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自己満足に浸る部活顧問たち

 自己満足に満ちた文章を,部活動の顧問をしている人間が書くことがある。

 それは,小学校の教師が書く文章と似ている。

 ここは,中学校の部活動の顧問の話である。

 生徒の一部だけが参加する部活動に熱が入るのは当然である。

 強制ではなく,自分の意思で加入している。

 すでにある程度の技能を身につけている。

 学習指導などとは比べものにならないくらい,簡単な仕事が部活の指導である。

 しかし,学習指導とは比べものにならないくらい,負担感を覚える教師がいるのも,部活の特色である。

 自分が得意なこと,好きなことを教えられるのは,教える側にとっては「快感」である。

 その自己満足をわざわざブログ上で発表している恥知らずがいる。

 「教える側」の気持ちばかりを大切にしているのが見え見えの文章である。

 子どもが好きなわけではないことがよくわかる。

 吐き気を覚えるようなこういう文章が,教育の世界にはけっこうあふれている。

 「キラキラした子どもの目」とか,「○○の教科が好きな子どもが増えた」なんて

 喜んでいる教師は,目の前の子どもが死ぬのを待つ,禿鷹の姿を教材にして,何が語れるのだろう。

 自己満足に浸ることが,いかに「浮いている存在」なのかは,

 自分が地獄を体験しなければ気づけないことなのだろうか。

 また話がそれたが,

 部活動の指導で,地獄の苦しみを味わっている教員がいる。

 そういう教員を救うのは何か。

 これは,その学校の「教育観」である。

 社会の大人がもっている「教育観」は,基本的に自分たちが受けてきたものを根っことしてできている。

 その「教育観」は,残念ながら,子どもが減り,人口が減っていく日本の教育には通用しないところがある。

 学校は,何のために「部活動」があるのか,という「教育観」を語れないといけない。

 部活動は,それを指導する教師を満足させるためのものではない。

 子どもが将来を生きるのに大切なものを獲得するためのものである。

 礼儀だの,整理整頓などは,日常的に身につけさせなければならない。

 部活動のときだけしっかり挨拶をする,なんて中学生くらいならかわいいものだが,

 部活動のような超閉鎖的空間だけで行動できる子どもをつくっても,それは一部の企業の要求を満たすだけのことである。

 教育を語る人の,その姿勢が問われる時代になった。

 懐古主義のぼけ老人の独り言に付き合ってはいられない。

 ・・・・なんという私も,「老人」とも呼べる先輩に,今日は多くのお話を聞くことができた。

 中学校三年生の一部を対象に,貴重なお話をしてくれる先輩である。

 80代の先輩の人生の重みを40代の私が感じ,10代の子どもが感じる。

 学校は,多様な世代の交流の場となることで,子どもたちの将来を豊かにする可能性を高める。

 年だけとっても,何の「重み」も感じられない文章しか書けないようにはなりたくないものである。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より