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「指導する」と「叱る」の区別がつかない教師

 昔の人たちは,教師の子どもに対するはたらきかけをみんな「指導」だと勘違いする傾向があったらしい。

 ただ「叱る」こと,「型にはめる」ことが「指導」であるという勘違いのまま,仕事ができたのは,昔の話である。

 今,そういう勘違いが通用するのは,せいぜい部活動か進路指導という名の進学指導や就職指導くらいである。

 昔は,「指示」すればすんだことでも,今は「導いてあげる」ことまで配慮しなければ,成果は出ないし,子どもはおろか,親まで教師にくってかかる時代である。その親を教育したのは,「指示」しかしてこなった教師たちである。

 「型にはめる」ことで仕事がすんだ時代は,工夫も何も必要なかったから,
 
 教師たちには「指導力を向上」させるような努力はしなくてもすんだ。

 この弊害は,「指導力」「指導力の向上」の意味がわからない人間たちを生んだことである。

 今は,ただ普通に教師が「促したこと」でも,

 子どもには「叱られた」と受け止められることがある。

 教師が「私は叱った覚えはない」と開き直っても無駄である。

 子どもが「叱られた」と感じたからである。

 指示に愛情がこもっていなければ,反発する子どもや親がいて当然である。

 教師が子どもにとっての「憎しみ」「怨恨」の対象になるのである。

 今は,公の場で走り回っている子どもに対して,

 「お前たち,うるさい! 静かに座っていろ!」

 なんて叱りつけることは,ときに逆効果になる。

 こういう「銭湯のおやじ」のような人間は,もし今も同じようなことを続けたいのなら,医療保険にでも入っておいた方がいい。

 
 もし騒いでいる子どもたちの学校の教師に不満があるのなら,

 こんな嫌みをしてあげればいい。

 まず子どもたちに声をかけて呼び止め,

 「あなたたちの学校の先生にお話しがあるんだけど,連れて行ってくれる?」と嘘をつく。

 教師の近くまで来たら,子どもに問いかける。

 「みんな,どうしてここで,走り回っているのかな? ここは,みんなが運動する場所なのかな?」

 「みんなの席はどこか教えてくれる? ここに座っていてくれるかな?」

 中学生には使えない手だが,それくらいがちょうどいい小学校もあるだろう。

 ・・・・なんてくだらない話はどうでもいい。

 自分たちの「教育」の「成果」に,自分たちの「教育」が通用しなくなったことを実感している教師がいる。

 「どうしてこうなったのか」をふりかえってみてほしい。

 自分の子どもが「叱られる」ことに敏感な親を,子ども時代に教育した教師自身がふりかえってみるべきである。

 そういう親から,自分たちが逃げてはいけない。

 自分たちが「教育」してきた親である。

 その「教育」に,何が欠けていたのか。

 今の「教育」に,何が欠けているのか。

 答えはすでに見えている。

 「指導」になっていないことが,すべての原因である。

 決して,親のせいにしてはいけない。

 「立派」な自分の失敗事例を紹介してくれておきながら,それが「失敗事例」だという自覚がないところが読んでいてとても気の毒である。

 最後の方は,だれのことを言っているのかわからない部分がある。

 自分自身にきれいにあてはまっていることを書いて,自分で批判していることが,「人気」の秘訣だろうか。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より