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答えを自分で探させる教育をするために

 教育が,短期的な子どもの変容ばかりに目を向けるようになって,

 子どもの成長は余計に見えにくくなった。

 早期教育が「長期的な視点に基づく」ものとは限らない。

 目の前の子どもに,もっと必要なものはないか。

 親や教師が真剣に考えるべきである。

 英語の話を,英語の専門家に聞くのは,やめた方がよい。

 教育の話を,教育の専門家に聞くのも,無駄なことが多いことくらいわかっている。

 学校という場は,公的な場だが,

 学校という場での教育に協力してくれるかどうかは,

 その学校の教師と協力者とのつながりで決まる。

 子どもと多様な人との交流を演出するのは,教師の仕事であって,行政の事務方の仕事ではない。

 成果はすぐに表れる。

 だから,遠慮することはないのである。

 これを邪魔する人間が,公立学校の場合には,校内にいるのが大変残念なことである。
 
 答えは自分で探す。

 そういう生き方を学校という場で教師自身がしない限り,

 教育者として胸を張ることはできない。

 そういう意味では,行政の顔色をうかがいながら仕事をしている人間たちというのは,

 答えを自分で探す人材を育てることはできないばかりか,

 「答え」を安易に知りたがる,「思考力」のない自分たちのような人間を再生産してしまうことになる。

 「答え」を薬物にたとえれば,

 薬物中毒患者だらけの国になるということである。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より