教育観はごまかせない
教師が自分や「辞書」だけの概念の中に閉じこもり,子どもや他者からの批判に
「辞書的には私は正しい」
なんていってみたところで,
それは教師の自己保身にしか見られない。
「ひいき」を「気に入ったものをかわいがること」とわざわざ定義を示したうえで,
「ハンディのある子ども」や「可哀想な子ども」に目をかけることは,「ひいき」ではない,
と宣言してくれている人がいる。
たったこれだけの言葉の中に,いくらでも突っ込みどころがある。
まず,「可哀想な子ども」とは,どのような子どものことを想定しているのか?
「目をかける」とは,あまりに「上から目線」の言葉ではないか?
本人は気づいていないだろうが,
「目をかける」を辞書で引いてみてもらいたい。
何と書いてあるか?
>目をかけることは,「ひいき」ではない
・・・・・これが,当人の「国語力」の表れであるとともに,教育観のあらわれなのである。
最も気に入らないのは,
「ハンディのある子ども」や「可哀想な子ども」は,
「気に入った子ども」には決して該当しない,という「宣言」である。
特別な支援ということと,「目をかける」ことは全く次元の異なることである。
>実際の場面でも,ハンディのある子どもを特に援助してやることは,クラスを明るくします。
明るいクラスは,教師が「仕事として」援助なんかをする前に,
子どもが自発的に援助しているのだ。
教師が「特に」援助するようなクラスは,危ない。
「建前」が支配している閉鎖集団である。
>気に入った子を可愛がると思われる行為は、クラスの雰囲気を悪くします。
小学校教師というのは,自分のクラスの子どもはみんな「気に入った子」だろう。
自分の言うことにみんなが従うのなら(実際には,言うことを聞くべき大人は一人しかいない)。
クラスの雰囲気は悪くならないが,学年の雰囲気は悪くなる。
それは「ひいき」だからである。
私は,「国語力」うんぬんは語らない。
私は社会科の教師で,歴史を教えているから,
外国人に対して,「国語」という教科名を口にすることすら恥ずかしいと思っている。
ただ,「言葉はその人間を写す鏡である」と言うことは正しい。
>目をかけることは,「ひいき」ではない
なんていう言葉が,すべてを物語っているわけである。
来年こそは,恥を知る大人になってほしい。
もう教師ではないから,どうでもいい,というわけではない。
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