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「つながり」依存の子どもと「つながり」拒否の教師の溝

 勤務時間中に,携帯やスマホなどの画面を見ている回数や時間が長い教師はいませんか?

 あの保護者面談実況中継をしていた教師のように,書き込みに精を出している人はあなたの職場にはいませんか?

 教師の場合,こういうタイプは少数派だと思います。暇じゃない(はずな)ので。

 生徒の顔より,PCやケータイの画面を見ている時間の方が長いなんていうことが公になってしまったら,教師が余っていることがばれてしまいますからね・・・・。

**************

 さて,教師間の「つながり」がなく,あるいは「つながり」を避けようとしている教師が多い学校では,生徒の荒れや非行などの問題に対処できません。

 一方の子どもたちは,教師の想像を超える情報のネットワークをもち,上手に連携をとって,そういう教師たちをうまくかわし続けている。
 
 教師がそのネットワークの中に入るのは難しいので,お互いの情報交換がないと,わずかで貴重な情報も共有されることなく死蔵され,やがて大きな波に飲み込まれていく。

 私たちは学力が低迷している子どもたちを前に,「言語活動の充実」をかけ声にして教育の改善を図っていますが,「生きる力」という広い解釈で子どもの「力」をとらえると,教師をはるかに上まわる活動をしていることがあります。

 放課後の情報ネットワークによって,4時までの課題がすでに解決された状態で,・・・あるいは,さらにもつれた状態で,・・・問題が複雑化したまま,翌日を迎える。

 情報をもたない教師の手におえるものではありません。

 少なくとも8時から3時までは,教師(の授業)によって,「つながり」は遮断される。

 「再接続」の時間を待ちわびる子どもたちの姿を目にしたことはありますか?

 「学び合い」という「つながり強制」を強いられている子どもたちの,心の声を聴こうとしたことはありますか?

 教師が子どもと「つながり」をつくるための最終手段は,「授業」なんです。

 「授業」での子どもとの「つながり」を拒否し,子ども同士に「つながり」を強制している教師には,何の希望も見えてこないでしょう。

 子どもがはっきりと教師との「つながり」を拒否していることを知った時も,なすべきことは一つ。「授業」での挽回です。

 部活でもできますが,それは,「一部の教師による,一部の子どもたちのためのつながり」発生装置です。

 「授業」のなかで見出した子どもの本当の姿に関する情報の共有は,同じ学年に所属している教師集団にとっての「生命線」になります。

 情報が集まる場所を教師たちはもっているでしょうか。

 情報を集める時間を教師たちは確保しているでしょうか。

 教師は子どもと,非常に長い時間,接しています。問題は,そこで情報が得られていないこと。

 得た情報を共有化する時間がもてていないこと。

 それをどうにかしましょう。
 
 ・・・・という呼びかけで出発した「学校建て直し」は,成功しました。

 

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より