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2012年12月

教育観はごまかせない

 教師が自分や「辞書」だけの概念の中に閉じこもり,子どもや他者からの批判に

 「辞書的には私は正しい」

 なんていってみたところで,

 それは教師の自己保身にしか見られない。

 「ひいき」を「気に入ったものをかわいがること」とわざわざ定義を示したうえで,

 「ハンディのある子ども」や「可哀想な子ども」に目をかけることは,「ひいき」ではない,

 と宣言してくれている人がいる。

 たったこれだけの言葉の中に,いくらでも突っ込みどころがある。

 まず,「可哀想な子ども」とは,どのような子どものことを想定しているのか?

 「目をかける」とは,あまりに「上から目線」の言葉ではないか?

 本人は気づいていないだろうが,

 「目をかける」を辞書で引いてみてもらいたい。

 何と書いてあるか?


>目をかけることは,「ひいき」ではない

 ・・・・・これが,当人の「国語力」の表れであるとともに,教育観のあらわれなのである。

 最も気に入らないのは,

 「ハンディのある子ども」や「可哀想な子ども」は,
 
 「気に入った子ども」には決して該当しない,という「宣言」である。


 特別な支援ということと,「目をかける」ことは全く次元の異なることである。


>実際の場面でも,ハンディのある子どもを特に援助してやることは,クラスを明るくします。

 明るいクラスは,教師が「仕事として」援助なんかをする前に,

 子どもが自発的に援助しているのだ。

 教師が「特に」援助するようなクラスは,危ない。

 「建前」が支配している閉鎖集団である。


>気に入った子を可愛がると思われる行為は、クラスの雰囲気を悪くします。

 
 小学校教師というのは,自分のクラスの子どもはみんな「気に入った子」だろう。

 自分の言うことにみんなが従うのなら(実際には,言うことを聞くべき大人は一人しかいない)。

 クラスの雰囲気は悪くならないが,学年の雰囲気は悪くなる。

 それは「ひいき」だからである。

 私は,「国語力」うんぬんは語らない。

 私は社会科の教師で,歴史を教えているから,

 外国人に対して,「国語」という教科名を口にすることすら恥ずかしいと思っている。


 ただ,「言葉はその人間を写す鏡である」と言うことは正しい。


>目をかけることは,「ひいき」ではない
 
 なんていう言葉が,すべてを物語っているわけである。
 
 来年こそは,恥を知る大人になってほしい。

 もう教師ではないから,どうでもいい,というわけではない。


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命を救うために必要な知識

 日本循環器学会が,心肺蘇生に関する重要な分析結果を発表している。

 心臓が止まった人に行う心肺蘇生は,私も毎年,訓練を行っているが,その内容は人工呼吸と心臓マッサージを交互に行うというものである。

 しかし,データによると,心臓マッサージだけを行う方が救命率が高くなるとのことだ。

 「常識」が塗り替えられようとしている。

 呼吸は,外から見て分かりやすい「生きている証拠」だから,

 人工呼吸を行いたくなる気持ちはわかる。

 しかし,心臓が止まってしまっていては,脳に酸素がいかなくなり,脳が死んでしまうわけだ。

 呼吸より,血を流すことを優先すべきではないか,ということを分析結果は語っている。

 こうした情報は,年に1回しか行われない研修の場などではなく,一刻も早く,現場の教員が共有すべきである。

 ただ,教育行政の弱いところがこういった面でも露呈する。

 保健体育科の指導主事の皆さんは,頑張ってください。

 行政に入って,ただの事務屋に成り下がったのでなければ。

 たった一つの知識で,救われるかもしれない命があるのです。


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中学校で表面上,最も好かれる教師

 教職大学院の教授から聞いた話である。

 学力を向上させている有名な教師がいる。

 この教師は,評価の「きじゅん」をあらかじめ生徒に教え,知識を注入し,効率よく試験でいい点がとれる授業をしているそうだ。

 授業が成立しない教師にとって,「あこがれの的」になっているらしい。

 こういう教師は,子どもに「気に入られる」。

 テストの前に,テストの問題を全部教えてくれる先生がいたら,どうだろう。

 勉強が苦手な子どもも,点数がとれるようになり,
 
 「学ぶ意欲」が向上する。

 世間では,こういう「学力向上」策を望んでいる人が多い。

 子どもや親の要求に応えているのだから,教師として満足できているのではないか。

 ・・・・・しかし,この教師が絶対に守っていないものがある。

 これを,一般の人は知らないし,公務員になった時点からさぼっている人が,見向きもしないものがある。

 それが,学習指導要領である。

 学習指導要領は,教科書で扱われる内容を,かなりの程度,規定する。

 実際には,教科書に書かれるようになる内容ほどのことは,示してはいないものもある。

 「どんな能力をつけさせたいか」というのが教育の方針であり,

 「どんなテストに,どれだけ高得点をとらせることができるか」という想定はしていない。

 だから,ペーパーテストでは評価できないような能力もたくさん要求している。

 こういうことに,生徒はもちろんのこと,一般の人は関心がない。

 教師に関心がないのだから,無理もない。

 というより,「生きる力なんて,いいんです。高校に受かれば,それでいいんだ」などと圧力を加えられれば,教師の方も安易な授業に方向転換しやすいのだ。

 かくして,中学校から高校にかけて,塾と同じような教育が行われるようになっている。

 塾と同じように,テストで点がとれるような子どもを育てれば,保護者などから文句を言われることはない。

 だから,安心して,仕事に励むことができる。

 教育の理念は死んでいる。

 だから,もはや公教育には存在価値はないのかもしれない。


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学校は無免許でも勤まる職場

 教師の学習指導というのは,各教科の目標に照らして,生徒の学習状況からある程度の水準に達しているならば,それなりに職務を遂行しているとみなされる。

 法的には,免許がないと教えられない。

 しかし,免許がなくても,きちんと学習指導ができる人がいる,ということだ。

 免許があり,かつ,採用試験に合格した教員でも,きちんとした学習指導ができない人がいるのに。

 考えてみれば当たり前のことである。

 大学で単位をとって,教育実習をこなせば,だれでも教員免許がとれる。

 どんな教育水準の大学でも,免許はとれるのだ。

 教育実習で単位を落とす学生は何%いるのか(いてくれるのか)。

 教員免許更新講習で,免許の更新ができない教員が何%いるのか(いてくれるのか)。

 取得時点で試験がいらない免許制度であることに,おそらく近いうちにメスが入ることだろう。

 一度,実験してみたらおもしろいのではないか。

 教員になるための単位を全くとっていないが,教えるのが上手な人と,

 教員になるための単位をばっちりとっていて,教えるのが下手な人に,

 模擬授業をさせてみて,どっちを採用したいか,と聞いてみたら。

 資格をとっているから信用ができる,なんて,簡単な話ではない。

 裁判員制度がなぜできたか,そのきっかけを考えるだけで,すぐにわかる。

 今回の「無免許」授業の問題は,私立高校に限らない話であろう。

 それは,「免許はあってもなくても関係ないんじゃない」という見方がなされるからだ。

 何しろ,地域の塾の先生が,学校で算数を教える時代になったのだから。

 高校の教育は,どこの話とはいわないが,完全に受験のための塾と同じことをしている。

 これが日本の「人気のある」教育

 「国民からの支持を受ける」教育なのだ。

 こういう教育を,塾の経営者の立場でみてきた下村大臣は,どう変えていってくれるのだろうか。


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下村新文科大臣に「主張」してほしいこと

 学校を設置するのは地方公共団体なのに,教員の定数の基準を決めるのは国である,

 つとめているのは市区町村の学校なのに,教員を採用し,異動を決め,給料を出すのは都道府県である・・・・

 うまくいっているからいいのだといえるかもしれないが,財源の問題をはじめとして,教育の制度にも大きな問題がある。

 文科大臣の立場で主張してほしいことは,

 子どもの数が減っているのに合わせて,学校の数を減らし,教育を充実させるべきだ,ということである。

 実際,学校の数が減っているだろう,と言われるかもしれない。

 それは,極端なところでは,子どもの数より教員の数が多い2つの学校を1つにするなど,

 だれがどう考えても無駄だし教育が充実しない,と判断されているところが多い。

 学校の統廃合は,地域の反対を生む。

 大切にしていた「母校」がなくなることへの抵抗は大きいはずだ。

 それでも,公教育には,教員や管理職の質の低下という大問題が横たわっている。

 優秀な管理職の数が足りない。

 これは,学校数を減らすことで,対策になる。

 子どもの数が少ない,ということは,教員の数が少ない。

 そこで学校運営上も,大きな支障が出ている。

 特に小規模校では,「仕事ができる人」にあらゆる負担がのしかかっている。

 そして,「仕事ができない人」「指導力に課題がある人」は,何も身につかないまま,年齢だけくっていき,いや,年齢と給料だけが上がっていく。

 もし,社会で大活躍している団塊の世代のエネルギーの源泉は,あの「規模の大きな学校にこそあったのだ」という自覚があり,それが何かの方法で証明できるのなら,一日も早くその意義を広めてほしい。

 学校を数を減らし,1校あたりの教員の数を増やせば,教員1人あたりの校務の負担が減る。

 設備に向ける費用が節約できる。

 全校生徒60人の学校も,600人の学校も,プールや体育館は1つである。

 ある程度の規模があった時代には,教員の研修も校内で充実したものが可能だった。

 今は,それができない。

 規模が小さく,仕事が多いので,研修で出張にでかけることも負担である。

 今,たった2時間の研修のために,1日つぶして出かけるような時代かどうかも考えてほしい。

 あの,規模が大きかったのが当たり前の時代,

 先生たちは,一人一人とかかわっていなかった,と言えるのか?

 私はけっしてそんなことはない,と断言できる。

 今,本当に小規模校で,大規模校と変わらずに子ども一人一人と教員はかかわっているのだろうか。

 そうではない学校は,必ずある。

 子どもの人数を減らしたから,子ども一人一人と向き合える,と考えるのは,大間違いである。

 話はそれるが,一人っ子なのに,親との会話がほとんどない子どものいるのだ。

 要は,教員に,子どもと向き合う気があるのか,ないのか,という話だ。

 学校の数を減らす。

 空いた施設は,生涯学習のためのセンターにする。

 子育ての応援のための施設にする。

 塾など民間の教育機関に開放する。

 学校には,体育館やプールなど,運動できる施設もたくさんある。

 有効利用の方法はいくらでもあるはずだ。
 
 下村大臣には,こういう「主張」をして,地方を動かしてほしい。

 「教育特区」を設定して,統廃合を積極的に進め,結果として「ういた税金」を自治体の判断で「特区」として使っていいなんて政策を,

 市町村合併を参考にして進めてほしい。


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「下」とか「上」にこだわる人間をだまらせる方法

 子どもを管理職=「上」に対して,「下」とみる教育観の人間をだまらせるにはどうしたらいいか。

 それは,「上」が「下」といっしょになればいいのである。

 以前に述べたように,校長になることを目指して教員になる人は,あまり多くない。

 子どもに教えるのが好きだから,という純粋な理由で教員になる人よりは少ないはずだ。

 学校現場に入ると,

 「上」=管理職は,さらに「上」=教育長(教育委員会),さらにその上=「文科省」の方ばかり見ており,

 「下」=自分たち教員

 を見ていない,という印象をもつ教員が多いと思う。

 「縦」関係に目がいく人というのは,

 「横」=組合の論理だけで動く人と違って,一応,公務員らしいといえばいえなくもないが,

 「上」とか「下」という「印象」をつくりあげているのは,自分の「心」であるという自覚をもつべきである。

 「上」=管理職が,「下」=自分たち教員のことを理解していない,

 という印象をもつとき,

 その教員は,子どもの利益のことをきちんと考えているだろうか。

 「上」=管理職は,教員のためにはたらいているのではなく,教員と同じように,子どものため=社会のためにはたらいているのである。

 みんな,「下」=子どものためにはたらいているのである。

 そう考えれば,「上」とか「下」とかいうものの見方自体が誤っていることに気づけるはずである。

 ここからどうしたら抜け出せるのか?

 自分が当事者になることである。

 子どもにきちんと正対することである。

 「わたくし」を捨てろ!と言っている人間自体が,「わたくし」を捨ててみればいい。

 「上」とか「下」とかいうものの無意味さ加減がわかってくる。

 ・・・・はずだが,おそらく,こういう人間の感覚は一生治らない。

 わざわざ記事を読んでくれて,その上,コメントまで寄せてくれた人に,完全に上から目線の失礼な態度をとる・・・・これも,その人間の「個性」である。

 そして,そういう人間の「生き恥をさらす行為」は,ネット上では自由である。


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せまい意味の国語力(読解力)だけでは社会を生きていけない

 学生時代,国語が苦手で,非常に点数が低いのに,いえいえ,それどころか,学校もやめてしまったのに,世界的な発明をした人は,その国の「国力」の発展を支えることになった人と言える。

 国語という教科が嫌いで嫌いでしかたがなかった人が,世界的な小説家になる。

 ある人に言わせれば,こういう人は「頭が悪い」人間で,国力の低下を招く,「元凶」なのだそうだ。

 学校の成績が悪くても,社会を引っ張っている人は,いくらでもいる。

 逆に,学校の成績がある程度よくて,教員にはなったが,「頭のよい人」がつくれないでいる人はいくらでもいる。

 なぜ,国語という教科で「読解力に欠ける」と評価された人が,企業の人事部で優秀な人を採用し,社員の配置を見事にこなすようになれてしまうのか。

 それは,人間の社会には,言葉によるコミュニケーション以外に,非常に多くの「情報」のやりとり・・・・たとえば,表情の意味を探るとか,その人の性格を熟知しているとか・・・・・がなければ,うまく機能していかない側面があるからである。

 国語の問題は,きちんとした「正解」が導き出せるような「根拠」になることが,問題文の中にきちんと示されている。

 だから,「筆者はこういうことも考えているはずだ」と予想して,答えると,誤答になってしまう。

 笑い話で,文章の作者が示されている問題で,その問題文の中ではなくて,ほかの著書に書いてあった論の趣旨を答えてしまったら,×になったが,その作者が自分で採点したら,×にされたものが正解だ,ということがある。

 こういう「読解力」の育成は,裁判官のような職業の人間を育てたいなら,大事かもしれない。

 でも,社会でうまく生きていけない人間をつくるおそれがある,という自覚はもっておくべきである。

 誤解をされる文章を書いておきながら,「誤解した相手が悪い。国語力が劣っているからだ」なんて開き直るような人間は,社会ででしゃばれば,トラブルの種をあちこちにまいていく。

 文章が書かれた「背景」が理解できない人間は,リアルな会話でも,微妙な「ニュアンス」が読み取れないと,交渉事ならきっと失敗する。

 国語教育が重視しているのは,「読む」力だけではない。

 こういう基本的な理解がない元教員が教育論・教育問題で政治を皮肉っている。

 他人に対する文句は矢のごときはやさで文章にするが,大事なことは書かないで逃げる。

 自由と言えば自由だが,本当に公教育の信頼性を踏みにじる行為(ありのままを示す行為)である。


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「私はひいきはしない」と断る教師の情けなさ

 子どもが教師に対して,

 「あの先生は~に対してひいきをしている」

 と感じるのは,その子どもの個性であり,教師はそれをコントロールすることはできない。

 吹奏楽の顧問だけをやっていればすむような人間でも,

 隣の合唱部が「少し私たちの面倒も見てください」と頼まれて,

 言うことを聞くようものなら,吹奏楽部からは「何で違う部活を見るのか」と苦情を言われ,

 聞かなければ,「ケチ」と悪態をつかれる。

 勉強が苦手な子につきっきりで指導すれば,それはもっと上を目指して勉強したい子からみれば,ひいきである。

 これはあくまでもたとえである。

 人間は,立場の異なるすべての人間の希望をかなえることはできない。

 でも,強い要求がある場合がある。

 結局,「私はひいきしない」と厳密に言える人間は,

 何もしない人間

 何もできない人間 

 ということである。

 政治家ではない人間が,「自分がもし政治家になったら・・・」などと言って,信用されるか?

 一応,票を獲得し,信託を受けたかたちの人間が行うのが政治である。

 実際に,部活動がない学校では,何もしないですむのが小学校の教師である。

 部活動がない中学校はまずあり得ないだろう。

 自分が負っている責任がない人間は,そもそも人をひいきできるような立場にも立てない。

 責任を負う人間というのは,いろいろな意味で板挟みにあう。

 政治家の批判をするのは簡単である。

 政治家には,あらゆる批判から逃れられない宿命がある。

 教師は,「ひいきをしている」と批判されることをおそれてはいけない。

 すべての人の面倒を同時に見ることはできないのである。

 荒れている学校の教師たちの中に,問題行動を起こす子どもばかりかわいがる人間がいる。

 私から見れば,完全な「ひいき」である。

 こういう学校は,いつまでたってもよくならない。

 何もできない立場の人間の口を封じることは,許されない。

 しかし,何もできない立場の人間があれこれ書いていることを不快に思う人は少なくないだろう。

 教育ブログには,

 「対比」という思考にもとづく表現の意味がわからない人間がいるようである。

そこに「書かれていないこと」を類推することができない人間である。

 こういう人間は,「正解」がある国語の読解の問題は解けても,社会でのコミュニケーションはとれない。

 その証拠をわざわざ自分で開示してくれている。

 しかもその主役は自分である。

自分が嘘をついていることに気づけない人間は,自分を「嘘つきではない」というのは当然だろう。

 こういう人間が「ひいきをしない」などと口に出して教育にたずさわってきたとすると,ある意味,不気味である。


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恫喝が大好きな教育ブロガーの本性

 久しぶりに,○○節がさく裂していますね。

 ネタが政治もので,本来,教育ブログとは何の関係もないはずが,

 大臣のイスをほしがる人間と,校長の方ばかり見ている人間を同列に書いたことから,あまりの見識の低さにがまんできなくなった人からコメントが寄せられました。

 明らかに持論と反対の意見をぶつけられて,キレた「有名」ブロガーは,

 コメントしてきた相手に「国語力がない」という言葉をつきつけ,

 新たな記事を書きおこし,

 その話を「国力の低下」にまで結びつけている。


 どのような論理構造かというと,

*******************

 国語力(読解力,作文力)の低い人が増加

      ↓

 頭の悪い人間(すなわちバカ)が増加

      ↓

 国内のバカ人口が増加

      ↓

 国力の低下

*******************

 というもの。

 これを妄想と言わずして,何とする?

 国力低下の原因と言われてしまった方はどうなる?

 学校で国語の読解が苦手な子どもたちは,みんな「頭が悪い」「馬鹿」呼ばわりされる?
 


 私も,人の「心情をくむ」能力が欠如した,この元教員のあまりのひどさを活用させてもらい,

 「反面教師」

 の役割を果たすように,このブログで取り上げている。

 しかし今回は,また,あまりにひどい反応である。

 人を見下し,馬鹿にすることにこれほど熱意を傾けられる人がいるだろうか。

 ブログのタイトルが,すべての誤解のもとであるとも言える。

 真面目なところがないでもない。

 ちょっといじると,少しましになったりするからおもしろいブロガーでもある。

 今回は,安倍内閣が発足したから,その評価をしなければならない。

 「質問に応えないのはお前だろ」と批判されないために。

 そこで,さらなる本性が暴露されるかどうかは,記事次第である。


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下村博文・文科大臣に即刻,実現してもらいたいこと

 それは,このブログではたびたびふれている,

 労多くして益なしの「観点別学習状況の評価」である。

 これが,教師の指導力の低下と子どもの学力低下を招いている元凶の一つである。

 高校の教師にとってはバカバカしくて,やっていられない「制度」の代表がこれ。

 でも,やらなければならないから,「適正にやっていることにしている」のがこれ。

 未履修問題との違いは,「やってない」わけではないこと。

 しかし,その趣旨通りに「やっている」かどうかはわからない。

 いろいろな問題があるが,中学校や小学校の教師は,これにまじめに取り組もうとしている。

 そして,テストが100点なのに,成績が5じゃなくて4なのはなぜか?という保護者の苦情に,真面目に対応している。

 だれも,テストの質を問おうとはしない。

 授業の質を問おうとはしない。

 その評価の根拠を問おうとはしない。

 なぜか。

 それは現場の教師なら知っている。

 観点別学習状況の評価をするためには,

 その評価を実施する意味があるような指導が実現されていなければならない。

 たとえば,子どもが「知識・技能を活用して,思考し,判断し,表現する」場面がなければならない。

 そんな授業が全く行われていないのに,評価が行われている。

 思考力・判断力・表現力を問う場面がないのに,どうして妥当な評価ができるというのか。

 日本には,暗黙の了解で,「ちゃんとやっていることにしていること」が多すぎる。

 即刻なくすべきである。

 では,どうするか。

 教師がどういう指導をしたかをきちんと管理する必要があるのだ。

 小学校では,「週案」のチェックを管理職が行っている。

 中学校では,どうか。そもそも,中学校や高校には,「週案」式の記録はなじまない。

 こういう問題もある。

 学校における授業の改善策など,作文ができる人にさせても,何の意味もない。

 一人一人の教員の指導力の問題である。

 私の学校には,全教科ではないが,「モニタリング」の仕組みがある。

 教師の指導力が,そのまま記録に残る仕組みの確立を急がなければならない。

 そういうことがすんでから,

 観点別学習状況の評価を,

 指導の過程で行うのなら,わかる。

 今はそれを,総括の評価にも使っている。

 練習も本番もない,「評価」がんじがらめの学習指導に,子どもはNOをつきつけている。

 こういう現場の問題を,塾の経営者だった下村大臣は,痛いほどよくわかっておられると思う。

 英断が下されることを期待したい。

 事務方にだまされないでほしい。

 丸め込まれないでほしい。


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警察官と教員を比べてわかること

 年末になると,必ず警察に密着して事件や逮捕の現場などを集めた番組が放映されますね。

 それを見て,気づいたことがあります。

 一言でいえば,警察官というのは,「教育」が行き届いている,ということです。

 これが,決定的に,教員と違うところです。

 朝会で,毎朝,上司に向かって起立で礼をする学校はあるでしょうか。

 椅子に座ったまま,朝の言葉を聞き流している教師はいないでしょうか。

 番組では,酒に酔った教員が口論となり,警察を呼ばれるという場面がありました。

 暴力がふるわれることはなく,警官になだめられて,帰っていくだけの場面でしたが,こういう騒動を外で起こしてる教員が,子どもに何が語れるのでしょう。

 もちろん,警官の犯罪も,ときどき報じられます。

 人間に100%はありません。

 しかし,こういった犯罪を防止する方法が,あるはずです。
 
 一番決め手になるのは,毎朝,朝会で処分を受けた教員の顔写真を公開することです。

 処分理由は,どうせすぐに忘れてしまうようなものですが,教員は,一度見た「顔」は,なかなか忘れないというのが職業上,身に付く「特技」です。いろいろな意味で,効果は絶大です。

 処分者が多い日は時間がとられる可能性もありますが,犯罪の抑止力としては大きな効果が期待できます。

 学校によっては,その行為自体が処分理由になるようなことが,朝会で行われます。

 警察官と教員の交流の必要性を感じた1日でした。

 もちろん,薬物乱用防止教室とか,ネット犯罪防止教室のようなイベント以外の目的での交流です。


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自己満足に浸る部活顧問たち

 自己満足に満ちた文章を,部活動の顧問をしている人間が書くことがある。

 それは,小学校の教師が書く文章と似ている。

 ここは,中学校の部活動の顧問の話である。

 生徒の一部だけが参加する部活動に熱が入るのは当然である。

 強制ではなく,自分の意思で加入している。

 すでにある程度の技能を身につけている。

 学習指導などとは比べものにならないくらい,簡単な仕事が部活の指導である。

 しかし,学習指導とは比べものにならないくらい,負担感を覚える教師がいるのも,部活の特色である。

 自分が得意なこと,好きなことを教えられるのは,教える側にとっては「快感」である。

 その自己満足をわざわざブログ上で発表している恥知らずがいる。

 「教える側」の気持ちばかりを大切にしているのが見え見えの文章である。

 子どもが好きなわけではないことがよくわかる。

 吐き気を覚えるようなこういう文章が,教育の世界にはけっこうあふれている。

 「キラキラした子どもの目」とか,「○○の教科が好きな子どもが増えた」なんて

 喜んでいる教師は,目の前の子どもが死ぬのを待つ,禿鷹の姿を教材にして,何が語れるのだろう。

 自己満足に浸ることが,いかに「浮いている存在」なのかは,

 自分が地獄を体験しなければ気づけないことなのだろうか。

 また話がそれたが,

 部活動の指導で,地獄の苦しみを味わっている教員がいる。

 そういう教員を救うのは何か。

 これは,その学校の「教育観」である。

 社会の大人がもっている「教育観」は,基本的に自分たちが受けてきたものを根っことしてできている。

 その「教育観」は,残念ながら,子どもが減り,人口が減っていく日本の教育には通用しないところがある。

 学校は,何のために「部活動」があるのか,という「教育観」を語れないといけない。

 部活動は,それを指導する教師を満足させるためのものではない。

 子どもが将来を生きるのに大切なものを獲得するためのものである。

 礼儀だの,整理整頓などは,日常的に身につけさせなければならない。

 部活動のときだけしっかり挨拶をする,なんて中学生くらいならかわいいものだが,

 部活動のような超閉鎖的空間だけで行動できる子どもをつくっても,それは一部の企業の要求を満たすだけのことである。

 教育を語る人の,その姿勢が問われる時代になった。

 懐古主義のぼけ老人の独り言に付き合ってはいられない。

 ・・・・なんという私も,「老人」とも呼べる先輩に,今日は多くのお話を聞くことができた。

 中学校三年生の一部を対象に,貴重なお話をしてくれる先輩である。

 80代の先輩の人生の重みを40代の私が感じ,10代の子どもが感じる。

 学校は,多様な世代の交流の場となることで,子どもたちの将来を豊かにする可能性を高める。

 年だけとっても,何の「重み」も感じられない文章しか書けないようにはなりたくないものである。


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教育ブログの村から大臣誕生!?

 下村新文科大臣は,塾の経営者の立場から,日本の教育のことを考えてこられた方。

 このブログ村の住民でもあった方ですね。(記憶違いでしたらすみません)

 そして,「既得権を守ろうとする文科省」とか,「都道府県の硬直した教育行政」に批判的な方ですから,

 どんどん「教育の自由化」を進めてくれることを期待したいと思います。

 さすがに文科大臣の立場であのブログを続けることは難しいでしょうし,
 
 今までの立場や主張から,激しい抵抗をする人たちが多いことも予想されますが,

 ぜひぜひ「失言」にはお気をつけて,改革を実行していってほしいと思います。

 ブログ村には「塾の経営者」には特に厳しい方がいるので,ここの盛り上がりも期待したいです。

 こういう「外野席」にも目が向くくらい暇になるには,ずっと先のことかもしれませんが・・・。
 
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教育公務員の「転籍」先は?

 ある大手スーパーは,正社員を減らし,パートに命運をかけるとのことである。

 家内の友人は,仕入れから何から,正社員がするような責任ある仕事を次々に任されて,

 「それはないんじゃないか」という感想を抱いているらしい。

 しかし,能力のある人を企業は見逃さない。

 能力があり,賃金が安ければ,願ったりかなったりである。

 正社員の「転籍」先は,コンビニ店だそうだ。

 コンビニ経営でノウハウを生かさせるという。

 これを教育現場にあてはめて,「授業」というものに重点をおけば,

 「講師」に命運をかけ,

 「正社員」は公営の小規模な「塾」のオーナーに転籍,ということか。

 最近の「講師」の中には,退職した大ベテランもいるから,

 あながち「夢物語」でもない。

競争が激しく流動的な社会が嫌な人間が,公務員を志向し,教員になる。

 こういう人は,民間企業の厳しい現実を知らないから,

 「ああ,公務員でよかった」と思うことだろう。

 競争がなく,安定だと思い込んでいる公務員には,

 給料や退職金の減額という現実がつきつけられるようになった。

 自分の「損」には非常に敏感だが,

 子どもたちの「損」には全く無頓着な教師たち。

 新規採用で授業が成立しないところ,人間がいなくなってしまったところに,

 実際に働きに出ている「満額の退職金を受け取ったお金持ち」の退職者もいる。

 それほどまでに「授業」「生活指導」は難しいものなのか。

 「子どもがいうことを聞かない」「親がクレームばかりよこす」

 などは単なる言い訳である。

 たしかに,すべての子どもとすべての親に見放されたら,公務員と名乗って現場に立つ資格はないだろうが。

 「塾」という手ごろな「転籍先」が見つかれば,退職者は激増するだろうか。

 しかし,「塾」は競争原理が働いている場所である。

 やはり学校しか居場所はないらしい。


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政治家への批判ができて教育への批判ができない深海魚

 ここは,教育ブログの場所である。

 ただ,教育に対して本当の意味での関心がない人間が紛れこんでいて,日本の教育への希望を打ち砕くような態度をとっている。

 教師の責任放棄は,政治家のそれよりも「軽い」ものだろうか。

 比較の対象にはならないが,「当事者」としての姿勢が感じられない言葉には,何の意味も感じられない。

 ブログタイトルで「勘違い」をしてしまって,ある記事にコメントしてしまった方が,相変わらずのコミュニケーション不全を経験させられることになった。

 そのブロガーは,教師ではない(ことがプロフィールに書いてある)。
 
 教育現場の問題に正対しようとはしていない。

 個人的なうらみつらみはときどき顔をのぞかせているが,どう改善すべきかという具体的な話はない。

 教育問題を取り上げようとしても,かなり「深くて暗いところ」に沈んでいて,何も見えていないことがうかがわれる記事が多い。

 たとえば,教師は上ばかり見て,仕事をしなければだめだ,子どもを見ろ,と書いている。

 では,上ばかり見ていれば,上にあがれるのか。

 それは無理なのである。

 深海にいては,海底以外は上しかない。

 ものを「俯瞰する」ことはできない。

 優れた管理職のもとで子どもを指導できた教師は,優れた管理職になる資質も体得していく。

 (優れた教師に指導された人は,自分が優れた教師になる資質を体得していく。)

 もちろん,全国の報道を見れば,たよりにならない校長が登場してくる。教育長が出てくる。

 隠蔽体質は,社会主義国だけの問題ではない。

 資本主義国でも官僚主導によって,同じ結果を生む。

 信用できない教育長は,元校長だったりする。

 しかし,今,何もできない教師が校長をしてつとまるほど,学校は「終わってしまって」はいない。

 教務主任をしたことがなくて,いきなり副校長や教頭になるのはつらいだろう。

 生活指導主任をしたことがなくて,校長をつとめると,苦労がたえないだろう。

 学年主任をしたことがなくて,教師たちとうまく協働していくことは難しいだろう。

 地域によっては,こうした「主任」の仕事の質が劣っているところがある。

 特に小規模校では,必要な実力が備わっていない教師ばかりだと,悲惨なことになる。

 人事部では学校運営に支障がないように教師を配置するが,限界に来ているという。

 (東京都では,管理職のなり手がいなくなっていく。)

 教育の質を上げるには,学校の数を減らすのが一番である。

 管理職のなり手(希望者数・能力がある人の数,の両方の意味で)がいないから,という理由もある。

 統廃合で空いた学校は,後期高齢者のための健康施設にすればよい。医療費の負担を減らすためにも,そういう政策をすぐにでも実施した方がよい。

 話がそれた。

 政治家が信用できない,という話は,

 教師が信用できない,という話と比べると,あまりにも「遠い世界」の話である。

 あしもとからきちんと見て,正しく判断していく,そういう生き方をすることが,大切なのである。

 教師の多くが,「遠い世界」の批判ばかりして,

 「その場」の問題を放置していることには,子どもの方もあきれている。

 
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子どもの目が「能力主義」「成果主義」になっている

 子どもの考えや行動が,時代を先どりしている場合がある。

 子どもや保護者の教師を見る目が厳しくなった。

 教育委員会や社会が「成果主義」「能力主義」などを取り入れようとしているより前から,子どもの目は「年功序列」とは縁のないものになりつつあった。

 子どもたちは,実によく,教師それぞれの能力や態度に見合った行動や反応をする。

 教師たちは「観点別学習状況の評価」を適正に行っていることにしているが,

 そんな評価ができる指導をしていないことを,子どもの方が見抜いている。

 教師が行っている授業の「成果」を一番よくわかっているのは,子どもである。

 教師ではない。

 教師は自分の能力をしっかりと把握しているのだろうか。

 おそらく把握できていないだろう。

 しかし,子どもは把握できている。

 子どもは,実質的に,教師の能力や成果を評価する機会を奪われている。

 一部,「空気を読まない・読めない」子どもが,本心を明かすようになってきた。

 「空気を読めない」子どもにとって,最も重要なのは,自分の考えである。

 これを耳にして初めて,教師は子どものことが「わかった」と言える。

 教師に遠慮することが礼儀であり,傷つけてはならないものだと信じている子どもから,教師は何を学べるというのだろう。

 アンケートをする場合は,本音を書きそうな子どもだけで十分である。

 校長などより,もっと厳しい目をもっているのは子どもである。
 
 子どもは「能力主義」「成果主義」の評価の目をもっているが,それを生かす場は,自分が教師になって立つ教育現場だけである。


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受け身の人間ばかりをつくる教師が語る決まり事

 書いているものを読めば読むほど,その人がどういうタイプの人かがよくわかる。

 実際の指導を具体的に書いてしまっている愚かな人は,関係者はその内容を知っているから,「いいことしか書いていない」ことがばれてしまう。

 「書けないこと」が山ほどあるのが教育現場である。

 そして,「書けないこと」が山ほど起こるのも,教育現場である。

 書く量が減っている,書く頻度が減っている,これは

 「書けないことが頻発している事態が起こっている」などという勘繰りを招きかねない。

 また,「いいことをしたつもり」で,自分の指導を具体的に書いてしまっている愚かな人もいる。

 裸の王様が最後に味わう屈辱は,私には想像できない。

 自業自得と笑えるゆとりはない。

 さて,教師の中には,「受け身の人間」ばかりをつくるのが好きな人がいる。

 それなのに,「指示待ち人間が増えている」と嘆いている。

 自分がまいた種であることに気づけない。

 こういう「勘違い」に敏感であるためには,常に冷静に状況を観察することが大切である。

 子どもを感動させるのが大好きな人がいる。

 子どもに感動を与えることが好きだと,口先だけで言うのは簡単である。

 たとえば全国大会で最優秀賞をとり,感動を味わうことができるためには,何が必要か。

 映画や音楽を聴いて感動するのは,家でもできる。

 金を払えば,それを仕事にしている人から「与えらえる」。

 教育はそれではダメなのである。

 感動が大切だなどと公言するタイプの教師は,実は自分がそのことに酔うたことが目的だったりする。

 そういう「本心」が見透かされてしまっている教師は,子どもの近くにいない方が,子どもは本当の感動を手にできる。

 受け身の人間ばかりをつくる「原動力」は,

 教師による子どもに対する「評価」である。

 逆を行うだけで,教育のあり方は一変する。

 ただ,それに耐え得る教師があまりにも少ない。

 教師が教育を語れない理由がそこにある。


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「つまらない授業」という名の貧困な学習姿勢

 教師が子どもから「つまらない授業」と評価されると,やはりつらいことだろう。

 ただ,子どもがなぜ「つまらない」と感じたのか,まで,しっかり聞き取りをしなければならない。

 多くの教師は,「なぜその言葉が発せられたのか」を考えることをあまりせずに,

 「言われた言葉」だけを相手に,怒ったり悲しんだりする。

 それを,「忙しさ」のせいにして,逃げる教師も多い。

 しかし,大切なのは,「なぜ子どもがその言葉を発したのか」を知ろうとする態度である。
 
 その態度なり姿勢なりが子どもに伝われば,子どもは教師に気をきかせて,教師が本来は気にする必要のない言葉だったことを教えてくれる場合もある。

 たとえば,いつも教師の話に対して,教師には聞こえないが隣にいる自分にだけは聞こえるようにおもしろい「つぶやき」をしていた生徒が,今日に限ってしなかった場合。

 「隣の生徒のいつものつぶやきが聞けなくて」つまらない授業だった,ということだ。

 あるいは,いつも,大したことないことを考えていたので,挙手して当てられなくても気にはしてこなかったが,今日だけは,自分なりの満足のいく思考ができて,発表したかった,が,指名されなかった,だから,つまらない・・・・なんて場合もある。

 この場合は,その子の気持ちがくみとれなかった教師にも責任があり,「気にする」必要があるのだが。

 さて,子どもの立場からみて,「本当につまらない授業」というのは,数限りなくあるだろう。

 しかし,これを大人(教師)が授業を受けていたという状況で考えると,大人(教師)が「つまらない授業」と評価することは,残念ながら学ぶことへの貧しい態度の表れとしかみることができない。

 一般人ならしかたがないが,教師は,教える立場である。

 教える立場の人間であるにもかかわらず,「つまらない」と思ってしまうような態度をとる以上,おそらくそれは「受け身」でその場にいるにすぎないのである。

 こういう教師に,「受け身」で授業に臨んでいる子どもを責める権利はない。

 今日は,発言が乏しい,などと嘆いている場合ではない。

 自分も同じなのである。

 「本当におもしろい授業」は,場合によっては,その場にいることが耐えられなくなるものかもしれない。

 今日は,「飛ぶ教室」を読んだことがない人たちに出会って驚いた。

 学ぶとは何かを教えてくれる本のひとつである。


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生徒をその気にさせるかどうか

 子どもは元来わがままなものである。

 困った教員のわがままさ加減と比べれば,「屁」みたいなものである。

 子どもの「やる気」を伸ばせない教員がいる。

 子どもから「やる気」を奪う教員がいる。

 そういう子どもを学校で救えるのは,教員であり,子どもである。

 かくして,「この学校には必要ない(いたら迷惑となる)教師」のリストアップが完成する。

 教員は,大人だから,

 ちゃんと気づいている。

 しかし,大人だから,

 見て見ぬふりをする。

 こういうとき,本当の力を発揮できるのは,子どもである。

 生徒をその気にさせることができる教師かどうかは,

 授業を参観するだけでわかってしまう。

 こんなことを言う教師がいる。

 「おまえたちのやる気のなさはなんなんだ!」

 前の授業で,元気に意見をぶつけ合っていた生徒を見ていた教員は思う。

 「おまえの子どもをひきつける能力のなさはなんなんだ!」

 子どもをその気にさせる力。

 かつては,教師としての資格の第一には数えられなかった要素かもしれない。

 営業の仕事,接客など絶対に向かないような教員が,教壇に立っていた。

 相手が何を思い,何を考えているかにいっさい関心のない人間でも,教壇に立てた。

 しかも,「人望」がある人もいた。

 子どもを褒めたりおだてたりすることが全くないのに。

 行動パターンは同じでも,全く「人望」のない教員もいた。

 どこに違いがあるのか。

 子どもがその気になるかどうか,の違いである。

 何がそうさせるのかわからないから,ペーパーテストではわからない。

 言語化できないから,本や論文なんか読んでもわからない。
 
 結果からしか判断できない。

 ~しておけば,~することはない・・・なんて予想に意味はない。

 ~してもしなくても,~してしまう可能性はいくらでもある。

 でも,~させない教師がおり,~させてしまう教師がいる。

 もっと教師の行動をつぶさに分析しなければ,教育の研究にはならない。

 おそらく,何もわからないだろうが。

 大学の教員くらい暇でないと,こういうことを考えることはできないのだろう。

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あなたに子を持つ親の気持ちがわかりますか?

 結婚していない教員,子どもがいない教員が,つきつけられる言葉がある。

 「親でもないあなたに親の気持ちがわかってたまるか」

 これを言わせる教員の行き届かなさに,歯がゆい思いがする。

 Lose-Loseの関係である。

 人間の教育と動物の子育てを同じレベルでとらえようとする発想が,

 子どもがいない人間の証拠である。

 親がどんなにしっかり育てても,

 教師は学校で子どもをいくらでもダメにすることができる。

 学校で子どもが「満足できない」姿を見せると,

 一部の教員(と信じたいが)は家庭のせいにする。

 自分の子どもを育てている教員が,自分の子どもを見ながら言っているのなら,わかる。

 しかし,現実には「責任逃れ」のための発言であることが多い。

 だから,信頼を失うのである。

 給料の減額や,退職金のカットに向けて,

 教員の組合は全力を傾けてそれを阻止するように努力する。

 そのやる気を本業の方に使ってほしいというのは,国民からの切なる願いである。


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音がはずれたらどうする?

 私は音楽には興味がない。

 そのわりに,下手くそな演奏は許せない。

 楽器は,音をはずしてはいけないものである。

 と,何となく信じている。

 音をはずした時点で,すべてがぶちこわしになる。
 
 「音をはずさないでくれる」ことを望む。

 しかし,音楽の先生は,そんな「過敏」な神経ではつとまらないだろう。

 何しろ楽譜は読めない,真面目にやる気がない,そういう子どもを相手にしなければならない教師は,音がはずれたからどうとか言っている場合ではない。

 まだはずれるのがわかることをしてくれるだけましである。

 ここで何が言いたいのかといえば,次のエピソードである。

 はずれた音に合わせて声を出し,ガチャガチャな合唱を何とかまとまりのあるものに変えてしまう能力をもった音楽の先生に出会ったときは驚いた。

 技術でどうにかなるという問題なのかどうか。

 吹奏楽の楽器には,そういう芸当ができるものはあるのだろうか。

 今,子どもに育てようとしている学力は,

 予想どおりの質問に,あらかじめ決まっているような答えを導く,というものではない。

 はずれた音に合わせて声を出し,全体を調整してしまうような力の育成をめざしている。言うまでもないが,これは「たとえ」である。

 「指導」とは,ある方向に「導く」ことをいう。

 自分で話すだけ話し,あとは放置することを「指導」とはいわない。

 「導かれた」子どもは,自分で何をどうするかがわかっている。

 だから,教師が「~してくれない」と嘆くこともない。

 あの記事はおもしろいタイプの「ミラー現象」がおこっているので興味深い。

 まぎれもない,裸の王様である。

 音ははずれているが,裸の王様には,正しい音として認識されている。

 こういう場合は,「どうしようもない」のである。

 しかし,「どうしようもない」状態であることに気づけない状況は,本当にお気の毒である。

 今,そこで行われている授業はどうですか?


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「教える」ことの意味を理解していない教師とブロガー

 教育改革という大げさな問題の前に,まずは日頃の授業の改革である。

 私は社会科なので,

 社会科のひどい授業の話をよく耳にする。

 自分で教科書を読んで,自分でそれを黒板にまとめている。

 それを生徒はだまってノートに写している。

 ノートに写さないと,減点すると脅しているそうである。

 こんな人間に「月給」を与えてしまっているのが,日本の教育界である。

 ある教師が,

 「月給分だけは教えた。あとは自分でやれ」

 と言ったらしい。

 こういう人間でも教師になれた時代が日本にはあったのである。

 その教師たちが,大量に辞める時期となった。

 免許更新講習を受けずにすんだ教師たちは,多額の退職金をもらって現場から去っていく。

 いまや公務員は,安定性などなく,景気の変動を受けて退職金も勝手に減額されてしまう時代である。

 指導力のない団塊の世代の教師たちの教育の「損失補てん」をしてきた若い世代としては,

 本当にやりきれない話である。

 全く話がそれてしまった。

 冒頭に述べた,新卒の教師なら良心の呵責から絶対にやりようのない,

 どうしようもない授業を,何の気兼ねなくやれてしまう教師が,子どもの学ぶ力を崩壊させている。

 教えることの意味がわかっていないブロガーがいる。

 「試験範囲でないところを出すと,文句を言われる」のは,当然である。

 「試験範囲」が出ているのなら。

 子どもが文句を言う実態があるのは,「試験範囲のところでも学校で教えてもらっていない内容が出た場合」

 である。

 そういう「文句」が来る時点で,「教える」ことの意味が子どもに伝わっていないことがわかってしまう。

 こういう話が思い浮かばないのはなぜかというと,

 「教えたこと」=「そのまま試験に出ること」

 という底知れない貧困な学力観が原因になっている。

 「教える」とは,「試験の問題の答えを教える」という意味ではない。

 こういう話が通じない人がいる。

 「教える」ということの意味以前に,

 「学ぶ」ということの意味がわかっていない。

 学力を定着させられるわけがない。

 釧路市は,こういう教師を学校から「追放」できる制度までつくりあげてほしいものである。

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釧路市の「基礎学力習得推進条例」に反対する人たち

 あるブロガーが,

 「学校の教員は,子どもの学力を保障する必要はない」

 と書いていた。

 おそらく,こういう教員は多いのだろう。

 「子どもが家で勉強しないのが,悪い」

 ことにして,とにかく責任逃れをしたいわけだ。

 しかし,これを教師に面と向かって言われたら,さすがに親も怒るだろう。

 「どうしてこんなやつのために税金を払っているんだ」などと。

 釧路市でおもしろい条例が可決された。

 正式には,

 「釧路市の子どもたちに基礎学力の習得を保障するための教育の推進に関する条例」

 というらしい。

 要は,教員に,ちゃんと仕事しろ,と言いたいわけである。

 ただ,そこはだまっていない人もいた。

 「基礎学力とは何か」と始まったわけだ。

 要は,字が読めて,漢字が書けて,計算ができて,教科書程度の問題が解ける。

 それが親にとっては切実な願いなのである。

 手を抜きたい教師に,わけのわからない「話し合い」などさせられていて,

 「何も身に付かないで,力のない者同士が仲良く暮らす空間をつくっている」

 学級を見せられたら,何か言いたくなるのが普通だろう。

 保護者の願いを,議員が実現してくれたわけである。

 民主主義のルールにのっとってきまりができても,

 少数意見を無視するのか,と怒って,何もしない人がいるのは困りものである。

 問題は,学力向上を教師たちが実現できるかどうかだが,

 結局は,実現するために努力している証拠を見せたら,それで「仕方がないですね」で終わりだろう。

 そんな「証拠」は,いくらでも「捏造」できる。

 「妄想」でもいい。

 だから,「監視員」が必要である。

 本当に,約束通りの仕事をしてくれているのか。

 近い将来,「校長」が本来,なすべきであった仕事を,責任をもってなしとげる新しい「職」が誕生するかもしれない。

 「地域の人たちがつくる学校」が,現実のものになるのはそう遠い未来ではないかもしれない。


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池上彰の挑発と政治家の魂

 ネット上の記事で知ったことですが,

 テレビ東京の選挙特番での,

 池上彰の「政治家斬り」が話題になっているようです。

 その表現がまたさまざまで,興味深いものでした。

 斬りまくり

 やりたい放題

 池上無双

 ・・・・視聴率も健闘していたようです。

 もう一つ,私が注目したのは,

 小泉進次郎だけが,池上節をかわしていたとの評価です。

 麻生元総理も,どこかの特番で

 軽いノリの司会者の言葉に乗らず,

 「政治家は一つの失言ですべてを失う」なんてことを

 言った小泉ジュニアを褒めていたそうで。

 「政治家の魂」と書けば,ハマコーさんを思い出します。

 今なら石原慎太郎か。

 全国で第2位の得票数を誇る小泉進次郎人気は,

 自民党政権の大きな後押しになるでしょう。

 「最年少の総理大臣」になる最有力候補です。

 あと10年,じっくり力をたくわえていく時間を

 自民党本部が与えてくれるかどうか。

 ある番組では,

 小泉進二郎=小泉純一郎-変人

 とコメンテーターが評価していました。

 余談ですが,

 田中眞紀子=田中角栄-思いやり

 との声も。

 さて,いきなり話題が教員の資質にうつりますが,

 教員の魂と言ったら,何か。

 面接官の挑発を,小泉ジュニアのようにかわせる人が,評価を受けるのだと予想します。

 しかし,暴走老人のように,カッとなるような「情熱」が,教師には必要な気もしています。

 教員の魂と,教師の魂を使い分けできる人なら,すぐに採用してもらいたいものです。


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最も安全な地域の最も悲惨な事件

 銃社会アメリカで繰り返される悲劇だが,なかなか「考え方」の変更に導いてくれない。

 小学校で銃を乱射した犯人の母親は,銃の収集家だったそうだ。

 母親は,ボランティアとして,小学校にかかわっていたらしい。

 アメリカ大陸でのアメリカ人たちの「伝統」はまだ300年にも満たないものだが,その「重み」はそう簡単に取り除けないようである。

 子どもを守るために何が必要か。

 鍵をかけるとか,守衛さんを雇うとか,そういうことよりも重要なことは何か。

 最も安全な学校,

 最もいい学級などと呼ばれていても,

 いつ,大きな事故,深刻ないじめが起きるかわからない。

 安心していられる人と,

 安心していてはすまされない人とがいる。

 学校が荒れるのが,

 この区別がわからない人が現場で増えることがきっかけとなる。

 子どもの命が奪われるような場所であってはならないのは当然のことである。

 日本人も「管理」は嫌うものであるが,

 「管理すべき情報」も「管理」できないような人に,「管理は嫌い」などという資格はない。

 日本でも繰り返されるかもしれない,大きな問題である。

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ネット上の実践記録から読み取れる小学校の授業

 小学校の学習というのは,学習指導要領が変わっても,基本的には何十年も変わっていないように感じる。

 そこから,小学校の教師の基本的なスタンスというか,おそらく大学の教職課程でも

 「教化」され続けている大きな原則があるように思える。

 「理想」とされている授業のどこに何が足りないのかを分析してくれている人はいない。

 それをしてしまうと,教職課程をもっていた大学の先生が「間違い」を教えていたことの証明になってしまう。

 こんな授業があってもいい。

 子どもは,30分間,ひたすら自分の力で課題に向かって,人との意見交換などはしないで試行錯誤し,調べ,自分の言葉でまとめ,ノートに表現する。

 残りの15分間で,発表し合う。

 ノートは教師が集め,デジカメで撮影し,すぐに返す。

 プリントアウトしたものをもとに,次の時間にさまざまな生徒のいろいろな考えをもとに授業を展開する。

 子どもがノートに書かれたものの価値の総体は,考えもせずにやりとりされる言葉の投げ合いに終始し,後に何も残らない(高揚感のようなものはしばし,残る)ような授業よりもはるかに大きなものだと考えられる。

 授業参観では,いきなり「話し合い」になるケースもある。

 教えてあげないと,子どもの考えは高まったり深まったりはしない。

 小学校の授業実践記録では,おそろしいほどインフレ状態の「高まり」「深まり」に出会う。

 ほとんどが教師と一部の生徒のやりとりだけで終わっているケースも同じようなものである。

 「高まり」「深まり」と誤解しているのは授業者だけである。

 子どもは時間がたつとすべてを忘れてしまっている。

 一人一人の子どもにどのような力がついているか,判断することができない授業では,参観する意味はない。
 
 人間関係が良いか悪いかは,授業よりも遊びの場面を見ればすぐにわかる。

 子どもの学力を判断することができないように「工夫」していると考えたくもなってしまう。

 どうやって子どもは学力を定着させていけるのか。

 中学校入学時に基礎的な学力が定着している子どもというのは,中学校でも順調に伸びていく。

 中学校の教師としても,「定着」していない子どもたちの「学習歴」にはたいへん興味がある。


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小学校の教師に捨てられてきた子どもたち

 授業のねらいは示されていないが,子どものやりとりを中心にした実践記録を公開している人がいる。

 その書きっぷりから,授業の様子がよくわかる。

 そして,私が実際に接してきた小学校の教師と同じような「傾向」があることも,如実に伝わってくる。

 それは,子どもの声をよく聞いていることである。

 小学校の教師は,子どもの声をよく聞こうとしている。

 そして,わざわざ,「全員が発言できたこと」を喜んでいる。

 こういうセンスは,小学校教師に独特のものである。

 質を重視する中学校では,全員の発言を促すことはしない(そもそも時間が足りない)。

 話し合い活動などは参観すればすぐにわかることだが,無駄に時間を過ごしている子どもがたくさんでてくる。

 話せる機会をつくればそれでよいというものではない。

 おそらく,小学校教師の場合は,教職課程で学んでいるときから,初任者研修,研究会と,ずっと同じようなことを言われ続けているのだということがわかる。

 子どもの声に耳を傾けよう。

 主体的な学びを大切にしよう。

 子どもの学び合いを大事にしよう。

 ・・・・・・・・・・などなど。

 ある地域では,中学校の教師でも同じようなこだわりを見せる。

 教師が生徒一人一人につきっきりになって,そのときのつぶやきを拾ったり,反応をたしかめたりする。

 私も,中学校での教育実習で,実習生に「どうしてここであの生徒のつぶやきを聞き逃したのか」と,教師らしい姿を見せるチャンスを逃したことを伝えることがある。

 しかし,聞き逃したことがわかるのは,生徒が声を発したからである。

 子どもに発言させよう,子どもの声を聞き取ろうとする教師たちは,「そこで何が抜け落ちるか」を考えた経験はあるだろうか。

 学力がつくつかないとか,そういうことではない。

 一生懸命子どもの声に耳を傾けることによって,何が抜け落ちてしまうのだろう。

 私は,これが小学校教育にとって,非常に決定的なものであるということを肌で感じることがあった。

 中学校の教師は,否が応でも,小学校から上がってくる子どもの力を思い知らされる。

 そこで,ある時期から痛切に感じるようになったのは,

 「小学校時代に教師から相手にされてこなかった子ども」の存在である。

 授業における,子どもの発言から,子どもの変容の様子はわかる。

 しかし,それは発言した子どもの変容の様子である。

 それ以外は,単なる「雰囲気」でしかとらえることはできない。

 ある授業を参観して,とても優れたノートを書いていた子どもがいたことに気づいた。

 その子どもに教師の目線があてられることはなかった。挙手しないから。

 一生懸命挙手している子どもは,ノートをとっていない。

 教師は,なぜ,書かせないのだろう。

 中学校では,話すことはできるが,書くことができない子どもがいる。

 これは,ノートに書くことは,先生が黒板に書いたことだと誤解しているためである。

 黒板に先生が書いたものをノートに書くことは,書くというより写すという作業である。

 以前も書いたが,先生は黒板に余計なことは書かない方がいい。

 余計なこととは,子どもが自分で書けばよいことである。

 子どもが自分の頭で考えて,自分の耳で聞いたことを書かざるを得なくなる状況をつくれば,書く力がどんどん伸びるはずである。

 実態は実は中学校でもできていないのだが。

 教師が黒板に字を書くと,授業の進行がとてもスローになる。

 黒板に字を書いている間は,教師は生徒を見ることができないことになる。

 私が最も気にしていることは,

 小学校の教師は,発言している子どもに近づきすぎるのである。

 そこだけをじっと見ている。

 それは,教師対子どもの関係を重視するからだ。

 しかし,それを重視すれば,当然,話をしていない子どもは視野から外れることになる。

 中学校の場合は,その子どもの発言から,ほかの子どもが何を感じ,何を言おうとするかに神経を向けなければならない。

 挙手はなくても,「感じた」子どもから発言を引き出す。

 あるいは,ノートに書いた子どもの文章を読み,それを紹介することもある。

 おそらく小学校の教師は,発言している子どもの方を見ない中学校の教師に出会うと,違和感を覚えるだろう。

 私から言わせると,発言している子どもにかじりついている小学校教師の姿は,あり得ない。

 もちろん,本当に教師自身が吸い込まれてしまうような,そんな内容なら別だが。

 いや,仮にそんな発言であったらなおさら,それを耳にしたほかの生徒の反応を「見てみたい」と思うのが自然であろうと思う。

 「近すぎるだろう」とつっこみたくなる場面がある。

 でも,小学生の,教師にすがりつくような発言の仕方を自ら経験すえれば,無理もないことはわかる。

 あんな一途な目でじっと見られる経験は,アイドルとか芸能人でないと,なかなかできないことである。

 教師は,すべての子どもを視野に入れることが大事,私の言いたいことは,それだけである。
 


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発達障害をかかえる子どもへのやさしさ

 小学校から中学校へ進む子どもの情報伝達で,最も重要なものの一つが,発達障害をかかえる子どもへの指導の経過である。

 しかし,なかなか伝わってこない情報が多い。

 特に小学校側が隠したがるのが,たとえばアスペルガー症候群の子どもを「隔離」することで,「問題の発生を抑制」してきたケース。

 要は,状況を悪化させる方法を学校ぐるみでとっていた場合である。

 ときどき,その問題性に教師たちが気づけないで,そのまま情報が上がってくる場合もある。

 中学校に入ったとたん,問題が発生することになるが,

 中学校では「隔離」はしない。というより,「できない」。

 小学校と違って,中学校では常に生徒たちは「動く」。

 教師たちも,「動く」。

 「動く」範囲も広く,時間も長い。

 情報が隠されていた場合は,該当生徒をめぐる問題が繰り返されることによって,教師も生徒も「気づく」ことになる。

 しかし,それが「いじめ」として深刻になってしまっている場合は,「手遅れ」になることもある。

 発達障害については,教師はより敏感に,決して過敏にはならないように,

 適切に対処する必要がある。

 元教師で,

 「障害」について「やさしくない」記事を書いている人がいる。

 飽きずに繰り返し,繰り返し,書いている。

 「障害」=「悪」という信念を頑なにもっているようである。

 自分のことを書いているように読める部分が非常に多いのだが,基本的には

 他人を攻撃している文章である。

 人格を否定するような発言を,平気で行う。

 医師でもないのに,病気の診断を下す。

 こういう教師は現職のとき,発達障害をかかえる子どもにどうやって接してきたのだろうか。
 
 教師をやっていると,その教師自身が「障害」を抱えていることがすぐにわかる人に出会うことがあるだろう。

 こういう人は,自分と同じような人間に,たいていは厳しいものである。

 その「厳しさ」が,ときに尋常でなくなる。

 そして,保護者や生徒とトラブルを起こす。

 教師たちは,「やっぱりね」と納得してしまう。

 同僚の「障害」にも,教師たちは対処しなければならないのが,学校現場である。

 
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小学生でもわかる「政治と選挙の関係」

 今月の選挙は,小学生の関心も高めている。

 小学生にもわかりやすいことは,

 選挙の都合で,くっついている人がいる。

 選挙の都合で,主張している内容がある。

 選挙の都合で,学校が投票場になる。

 多数決で決まり,少数意見より,多数意見で動くのが,この社会である。

 小学生にわかってほしいことは何か。

 中学生になったら,自分でものごとを考え,自分の力で行動しなければならない。

 そのために,小学校のうちから,先生に思いっきり反抗してほしい。

 小学校の先生たちに,自分たちが実現したいことを,どんどん訴えてほしい。

 下校時間を遅くする権利は,小学生にはないのか。

 中学校の部活動に参加する権利は,小学生にないのか。

 もっと高度な内容を小学校で学習することができないのか。

 ランドセルでないとだめなのか。

 「言いたいことが言える」ようになることが,
 
 将来にとって,非常に大切なことである。

 中学生になったら,「責任」を自覚してもらう場面がたくさん出てくる。

 「権利」ばかりを主張する大人が近くにもたくさんいるだろうが,まずは「責任」を果たせ。

 その「責任」とは何か。

 「自治」とは何か。

 政治とは何かを考える上で,非常に重要なステップの一つである。


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「ゆとり世代」への攻撃とお詫び

 これからしばらく,「ゆとり世代」の新社会人が続く。

 小中学校で,他の世代と比べ,受けた授業の総数が少ないというのは事実である。

 教科の学習時間を減らされただけでなく,「総合的な学習の時間」という学校格差の大きな授業を受けてきた世代の人たちが,今後,何かにつけて「ゆとり世代」と揶揄されるのは,宿命のようなものである。

 「ゆとり」の中で,何を学んできたのか。

 この世代の人たちには,逆に発信してほしいことがある。

 「総合的な学習の時間」で,自分たちに身についた力は何か,ということである。

 「生きる力」を懸命に育成されたはずの世代である。

 では,この世代の人たちにとって,学校時代にはぐくまれてきた「生きる力」とは何なのか。

 選挙では,教育の話題が上がることがまずない。

 目先の問題ばかりである。

 そういった目先の問題を,この教育ブログで展開する人もいる。

 教師の立場から言うと,選挙を前にした「目先の問題」とは,

 若い人が選挙に行かないという問題である。

 「だれが内閣総理大臣をやっても同じ」などと,多くの若い人たちは「本気」で思っている。

 そのことと選挙に行かないことは別だと思われるが,それが「選挙に行かない正当な理由」になっているようである。

 アメリカの場合は,政治や選挙は,クールな話題だそうである。

 日本の場合は,「だれがやっても同じ」と公言するのがクールなスタンスだとみられる。

 悪しき伝統である。

 こういうムードをつくっているのは社会だ,と教師の立場で切り捨てることはできるだろうか。

 社会科教育は何をしていたのだ。

 学校における自治活動とは何だったのか。

 自らに問わないといけない。

 「ゆとりの中で生きる力をはぐくむ」教育を受けた世代は,今,何を思っているのだろうか。

 これがもし本当の「失敗」であったのなら,

 そのことを「ゆとり世代」が本当に自覚しているのなら,

 それを今,あるいは,後世に伝えてほしい。

 私たちは,「お詫び」をしなければならない。

 逆に,自分が受けた教育のおかげで,今の自分がある,という人は,そういう声も届けてほしい。

 私の予想では,「ゆとり世代」というのは,死語になりにくい言葉である。

 「いい理由」よりも,「悪い理由」を人は探したがる。

 その「悪い理由」として最もわかりやすいのが,「ゆとり」だから。

 まだ,「総合的な学習の時間」は各学校で行われている。

 その本当の意味での「検証」はできていない。

 教科書がないから,一般の人にはわかりにくい。

 テストがないから,わかりやすい評価ができない。

 学校によって異なるから,一般論が言いにくい。

 しかし,「やめるべきもの」と多くの人が実感しているのなら,なるべる早く「やらない」という選択肢を与えた方がいい。

 私の予想では,「やらないでよい」ということになれば,「総合的な学習の時間」は一斉になくなると思われる。

 逆に,中学校では,選択教科が復活するようになるだろう。

 平成10年版の学習指導要領の「課題」は,まだぬぐいきれていない。

 この指導要領は,教師の高度な指導力と,地域や社会のバックアップがなければ,理想が実現できないものだった。

 平成20年版の学習指導要領には,「ゆとり脱却」という側面もあるが,「つけたし」スタンスもある。

 落ち着いて考えてみれば,「つけたし」というより,「否定」の意味が隠れていることに気づける。

 「言語活動の充実」というが,そんなことは,「総合的な学習の時間」でめいいっぱいできていたはずである。

 むしろ,「総合的な学習の時間」の成果が,「言語活動が充実し,思考力・判断力・表現力が伸びて・・・」という「よい影響」であるはずだった。

 しかし,学習指導要領の改訂では,いつも「前のではダメだから変える」というのが一般の人の感覚であろう。

 実際にそういう側面があるから。

 とりとめがない文章になってしまったが,勢いのまま,掲載することにする。

 「お詫び」を教育界がすべきかどうかは,「検証」を経てからにしたい。

 「ゆとり世代」の声を待ちたい。


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理科・数学の学力は向上したか? ~TIMSSの結果より~

 国際教育到達度評価学会が発表した2011年の小4と中2対象の国際学力テスト「国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)」結果では,全科目で平均点が上昇または横ばいとなったそうだ。

 参加国中の順位がもし5位以内に入らなかったら,もっと「気合い」が入り,

 「予算獲得」の口実になったのに・・・・と思うと,残念である。

 言うまでもなく,文部科学省が新しい学習指導要領で身につけさせようとしていることのすべてを評価できる調査ではない。
 
 思考力を問うような問題,解く過程を説明するような問題はあるのだろうか?

 単純に「正解できたかどうか」を問う問題は,不思議と,

 社会科では「つまらない問題」扱いされるが,

 数学や理科では,「納得のいくもの」とされる。

 学力がどうということに関心がある人でも,

 小学校4年生の理科は何を学んでいるか,知っている人は少ないだろう。

 ましてや,調査に参加する50前後の国で,どのような理科教育をしているのか,知っている人はまれだろう。

 今,育てようとしている学力は,

 シンガポールの小学校4年生の理科の教科書はどのようなものだろうか?

 読んでみたい。

 と思わせるような力である。

 小学校教師で,ロシアの理科教科書が手元にある,という人は全国で何人いるだろう?

 ・・・・お役所や図書館には,あるのだろうか?

 
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「合言葉」の誤解で学力低下に拍車がかかる

 「言語活動の充実」という「魔法の言葉」が,また学力低下の原因になる恐れが出てきている。

 「言語活動の充実」は,あくまでも学力向上のための手段の一つである。

 「充実」というのがミソで,今まで,一定の学力(基礎的・基本的な知識・技能)を保障してきた学校が,子どもに「何をどう学んだかを,そこから何を考えたかを,自分の言葉でしっかりとふり返らせる」ことで,「より高い質の学力」を伸ばしていこうとするならわかる。

 しかし,今まで教師の指導力に課題があったために,そもそも基礎的・基本的な知識・技能の習得がおろそかになっていた子どもたちにこれを強いるのは無理である。

 多くの授業では,「思考力・判断力・表現力を育成する」のに適した「教材」が用意されていない。

 教科書を開くと,ご丁寧に

 「安土桃山時代の文化とは,どのような特色を持っていたのでしょうか」

 などという課題が示されている。

 そして,その「特色」は,文章で書かれている。

 これをなぞっているだけの授業で,あるいは書いてあることをまとめて発表するような授業で,「思考力・判断力・表現力の育成」が図れるわけがない。

 「どのような特色か」という「基礎的・基本的な知識」を獲得した上で,それを活用する場面が求められる。

 そのための問いが,

 「なぜそのような特色のある文化が,この時代に生まれたのか」

 「そういった文化が,その時代やその後の時代にどのような影響を与えたのか」

 というものである。

 こういう問いに答えさせる活動を通して,初めて,「自分の言葉で語れる」生徒が育つ。

 「学び合い」という名目の指導放棄によって,子どもたちは教科書や資料集に書かれている言葉をそのままもってきて,理解が不十分なまま発表させられている授業をどれだけ経験させられているか。

 今年度から完全実施された学習指導要領で,中学校の社会科はどのような趣旨の改訂が行われ,どのような授業が行われなければならないのか。

 以下に,「改訂の要点」の一つを示す。

 *************

 第2に,言語活動の充実の観点から,社会的事象の意味,意義を解釈する学習や,事象の特色や事象間の関連を説明する学習などを通して,社会的な見方や考え方を養うことを一層重視した。
 
 *************

 ただ子どもに調べさせ,基本的な知識や技能が未熟なまま話し合わせたり,考えさせたりするのは,こうした改訂の趣旨に合っていない指導であることは明らかである。

 「言語活動の充実」を,「話し合い活動や発表活動の時間を増やす」と短絡的に考えている教師や団体がいないか,点検しなければならない。

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NHK大河ドラマ「平清盛」制作と似ている「教科書づくり」

 「平清盛」の視聴率が低迷しているそうである。

 福原遷都の会は見たが,「おもしろくなくはなかった」。

 平安時代末期というのは,時代区分で言えば中世である。

 しかし,この「中世」という時代のイメージは,非常に捉えにくい。

 王朝文化は継続していくが,

 小学校教育の影響で,「武士の時代」というイメージがあまりに強く,

 歴史の専門家から見れば,非常に偏った時代像が教育現場からも生み出されている,と思われるだろう。

 教科書作りでも,「わかりやすさ」が重視される。

 特に,「売れる教科書」作りには。

 教師は,「教えやすい教科書」を求める。

 子どもは,「わかりやすい教科書」なら開いてくれる。

 かくして,「面白くも何ともない,事実の羅列に過ぎない教科書」ばかりが生まれてくる。

 そして,「歴史は暗記モノ」という評価が定着する。

 「わかる楽しさ」

 「考える楽しさ」

 などを喚起してくれる教科書は少数派である。

 教科書づくりは,それだけ大きな悩みを抱えているといえる。

 結局,売るための編集方針となる。

 「平清盛」は,視聴率かせぎをねらったというより,「玄人受けするおもしろさ」を追究している。

 教科書づくりも,そういう方向性を本当はとりたいのである。

 しかし,「わかりにくい」という印象が共有化されると,もう「おわり」である。
 
 まだ,戦国や江戸,幕末や明治維新といった「ドラマ」が楽しめる時代は,興味を引きやすい。

 しかし,時代の転換期は,そこだけではない。

 平氏政権が維持できなかったのはなぜか。

 もし平氏政権が続いたら,平清盛が理想とする国家づくりを次世代の武家政権が引き継いだら,どうなるか,そういう興味・関心を喚起できるような教科書はあるだろうか。

 歴史の授業は,つまらない。

 平清盛のドラマは,つまらない。

 同じような理由なのだろうか。

 大衆受けするものづくり,番組づくり,授業づくり,教科書づくり・・・・

 そういえば,それがまさに小学校の発想である。

 中学校教師の多くが,「小学校化」していると考えれば,とても納得がいく。

 大河ドラマ制作は,小学校レベルでやっていく,というのが大原則なのだろう。

 そういう意味では,来年も厳しそうだ。


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そろそろ偽の評価の看板をおろすとき ~学力向上の足を引っ張る評価~

 先日,質ではなく単なる数や量で示される誤った評価基準=ルーブリックが使われ出していることを指摘した。

 「ルーブリック」の広まりが,「評価」の信頼性の低下をさらに加速させることへの危惧である。

 すでにこのブログでは,観点別学習状況の評価の運用が学校現場で適正に行えていないことを何度も述べている。

 学校教育法にしろ,学習指導要領にしろ,子どもに求めている学力の質は高いものである。

 法律で,「基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力を」はぐくむことが規定されているのである。

 授業を数回にわたって参観するだけでわかること,定期考査問題を1回分見ればわかることは,「思考力ははぐくまれていない」こと・・・というより,「思考力を必要とするような学習が行われていない」ことである。
 
 こういう授業で,「十分満足な状態の中でも特に程度の高い=5」という評定をつけられるわけがない。

 教師たちは,知識を習得させることでいっぱいいっぱいである。

 しかも,その習得への姿勢がよくない。

 法律では,「主体的に学習に取り組む態度を養うこと」に特に意を用いることも規定しているが,そういう学習は,学校よりむしろ塾や通信教育で行われている。

 表現力をはぐくむためには,表現する時間の確保が重要だと短絡的に考えて,

 話し合いや発表の時間を増やしている学校が多いが,

 これによって知識や技能の習得のできない子どもがさらに増える結果になっている。

 しかし,そういう「悪影響」を教師たちは,

 虚偽の評価を行うことによって隠蔽しているのである。

 子どもたちが4人で集まってまとめた「作品」は,個人の能力を評価できる対象ではない。

 黒板に書かれた文字を写しただけのノートが評価の対象にならないのと同じ理屈である。

 私が参加した公開授業についていたルーブリックは,授業の目標とは異なる評価を実施しようとしていた。

 現在の観点別学習状況の評価でも,

 そもそも学習指導要領で目標としているところと,ゴールである(か,あるいは途中経過としての)評価が一致しないいない授業が見られる。

 目標と指導が一致していない。

 指導と評価が一致していない。

 目標と評価が一致していない。

 ばらばらなのである。

 そこに,ルーブルックという,

 すごくできるAさん,まあまあのBさん,ちょっとだめなCさん,全くだめなDさんのレベルを示して,私はこのレベルだ,と子どもに満足させたり納得させたりする方法が,新たに加わっている。

 評価は,第一義的に「学力を定着させる」「学力を伸ばす」ためのものであり,次のレベルに行くために,こういうことをしましょう,これができるようになりましょう,ということを教える,そういうねらいなら,ルーブリックは役に立つ。
  
 しかし,こういう「細かい評価」は,できない子どもの自信をさらに喪失させるだけで,逆効果であるし,逆に,できる子どもにはそんな評価は必要ないのである。

 教師が子どもにつきつける「評定」という「結果」の責任を,あらかじめ生徒に負わせておくのが「細かい評価」である。

 多くの教師が語る。

 「評定に納得しない親がいる」

 それ以前に,「指導に納得していない親」がいることを忘れてはならない。

 「評定に納得できない」という親の口を封じるために,評価のデータを積み重ねようとしている教師がいる。

 評価のデータを積み重ねるより大切なことは,

 途中でどのような指導をした,ということが伝えられることである。

 できない子どもを,すくなくとも「おおむね満足」の状態にするために,何をしたかを語ることである。

 そろそろ,観点別学習状況の評価という偽の看板をおろすときである。

 子どもは教科書を主たる教材として使っているが,

 これを読んでもわかる。

 そこに,観点別学習状況の評価の全観点で,「十分満足できる」子どもが育つ情報がどれほどあるのか。

 教科書に書かれた内容をどんなに上手に表現できても,法律に示された学力向上のねらいを達成したことにはならない。

 思考力・判断力という「質」にかかわるものを,どう評価するか,なんていう話は,

 それをどうやって育てるか,どう指導するか,どんな教科書ならいいのか,を真剣に考えて,実践できるようになってからの話である。

 「受験向き」として定評のある教科書がある。

 「教師が教えやすい」として定評のある教科書がある。

 こういう教科書の評判が何を意味しているか,改めて書くまでもないだろう。

 評価のことを考える前に,

 指導のことを考えなければならない。

 そういう意味では,学習指導要領ではだめで,学習指導要領解説でもだめで,

 学習指導要領の解説の解説か,学習指導要領の解説の解説の解説が必要なのだろう。


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授業を堂々とサボれる保健室

 保健室の利用状況が,学校経営が健全であるかどうかの判断基準の一つになる。

 「いじめ」の第一感知者(発見者ではない)が養護教諭であるケースが多い学校もあろう。

 学校評価では,養護教諭の「はたらき」を対象とする項目はないと思われる。

 が,「関心外」であってはならない。

 不登校や不適応などの実態は,文科省がとりまとめている調査などではわからない。

 「保健室登校」で授業をまったく受けず,自習もしない,ただお話しして帰宅する,という生徒は,学校には出てきているので「不登校生徒」には含まれない。

 こうした生徒の実態を国が調査しない,ということは,

 国会議員が問題にしない,ということで,

 「関心のない」世界の話,というわけである。

 同じ公立学校でも,

 「保健室」のあり方は,学校によって大きく異なっている。

 養護教諭も学校の教員の一員であるが,

 学級担任をもたない,

 「保健」の責任者であるために,
 
 「教務」や「生活指導」や「進路」の担当にはならない,

 保健体育の教師と連携していない養護教諭は,授業もしない・・・・

 独特の,というか,特別の,ポジションである。

 生徒から見ると,怪我や病気にかかることがなければ,

 4月か5月の「健康診断」くらいでしかお世話になることがない。

 「健康な生徒」にはかかわりがない教師であるという認識もある。

 ある学校では,養護教諭よりもスクールカウンセラーの方が生徒の情報が入るようになり,養護教諭だけが知らないことがあったりする。

 職員室よりも保健室にいる時間の方が長い養護教諭は,一日,一度も顔を合わさない教員がいることもある。

 養護教諭がどうあるべきか,という「強い願い」を持っている教師は少ない。

 ということは,それだけ,そういう「問い」を抱いた養護教諭が「たよりにできる人」がいない,ということである。

 養護教諭によっては,はっきりと自分の仕事を割り切って,

 学校経営にはいっさい口出しをしない,と決めている人もいる。

 では,本当はどのような養護教諭が求められているのだろうか。

 「体の健康管理」より,「心の健康管理」の方が大切なのだろうか。

 私は,以前,「迷惑な養護教諭」という趣旨の記事を何度か書いている。

 多くの養護教諭は,よほどのベテランでない限り,「出しゃばる」と批判されないよう,自省する行動をとることが多い。 

 生徒をかきまわし,混乱させ,問題を深刻化する養護教諭の実態を耳にすれば,自分はああなってはいけない,と強く思うようになるはずである。

 しかし,養護教諭のかかわりが,「救い」のきっかけになる場合もある。

 養護教諭はどうあるべきか。

 正解はないと思うが,

 私がベストだと思うのは,中学校の場合,時期を区切って「学年所属の教員」として「学年会」にも必ず出席できる環境を学校がつくることである。

 保健体育の教師と連携をとって,授業ももつ。

 そして何より,担任教師が「ちょくちょく顔を出せる」保健室の環境をととのえてもらうことである。

 養護教諭には,コミュニケーション能力の高さが求められる。

 保健室に入ったはいいが,何も言い出せない中学生に出くわすこともあるだろう。

 こういう生徒にきちんと向き合える力はもちろん,管理職や一人一人の教員とも,意思疎通がスムーズにできる人であることも求められる。

 学校によっては,生徒よりも教師の方が病んでいる。

 保健室がそういう教師の「避難所」になるのはもちろん適切ではない。

 しかし,そういう教師も含めて,ときどき教師が休んでいる生徒の様子を見に来る,生徒の保健室利用状況を把握しに来る,そういう場になることが理想である。

 保健室が学校のどこに「位置」しているかも,実は案外,重要である。

 教室との位置関係,職員室との位置関係,校門や生徒昇降口との位置関係・・・。

 「学校(内)地理学」という「学問」があってもいいと思うが,これは余談である。

 
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中学校の発表活動の「基盤」づくりとは何か

 中学校の授業を見学するとき,私が必ずすることがある。

 生徒全員の姿を見て,発表できそうな生徒を探す。

 つぶやきそうな生徒を探しておく。

 声(音)がしたときに,だれが話しているのかを確認できるようにするためである。

 また,授業の準備ができていない生徒を探し,その中から,学習に課題を抱えているように見える子どもの近くにポジションをとる。

 また,教室の掲示物を見て,学級委員を探し,できれば近くに行けるルートを確保しておく。

 先日,訪問した中学校では,たまたまこの二人が前後で並んでいたので,私はその中間地点にいた。

 気づいたことを細かく書けば,10日分くらいの記事の分量になってしまうので,ここでは「発表活動」に関することだけにふれる。

 授業の中盤で,「発表活動」の時間になった。

 そのとき,教師の次のような投げかけに対する,学級委員のつぶやきには驚いた。

 「だれか,発表したい人はいますか」

 「そんな人,いるわけないじゃん」

 学級委員の一言は,決して軽いものではない。

 教科経営だけでなく,学級経営も破綻していることは明らかである。

 中学校で「発表活動」を充実させるためには,必ずできるようにしておかなければならないことがある。 

 それは,どんな人の言葉でも,聞くときは聞くという態度がとれる生徒に育てておくということである。

 発表する人間が,相手の反応を全く気にかけず,原稿だけを視界に入れて,ただ棒読みするだけなら,発表への抵抗は少し減るだろうが,すこし余裕のある生徒・・・・たとえば学級委員のような・・・・が発表すると,「聞いていない人」「理解できていない人」が気になりだす。

 そして,何の質問も帰ってこず,何の反応も感じられなければ,そもそも発表などする意味はない。

 ましてや,発表で言葉の読み間違えなどに茶々を入れたり,笑ったりするような「嫌な態度」をする生徒がいれば,発表などしたくなくなる。

 「言語活動の充実」というテーマで研究を始める学校が多いが,これを「教科」の中でやろうとするから,たいてい,無理があるというか,それまでの教科指導がまずかったことが露呈して終わりになる。

 中学生には,私的な会話=私語のようなものではなく,公的な発言や指示等ができる機会をたくさん用意してあげなければならない。

 これを,多くの学校では,教師がやってすませてしまう。

 だから,生活全般をはじめ,教科の時間でも,

 教師が何かしてくれることを待つのが中学生の常識になっている。

 何か話してくれることを待つのではなく,今の自分たちが,話すべきことはないのか?

 それも,公的な問題で。そういう機会を与えられないで育った中学生に,

 「自治」とか「主体的な行動」を求めるのは無理な話である。

 「発表」活動の基盤は,

 生徒から生徒へ,きちんと「連絡」なり「情報」が伝達されることができるようになっていることである。

 指導力のない教師が授業すると,私語などが多くて,

 「静かにしなさい」などという注意が飛ぶ。

 生徒が話すときも,同じである。

 「静かに」という声自体が「うるさい」のである。

 「発表」活動の基盤は,「聞く力」があること。

 子どもの通っている幼稚園では,ここにとても力を入れてくれているのがわかる。

 小学校に上がると,こういう幼稚園出身の子どもが,小学校教師と同時に「困難」を感じる場面が出てくる。

 小学校1年生には,その「困難」を解決する手段がない。

 小学校教師に「困難」を克服する指導力があるかないかで,残り8年間が決まってしまうといったら,言い過ぎだろうか。

 経験上,「ここで失敗すると,ずっと克服できないで終わる」タイミングをいくつか知っているが,

 小学校の場合はどうなのだろうか。


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中学校における「発表活動」を充実させるために

 小学校への生徒の「出張」が,中学生に与える影響は大きい。

 小学生にも大きな影響を与える。

 小学校の教師にも,そして,中学校の教師にも。

 お互いに恥はかけない。

 そういう「見栄」でもはる機会がないと,公立学校の質は向上しない。

 さて,小学校に出かけて中学生の発表活動を見せることで恥をかくのはあまりない。

 しかし,中学校の普通の授業で発表活動を見せると,

 あまりの質の低さに目をおおいたくなるような状況が多くある。

 昨年の「全国大会」でそれを見ることになるとは思いもよらなかった。

 発言の「禁止依頼」というか「禁止命令」を受けた経緯はそのときに述べたと思う。

 「偉い先生」は,直言はできない。

 しかし,私のようなフリーの立場の人間なら,大事なことを直接「全国の先生」に伝えることができたのに,残念である。

 中学校における「発表活動」を充実させるためには,

 「発表することに楽しさや意義を感じられる」課題を用意しなければならない。
 
 原稿の棒読みで終わるなら,原稿を印刷して読ませた方が早い。

 総合的な学習の時間のように,生徒が各々皆,自分の興味や関心に基づいて調査・研究したことなども,たしかに「発表」する機会も大事だが,それを聞く側の学習にならないことが多い。

 「発表活動」は,同時に「聞く活動」であり,「考える活動」である。

 ただ「発表しているだけの活動」になってはいけない。

 学校によっては,実は,この「ただの発表」すら難しいところがある。

 先日,訪問した学校では,こんな経験をした・・・・。

 (次回に続く)

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小学校における「発表活動」を充実させるために

 各小学校で,取り組んでいただきたいことがある。

 それは,「中学生の発表を聞く」機会を増やすことである。

 すでに小中連携の一環として,実施しているところもあると思われる。

 この取り組みを実施するメリットをいくつか挙げる。

 1 中学生が,小学生にもわかるようなわかりやすい
発表を心がけるようになる。

 2 小学生が,中学生ならではの優れた発表を聞き,
その方法なり姿勢なりを学ぶことができる。

 3 小学校の教師が,中学生になったら,どのような
発表の能力が伸びているかを知ることができる。

 4 中学校の教師が,生徒の発表する技能を軽視
できなくなる。

 5 小中の教師の交流が促される。

 
 発表活動というのは,ただ調べたこと,まとめたことを棒読みするものではない。

 小学校の授業を参観させていただくと,この発表活動というのが,あまりに不自然に行われているような印象を受けることがある。

 これは,参観前にすでにリハーサルをしている場合である。

 聞く側に反応がない。質問も出ない。

 発表活動というのは,発表する側よりも,聞く側の積極性があるかないかが重要である。

 よく「カラオケルール」にたとえられる話である。

 中学生が発表しにくれば,否が応でも「聞く姿勢」を見せなければならない。

 そこで,小学校での「発表活動」が充実していたかどうかがわかる。

 ただ「聞く」のではなく,そこで自分が何かを考え,自問したり質問したりして,内容を深めることがなければ,「学習」の時間にはならない。

 「わからない」ところは,「わからない」と聞き返さなければならない。

 こういう「葛藤」というか,「混乱」がおこらない発表活動は,「やらせ」にすぎない。

 中学生はぜひ小学校に足を運んで,発表の技能を磨いてほしい。

 小学生は中学生から「わかりやすい発表とは何か」を学んでほしい。

 失敗が生む,高い教育効果が,この活動には隠されている。


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ブロガーの「その人らしさ」を象徴する記事

 論文試験などでは,書かれたものから相手の人間の能力を判断する。

 書いたものには,その人らしさがにじみ出てくるものである。

 ただ,それが絶対ではない(ことくらいはだれでもわかっている)。
 
 以前,ある研修で,成績上位の子どもが書いた作品と,中位,下位の子どもが書いた作品を,どういう生徒が書いたかを内緒にして,あててもらう実験?をしたことがある。

 結果は,多くの人が「はずれ」だった。

 つまり,成績下位の子どもでも,評価の対象をしぼれば,成績上位の子どもよりも優れたパフォーマンスをすることがある。

 「評価」や「評定」がいかにいい加減なものかを,多くの教師が痛感してくれたはずである。

 しかし,書かれたものの中に,「決定的」とも言える認識の誤りや,人格がにじみ出てしまうような「気になること」を書けば,その人間に対する「不信」「懐疑」は根深いものになっていく。

 しばらく開店休業中だったはずのブログが,また「目を覚ました」ようだ。

 まさにそのブロガーの「その人らしさ」を象徴するような記事が登場している。

 そこまでわかっているのに,なぜわからないのか。

 それが多くの人の疑問である。

 わかっていないのは自分だけである。

 書かれているものだけから判断できることは,多いとも少ないともいえる。

 量ではなく,質にしぼってみても,難しい面もある。

 ただ,「こういう言葉が使えるかどうか」という点だけから見ると,

 書かれたものはその人そのものだとも言える。

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正確な分析・評価が自分だけに適用できない教師たち

 どうしてあの人は,「あんな人間なんだ?」という疑問への答えを,

 分析するのが好きな人がいる。

 教師たちは,「どうしてあの子は~なんだろう?」という問いから,

 「家庭環境が~らしい」という伝聞を中心とした情報をもとに推論を重ね,

 「なるほど~だから,ああなんだな」と納得する。

 私自身も幾度となく見てきた光景である。

 「どうしてもっと幼児期に,充実した教育をほどこしてくれなかったのか?」

 「なぜ愛情をもって,子どもに接してくれなかったのか?」

 悔やんでも遅いのである。

 公立学校というところは,いろんなスタートラインから走り出している子どもを集めて教育を行う場である。

 だから,Aは~だからだめ,~だから足手まといだ,なんて論評していても始まらない。

 それぞれの子どもに適した指導なり,条件なりを考えていくことが大切である。

 しかし,小学校というところは,

 とにかく「一律同じ」であるところに価値を見いだそうとしているように見える。

 学校の指導目標には,「一人一人を大切に」などとうたっておきながら,「一人一人は見ないで,全体を基準に指導」している教師が多い。

 「同じ評価規準に基づいて,同じように評価する」ことが至上命題のようになってしまっていて,

 「評価は何のためにあるのか」を忘れてしまっている。

 評価は,指導をより充実させるため,確かな力をすべての子どもに身につけさせるためにある。

 それを忘れている。

 私は,パフォーマンス評価というものに強い嫌悪感を抱いている。

 低い程度のパフォーマンスしか発揮できない子どもには,しっかりとした指導を行って,全員合格,と言えるレベルに到達させるために,評価を行うのである。

 それなのに,教師は指導しないで,できない状態をできないままで放置し,そして「できなかった」という評価を下している。

 これは,職務の怠慢に等しい。

 そう。

 大げさに言えば,職務専念義務違反である。

 評価に熱心で,指導をしない。

 これが,指導力に課題のある教師たちの典型的な姿である。

 いい見本がいる。

 自分のことをしっかり書いているが,それが自分のことであることに気づけない。

 自分のパフォーマンス評価をすべきである。

 本当に,適切な指導をしているのか。

 まずそこから,授業の改善はスタートすべきである。


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批判されない時代の教師がなぜ優秀に見えたのか?

 教師は,厳しい評価にさらされる時代を迎えている。

 それだけ教育の質が落ちてきていることに,危機感をもっている人が多いということでもある。

 しかし,厳しい目で見られているのであれば,それだけ教師は努力して,よりよい成果を残してきているはずだ,という見方もできる。

 逆に言えば,厳しい目が向けられなかった時代・・・・「先生」としてあがめられていた時代・・・・には,教師はもっと手抜きができたはずである。

 しかし,そういう時代の教師の多くは,「優秀」に見えた。

 どうして,教育の質は向上しにくいのだろう。

 あれこれ言われることがなかった時代は,教師が「伸び伸び」仕事をすることができたからであろうか。

 書類の量が少ない時代の方が,教師は子どもにかかわっていたのだろうか。

 今の私なりの考えはこうである。

 子どもの数が少なくなってきている。

 学級数が減ったり,1学級の生徒数が減っているのは,どこでもおこっている。

 子どもへのかかわり方は,以前よりも密になっているはずである。

 実はそのことが,子どもが伸びない原因になっている。

 子どもは,教師の力量を「過信」することで,自分の力を伸ばすことができていた。

 不思議な現象であるが,私にはそう感じられる。

 今,子どもが,教師の力量をより強く肌で感じることができるようになってきた。

 というか,教師の力量を等身大で見るようになってしまった。

 以前は,教師というのは「遠い存在」であった。

 しかし,クラスの人数が減ったことで,「近い存在」になった。

 そして,教師の力量が見えてきてしまった。

 教師たちは,「人数が少ない方が,きめの細かい指導ができる」なんて言っている。

 本当にそうか。

 そもそも,「きめの細かい指導」とは,どんな指導のことを言っているのか。

 表面的なことしか答えられない教師が多い。

 極端な話,「1対1」の教育を,公立学校の教師はどれだけ責任をもってできるのか。

 一人ひとりの子どもと,「1対1」の関係をきちんと築くことができるのか。

 できない教師が多い。

 このことが,子どもの側もわかるようになってしまった。

 小規模校では,教師の総数が少ないから,学校の教師集団も等身大で見えてしまっている。

 学校そのものに期待を抱くことが困難になってしまった。

 このことは,学校の存在価値そのものにかかわっている問題である。

 私も教師生活の半分は,公立学校の「学校神話」の中でくらしてきたから,よくわかる。

 「学校神話」は,すでに崩れ去ったのである。

 昔の教師に力量があったのか。

 決してそうではない(人もいる)。

 今と同じである。

 今より恵まれていたのは,「力量以上の見え方」がされていたのである。

 今の教師が不幸なのは,「力量以下の見え方」しかされないことである。

 最高でも今の力量である。

 この問題を解決するには,力量を向上させる以外に方法はない。

 今,中学校では平成20年版という,すでに4年も前に示された学習指導要領のもとでの指導を行っている。新しい教科書が使われ,内容が変わったのは今年度からである。

 まだ学習指導要領の改訂の趣旨が理解できていない教師が多い。
 
 「教科の専門性」があやしい。

 それを生徒に気づかれている。

 力量を向上させなければならない。

 それも,学校をあげて。

 そして,また,「学校神話」を作り出すのである。

 
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「調整役」をいじめる「部外者」の傲慢

 学校における「調整役」とは何か。

 さまざまな集団での,さまざまな「調整役」がいる。

 学級では,無責任な担任と,生徒たちの間で,学級委員が「調整役」になることがある。

 学年では,学年主任と,困った教師との間で,中堅の教師が「調整役」になることがある。

 学校では,校長や副校長,教頭が,教員と教育委員会の「調整役」になっている。

 こうした「調整役」は,ときに「攻撃」を受ける。

 「どっちの味方なんだ」というもの。

 「調整」の難しさは,「調整役」になってみなければ,わからない。

 どちらかを切って捨てればいいのなら,「調整役」はいらない。

 ここがわかっていない,「問題教師」や「問題生徒」「問題児童」がいる。

 自分たちのためにしてくれている「調整」なのに,それがわかっていない。

 自分たちのような人間がいるからこその「調整役」なのに,調整役を責めるのは筋違いである。

 

 選挙が近い。

 同じようなことが行われている。

 調整役は,つらい立場である。

 はっきりものが言えない。

 「調整役」にすぎない「党首」は,見ていて気の毒である。

 まだ,「個人的な意見です」と言って逃げる方法もあるが,

 個人ではなく,「組織」で行っている選挙だから,「個人的な意見」に投票するわけではない。

 調整役はたたかれ,いじられ,疲弊していく。

 そして,国政の場に出ても,同じことが繰り返される。

 当事者は,どこにいる?

 責任をとろうとしない「部外者」たちが,堂々と意見を言えるのが,民主主義である。

 それを嫌と言うほど思い知らされている世代から下の動向が,長い目で見ると,心配である。

 民主主義がたえられない世代を待っているものは何か。

 それがすぐ目の前に迫っているような気がする。


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「個性を大切にする」ために犠牲にしていること

 小学校では,調子に乗って自分の言いたいことを発言するだけの子どもが「いい気になれる」だけの授業がある。

 小学校教師は,的外れの発言を大切にする。

 正しい結論をいきなり言われては,「シナリオ」が成立しなくなるから。

 おかしな発言が,授業の進行とともにだんだん「まとも」になっていくことで,

 何だか自分が「いい授業」をしている錯覚に陥っていく。

 授業の最後の段階で,ようやくまとまっていく・・・・正しい方向へ収斂していくような授業を,何となく「理想像」として描いているのであろう。

 授業参観をしていると,よくわかることがある。

 それは,教師が子どもの「役割」をよく考えたうえで,発言を促すこと。

 「結論」が理解できてしまっている子どもには,決して発言の機会を与えない。

 本当は,「こんな課題は早く終わりにして,次のことを考えたい」と思っている子どもはたくさんいる。

 しかし,それでは「教師の計画」通りに授業は進まなくなる。

 そう,「進まない」のが小学校の授業の基本である。

 では,それは「できない子ども」の救いとなっているか?

 そうとは言えないことは,「できない子ども」がたくさん進学してくる中学校の教師ならよく知っている。

 小学校の教師は,おそらく

 「個性を大切にする」ことに重きをおいて,教育をしている。

 だが,その「個性」とは,小学校教師にとって「喜ばれる」だけのものであって,

 決して一人一人の子どもの成長のための有効な「尺度」ではない。

 「個性を大切にする」ことに重きをおいて,犠牲になっていることとは何か。

 それは,子どもの個性である。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より