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「安っぽい教育論」が好きなのは,今も昔も教師だけ

 私は教師ですから,「安っぽい教育論」でも嫌いではありません。

 「二十四の瞳」みたいな純粋さを,人間として忘れたくはない,という気持ちもあります。

 ただ,実際の現場の教育となると,話は別です。

 「話は別」

 ということに,多くの教員志望者は,教師になって,あるいは教育実習を経験して,初めてわかる。

 無条件に「教師が尊敬される」時代ではなくなったのです。

 だから,コンピテンシーとか,「どういう指導力を身につけなければならないのか」ということに,関心をもたなければならなくなった。
 
 そんなことには関心がなく,ただ自分の教育者としての権威を守りたいだけの人間は,たとえば「子どもの授業評価」と聞くだけで,拒否反応が出てしまう。

 悪い評価結果が出たら,「子どもはそう考えているのだな」と思い,「さあ,次はどうしよう」と考えればいいだけのこと。

 子どもに評価能力があるとかないとか,自由に語らせるのはおかしいとか,そういう発想で反対する人は,おそらくそういう発想だからこそ,子どもから評価されていない教師なのだろうと予想します。

 「ほめる」とか「声かけをどうする」とか考える前に,

 まずは,教育にかかわろうとする人間が使ってはならない言葉を知っておくべきです。

 ある言葉を生徒に投げかけた時に,

>「どうしたんだ,あの先生,とうとう頭がおかしくなったのか」と言われかねない。

 などと書く人がいる。

 子どもがもし本当に「あの先生,頭がおかしい」などと言うのだとしたら,それは日常的に教師が子どもに向かって「おまえ,頭がおかしい」と投げかけている,ということでしょう。

 そんな言葉は使うべきではないし,まねさせるべきではない。
 
 たとえ,自分が言われた言葉だとしても。

 それなのに,何気なくさらっと書いてしまう。

 根本的な前提の部分で,不適格な要素がしみついているこういう人間たちが,どうして教育現場に立ててしまうのか。

 悲しい話ですが,こういう人間だからつとまる,そういう側面が今の教育現場にはあるのですね。

 普通ならば,何も書けなくなって当然である人間が,

 「毛色を変えて」

 安っぽい教育論を展開する。

 この,いかにも寝ぼけた江戸時代の平和ボケ感が,実は今の学校現場には充満しているから,何も変化らしい変化が見えてこない。

 学校を劇的に変えてしまった側の私たちが,何かいけないことをしたかのように思われてしまうのも,無理はないと自覚しています。

 今日のある場所での会議で,大阪の中学校の先生が,

 「先生方というのはみんな保守的で・・・」

 と発言されていましたが,ここでの「保守」の意味は,「変化を受け付けない」という「柔軟性の欠如」のことを意味します。

 でも,確かに「柔軟」にも限度がある。それを生徒指導をすると,嫌というほど味わわされるのが中学校です。

 いつまでたっても「安っぽい教育論」は消え去らない。

 あの有名な先生が,『役立たず』と呼ばれるような現場での一面を想像したくない。

 いつかの時代のどこかの国と同じです。

 だれも自分で責任をとろうとしない。

 これでうまくいくはずだ。という何の根拠もない信仰のもとで,破滅に向かっていく。

 うまくいく根拠があって,それで失敗するより,そっちの方がまし,という人がいなくなるのはいつのことでしょうか。

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コメント

児童,生徒が苦しんでいる現実を直視しようとしない人間が多いですね。

教師ならわかるのですが,なぜ,教師でもない人が,そういう問題から目をそらそうとする主張をするのでしょう。

自己防衛の一環なんでしょうけどね。

子供の先生への評価は新学期にすぐに出て来ます
今度の先生はわからないとか前の先生の方が良かった
など1ー2回の授業で判定が出ます

そういうダメ判定が出てしまう人の授業は大抵の場合
生徒の反応をまったく見ていない事が多いようです
完全に一方通行でともすると、生徒は内職をしていたり
全く生徒を見ないから内職は安全に行えます
本当に何も見ていないかというと実際は受け止めるのが恐く
見て見ぬふりをしているように見受けられるのです
いわゆる回避性と言う問題を抱えていると言う事てす
回避して置かないとその後の対処方が全くわからない
と言う問題か全く自信が無いのです

回避しなくて良いように持ってゆく事を教えれば、治る
可能性はあると考えられます。
ただそういう指導を受け入れようとしない問題が現れるでしょう

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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