正確な分析・評価が自分だけに適用できない教師たち
どうしてあの人は,「あんな人間なんだ?」という疑問への答えを,
分析するのが好きな人がいる。
教師たちは,「どうしてあの子は~なんだろう?」という問いから,
「家庭環境が~らしい」という伝聞を中心とした情報をもとに推論を重ね,
「なるほど~だから,ああなんだな」と納得する。
私自身も幾度となく見てきた光景である。
「どうしてもっと幼児期に,充実した教育をほどこしてくれなかったのか?」
「なぜ愛情をもって,子どもに接してくれなかったのか?」
悔やんでも遅いのである。
公立学校というところは,いろんなスタートラインから走り出している子どもを集めて教育を行う場である。
だから,Aは~だからだめ,~だから足手まといだ,なんて論評していても始まらない。
それぞれの子どもに適した指導なり,条件なりを考えていくことが大切である。
しかし,小学校というところは,
とにかく「一律同じ」であるところに価値を見いだそうとしているように見える。
学校の指導目標には,「一人一人を大切に」などとうたっておきながら,「一人一人は見ないで,全体を基準に指導」している教師が多い。
「同じ評価規準に基づいて,同じように評価する」ことが至上命題のようになってしまっていて,
「評価は何のためにあるのか」を忘れてしまっている。
評価は,指導をより充実させるため,確かな力をすべての子どもに身につけさせるためにある。
それを忘れている。
私は,パフォーマンス評価というものに強い嫌悪感を抱いている。
低い程度のパフォーマンスしか発揮できない子どもには,しっかりとした指導を行って,全員合格,と言えるレベルに到達させるために,評価を行うのである。
それなのに,教師は指導しないで,できない状態をできないままで放置し,そして「できなかった」という評価を下している。
これは,職務の怠慢に等しい。
そう。
大げさに言えば,職務専念義務違反である。
評価に熱心で,指導をしない。
これが,指導力に課題のある教師たちの典型的な姿である。
いい見本がいる。
自分のことをしっかり書いているが,それが自分のことであることに気づけない。
自分のパフォーマンス評価をすべきである。
本当に,適切な指導をしているのか。
まずそこから,授業の改善はスタートすべきである。
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