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協調性のない人=「ふつうでない人」を排除する人間たち

 「ふつうの人」の定義は難しい。

 程度の問題であり,比較しないとわからない問題だから。

 以前,教師たちが「ふつうの生徒」という呼び方をして,

 「ふつうでない生徒」ばかりを相手にする問題を述べたことがありました。

 こういう教師にとって,「ふつうの生徒」とは「手のかからない生徒」のことであり,

 「相手にしなくてすむ生徒」のことなのです。

 こういう教師でも,「ふつうでない生徒」に対しては,何かはたらきかけをするから,まだましなのかもしれません。

 まもとな記事が結局は続かなかった「教育に最もふさわしくない教材ブロガー」は,

 「協調性のない人」は「ふつうの人ではない」から,仲間から除外されて当然だという持論を展開した。
 
 「わがままな人」は,人間の集団から排除されて当然だという主張。
 
 しかし,これは教材ブロガーの「持論」であり,「社会の常識」ではない。

 日本人には,「協調性のない人」を包み込むあたたかさが美徳として存在するのです。

 「協調性のない人は仲間から除外されていくのがふつう」というのは,少なくとも「教育の常識」ではない。

 ここは中世の村ではない。

 どんな人間であっても,その人の課題をあげて「ふつうでない人」と堂々と呼べることが,「ふつうの人」の感覚とはかなりずれている。

 わがままな経営者の話を読んだことがないのだろうか。

 その「わがままさ」「こだわり」が技術革新に結びついてきた歴史を知らないのだろうか。

 自分が演奏している動画を垂れ流したから,もうだれが書いているブログかはわかってしまっている。

 ということは,関係者はだれのことを批判しているのかがわかってしまうのである。

 文章から,自分が腹を立てていたことはとてもよく伝わってくる。

 しかし,病気のことをあげてまで,批判する必要があることなのか。

 ・・・・さて,こういう行動様式をもっている教員が,学校現場にもいるのです。

 あくまでも異論を唱える者,理想を語る者を,公衆の面前で「協調性がない人間」と断定し,

 「お前はふつうではない」と非難する。

 管理職がこのタイプだったら,どういうことになるか,想像してみてください。

 反論したら,「代案を出せ」と迫る。

 人によっては,管理職はこういうタイプが望ましい,と主張するかもしれませんが。

 代案がない問題はすべて押し通すことができる管理職。

 こういう「ふつうでない人」の再教育は,教員の場合,どうしたらいいのかというと,

 たとえば,相手の気持ちを考える力を伸ばす教育実践を構想してもらうのです。

 採用前にすることは,

 教員採用試験で,こういう「実践事例の作成」を論文試験に出すといいです。

 「教材」を試験会場で初めて教えて,それを活用した指導案をつくらせる。

 「いい先生」を選ぶしくみで,「これが絶対」というものはないでしょう。

 しかし,ふさわしくない教師が生まれている現状からさかのぼって,採用段階で問題がなかったかどうかをふり返ることができるしくみづくりは大事だと思われます。

 今の段階で,それが全く機能しないのが,大量採用の時代の教員。

 そして今,大量採用が始まっているから余計に怖いのです。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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