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理想への「こだわり」を「病気」と判断し「治療」をせまる情熱

 教育現場に,そんな情熱をもった教師がいたら困る。

 選択肢をAかBだとせまられ,どっちもいやなのに,

 どちらかしかないのだから,選べ,

 と言われて,「私はあくまでもCにこだわりたい」という考えをもつことを認めない人間がいる。

 心がせまいのである。

 物理的にそうなんだから仕方がないだろう。

 なんていうのは「説得」にはならない。

 「説得」にならないことはわかっているから,相手を「病気」扱いする。

 ひどいものである。

 こんな人間に,教育はつとまらない。

 「AかBか」決められないから,人間は迷うのである。

 「AかB」以外の可能性がたとえゼロでも,AもBも選びたくない,という人間の心情を認めない人間がいる。

 そんな人間に,教師はつとまらない。

 「病気だ」と断言し,「治療」をせまる。

 そんな人間が,教育を語っている。

 現場の人間でないことが,せめてもの救いだが,

 私がかねてから書いているように,

 こういう人間は,学校現場にもいるのである。

 これを,どうにか排除しなければならない。

 なぜなら,こういう人間が必ず次にも生まれるからである。

 人間としての尊厳を踏みにじる行為は許せない。

 いじめが学校に解決できない理由は,

 こういう人間が一人でもいれば,現場の教師ならわかる。

 自分が「病気」と判断した人を,徹底的にたたくのが好きな人間が,

 「どういう人間」かは多くの人が気づいている。

 大切な「こだわり」を,「病気」だと断定し,「治療」をせまられた経験がある人はどのくらいいるのだろう。

 あの発明家の母親はすばらしい決断をしたものだとつくづく感じる。

 学校に通わせるのをやめることが,大正解になってしまうのは,今の時代にあってよいことなのか。


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コメント

教師はおかしなことを言ったりやったりしても,そしてそれを耳にしても,直接,批判されることの少ない職業です。
そのうち,子どもにボイスレコーダーとかで「暴言」を録音され,公開されてしまうような教師も出てくるでしょう。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121109/wlf12110911020004-n1.htm
↑この記事に、父親が自殺した子に、教師が朝礼の時間に無理矢理謝罪させたという信じがたいほどデタラメな教師の姿が記事になっています。
その後、その教師は校長に、理由を聞いて、忘れたとか、、、

どういう心理でこういう無謀なことが行われるのか、おそらくなにかめんどくさかったとか、たわいも無い理由で生徒の心を苦しみのどん底に突き落とす。

教師の権限逸脱もいいところです。
父親が自殺したことで、その子にどういう非があるというのか理解に苦しみます。

治療を迫る教師も同類と考えます。
教師が社会的な常識が無いといわれる、理由がよく分かります。

こういう情熱は学校全体を腐敗させてしまうでしょう。
もちろん教師がいじめに加担しているのと同じことで他の生徒をまきこんだかどうかのちがいだけ、一般にこういうのをモラルハラスメントと言います。

モラルハラスメントを行うのが教育への情熱なんでしょうねこの人たちにはそういう歪んだ価値観がおそらく幼少期に形成されていると考えるべきでしょう。

適性検査で教員免許を与えないと言うのが一番の解決策です。

運転免許でも、もし転換の持病があって医師が駄目と言えば免許を与えてはならないとえる普通の感覚が必要です。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より