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下村新文科大臣に「主張」してほしいこと

 学校を設置するのは地方公共団体なのに,教員の定数の基準を決めるのは国である,

 つとめているのは市区町村の学校なのに,教員を採用し,異動を決め,給料を出すのは都道府県である・・・・

 うまくいっているからいいのだといえるかもしれないが,財源の問題をはじめとして,教育の制度にも大きな問題がある。

 文科大臣の立場で主張してほしいことは,

 子どもの数が減っているのに合わせて,学校の数を減らし,教育を充実させるべきだ,ということである。

 実際,学校の数が減っているだろう,と言われるかもしれない。

 それは,極端なところでは,子どもの数より教員の数が多い2つの学校を1つにするなど,

 だれがどう考えても無駄だし教育が充実しない,と判断されているところが多い。

 学校の統廃合は,地域の反対を生む。

 大切にしていた「母校」がなくなることへの抵抗は大きいはずだ。

 それでも,公教育には,教員や管理職の質の低下という大問題が横たわっている。

 優秀な管理職の数が足りない。

 これは,学校数を減らすことで,対策になる。

 子どもの数が少ない,ということは,教員の数が少ない。

 そこで学校運営上も,大きな支障が出ている。

 特に小規模校では,「仕事ができる人」にあらゆる負担がのしかかっている。

 そして,「仕事ができない人」「指導力に課題がある人」は,何も身につかないまま,年齢だけくっていき,いや,年齢と給料だけが上がっていく。

 もし,社会で大活躍している団塊の世代のエネルギーの源泉は,あの「規模の大きな学校にこそあったのだ」という自覚があり,それが何かの方法で証明できるのなら,一日も早くその意義を広めてほしい。

 学校を数を減らし,1校あたりの教員の数を増やせば,教員1人あたりの校務の負担が減る。

 設備に向ける費用が節約できる。

 全校生徒60人の学校も,600人の学校も,プールや体育館は1つである。

 ある程度の規模があった時代には,教員の研修も校内で充実したものが可能だった。

 今は,それができない。

 規模が小さく,仕事が多いので,研修で出張にでかけることも負担である。

 今,たった2時間の研修のために,1日つぶして出かけるような時代かどうかも考えてほしい。

 あの,規模が大きかったのが当たり前の時代,

 先生たちは,一人一人とかかわっていなかった,と言えるのか?

 私はけっしてそんなことはない,と断言できる。

 今,本当に小規模校で,大規模校と変わらずに子ども一人一人と教員はかかわっているのだろうか。

 そうではない学校は,必ずある。

 子どもの人数を減らしたから,子ども一人一人と向き合える,と考えるのは,大間違いである。

 話はそれるが,一人っ子なのに,親との会話がほとんどない子どものいるのだ。

 要は,教員に,子どもと向き合う気があるのか,ないのか,という話だ。

 学校の数を減らす。

 空いた施設は,生涯学習のためのセンターにする。

 子育ての応援のための施設にする。

 塾など民間の教育機関に開放する。

 学校には,体育館やプールなど,運動できる施設もたくさんある。

 有効利用の方法はいくらでもあるはずだ。
 
 下村大臣には,こういう「主張」をして,地方を動かしてほしい。

 「教育特区」を設定して,統廃合を積極的に進め,結果として「ういた税金」を自治体の判断で「特区」として使っていいなんて政策を,

 市町村合併を参考にして進めてほしい。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より