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小学校教育の改善をまじめに考える人

 小学校で問題になるのは,ズバリ,教師の指導力である。

 「学校運営」なんて大げさな問題ではない。

 小学校は学級担任制なのだから。

 指導力に課題がある教師が,「問題」の「対象者」なのである。

 特に,指導力に課題がある教師が担任をもつと,それが表面化する。

 ある教師は,同僚が助けないから,あるいは批判を加えるから,改善しないんだと主張している。

 しかし,私から言わせれば,「批判する」方が健全なのである。

 今まで,批判をしてこなかったから,改善されなかったのである。

 こういう「課題のある教師」を放置して,適当に機嫌をとりながら,「問題」を「問題」してと見ない「同僚性」が,今のような「問題」を生んだのである。

 きっと,全く同じ「指導」をしてきたのに,「今になっておかしいと言われるのはおかしい」

 なんて寝ぼけたことを言っている大量採用の時代の教師がいるはずである。

 これが問題の根っこであることに,どうして教師は気づかないのか。

 気づいたら,自信を失ってしまうからか。

 やる気を失ってしまうからか。

 その指導力の低さが,長年にわたって子どもの自信ややる気の芽生えを摘み取ってきたことを反省することもせずに。

 自分たち教師のことより,子どもたちの方を見てほしい。

 どちらの方が,真剣に考えるべき方向なのか。

 小学校の指導力不足教員の問題を,

 すぐに解決したい学校は,「担任をはずす」ことですませることができる。

 私の子どもが通っていた学校でも,そういう教師がいた。

 算数の習熟度別クラスの担当になったのだが,そこでも問題を起こした。

 みんな算数が嫌いになってしまった。

 もし,担任をはずすという手をとらない(とれない)のであれば,

 「すぐに解決できる問題ではない」ことが,だれでもわかっている。

 たとえば,小学校の場合,学級崩壊の原因を解明できるのは,担任教師しかいないのである。
 
 だから,実際のところ,他の教師が相談に乗ってみたところで,指導力の低い担任教師が

 「教師のどういう言葉に子どもが反発し」

 「教師がどういう子どもの言葉を受け流し」たのかを語ることはできない。

 「ある教師が原因で学級がよくなったり悪くなったりするという思考法から脱却」してはいけないのである。

 正確にいえば,

 その教師の「どのような指導のあり方」が原因で,学級がどうなったのかを考えなければならない。

 しかし,鎖国状態の学級王国では,それを追究できるのは担任教師のみである。

 この教師に「追究能力」があれば,先に進めるのだが,そもそも「追究能力」があれば,学級は崩壊しない。

 こういう問題を本当にまじめに考える人なら,こういう「改善案」を出すだろう。

 「課題がある」教師が異動してきた場合,あるいは新規採用の教師の場合,その教師が子どもに対応している場面をすべてビデオにとり,子どもにかけた言葉,子どもが教師に向けて語った言葉を,すべて文字におこし,記録しておく。

 そうすることで,実際に「崩壊」したとき,何が原因かをつきとめることができるかもしれない。

 しかし,そんな労力をかけることはできない。

 つまり,本音は「考えるだけ無駄」なのである。

 同僚性がどうとかいうのは,ほとんど意味のない記事である。

 意味があるとすれば,そういう「考えるだけ無駄」という小学校の空気がよく伝わってくる記事だということ。

 ほとんど意味のない記事に限って,「褒め殺し」をしている嫌みなコメンテーターがついていくのも興味深い。

 なぜ,改善が難しいのか。

 簡単な話である。

 小学校の教師なら,みんなわかっている。

 指導力に課題のある教師には,

 「もっと勉強しろ」

 「とにかく力をつけろ」

 「子どもの声を聞け」

 「子どもの心にふれろ」

 としか言えないのである。

 そして,同僚ではなく,子どもや親の立場になれば,

 「あなたは辞めた方がいい」という結論に達する可能性もより高まるだろう。

 小学校教育の改善をまじめに考えるなら,

 学級担任制をやめることである。

 小学校の担任教師の顔がすぐに思い浮かべられない人,

 すぐに思い浮かべられる人で,あまいいい思い出のない人なら,

 なぜそれが望ましいかがわかるだろう。

 「当たり」がゼロで,みんな「はずれ」なら,そういう方向性の意義はわからないかもしれない。

 担任会で,すべての担任がすべての子どもの様子を詳しく知っているような環境になれば,中学校では当たり前の「同僚性」の意味が少しはわかってくれることと思われる。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より