできない子どもがさらに増える結果になっている。

 しかし,そういう「悪影響」を教師たちは,

 虚偽の評価を行うことによって隠蔽しているのである。

 子どもたちが4人で集まってまとめた「作品」は,個人の能力を評価できる対象ではない。

 黒板に書かれた文字を写しただけのノートが評価の対象にならないのと同じ理屈である。

 私が参加した公開授業についていたルーブリックは,授業の目標とは異なる評価を実施しようとしていた。

 現在の観点別学習状況の評価でも,

 そもそも学習指導要領で目標としているところと,ゴールである(か,あるいは途中経過としての)評価が一致しないいない授業が見られる。

 目標と指導が一致していない。

 指導と評価が一致していない。

 目標と評価が一致していない。

 ばらばらなのである。

 そこに,ルーブルックという,

 すごくできるAさん,まあまあのBさん,ちょっとだめなCさん,全くだめなDさんのレベルを示して,私はこのレベルだ,と子どもに満足させたり納得させたりする方法が,新たに加わっている。

 評価は,第一義的に「学力を定着させる」「学力を伸ばす」ためのものであり,次のレベルに行くために,こういうことをしましょう,これができるようになりましょう,ということを教える,そういうねらいなら,ルーブリックは役に立つ。
  
 しかし,こういう「細かい評価」は,できない子どもの自信をさらに喪失させるだけで,逆効果であるし,逆に,できる子どもにはそんな評価は必要ないのである。

 教師が子どもにつきつける「評定」という「結果」の責任を,あらかじめ生徒に負わせておくのが「細かい評価」である。

 多くの教師が語る。

 「評定に納得しない親がいる」

 それ以前に,「指導に納得していない親」がいることを忘れてはならない。

 「評定に納得できない」という親の口を封じるために,評価のデータを積み重ねようとしている教師がいる。

 評価のデータを積み重ねるより大切なことは,

 途中でどのような指導をした,ということが伝えられることである。

 できない子どもを,すくなくとも「おおむね満足」の状態にするために,何をしたかを語ることである。

 そろそろ,観点別学習状況の評価という偽の看板をおろすときである。

 子どもは教科書を主たる教材として使っているが,

 これを読んでもわかる。

 そこに,観点別学習状況の評価の全観点で,「十分満足できる」子どもが育つ情報がどれほどあるのか。

 教科書に書かれた内容をどんなに上手に表現できても,法律に示された学力向上のねらいを達成したことにはならない。

 思考力・判断力という「質」にかかわるものを,どう評価するか,なんていう話は,

 それをどうやって育てるか,どう指導するか,どんな教科書ならいいのか,を真剣に考えて,実践できるようになってからの話である。

 「受験向き」として定評のある教科書がある。

 「教師が教えやすい」として定評のある教科書がある。

 こういう教科書の評判が何を意味しているか,改めて書くまでもないだろう。

 評価のことを考える前に,

 指導のことを考えなければならない。

 そういう意味では,学習指導要領ではだめで,学習指導要領解説でもだめで,

 学習指導要領の解説の解説か,学習指導要領の解説の解説の解説が必要なのだろう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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