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小学校の教師に捨てられてきた子どもたち

 授業のねらいは示されていないが,子どものやりとりを中心にした実践記録を公開している人がいる。

 その書きっぷりから,授業の様子がよくわかる。

 そして,私が実際に接してきた小学校の教師と同じような「傾向」があることも,如実に伝わってくる。

 それは,子どもの声をよく聞いていることである。

 小学校の教師は,子どもの声をよく聞こうとしている。

 そして,わざわざ,「全員が発言できたこと」を喜んでいる。

 こういうセンスは,小学校教師に独特のものである。

 質を重視する中学校では,全員の発言を促すことはしない(そもそも時間が足りない)。

 話し合い活動などは参観すればすぐにわかることだが,無駄に時間を過ごしている子どもがたくさんでてくる。

 話せる機会をつくればそれでよいというものではない。

 おそらく,小学校教師の場合は,教職課程で学んでいるときから,初任者研修,研究会と,ずっと同じようなことを言われ続けているのだということがわかる。

 子どもの声に耳を傾けよう。

 主体的な学びを大切にしよう。

 子どもの学び合いを大事にしよう。

 ・・・・・・・・・・などなど。

 ある地域では,中学校の教師でも同じようなこだわりを見せる。

 教師が生徒一人一人につきっきりになって,そのときのつぶやきを拾ったり,反応をたしかめたりする。

 私も,中学校での教育実習で,実習生に「どうしてここであの生徒のつぶやきを聞き逃したのか」と,教師らしい姿を見せるチャンスを逃したことを伝えることがある。

 しかし,聞き逃したことがわかるのは,生徒が声を発したからである。

 子どもに発言させよう,子どもの声を聞き取ろうとする教師たちは,「そこで何が抜け落ちるか」を考えた経験はあるだろうか。

 学力がつくつかないとか,そういうことではない。

 一生懸命子どもの声に耳を傾けることによって,何が抜け落ちてしまうのだろう。

 私は,これが小学校教育にとって,非常に決定的なものであるということを肌で感じることがあった。

 中学校の教師は,否が応でも,小学校から上がってくる子どもの力を思い知らされる。

 そこで,ある時期から痛切に感じるようになったのは,

 「小学校時代に教師から相手にされてこなかった子ども」の存在である。

 授業における,子どもの発言から,子どもの変容の様子はわかる。

 しかし,それは発言した子どもの変容の様子である。

 それ以外は,単なる「雰囲気」でしかとらえることはできない。

 ある授業を参観して,とても優れたノートを書いていた子どもがいたことに気づいた。

 その子どもに教師の目線があてられることはなかった。挙手しないから。

 一生懸命挙手している子どもは,ノートをとっていない。

 教師は,なぜ,書かせないのだろう。

 中学校では,話すことはできるが,書くことができない子どもがいる。

 これは,ノートに書くことは,先生が黒板に書いたことだと誤解しているためである。

 黒板に先生が書いたものをノートに書くことは,書くというより写すという作業である。

 以前も書いたが,先生は黒板に余計なことは書かない方がいい。

 余計なこととは,子どもが自分で書けばよいことである。

 子どもが自分の頭で考えて,自分の耳で聞いたことを書かざるを得なくなる状況をつくれば,書く力がどんどん伸びるはずである。

 実態は実は中学校でもできていないのだが。

 教師が黒板に字を書くと,授業の進行がとてもスローになる。

 黒板に字を書いている間は,教師は生徒を見ることができないことになる。

 私が最も気にしていることは,

 小学校の教師は,発言している子どもに近づきすぎるのである。

 そこだけをじっと見ている。

 それは,教師対子どもの関係を重視するからだ。

 しかし,それを重視すれば,当然,話をしていない子どもは視野から外れることになる。

 中学校の場合は,その子どもの発言から,ほかの子どもが何を感じ,何を言おうとするかに神経を向けなければならない。

 挙手はなくても,「感じた」子どもから発言を引き出す。

 あるいは,ノートに書いた子どもの文章を読み,それを紹介することもある。

 おそらく小学校の教師は,発言している子どもの方を見ない中学校の教師に出会うと,違和感を覚えるだろう。

 私から言わせると,発言している子どもにかじりついている小学校教師の姿は,あり得ない。

 もちろん,本当に教師自身が吸い込まれてしまうような,そんな内容なら別だが。

 いや,仮にそんな発言であったらなおさら,それを耳にしたほかの生徒の反応を「見てみたい」と思うのが自然であろうと思う。

 「近すぎるだろう」とつっこみたくなる場面がある。

 でも,小学生の,教師にすがりつくような発言の仕方を自ら経験すえれば,無理もないことはわかる。

 あんな一途な目でじっと見られる経験は,アイドルとか芸能人でないと,なかなかできないことである。

 教師は,すべての子どもを視野に入れることが大事,私の言いたいことは,それだけである。
 


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
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  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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