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悪ブログが良ブログを駆逐する?

 悪い記事がそのほかの良いかもしれない記事を台無しにするのは,書き手の責任。

 ただ,善良な人たちの善良な言葉に,悪意のこもった言葉が紛れ込めば,たちどころにその場は闇に覆われてしまう。

 たった一言の使い方の誤りが,人間と人間の間の溝を深めてしまう。

 教育現場で,子どもの声に耳を傾けてから「動く」人と,

 勝手に自分から「動く」人がいる。

 勝手に動く人は,そもそも子どもの声を聞こうとする気がないから,自分の行動の過ちに気がつかない。

 「内なる声」が,自分を導く。

 「私がやっていることは,正しい。病気の人間は病気なのだから,病気の人間だと呼ぶのは,誤りではない。私は間違っていない。」

 パソコンには判断がつかない,「正しい」と「誤っている」の区別。

 言っていることは「誤り」ではないが,書くことは「正しくない」ことがわからない人たち。

 しかし,こういう人のブログは,読み手が集まる。

 そして,その読み手は,「褒める」。

 悪ブログの方が,良ブログよりも「楽しい」のです。

 常識はずれ,見当はずれの人の「まじめさ」を楽しんでしまう残酷さが,この世界にはある。

 子どもの社会と同じ。

 「いじめる」ことの楽しさを味わってしまった子どもたちを救えるのは,

 「いじめられる」ことだけなのか。

 「いじめ」は悪いものに決まっていますが,それが,「勝つ」構造は,社会と同じなのか,どうか。

 とめられない「いじめ」。

 「病気の人たち」を救えない悲しさ。

 「悪にならざるを得ない」と決断した人の悲しさ。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より