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野球だけでなく教育も知らない人間が語る「知能の足りない人」の話

 また「知能が足りない」発言が飛び出した。

 この発言者を「知能判定ブロガー」と呼ぼう。

 あるいは,「頭が悪い」という言葉も大好きだから,

 「頭の悪さ判定ブロガー」でもいいだろう。

 このブロガー,いつも本気で「知能が悪い」「頭が悪い」と罵倒しているから,いつも注目を集めている。

 「真正」である。

 まだ,「小学校を卒業しても,○年生程度の学力がつかない子どもは知能が足りないからだ」と書いているところは読んだことがない。さすがに元教師だけあって,そこまで書く勇気はないのだろう。


 しかし,「小学校を卒業するときには,○年生程度の学力を保証せよ」という(塾経営者の)要望に対して,

 「どんなに学力が低くても留年させることはない=卒業させるのが当たり前だ」という理由からか,

 その要望をした人(塾経営者)を「知能が足りない」人間だと主張している。

 「なぜ○年生程度」の「○」が明かされていないかは,「知能判定ブロガー」の都合によるものだろう。

 
 この「知能判定ブロガー」の欠点を一言でいえば,

 「相手の人間の気持ちを理解しようとしない」ことに尽きる。

 「相手の言いたいことは何か」を理解しようとしない。

 その理由を聞かれたら,もしかしたら,「私は超能力者ではないから」と答えるかもしれない。

 「相手の人間の思い」を受け止められない理由は,自分では知っているはずなのだが,なぜか,それを自分にだけは適用しようとしない。そういう「防御能力」は,最強なのである。だから,「壊れる」ことがないし,「あきらめる」ことも決してない。絶対に「反省する」こともない。

 
 自分もかかわってきた小学校教育の課題について,「恥の上塗り」をしているのが現状である。

 それがわからないらしい。

 書けば書くほど恥さらしである。おもしろがってそれを煽っているコメンテーターがいる。


 「知能判定ブロガー」は,繰り返し「学校は学力を保証する場ではない」ことを主張している。

 学力は,子どもが努力してつけるものであって,学力がつかないのは,子どもの努力が足りないせいなのだそうだ。
 
 バットを何にたとえているのか今一つ不明であるが,問題は,

 「卒業時に,○年生程度の学力を身に付けている子ども」を育てるのは,そう難しいことではないはずなのに,それを「必ずヒットが打てるバット」にたとえていることである。

 こんなたとえは成立しない。なぜなら,「必ずヒットが打てるバット」など存在しないからだ。

 「知能判定ブロガー」の知能によれば,「知能が足りない」ことの理由は,「存在しない」ことを言っているから,「知能が足りない」というものだ。しかし,そういうたとえをしているのは自分自身なのである。

 自分の都合のよいような「たとえ」を持ち出していることは,おそらく小学校卒業程度の学力のある子どもならわかる。


 「知能判定ブロガー」には,まずこのことを反省してほしい。

 「必ずヒットが打てるバット」などは存在しないのである。

 しかし,「卒業時に,○年生程度の学力を身に付けさせる」ことは,不可能ではないはずだ。もちろん,特別は配慮を要する子どもはいる。しかし,ありとあらゆる子ども全員に,学力を・・・・という要望ではないだろうことは,そう知能を必要としなくてもわかる話である。

 私がわかりやすい「たとえ話」をお贈りします。

 学校の教師が,子どもにスポンジ製のバットを与えて,「これでホームランを打て」と要求した場合,子どもでも「これでは打てない」ことがわかる。どんなに努力しても,子どもはホームランが打てない。これはだれのせいだろうか。

 学校の教師が,プロ野球のホームランバッターが使っているバットをもらってきて,「これでホームランを打て」と子どもに要求した場合も,同じである。子どもは「打てない」ことがわかる。小学生には重すぎるからだ。

 小学校の教師がしなければならない仕事は何か。

 「ホームランを打たせる」ことではない。
 
 「必ずヒットを打たせる」ことでもない。

 まずはバットが振れる子どもに育てることだ。

 なぜバットを振るのか。

 ボールを打つためである。

 ボールを打つねらいはさまざまである。

 野球を知らない人間は,ただヒットが打てればいい,ホームランが打てればいい,と考えてしまう。

 そうではない。 

 また,だれがボールを投げるのか。

 それは教師であったり,子ども同士であってもよい。

 ボールを打つ楽しさを味わわせることが大事だ。

 今の小学校では,それすらできていない現状がある。

 バットが振れればそれで十分。ボールがバットに当たれば,それだけで大満足。という程度の内容が小学校教育だ,といったら,怒る人もいるだろう。

 怒ってもらっていい。

 「私は何としても,全員にヒットを打たせたい」

 という「情熱」が,子どもを動かすこともある。

 しかし,その「情熱」が感じられないのである。

 「責任感」が伝わってこないのである。

 どうしてそこまで堂々と,「責任逃れ」の立場でいられるのかが不思議である。

 
 あのコメンテーターに,ここに登場してその理由を説明してもらいたい。

 でも,そうすることでばれてしまうことがあるから,不可能なのだろう。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より