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2012年11月

なぜ小学生は「発表」が好きか?

 小学生の多くは,楽しそうに「発表」をする。

 なぜ「発表」するか。

 それは,「楽しい」からである。

 自分が調べたことを,友達に聞いてもらうのが「楽しい」。

 ただそれだけである。

 自分が「発表」しているときは,

 担任の先生の9割方の注意は自分自身に向けられる。

 それがうれしいのである。

 他の子どもが発表した内容と全く同じような内容でも,平気で発表している。

 先生が聞いてくれるから,自分は満足できるのである。

 「発表した」ことに子どもが満足している授業が多い。 

 こういう授業だから,学力がつかない。

 「発表する力も学力のうちです」・・・・その通りである。

 要は,その「発表」の中身である。

 小学校の教師は,「中身」の課題を真剣に吟味しない。

 それよりも,「生き生きと発表できたこと」に意義を感じる。

 そういう教師だからこそ,子どもは「生き生き発表」できるのである。

 小学校でも,教師が「中身」の課題に触れだしたら,とたんに子どもは「発表」を嫌がるというか,遠慮するようになる。

 それは,当然のことである。

 教師が「喜ばない」ことを,「楽しそうにやっている自分」が自覚できるになれば,中学生に一歩近づいていると言える。

 教科書や資料集から丸写ししたような作品を,

 「私はがんばりました」と胸をはって紹介している子どもに,思考力が身についているとは考えにくい。

 そう。

 だれでもできることが,自分もできた。

 それが「やりがい」なのである。

 そうやって,全体の学力は下がっていく。

 「調べ活動」という名の,「思考力をうばう時間」と,

 「発表活動」という名の,「時間つぶし」は,さすがに6年生くらいになったら,卒業しておいてほしい。

 中学生になる前に,「考える楽しさ」を味わっておいてもらいたい。

 学習というのは,「理解したつもり」になって得意がるものではない。

 「考えてもなかなか答えが出ない」ことに,食らいついていく力をつけるのが学習の重要な一面である。


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なぜ中学生は「発表」を嫌がるか?

 中学生は,そういう年頃だから,と納得する指導力不足の教師がいる。

 中学生に密着して生活してみればよい。

 友達同士で,本当によく「発表」し合っている。

 学級の中でも,自分にとって切実な問題が起これば,真剣に「発表」することになる。

 中学生が「発表」を嫌がるのは,

 簡単な話で,

 「発表」する価値を見いだしていないからである。

 評価がうるさくなってからは,

 きめ細かく「評価される」ことを意識しながら発表しなければならない。

 自信がない生徒は,委縮にするに決まっている。

 「評価」を前提とした学習活動というのは,殺伐としたものである。

 「発表したいこと」がなければ,「発表させなくてよい」のである。

 「発表する価値」を見いださせない教育は,何を育てられるというのか。

 学習課題が本当に適切なものか。

 ノートや本にあるものを,ただうつしてきて「まとめた」気にさせるような低レベルの授業をしているようでは,学力は身につかない。

 「発表」に意欲をもつ子どもを育てたければ,「考えること」に意欲をもてる「課題」がなければだめなのである。

 でなければ,「発表」は「ノルマ」となる。

 「ノルマ」という言葉からすぐに連想してほしい光景がある。

 シベリア抑留。強制労働。

 「ノルマ」が流行語になった,当時の様子を思い浮かべてほしい。

 教師はそれと同じことをさせているかもしれないのである。


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答えを自分で探させる教育をするために

 教育が,短期的な子どもの変容ばかりに目を向けるようになって,

 子どもの成長は余計に見えにくくなった。

 早期教育が「長期的な視点に基づく」ものとは限らない。

 目の前の子どもに,もっと必要なものはないか。

 親や教師が真剣に考えるべきである。

 英語の話を,英語の専門家に聞くのは,やめた方がよい。

 教育の話を,教育の専門家に聞くのも,無駄なことが多いことくらいわかっている。

 学校という場は,公的な場だが,

 学校という場での教育に協力してくれるかどうかは,

 その学校の教師と協力者とのつながりで決まる。

 子どもと多様な人との交流を演出するのは,教師の仕事であって,行政の事務方の仕事ではない。

 成果はすぐに表れる。

 だから,遠慮することはないのである。

 これを邪魔する人間が,公立学校の場合には,校内にいるのが大変残念なことである。
 
 答えは自分で探す。

 そういう生き方を学校という場で教師自身がしない限り,

 教育者として胸を張ることはできない。

 そういう意味では,行政の顔色をうかがいながら仕事をしている人間たちというのは,

 答えを自分で探す人材を育てることはできないばかりか,

 「答え」を安易に知りたがる,「思考力」のない自分たちのような人間を再生産してしまうことになる。

 「答え」を薬物にたとえれば,

 薬物中毒患者だらけの国になるということである。


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持続不可能な組織の人間たちが語る持続可能な世界の不思議

 世代交代がうまくいっている組織と,そうでない組織がある。

 今,「持続可能性」は,「地球規模」の話より,もっと「内輪の組織」の話の方が切実である。

 でも,だれもそこに解決策を見いだすことなく,

 「地球規模」の話をしている。

 しんくぐろーばる,のっとしんくろーかるである。

 どこにも

 あくと

 がない。

 お前はどうなんだと聞かれると,

 組織外だから,どうにもできない。

 組織外だからこそ言えることかもしれないが,

 組織外のやつには言う資格がない,

 というのがこの国の掟である。

 中国が一人っ子政策をやめたら,

 どういう現象が起こるか,

 日本人にはこわすぎて想像したくなくなるのはわかるが,

 対策を立てておく必要があるだろう。

 そのために,

 もう実質的に「必要のない」組織を早く解体しなければならない。

 抵抗する人もあと10年でいなくなるだろう。

 だから,日本は10年間,何もしないだろう。

 日本は,危機が見えている,くらいの段階では,何もしない。

 危機が背中にふれてようやく,どうしようか,と考え始める。

 危機でおしつぶされないと,変われない国,という「看板」を早くおろさなければならない。

 でも,無理か。

 だれも責任を負いたくないから。


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心が貧困な教師たちの教育論

 子どもの学力と母親の学歴の相関をとったり,

 家庭の貧困が子どもに与える影響を憂えたりと,

 教育を飯のタネや話のタネ=「おもちゃ」にしている人間が少なくない。

 確かなことが一つある。

 教師には,子どもの生き方を変えるような影響力を発揮できる,「学校」という場がある。

 「学校」という場を,どう生かすかは,教師の力量にかかっている。

 はっきり言って,機械などは必要ない。

 昔から,「学校」で子どもが本当の意味で学ぶべきことに,大きな変化はない。

 しかし,教師が「学校」を生かすことができなくなってきた。

 「機械」に頼ろうとする人間が増えているが,「機械」を頼りにしてもしなくても,できることがある。

 どうして教師の「教育力」が低下してきているのか。

 「豊かさ」が実感できない,「心の貧しさ」だけが際立つ「豊かな」時代になったからか。

 家庭が豊かになり,

 子どもが少なくなり,

 そういう環境で育った子どもが教師になってきている。

 昔は,家庭が貧しく,

 子どもの数が多く,したがって親戚の数が多く,

 多くの大人に成長を見守られながら,小さいときから今に至る教師が減ってきている。

 心が貧困になるのは,さまざまな人間とのかかわりが薄れてきているからだと考えることもできよう。

 おばさん,おじさんにも,いろんなタイプの人,いろんな性格の人がいる。

 おじいちゃん,おばあちゃんも。

 何をしてあげれば喜び,何を嫌がるのか。

 いろんなタイプの人と接してきた人間は,

 どんな「親」がクレームに来ようが,かわいいものだと余裕で迎えられる。

 「そんな,大人,見たことない」なんて反応でパニックになるような,「優秀な教師」が増えているのではないか。

 それは,豊かな社会で人間らしいふれあいが乏しくなったからではないか。

 心が貧しいというか,経験の貧しさも含めて文章ににじみ出てくる人がいる。

 子どもの心配より,自分の心配をすべきである。

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教師を信用してよいのか?

 日本人は,「きれい」な話が表面的には好きであるが,ネット上の世界を見ればわかるように,本音の部分では相当に「言いたいこと」を言っている。

 それが,本来の「自由」な世界である。

 もちろん,「頭がおかしい」とかいう言葉を見知らぬ人に投げかけてはいけない。

 これはご法度である。

 どうしてもやめられない人がいる。

 それをおもしろがって見ている人がいる。

 それは見る人の自由である。

 教師は信用できるのか?

 映画「悪の教典」を見たAKBの大島優子は嫌悪感を隠しきれなかったようだ。

 教師は信用できるから,教師なのである。

 信用できなくなった人間は,いったい何なのだろう。

 生徒が教師の問題を原因にして学校に行きたくなくなるのは,ごくごく当然のことである。

 教師も人間だ,というのは,「きれい」な世界の・・・・わかりやすく言い直せば,「きれいごと」の世界の言葉である。

 教師は公務員である。

 公務員そのもの自体が信用されていないという問題もあるが,

 公務員という存在を,憲法が規定しているような,憲法を守らなければならない,そういう立場のものと考えれば,教育者という以前に,その資質に欠けた人間が教育公務員になってしまっているという現実がある。

 試験に受かったのだから・・・・などという,合格してから勉強しなくなる東大生を知らない「世間知らず」が教師をかばっていても何も始まらない。

 あの「公務員試験」「国家試験」が,あまりにも「知力偏重」のものであることを,「高校受験」「大学受験」などを見直す前に,決定的に反省していかなければならない。

 こういう話は,選挙の争点にはなりようがないが,ときどき,国民が決める「争点」ごとに,候補者に討論させるような機会をもってほしい。
 
 免許更新講習は今,何回り目くらいだったか。

 役に立たない講習を一刀両断にすべきである。

 私はその役に立たない講習(テキストで自習というもの)を受けたが,最後の試験は国語の問題だった。採用試験より易しかった。そうでないと,本当に「不合格」にせざるを得ない教員が出てくるからであろう。

 「全員が受かることになっている試験」に,何の意味があるというのか。

 本当の意味の免許更新講習に戻す。今の政権ではだれもそれを言えないが,政権再交代が実現しても,望み薄だろう。

 どのレベルの教師がどのように問題なのかという,具体的なイメージが,国民の目にふれていないのである。

 子どもには,少なくとも,信用ができる教師の教育を受ける権利を認めてほしい。

 学校説明会には,管理職は必要ない。どうせ2~3年でいなくなるのである。

 ベテランの教師,若い教師,いろいろな教師と「懇談」ができる機会をもってほしい。

 1分間スピーチでもいい。

 教師の「話」を聴きたい。

 でも,どの学校も実現しないだろう。

 それが公立学校らしいところである。


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家庭教育のせいにしたがるのはわかるが・・・

 それは,あまりに露骨すぎないか。

 自分の指導に限界があるという自覚をもっているのはわかるが,もし,教育に情熱がある教師ならば,それを家庭のせいにして納得するだろうか。

 家庭の中のことは,超能力者ではない教師は,知らないはずである。

 自分の指導の成果が出せなかった子どもの家庭に,いちいち「聞き取り調査」をしたのだろうか。

 教師は,何かにつけ,責任逃れをしたがる。

 いじめの対策もそう。

 学力向上もそう。

 子ども自身のせいにする。

 親のせいにする。

 まず,自分の姿を見てみることである。

 才能の芽を摘むことはそう難しいことではない。

 「そういう教え方をすれば,子どものやる気が失われる。改めてほしい」

 という親の訴えに,なぜ耳を貸さなかったのか。

 自分の記事に,「なぜ子どもが伸びないのか」の答えはたくさん示されている。

 自分が原因であることを,嫌でも認めたくない人間は,本当に多い。

 
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続・どうしたら「一人前」の教師になれるか?

 前回の記事は,学年などの同僚教師から認められるようになることを主眼においた「一人前」像であった。

 教師の場合,「手抜きだけは一人前」とか,「文句とか不平不満だけは一人前」なんていうありがたくない「適正な評価」を受けることも多いので,「よい同僚に恵まれるかどうか」も教師としての成長に欠かせない要素である。

 今回は,教科指導において「一人前」になる方法を考える。

 ここで忘れてはならないのは,

 「自分ができること」と「教えること」は別のことだというごくごく当たり前のことである。

 「教えること」の本質をよく鍛えてくれる大学院ならいいのだが,

 「自分ができること」を増やそうとするだけの大学院では,「一人前」になるための教師の資質は育たない。

 
 「教える」という仕事で「一人前」になるためには,

 「生徒がよりよく学ぶ」ように「教える」訓練を積まないとだめである。

 受験学力が必要な教科学習の力が,すべて「テスト」で測れるかのように誤解をしている人,

 学校の授業が,塾のように進められていると誤解している人がいるが,

 学校における教科の学習には,「意欲的に学べる」しかけが必ずあるはずである。

 「必ず」と書いたのは,そういう「評価」をすることになっているから。ただ,指導はしていないが評価だけはしている,という例はあるだろう。そういう教師は「一人前」どころか,「偽物」なのである。

 「意欲的に学ぶ」ために,すぐに「競争」を思い浮かべる人がいるかもしれないが,それが教科内容の本質とは関係ないことくらい,だれでもわかるだろう。

 このような,本質とはかけ離れた方法で子どもの「意欲」を語る教師は,「偽物」である。

 世の中には,この「偽物」を増やすための仕組みを,出版業界がつくっている。

 教科教育の本当のおもしろさを子どもに実感させる教師が,「一人前」の教師である。

 どうしたら,その段階に達することができるか。

 教師はだれでも,自分が「主役」になりがたる。

 自分が「主役」の気分でいるうち(それを自覚しないことが問題なのだが)は,ただの「スピーカー」にすぎない。

 スピーカーには,聴いている人がどんな思いを抱いているかを感じとることができない。

 学習の「主役」「主体」は,あくまでも子どもであり,その子どもがどんな「変化」を見せるのかを「把握すること」が,教師のつとめである。

 ここにくるまでに,最低でも10年はかかるだろうか。

 小学校の教師の場合は,もう少し早く「一人前」になれるかもしれない。

 それは,同じ子どもと一緒にいる時間が,非常に長いから。

 次に大事になってくるのは,

 「保護者対応」が「一人前」の教師だろうか・・・?


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アマチュアに説教するプロ?

 教員を目指している大学生や大学院生の中には,塾や予備校,家庭教師などのアルバイトをしている人も多いだろう。

 学校で非常勤講師をしている人も,夜はそういうアルバイトをしているかもしれない。

 アルバイトでも,お金をとって教える以上は,「プロ」の自覚がなければならない。

 私の場合は,塾で教えていた生徒(の保護者)からの直接の依頼で,(内緒で)家庭教師をしていたこともあった。

 だから,公立学校の教師になった4月よりも,その直前の1月とか2月の方が,月の収入は多かった。

 勉強だけでなく運動もやりながら,アルバイトをしていたころが,おそらく人生の中では一番忙しかったときであろう。

 金をもらう以上は,プロである。だめな人間は,いつでも辞めさせられる,厳しさがある。

 「教える」プロの自覚がもてたから,教員を目指したのかもしれない。

 しかし,学校で働き始めたころは,自分が「プロ」という自覚はもてなかった。

 そもそも「先輩」「後輩」の上下関係が絶対的な社会に長くいたから,給料をもらいながらも,自分が「勉強させてもらっている」という感覚の方が強かった。夕食をおごってくれる「先輩」もいたから,大学1年生のころと同じような生活になった。

 よく「先輩」の教師を観察していると,わかったことがある。

 それは,「プロとしての自覚」をもっていることと,「プロといえる教師である」のは別のことだということ。

 プロ野球の選手でも,結果が出ずにすぐに消えていく人がいる。

 教師の場合は,それがない。

 教師は,「教える」プロ以前に,「学ぶ」プロでなければならない。

 ブログで,アマチュアに説教している人間がいる。

 人に説教する前に,自分が何ものかをよくよく考えなければいけない。

 書いていることと逆のことが平気で言える人間らしさが,にじみ出ている。

 こういう人間が,教育のプロだったとはとうてい思えない。

 いや,その反省をしているのだろう。

 こういうやり方をしてはいけない,ということをわからせるために,素直に自分らしさを表現している。

 そう「学ぶ」ことが,プロの仕事である。


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どうしたら「一人前」の教師になれるか?

 優秀な教師の養成は,国家的な課題である。

 しかし,日本は横並び意識が非常に強い国で,一般社会も学校も,「優秀な教師を育てる」という意識は皆無に等しかった。

 だから,「優秀な教師は昇給を早める」なんて言われたら,優秀な教師も含めて反発するようになる。

 教師たちはお互いの顔色を気にしながら,できるだけ「優秀」にならないように,

 人から見えないところで「全力」を尽くすようになった。

 部活動(だけ)に命をかけているというか,他より明らかに「本気さ」が際立っている教員がいる。

 日本は,「全力は尽くしている」が,「実力のない人」にとても甘いというか,やさしい国である。

 自分より少しでも「優秀なにおい」がする教員に対して,露骨に「嫌な目」をしたり,投げやりな言動をする教員がいる。

 教師教育の「高度化」を大学院に担わせようとする人間には,こういう小中学校現場の教員の「習性」が理解できていない。

 だからほとんど「逆効果」に近い現状が生まれている。

 自分を「優秀」だと勘違いしている教師でも,自校ではおとなしくしている。

 しかし,一歩,学校から足を踏み出すと,急に「元気」になる。

 「よそもの」になると,学校内のヘンな「習性」が消える。

 これが際立っているのが「小学校」である。

 小学校教師は,「すべて」を求められるために,どうしたって学校内では「ボロ」がでる。

 しかし「外」に出て,自分の得意なこと,成功したことだけを語っているうちは,そんな「ボロ」には気づかれないですむ。

 お互いにその「ボロ」を知らずにすむ間柄では,非常にスムーズにコミュニケーションが進む。

 「優秀」になりたい小学校教師が「外に出たがる」理由がここにある。

 そして最後に行きつく先は,大学の教員。行き止まりである。

 どうしたら一人前の教師になれるか?

 そのためには,「優秀な教師をつくろう」という,「優秀でない自覚がある経験豊富な教師たち」の強い信念が必要なのである。

 「一人前の教師になったな」

 という声をかけてくれる教師集団,その瞬間の言葉に本当の意味を感じられる教師集団が,真に「一人前の教師」をつくるのである。

 「優秀な教師」になる道は,容易ではない。

 特に,安易に「優秀な教師」の真似をしようとする人間,させようとする人間が,そういう教師が生まれる道を閉ざしてしまっている。

 小学校では特に,「こういう方法でうまくいく」ということが語りやすい。

 実際に,「こういう方法でうまくいった」という実践もあるだろう。

 しかし,そこには教師が「一人前」になれない重大な問題が隠れている。

 ここを教師教育の場面でしっかり理解させることができれば,大学や大学院は使命を果たしたことになる。

 私が教えた大学院生は,最低の指導案で最低の授業をしたおかげで,最高の教訓を得た。

 実践紹介をしてくれる人間=餌をくれる人間には,本当に近づきたくなるだろう。

 しかし,それが実力のつかない最大の原因なのである。


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スマホにおされ,デジカメが売れなくなったように・・・・

 ある人が,学校での子どもの拘束時間を午前中にして,午後は習い事に・・・・などという「提案?」をしていたように記憶していますが,

 そうすれば塾が大繁盛し,「勉強して学力を身につけるところは塾」

 学校は「友達と遊ぶところ。協調性を身につけるところ」という図式がはっきりして,そのうち本当に学校がいらなくなってしまうように思えます。

 宿泊をともなう「体験的な学習」を実施している塾もあるので,協調性もこっちで養えるようになる。

 学校が「デジカメ」と同じ運命をたどることがないように願いたいものですが,

 「デジカメ」の機能もわからない人が教えているというのも現実問題です。

 私も,デジカメのGPS機能を使いこなして地図をつくっている子どもを見たときはびっくりしました。


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「いじめ認知件数」には何の意味もないので・・・

 「いじめ解決件数」の調査でもいたしますか・・・・。

 文部科学省の過去の調査に見える数字には,ほとんど意味のないものがありますね。

 「いじめ認知件数」がどれくらいいい加減なものかは,

 鹿児島:福岡=159:1という数字からもわかります。

 たしかな「基準」がないからです。

 この数字に意味がないことは,文科省も認識しているようです。

 実態の方に意味があると。

 しかし,これは「評定」も同じこと。

 「評定」がいかにいい加減なものかは,文部省以外の人はみんな実感しているはず。

 財務省あたりが,本腰を入れて「教育制度改革」に取り組めれば,日本の教育にも明るい見通しが立つかもしれませんね。

 以前に財務省が

 「少人数制にすれば学力が向上する」ことを否定しましたが,

 それは現場を知っている人間なら,だれでもわかることです。

 文部科学省をたよる都道府県教育委員会,都道府県教育委員会をたよる市町村教育委員会という図式からそろそろ脱却するために,

 せめて,日本の将来にとって最も重要だと思われる,

 「人を育てること」に関しては,

 省庁を横断した新しい組織をつくる時代になろうとしているのかもしれません。

 ただでさえ肩身の狭いをしている文科省の事務方です。

 そろそろ,ギブアップしたらどうでしょう。

 予算がとれればいいという感覚から脱却できる,

 「崇高な理想」をもった組織はつくれないものでしょうか。

 
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「競争で協調性を育てる」人が見失っているもの

 いやに長い記事だが,タイトルに見合う内容が何もない。

 どこまでも困った人である。

 一応,タイトルに正対していると考えられる部分には,おかしなことが書いてあった。

 趣旨は,「学校は競争で協調性を育てられる」ということ。

 こういう考え方の教師がいるから,公立学校は「ダメ」と見放されるのだろう。

 「競争で学力を高める」教育を批判しているはずだったのだが,

 「どうやったら協調性が育つ」のか,アイデアが浮かばなかったらしい。

 で,結果として,

 「グループ間で競争をさせれば,子どもは協調せざるを得ない状況になる」

 こうして,「協調性が育つ」。

 なんて安易な話が飛び出している。

 これは,安っぽい「すぐにできる~」本に書かれているような,

 「子どもだまし」の話であって,

 「教育の話」ではないことは,教職課程の学習をしている大学生でもわかるだろう。

 スポーツの世界も話題に出しているから,

 「協調性」の意味を考えるレベルが非常に低いことが露呈してしまっている。

 大きなものを見落としている。

 その見落としているものが,「教育」の核になるものであることが,どうも理解できないらしい。

 「核」のない教育をしてきたからこそ,今の姿がある。

 こういう教師には,最も自分が「気に入らなかった生徒」を思い浮かべてもらいたい。

 その生徒が持っていたものが,「とても大切なもの」だったことに気づけなければ,

 ものを教える人間としての資格はないのだ。


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子どもは教師を選んで態度を変える

 教育現場に立った経験がある人はすぐにわかると思う。

 すべての人には,自分の学校時代を思い出してもらえばいい。

 子どもは,先生によって態度を変える・・・・・・

 「最適化」をはかるのである。

 その技術たるや,学校によってはことのほか「高度」で,

 A先生が語る「学級観」とB先生が語るそれが180度違っている,ということも起こりうる。

 「どれが本当の学級像か」は,

 実は,

 だれにもわからない

 のである。

 一応,「これが学級像だ」と言えるようになっているものは,

 担任教師が語るそれである。

 しかし,これが「実態」と全く異なっている場合がある。

 担任教師の指導力を疑わなければいけない場面である。

 子どもは,教師を選んで態度を変えるのである。

 「いじめ対策教員」は,公言しなくても,いつか子どもには知られる存在である。

 場合によっては,子どもが本気でSOSを発信できる相手になるかもしれない。

 しかし,それでは担任教師の立場がない。

 そこまで子どもが気をつかうと,

 担任教師だけではなく,

 「いじめ対策教員」も死んでしまうのである。

 私はこの政策には何の効果もないばかりか,

 弊害の方が大きいと思われる。

 こういうことは,本当に「いじめ」が深刻で,その対応に苦慮した経験がある教員でないと理解できないことかもしれない。

 
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「責任」のスルーパスが大好きな学校づくりに荷担する行政

 ニュースが出てから,

 「私がもし『いじめ対策教員』になったら,どうやって仕事をするか」

 を考えながら,過ごしてみた。

 今は学級担任なので,「担任でなかったら」という想定をしなければいけないのだが,まずはそれが難しい。

 当然,授業を受け持っていない学年の生徒にまで,目を向けなければならない。

 まず,すべての生徒の名前と,生活上のアンケートなどのデータを頭の中に入れなければならない。

 所属している部活動と,そこでのポジション,出席状況,

 成績上の課題,

 過去の生徒間のトラブル・・・・・

 それらすべて,全学年のデータを頭の中に入れるのは,規模が大きい学校ではなかなか大変そうである。

 独自のアンケート調査をつくる。

 当然,親向けの調査もする。

 大津市の問題以後,すでに実施している自治体も多いようである。

 アンケート結果を見て,場合によっては呼び出して話を聞く。

 授業以外の時間帯で,呼び出して話を聞く時間というのは,中学校の場合,案外難しい。

 その時間をぬって,話を聞いている・・・・うちに,あちこちで問題が発生する。

 その問題の背景に,「いじめ」がからんでいないかどうかを瞬時に判断し・・・・・。

 ここまで考えて,

 「いじめ対策教員」は無駄である以上に,

 さらに学校教育の質や教師の質を低下させるものであることに気づいた。

 次の一文が,中学校教育を語る上で,最重要なことである。

 「いじめに対応できる能力」のある教師を,「担任をもたせない」でいることは,あり得ない。

 「いじめ対策教員」などという,担任をもたないで,「いじめ」の問題にかかわる「専門家」など,中学校現場には「いらない」のである。

 「担任をもつ」力量がない教師が仮に「いじめ対策教員」になろうものなら,問題の解決どころか,

 「泥沼化」しかねない重大な結末を招きかねない。

 生活指導が「充実した」中学校に勤務している教師なら,直感でわかることである。

 「事務方」=素人の発案なのか,どうかは,問い合わせてみればわかるだろう。

 「余った教師」をまわされて,「いじめ」に関わらせるのは,危険である。

 無責任な担任教師が,能力のない教師に問題をふって,課題が山積してくる。

 日本人が大好きな「責任のスルーパス」のオンパレードになる。 

 よくよく考えるべきである。

 そのうち,「いじめ対策教員の仕事マニュアル」ができるだろう。

 すでにその中身の想像はつく。

 しかし,まずやるべきなのは,一人一人の教員の意識改革である。

 そう。

 今この瞬間に,「いじめ」に荷担している教師がいる。

 こういう問題の解決に学校が努力しなければならない。

 
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「いじめ対応教諭」導入で「いじめ件数」激増

 「いじめ」は「小さい物」も含めれば,いくらでもある。

 今までの「報告書」に含まれない「いじめ」が,「数に入る」ようになれば,おそらく「いじめ発生件数」は激増することになるだろう。

 また,「教員が増員される」ために,「いじめの件数が多い」ことが条件なら,今まで隠してきた数を含めればよい。

 「いじめ対応教諭」の意味をどうとらえるかは学校によってまちまちだろうが,

 生徒や保護者からすると,微妙な話である。

 「いじめ対応教諭」がいることが,学校にとって「よい面」と見られるか,「悪い面」と見られるか。

 「いじめ対応教諭」に「いじめ」を相談する子どもがいるだろうか。

 「いじめ対応教諭」が入ったために,「いじめ」がより陰湿化,学校外で行われる,などの変化はおこらないか。

 いずれにせよ,「先生が余っている」ことは確からしい。


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日本で「本物」が育たない理由

 日本はある時期から,「文化の庶民化」がスムーズに行われるようになった。

 日本が底力をもっていることの理由の一つがここにある。

 ヨーロッパで,数々の高価な楽器が奏でる音楽を,楽しんでいたのはどういう人たちだったか。

 まさか,将来の「極東の地」で,「一般庶民」がそれを聴くだけでなく,演奏してしまうような時代が来るとは,想像もしていなかったであろう。

 日本の「文化の広がり」は私たちから見ればとてもすばらしいものだが,

 古き伝統というか「本物」を追究している人にとっては,どんなふうに思われているだろう。

 人間としてのスケールが極端に小さい教師が,音楽を教えてきたことがわかる記事がある。

 音楽は,日本の「ウサギ小屋」と揶揄されるような,ごくごくせまい空間で「聴く」ものではなかった。

 そういうところで響く音を聴いて育った人間が,音楽の教師となる。

 部屋で聴くためのスピーカーにこだわりを感じるような「小ささ」が,日本人のよさでもあることは確か。

 しかし,人間としてのスケールが小さくなって当然だろう。

 心も思考範囲もせまい。

 私の学校の音楽教師は,毎年,休暇をとってヨーロッパをとびまわっている。

 その人の,人間としてのスケールの大きさは,とてもまねができるものではない。

 こういう人に教育を受ける子どもは幸せである。

 賞をとるための指導ができるとか,コンクールの上位をねらえる指導ができるとか,そういう「小さい」ことを問題にするのが,日本の音楽の世界である。

 体育で柔道やダンスが必修となったように,音楽で演歌や歌謡曲,ロックがとりあげられる日はくるのだろうか。 


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人として生き,人を生かし,人を生む教師

 あの野村監督と他の監督の大きな違いは,

 ミーティングにあったそうである。

 その場で野村監督は,繰り返し「人生観」を説いた。

 人として生まれた選手が,

 人として生き,

 人を生かし,

 人を生む

 とは何か。

 これを教師にあてはめてみれば,

 教師となった運命を,自分がどうとらえるか,から始め,

 教師として生きるとは,どういうことか(責任と使命)

 教師として,人を生かすとは,どういうことか(仕事,チーム力,教育力)

 教師として,人を生む=つくるとは,どういうことか(育成,継続)

 教えることが仕事の教師は,

 教えられることを嫌がる。

 でも,こういう「人生観」を語ってくれる人が,

 身近にいたかどうかでは,その人の教師人生は大きく違ったものになるだろう。

 そこかしこに,

 教師としての責任感や使命感が感じられず,

 自分たちに従わない=協調性がないと判断して組織から排除する人間がいる。

 人間としてのスケールが,小さすぎるのである。

 考えてみれば,教師という職業は,なかなか

 「スケールの大きさ」を示しにくいものではある。

 スカート丈の長さを注意しなければならないし,

 危険な遊びをしている生徒をとめなければならない。

 ただ,それはそれ,授業は授業である。

 40人の目や耳を50分間にもわたってひきつけ続けることができる条件を与えられた人間はめったにいない。

 どう生きるか。

 それを常に自らに問える教師でありたい。


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野球だけでなく教育も知らない人間が語る「知能の足りない人」の話

 また「知能が足りない」発言が飛び出した。

 この発言者を「知能判定ブロガー」と呼ぼう。

 あるいは,「頭が悪い」という言葉も大好きだから,

 「頭の悪さ判定ブロガー」でもいいだろう。

 このブロガー,いつも本気で「知能が悪い」「頭が悪い」と罵倒しているから,いつも注目を集めている。

 「真正」である。

 まだ,「小学校を卒業しても,○年生程度の学力がつかない子どもは知能が足りないからだ」と書いているところは読んだことがない。さすがに元教師だけあって,そこまで書く勇気はないのだろう。


 しかし,「小学校を卒業するときには,○年生程度の学力を保証せよ」という(塾経営者の)要望に対して,

 「どんなに学力が低くても留年させることはない=卒業させるのが当たり前だ」という理由からか,

 その要望をした人(塾経営者)を「知能が足りない」人間だと主張している。

 「なぜ○年生程度」の「○」が明かされていないかは,「知能判定ブロガー」の都合によるものだろう。

 
 この「知能判定ブロガー」の欠点を一言でいえば,

 「相手の人間の気持ちを理解しようとしない」ことに尽きる。

 「相手の言いたいことは何か」を理解しようとしない。

 その理由を聞かれたら,もしかしたら,「私は超能力者ではないから」と答えるかもしれない。

 「相手の人間の思い」を受け止められない理由は,自分では知っているはずなのだが,なぜか,それを自分にだけは適用しようとしない。そういう「防御能力」は,最強なのである。だから,「壊れる」ことがないし,「あきらめる」ことも決してない。絶対に「反省する」こともない。

 
 自分もかかわってきた小学校教育の課題について,「恥の上塗り」をしているのが現状である。

 それがわからないらしい。

 書けば書くほど恥さらしである。おもしろがってそれを煽っているコメンテーターがいる。


 「知能判定ブロガー」は,繰り返し「学校は学力を保証する場ではない」ことを主張している。

 学力は,子どもが努力してつけるものであって,学力がつかないのは,子どもの努力が足りないせいなのだそうだ。
 
 バットを何にたとえているのか今一つ不明であるが,問題は,

 「卒業時に,○年生程度の学力を身に付けている子ども」を育てるのは,そう難しいことではないはずなのに,それを「必ずヒットが打てるバット」にたとえていることである。

 こんなたとえは成立しない。なぜなら,「必ずヒットが打てるバット」など存在しないからだ。

 「知能判定ブロガー」の知能によれば,「知能が足りない」ことの理由は,「存在しない」ことを言っているから,「知能が足りない」というものだ。しかし,そういうたとえをしているのは自分自身なのである。

 自分の都合のよいような「たとえ」を持ち出していることは,おそらく小学校卒業程度の学力のある子どもならわかる。


 「知能判定ブロガー」には,まずこのことを反省してほしい。

 「必ずヒットが打てるバット」などは存在しないのである。

 しかし,「卒業時に,○年生程度の学力を身に付けさせる」ことは,不可能ではないはずだ。もちろん,特別は配慮を要する子どもはいる。しかし,ありとあらゆる子ども全員に,学力を・・・・という要望ではないだろうことは,そう知能を必要としなくてもわかる話である。

 私がわかりやすい「たとえ話」をお贈りします。

 学校の教師が,子どもにスポンジ製のバットを与えて,「これでホームランを打て」と要求した場合,子どもでも「これでは打てない」ことがわかる。どんなに努力しても,子どもはホームランが打てない。これはだれのせいだろうか。

 学校の教師が,プロ野球のホームランバッターが使っているバットをもらってきて,「これでホームランを打て」と子どもに要求した場合も,同じである。子どもは「打てない」ことがわかる。小学生には重すぎるからだ。

 小学校の教師がしなければならない仕事は何か。

 「ホームランを打たせる」ことではない。
 
 「必ずヒットを打たせる」ことでもない。

 まずはバットが振れる子どもに育てることだ。

 なぜバットを振るのか。

 ボールを打つためである。

 ボールを打つねらいはさまざまである。

 野球を知らない人間は,ただヒットが打てればいい,ホームランが打てればいい,と考えてしまう。

 そうではない。 

 また,だれがボールを投げるのか。

 それは教師であったり,子ども同士であってもよい。

 ボールを打つ楽しさを味わわせることが大事だ。

 今の小学校では,それすらできていない現状がある。

 バットが振れればそれで十分。ボールがバットに当たれば,それだけで大満足。という程度の内容が小学校教育だ,といったら,怒る人もいるだろう。

 怒ってもらっていい。

 「私は何としても,全員にヒットを打たせたい」

 という「情熱」が,子どもを動かすこともある。

 しかし,その「情熱」が感じられないのである。

 「責任感」が伝わってこないのである。

 どうしてそこまで堂々と,「責任逃れ」の立場でいられるのかが不思議である。

 
 あのコメンテーターに,ここに登場してその理由を説明してもらいたい。

 でも,そうすることでばれてしまうことがあるから,不可能なのだろう。

 
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協調性を「求める」人間の感覚が「いじめ」を生む

 特定の人間に「協調性がない」という評価を下し,集団から排除するのが,「いじめ」の方法の一つである。

 高い能力や優れた感性をもちながら,「自分の主張を大事にする」ことを理由に,周囲の人間によって「邪魔者扱い」される。

 社会に出たらこれが当然だ,と教えるような人間に,いじめを防ぐことはできない。

 というより,いじめに加担するようになるだろう。

 協調性は「求める」ことで得るものなのかどうかは,「教育」を語ることができる人間ならわかるだろう。

 協調性を育てるのに必要なものは何か。

 それを考えるのが「教育」の仕事である。

 協調性に欠ける人間を「えさ」にすることではない。

 「そんなに遊んでばかりいると,お父さんのようになってしまうでしょう」

 と子どもを諭す母親から,教師は何を学ぶことができますか。


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私の「失敗からの逆転」 ~親を怒らせて成功~

 以前に書いた話がどこにあるか探す時間がなかったので,くり返しになりますが,書いておきます。

 私は二校目で三年生の学年主任兼学級担任になったのですが,

 「文化の違い」にまだなじんでいないころ,

 学級委員を「叱って」,その生徒だけでなく親も怒り,

 苦情の電話をかけてきたことがありました。

 親の怒りは,約20分間続きましたが,あとの10分は,納得と感謝の言葉で終わり。

 どうやって親を説得できたのか。

 要は,気持ちが伝わったからですね。

 私の仕事を理解してくれたのです。

 私が異動してすぐのときに,荷物を運んでくれたことや,学級委員として中立の立場で教師と生徒との間に立ってうまく調整したくれたことなど,私が「たくさんのいいことを見たり聞いたりして,子どもに感謝し,そして期待している」ことを理解してもらったのです。

 そして,なぜ私が「学級委員だけ」を叱ったのかを理解してくれたからです。

 いろいろ言いましたが,最後にその親は,

 「そこまで言ってくれる先生は,今まで一人もいなかった」と語りました。

 親が怒ってくれて,「指導」は成功したのです。

 子どもを「指導」してくれたのは,この場合は親ですが,そう導いたのは私です。

 だから,「指導」は成功した,と表現しました。

 もし親が怒ってくれなかったら,苦情を言ってきてくれなかったら,

 私の「はたらきかけ」は「失敗」に終わり,なかなか関係を回復させることは難しかったかもしれません。


 次の日,その親は,子どもにいろいろと語ってくれたのでしょう。

 ちょっと恥ずかしげな表情で,私のところに会いにきました。

 中学生は,一度,心のつながりが切れても,

 何かのきっかけでどうにかつなぎ直すことが可能です。

 そして,そうやってつながると,今度はちょっとやそっとのことでは切れなくなります。

 切れた,ということは,「終わり」ではなく,「始まり」なのです。

 私がその「親」に立ち向かったのは,

 こちらに「信念」があったことと,

 子どもに対するゆらぎのない「期待」「希望」があったからです。

 そういう「期待」「希望」がなければ,立て直せないと思った学校だったのです。

 「子どもを叱るな」なんていう親だからこそ,

 子どもに対する愛情を教師がきちんと伝えることができる「情熱」と「情報」をもっていれば,逆に教師に対する信頼を高めてくれることにつながるのです。 

 親から逃げる必要はありません。

 むしろ,立ち向かうことです。

 チャンスなんです。

 「子どもを叱るな」なんていう親から,「私は逃げます」と宣言している方へ。

 あなたのところに「相談」に行ったら,何かいいことはあるのでしょうか。

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小学校教育の改善をまじめに考える人

 小学校で問題になるのは,ズバリ,教師の指導力である。

 「学校運営」なんて大げさな問題ではない。

 小学校は学級担任制なのだから。

 指導力に課題がある教師が,「問題」の「対象者」なのである。

 特に,指導力に課題がある教師が担任をもつと,それが表面化する。

 ある教師は,同僚が助けないから,あるいは批判を加えるから,改善しないんだと主張している。

 しかし,私から言わせれば,「批判する」方が健全なのである。

 今まで,批判をしてこなかったから,改善されなかったのである。

 こういう「課題のある教師」を放置して,適当に機嫌をとりながら,「問題」を「問題」してと見ない「同僚性」が,今のような「問題」を生んだのである。

 きっと,全く同じ「指導」をしてきたのに,「今になっておかしいと言われるのはおかしい」

 なんて寝ぼけたことを言っている大量採用の時代の教師がいるはずである。

 これが問題の根っこであることに,どうして教師は気づかないのか。

 気づいたら,自信を失ってしまうからか。

 やる気を失ってしまうからか。

 その指導力の低さが,長年にわたって子どもの自信ややる気の芽生えを摘み取ってきたことを反省することもせずに。

 自分たち教師のことより,子どもたちの方を見てほしい。

 どちらの方が,真剣に考えるべき方向なのか。

 小学校の指導力不足教員の問題を,

 すぐに解決したい学校は,「担任をはずす」ことですませることができる。

 私の子どもが通っていた学校でも,そういう教師がいた。

 算数の習熟度別クラスの担当になったのだが,そこでも問題を起こした。

 みんな算数が嫌いになってしまった。

 もし,担任をはずすという手をとらない(とれない)のであれば,

 「すぐに解決できる問題ではない」ことが,だれでもわかっている。

 たとえば,小学校の場合,学級崩壊の原因を解明できるのは,担任教師しかいないのである。
 
 だから,実際のところ,他の教師が相談に乗ってみたところで,指導力の低い担任教師が

 「教師のどういう言葉に子どもが反発し」

 「教師がどういう子どもの言葉を受け流し」たのかを語ることはできない。

 「ある教師が原因で学級がよくなったり悪くなったりするという思考法から脱却」してはいけないのである。

 正確にいえば,

 その教師の「どのような指導のあり方」が原因で,学級がどうなったのかを考えなければならない。

 しかし,鎖国状態の学級王国では,それを追究できるのは担任教師のみである。

 この教師に「追究能力」があれば,先に進めるのだが,そもそも「追究能力」があれば,学級は崩壊しない。

 こういう問題を本当にまじめに考える人なら,こういう「改善案」を出すだろう。

 「課題がある」教師が異動してきた場合,あるいは新規採用の教師の場合,その教師が子どもに対応している場面をすべてビデオにとり,子どもにかけた言葉,子どもが教師に向けて語った言葉を,すべて文字におこし,記録しておく。

 そうすることで,実際に「崩壊」したとき,何が原因かをつきとめることができるかもしれない。

 しかし,そんな労力をかけることはできない。

 つまり,本音は「考えるだけ無駄」なのである。

 同僚性がどうとかいうのは,ほとんど意味のない記事である。

 意味があるとすれば,そういう「考えるだけ無駄」という小学校の空気がよく伝わってくる記事だということ。

 ほとんど意味のない記事に限って,「褒め殺し」をしている嫌みなコメンテーターがついていくのも興味深い。

 なぜ,改善が難しいのか。

 簡単な話である。

 小学校の教師なら,みんなわかっている。

 指導力に課題のある教師には,

 「もっと勉強しろ」

 「とにかく力をつけろ」

 「子どもの声を聞け」

 「子どもの心にふれろ」

 としか言えないのである。

 そして,同僚ではなく,子どもや親の立場になれば,

 「あなたは辞めた方がいい」という結論に達する可能性もより高まるだろう。

 小学校教育の改善をまじめに考えるなら,

 学級担任制をやめることである。

 小学校の担任教師の顔がすぐに思い浮かべられない人,

 すぐに思い浮かべられる人で,あまいいい思い出のない人なら,

 なぜそれが望ましいかがわかるだろう。

 「当たり」がゼロで,みんな「はずれ」なら,そういう方向性の意義はわからないかもしれない。

 担任会で,すべての担任がすべての子どもの様子を詳しく知っているような環境になれば,中学校では当たり前の「同僚性」の意味が少しはわかってくれることと思われる。

 
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「指導する」と「叱る」の区別がつかない教師

 昔の人たちは,教師の子どもに対するはたらきかけをみんな「指導」だと勘違いする傾向があったらしい。

 ただ「叱る」こと,「型にはめる」ことが「指導」であるという勘違いのまま,仕事ができたのは,昔の話である。

 今,そういう勘違いが通用するのは,せいぜい部活動か進路指導という名の進学指導や就職指導くらいである。

 昔は,「指示」すればすんだことでも,今は「導いてあげる」ことまで配慮しなければ,成果は出ないし,子どもはおろか,親まで教師にくってかかる時代である。その親を教育したのは,「指示」しかしてこなった教師たちである。

 「型にはめる」ことで仕事がすんだ時代は,工夫も何も必要なかったから,
 
 教師たちには「指導力を向上」させるような努力はしなくてもすんだ。

 この弊害は,「指導力」「指導力の向上」の意味がわからない人間たちを生んだことである。

 今は,ただ普通に教師が「促したこと」でも,

 子どもには「叱られた」と受け止められることがある。

 教師が「私は叱った覚えはない」と開き直っても無駄である。

 子どもが「叱られた」と感じたからである。

 指示に愛情がこもっていなければ,反発する子どもや親がいて当然である。

 教師が子どもにとっての「憎しみ」「怨恨」の対象になるのである。

 今は,公の場で走り回っている子どもに対して,

 「お前たち,うるさい! 静かに座っていろ!」

 なんて叱りつけることは,ときに逆効果になる。

 こういう「銭湯のおやじ」のような人間は,もし今も同じようなことを続けたいのなら,医療保険にでも入っておいた方がいい。

 
 もし騒いでいる子どもたちの学校の教師に不満があるのなら,

 こんな嫌みをしてあげればいい。

 まず子どもたちに声をかけて呼び止め,

 「あなたたちの学校の先生にお話しがあるんだけど,連れて行ってくれる?」と嘘をつく。

 教師の近くまで来たら,子どもに問いかける。

 「みんな,どうしてここで,走り回っているのかな? ここは,みんなが運動する場所なのかな?」

 「みんなの席はどこか教えてくれる? ここに座っていてくれるかな?」

 中学生には使えない手だが,それくらいがちょうどいい小学校もあるだろう。

 ・・・・なんてくだらない話はどうでもいい。

 自分たちの「教育」の「成果」に,自分たちの「教育」が通用しなくなったことを実感している教師がいる。

 「どうしてこうなったのか」をふりかえってみてほしい。

 自分の子どもが「叱られる」ことに敏感な親を,子ども時代に教育した教師自身がふりかえってみるべきである。

 そういう親から,自分たちが逃げてはいけない。

 自分たちが「教育」してきた親である。

 その「教育」に,何が欠けていたのか。

 今の「教育」に,何が欠けているのか。

 答えはすでに見えている。

 「指導」になっていないことが,すべての原因である。

 決して,親のせいにしてはいけない。

 「立派」な自分の失敗事例を紹介してくれておきながら,それが「失敗事例」だという自覚がないところが読んでいてとても気の毒である。

 最後の方は,だれのことを言っているのかわからない部分がある。

 自分自身にきれいにあてはまっていることを書いて,自分で批判していることが,「人気」の秘訣だろうか。

 
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「教師に気に入られるため」の教育ブログづくりは破綻している

 私たち現役教師には,何の役にも立たないブログがある。

 寝ぼけた校長の悪口をいくら書いても,それは日々の教育実践には結びつかない。

 そういう校長を,どうすれば「変えることができたか」ならば,役に立つかもしれない。

 私は幸いにも,親からの苦情にひるんで「子どもを叱るな」なんておかしな圧力を教師に加えるような校長には出会ったことがない。

 しかし,もしそういう校長がいる,そういう校長のもとで,悩んでいる,という教師がいたとしたら,簡単な解決方法を示すことができる。

 教育委員会に話をすればいい。O市のような教育委員会でなければ。

 そういうときのために,一人くらい,信用できる指導主事と話ができるようにしておいてほしい。

 指導主事は,人事には直接かかわらないから,何の心配もいらない。

 もし,そういう指導主事がいなければ,教育長にお手紙を書いてしまえばいい。

 もし,その勇気がないなら,PTAという立場で,メールを入れてもいい。

 どんな手段でもいいから,「こういう圧力をかける校長がいる」ことを広めてしまえばいい。

 校長は変わるはずである。

 それをしないで,「校長の命令で,私は子どもを叱らない」なんて堂々としている教師は,子どもにとって迷惑だから,すぐにやめてほしい。

 校長の悪口のようなブログは,役に立たないだけならいいのだが,

 その内容に共感を覚えてしまうような教師がいるのが非常に気にかかる。

 「そうそう,うちは校長がダメだから,いい教育ができない・・・」って・・・。

 校長にしろ,教員にしろ,課題を挙げ出せばきりがない。

 まず,自分の課題に目を向けなければならない。

 それを促すことのない情報は,本質的な問題の解決には結びつかない。

 教育の問題を正面から取り上げようとする「自覚」が感じられない。

 寝ぼけた教師たちの何をどう「応援しよう」としているのか。

 教育を変えるために動くことがおっくうな人間が今より増えれば,公教育など簡単に破綻する。

 「新しい提案」に国民が飛び乗るときが,「公教育の終わり」のときである。

 そしてそれはきっと,「教育の終わり」のときである。

 すでに「終わっている」教育を見てきた人たちには,その危機感はわからないだろう。


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「責任はオレがもつから~」なんていう校長はいない

 それはドラマだけの話。

 あるいは,入学式・卒業式の際に行われる教育委員会の調査に,「虚偽の報告」をしている学校の話。

 少数だとは思うが,教員の「違法行為」に校長が荷担してしまっている場合の話。

 こんな言葉を真に受ける大人はいない。

 教員が何か問題を起こした場合は,自分で責任をとるのが当たり前。

 校長が処分を肩代わりしてくれることはない。

 「指導に熱が入るあまりに起こした」なんていうありきたりの理由で起こされた「体罰」なんかは,教員だけでなく,校長も処分の対象になるという話。

 学校に入ってくる,指導に対する苦情の多くは,管理職のところでとめられる場合が多いのは確か。

 教師が本当に「?印」だと,苦情の内容を伝えただけで状況が悪化する場合があるから。

 しかし,校長は,できるだけ苦情の内容はオープンにしないといけない。

 教育は実践者の強い責任感によって成立するもの。

 その責任感は,校長や親を説得し,納得させるだけの力を伴うものでなければならない。

 それができない教師が増えている,というのは確かでしょうが。

 繰り返します。

 教育は,実践者の強い責任感によって成立するものです。

 それが成立しない理由を箇条書きにしてみましょう。

 1 校長が悪い
 2 教育委員会が悪い
 3 文科省が悪い

 ・・・・そうですか。・・・こういう教師のどこに「責任感」はあるのか?

 
 校長「責任はオレがもつ」

 教員「いいえ。私が子どもに向き合っているのです。責任は私がとります」

 ・・・・こう言える教師はいないのか?
 

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校長先生に叱られるのが嫌だから,子どもに注意しない教師

 ずれているんです。感覚が。

 校長に注意されただけで,なぜ「人を悲しませるようなことをした子どもを叱る」行為を放棄するのか。

 そんな教師が情けないのに,

 なぜ,親から苦情を言われて教師にあたる校長だけを問題にするのかが,わからない。

 小心者の校長だけ問題にして,

 もっと小心者で,教育を放棄する教師に注意が向かない元教師。

 「校長に注意されたことが気に入らない」から,「子どもに注意するのをやめる」という思考回路。

 教師としての責任を果たそうとしないこういう人間が,どうして放置されるのか。

 こんな人間に「教育」の仕事ができるほど,公立学校の質は低下していたのか。


 私なら,相手の学校の教師がいる場で人に迷惑をかけている子どもがいる場合,

 「私が注意してよいですか」と,相手の学校の教師にことわりを入れるのが筋と考えます。

 なぜなら,その子どもが「特別な配慮を要する」場合があるから。

 知らない大人に怖い顔で叱られた瞬間に「パニック」を起こすような「心の傷」を負っている可能性があると,「それでアウト」になる恐れがある。

 だから,「注意してもいいですか」と聞く。

 それで,相手の学校の教師が動いてくれるのが,これも筋。

 
 大人とのコミュニケーション能力がない教師というのは,「筋」を無視して独走するものです。

 「謎が解けた」???

 結局,小学校教師の悪口ではなくて,校長の悪口が書きたかっただけだ。

 校長のせいにすれば,教師の責任放棄が許されるの?

 これが,代表的な「ダメ教師」の姿。

 ・・・・? 校長の言うことには逆らえない?

 情けない。

そんな学校に子どもを通わせるしかない親は本当に気の毒である。

 責任をどこかに負わせて,自分のやるべきことをしないでいることを正当化する。

 最低の学校の最低の教師の話ではないか。

 こういう学校が建て直せそうなのが,大阪市しかなさそうなところが,今の日本の教育現場か。 


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悪ブログが良ブログを駆逐する?

 悪い記事がそのほかの良いかもしれない記事を台無しにするのは,書き手の責任。

 ただ,善良な人たちの善良な言葉に,悪意のこもった言葉が紛れ込めば,たちどころにその場は闇に覆われてしまう。

 たった一言の使い方の誤りが,人間と人間の間の溝を深めてしまう。

 教育現場で,子どもの声に耳を傾けてから「動く」人と,

 勝手に自分から「動く」人がいる。

 勝手に動く人は,そもそも子どもの声を聞こうとする気がないから,自分の行動の過ちに気がつかない。

 「内なる声」が,自分を導く。

 「私がやっていることは,正しい。病気の人間は病気なのだから,病気の人間だと呼ぶのは,誤りではない。私は間違っていない。」

 パソコンには判断がつかない,「正しい」と「誤っている」の区別。

 言っていることは「誤り」ではないが,書くことは「正しくない」ことがわからない人たち。

 しかし,こういう人のブログは,読み手が集まる。

 そして,その読み手は,「褒める」。

 悪ブログの方が,良ブログよりも「楽しい」のです。

 常識はずれ,見当はずれの人の「まじめさ」を楽しんでしまう残酷さが,この世界にはある。

 子どもの社会と同じ。

 「いじめる」ことの楽しさを味わってしまった子どもたちを救えるのは,

 「いじめられる」ことだけなのか。

 「いじめ」は悪いものに決まっていますが,それが,「勝つ」構造は,社会と同じなのか,どうか。

 とめられない「いじめ」。

 「病気の人たち」を救えない悲しさ。

 「悪にならざるを得ない」と決断した人の悲しさ。


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来たボールを打つ教育とねらったところにボールを投げる教育

 仕事の方法として,優先順位をつけて,大事なものからやる,というのがありますが,大事なものほど「重い」ものが多かったりして,結局その仕事に手がつかず,仕事がたまっていく,という人がいます。

 そういう人には,「思いついた仕事からやっていく」という方法が合っているのかもしれません。

 以上は,本田直之著『なまけもののあなたがうまくいく57の法則』(大和書店)に紹介されていた「仕事術」です。

 教育の場合,多くは
 
 「ねらったところにボールを投げる」という方法で教師たちは仕事をしています。

 しかし,

 「そのボールが返ってこない」ことに無関心であってはなりません。

 「相手がそのボールをどう打ち返してくるか」が教師にとっての醍醐味であり,それを見るのが生きがいになると言ってもいいでしょう。

 教育現場では,逆に,

 予想しないところから,急にボールが飛んできます。

 これにどう対処するかが,人によって違うところ。

 よける人。

 とる人。

 打ち返す人。
 
 はじく(とろうとするがとれない)人。

 (気がつかないで)ぶつかる人。

 (飛んできたことに)気づかない人。

 教師にもこの6タイプがいます。

 また,慣れてくれば,そういうボールが来るのを待ち構えることができるようになります。

 それは,来たら,素直に打ち返してあげるべきです。とるのであれば,そのあと,投げ返してあげましょう。

 そうすることで,ねらったところに投げたボールを,しっかり相手はキャッチしてくれるか,きれいに打ち返してくれるようになるでしょう。

 教育は,キャッチボールであり,トスバッティングであり,ときに,真剣勝負であります。


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協調性のない人=「ふつうでない人」を排除する人間たち

 「ふつうの人」の定義は難しい。

 程度の問題であり,比較しないとわからない問題だから。

 以前,教師たちが「ふつうの生徒」という呼び方をして,

 「ふつうでない生徒」ばかりを相手にする問題を述べたことがありました。

 こういう教師にとって,「ふつうの生徒」とは「手のかからない生徒」のことであり,

 「相手にしなくてすむ生徒」のことなのです。

 こういう教師でも,「ふつうでない生徒」に対しては,何かはたらきかけをするから,まだましなのかもしれません。

 まもとな記事が結局は続かなかった「教育に最もふさわしくない教材ブロガー」は,

 「協調性のない人」は「ふつうの人ではない」から,仲間から除外されて当然だという持論を展開した。
 
 「わがままな人」は,人間の集団から排除されて当然だという主張。
 
 しかし,これは教材ブロガーの「持論」であり,「社会の常識」ではない。

 日本人には,「協調性のない人」を包み込むあたたかさが美徳として存在するのです。

 「協調性のない人は仲間から除外されていくのがふつう」というのは,少なくとも「教育の常識」ではない。

 ここは中世の村ではない。

 どんな人間であっても,その人の課題をあげて「ふつうでない人」と堂々と呼べることが,「ふつうの人」の感覚とはかなりずれている。

 わがままな経営者の話を読んだことがないのだろうか。

 その「わがままさ」「こだわり」が技術革新に結びついてきた歴史を知らないのだろうか。

 自分が演奏している動画を垂れ流したから,もうだれが書いているブログかはわかってしまっている。

 ということは,関係者はだれのことを批判しているのかがわかってしまうのである。

 文章から,自分が腹を立てていたことはとてもよく伝わってくる。

 しかし,病気のことをあげてまで,批判する必要があることなのか。

 ・・・・さて,こういう行動様式をもっている教員が,学校現場にもいるのです。

 あくまでも異論を唱える者,理想を語る者を,公衆の面前で「協調性がない人間」と断定し,

 「お前はふつうではない」と非難する。

 管理職がこのタイプだったら,どういうことになるか,想像してみてください。

 反論したら,「代案を出せ」と迫る。

 人によっては,管理職はこういうタイプが望ましい,と主張するかもしれませんが。

 代案がない問題はすべて押し通すことができる管理職。

 こういう「ふつうでない人」の再教育は,教員の場合,どうしたらいいのかというと,

 たとえば,相手の気持ちを考える力を伸ばす教育実践を構想してもらうのです。

 採用前にすることは,

 教員採用試験で,こういう「実践事例の作成」を論文試験に出すといいです。

 「教材」を試験会場で初めて教えて,それを活用した指導案をつくらせる。

 「いい先生」を選ぶしくみで,「これが絶対」というものはないでしょう。

 しかし,ふさわしくない教師が生まれている現状からさかのぼって,採用段階で問題がなかったかどうかをふり返ることができるしくみづくりは大事だと思われます。

 今の段階で,それが全く機能しないのが,大量採用の時代の教員。

 そして今,大量採用が始まっているから余計に怖いのです。


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学校の先生はもっと外に出よう

 このタイトルから,私がどんなことを主張しようとしているか・・・・

 想像できる方は,それを「たしかめる」目的で読んでいただくのでしょう。

 あるいは,「何か変わったことを書くのではないか」と期待してもらって読んでいただくとか。

 初任者のときでしたか,授業時間中の「空き時間」で設定された,教科の会議の時間,会議が終わって時間があまると,「校外巡回」という名目で,近くの立ち食い蕎麦屋につれていってくれる先輩の先生がいました。

 とても気分転換になったことを覚えています。

 二校目は,いなくなった生徒を探しによく外に出ていました。

 ・・・・・こういう「外に出る」というのとは,違います。

 地域の人とふれ合う。

 もちろん,これも大切なことです。

 私は毎週,近くの花屋さんで教室に飾る花を買っていました。

 そこでかわす一言,二言で,「地域で仕事をしている自分」を実感することができました。

 ・・・・・こういう「外に出る」というのとも違います。

 外国に出てみる,これも大事です。

 ・・・・・でも,違います。

 一校目でも二校目でも,「出張」がよくありました。

 午後すぐに出発しなければならない出張で,授業があったら,もちろん時間割変更をしてから。

 必修ではない「研修」のための「出張」,研究会参加のための「出張」は,自主的に選んだものかと言えば,そうでもなく,これはけっこう「上司からのすすめ=命令」「義理」「義務」のためだったりしました。

 ・・・・・こういう「外に出る」というのとも,違います。前回の記事で紹介した本の中にある話です。

 専門分野のことばかり考えていると,思考が硬直化する。

 新しい発想ができなくなる。

 音楽とかパソコンのことばかり考えていてはダメ。

 自分の「専門外」のことに取り組む時間をつくる。

 そうすると,思いもしなかった考え方や価値観を知り,そこで得たヒントを本業にも活かせる。

 と,書いてあります。

 物理的に「出る」ではなく,精神的に「出る」。

 アメリカのグーグル社には,

 就業時間の2割は「現在進行形の仕事以外で,自社の利益になると思う仕事」に取り組む

 というルールがあるそうです。

 公務員はさすがにこうはいきませんが,1日30分くらい,

 何かしたいものですね。

 この教育ブログ,とりわけ「教育論・教育問題」の場が,そういうところになるといいのですが・・・・。


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まじめを装うから陥る教師の変革力不足

 本田直之著『面倒くさがりやのあなたがうまくいく55の法則」(大和書房)をヒントに考えたことです。

 変革というのは,何かが「面倒くさい」と思うところから始める。

 「面倒くさい」から,先送りする,というのが,仕事のできない人の特徴。

 「面倒くさい」から,先にやっておく,後で困らないようにしておく,改善してしまう・・・・そうやって仕事を積み重ねてきた人と,「先送り」型に人とは,天と地の違いができてしまう。

 ここからは,私の勝手な想像です。

 教師は,「まじめでなければいけない」という心理的な圧迫を受けており,

 「面倒くさい」から,「~をしない」とは言えない。

 それを行う。ただ,「やらさせ」感だけをもって。

 あるいは,「時間がないから,~ができない」と言う。

 だから,改善もできないし,とにかく,仕事が楽しくない。

 仕事がうまくいく方法として紹介されているものの一つが,

 「無意識化する」こと。

 計算の九九のように。

 無意識化できてしまえば,おそらく,

 愚痴が減る,見返りを期待しない,やる気を下げない,などの波及効果が生まれてくる。

 問題は,どうすれば「無意識化」できるか,ということ。

 教師たちが,「褒め方」「叱り方」を本で読んで,

 「本のように褒める,叱る」をやると,
 
 それは「褒める,叱る」の方法や効果を意識してやっているということで,

 私が何度も言っているように,それは相手にも伝わってしまう。

 「褒めて,私が~になるようになることを狙って,褒めているんだ」と思われてしまう。

 「挨拶」もそうだし,「所作」もそうだし,

 「無意識」にできている行為,「自然」にできている行為が与える印象の方がよいに決まっています。

 「無意識化」に到達するには,「修行」あるのみですかね。

 これも前から書いているように,そういう「能力」をすでに体得できている人もいる。

 それは,おそらく「そういう人」に教育を受けた成果なのでしょう。

 「再生産」によって「格差」が拡大していく。

 それは食い止めるのが,本当は学校という場所の役割なのですが。


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理想への「こだわり」を「病気」と判断し「治療」をせまる情熱

 教育現場に,そんな情熱をもった教師がいたら困る。

 選択肢をAかBだとせまられ,どっちもいやなのに,

 どちらかしかないのだから,選べ,

 と言われて,「私はあくまでもCにこだわりたい」という考えをもつことを認めない人間がいる。

 心がせまいのである。

 物理的にそうなんだから仕方がないだろう。

 なんていうのは「説得」にはならない。

 「説得」にならないことはわかっているから,相手を「病気」扱いする。

 ひどいものである。

 こんな人間に,教育はつとまらない。

 「AかBか」決められないから,人間は迷うのである。

 「AかB」以外の可能性がたとえゼロでも,AもBも選びたくない,という人間の心情を認めない人間がいる。

 そんな人間に,教師はつとまらない。

 「病気だ」と断言し,「治療」をせまる。

 そんな人間が,教育を語っている。

 現場の人間でないことが,せめてもの救いだが,

 私がかねてから書いているように,

 こういう人間は,学校現場にもいるのである。

 これを,どうにか排除しなければならない。

 なぜなら,こういう人間が必ず次にも生まれるからである。

 人間としての尊厳を踏みにじる行為は許せない。

 いじめが学校に解決できない理由は,

 こういう人間が一人でもいれば,現場の教師ならわかる。

 自分が「病気」と判断した人を,徹底的にたたくのが好きな人間が,

 「どういう人間」かは多くの人が気づいている。

 大切な「こだわり」を,「病気」だと断定し,「治療」をせまられた経験がある人はどのくらいいるのだろう。

 あの発明家の母親はすばらしい決断をしたものだとつくづく感じる。

 学校に通わせるのをやめることが,大正解になってしまうのは,今の時代にあってよいことなのか。


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バランスを失っている人がとっている「バランスのとれた姿勢」

 また登場しましたか。

 「人格に問題がある」

 という指摘。

 子どもにこういう態度をしっかり植え付けてきた,自分の実践をふり返ることはできないのだろうか。

こういうことを書くことで,自分のバランスを保っている。

 バランスを失った人がとっている姿勢を外から見ると,本当におかしなものである。


 
 今の時代,教師からの情報だけで自分の進路を決定させるような,

 そういう教育をしている学校はないでしょう。

 自分の進路は,自分で決めるのです。

 「でも,自分では決められないのだから,学校が・・・」

 そう。

 もうそこは,「学校」ではない。

 「教育」をしていない場所を,「学校」とはよびたくないのです。

 そこは,「職業あっせん所」です。

 教師の「助言」は,大切にしてほしいと思いますが,

 それは単なる情報の一つです。

 子どもたちの中には,「仕事はきついが,甘ったれた環境で,昇進などもないような特殊な職場で働く担任教師」の言葉を,頭から信頼していない人もいることでしょう。

 そもそも,

 「仕事がないかもしれないからやめておけ」

 とか,

 「●●くらいの実力がなければだめだ」

 のような言葉を吐くような人間に,相談をもちかけようとする生徒はいないでしょう。

 言葉をかける方は,一般論を言っているだけ。

 そして,良心のつもりなのでしょう。

 しかし,人のやる気をそぐ言葉は,進路指導の場面では必要ないのです。

 そこは,「教育」の場ではなくなってしまうのです。

 「企業」の現場の話なのです。

 そういう人間でも,立派(かどうかわかりませんが)に教員として教壇に立っていられるでしょう。

 だから,人の可能性を奪ってはいけないのです。

 わざわざ例を出して「けなしている」・・・・しかも,4つも「妄想」を浮かべて(そのうちの1つは,例によって「病気」)相手と,自分が五十歩百歩であることがよくわかるようにわざわざ自分で書いているのに,なぜ気づけないのでしょう。


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時間を大切にする習慣・無駄にする習慣

 少しくらい,自習の時間をつくってもいいだろう。

 この安易な考え方,というか,実は決定的に「時間を大切にしない」習慣を植え付けてしまう,非常に悪い考え方をしている教師はいないでしょうか。

 50分の始まりのチャイムに遅れてくる教師はいないでしょうか。

 50分の始まりのチャイムに遅れてしまうと,始まりのときに授業の準備をしていなかった生徒,授業に遅れてしまった生徒をその場で注意することができなくなります。

 時間を大切にする。

 時間を守る。

 これは中学校入学時に,徹底的に身につけさせる必要のある基本的生活習慣です。

 小学校時代に,時間にルーズな担任のもとで生活してきた子どもにとっては,

 時間に遅れるなどは当たり前のことですから,なかなか対応できません。

 入学当初は緊張していますから,他の正しい生徒といっしょに行動していれば,時間に遅れることはない。

 しかし,生活に慣れてくると,とたんに

 もとの習慣
  
 に戻ってしまう。慣れて,自分のペースで行動できるようになると。

 小中連携で重要なのは,こうした

 時間を守る。

 という非常に当たり前の,しかし非常に重要な生活習慣をお互いにしっかり身につけさせるという自覚をもつことです。

 これは異論があるかもしれませんが,

 優れた人は,お金よりも時間を優先するといいます。

 私などは,お金がもったいないので,自分が時間をかけて仕事をしてしまいたい。

 しかし,そうすると時間が足りなくなってしまう。

 寝ないで過ごせばいいのですが,その時間に,他のもっと重要なことができたかもしれない。

 そんな「失敗」を続けています。

 時間を最重視する習慣がつけば,

 クラブの活動の時間でも,終わりの時間までしっかり練習メニューを管理して,無駄なことをしたり,下校時刻に遅刻してしまったりもしない。

 職員会議でも,読めばわかることをだらだらと説明するような,「時間の無駄」はしなくなるはず。

 授業に1分遅れた教師は,「1分」の重みがわかっていない教師です。

 その「1分」で,何人の生徒と目を合わせることができますか。

 その「1分」で,いくつの問いを投げかけられますか。

 その「1分」で,子どもは何文字を書くことができますか。

 その「1分」で,どんないじめを子どもはすることができると思いますか。

 この「1分」を,「10秒」におきかえても,同じ問いができます。

 教育の場合,「時間を大切にする」とは,効率をよくするとかいう問題とは全く違う次元で語られることを知っておいてほしいと思います。


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法の精神を知らない人が書く学校像

 実践を書かないのはダメなんですよね。
 
 校則って,だれがつくるのでしょう。

 私の学校では,生徒がつくっているのです。

 ですから,正確には,「校則」ではなく「生徒則」です。

 生徒則の見直しをする専門の自治組織も存在します。

 こういう「生徒則」には,それをつくったり,改正したりする「精神」があるのです。

 「倫理」というと難しすぎるので,「生徒の自治の精神」とよんでよいでしょう。

 あなたの学校では,「校則」は,

 どのような精神に基づいてつくられていたのでしょう。

 それを語らないとダメなんですよ。

 「きまりさえ守ればよい」という考えが定着するのは,なぜか,その答えはすでにこの短い文章の中で示されています。

 そして,コンプライアンスのことを書くのであれば,

 真っ先に考えなければならないのは,

 企業ですら,それを重要視するようになった時代に,

 公立学校は何をしているんだ,ということへの強烈な問いです。

 「法律や規則をしっかり理解する」・・・

 できれば,その

 「精神もしっかり理解する」。

 公立学校につとめる教育公務員である教師は,「全体の奉仕者」なのです。

 企業以上の責任があるはずの教師が,「学習指導要領総則を読んだことがない」ですまされますか?

 せっかく「倫理」の話題になったのだから,

 「校長の命令だから」という理由で,

 「自習にしなければならない状態で子どもたちから離れ,出張に向かう」ことが,「教育の倫理」に背かないかどうか,再考してください。

 すでにそういう出張を見直している自治体の事例も紹介しました。

 せっかく,「きまりさえ守ればよいという考えを持たせるのではなく」という言葉が出たのですから,

 自分の「本務」「責任」「本当にすべきことは何だったのか」を考えて下さい。

 社会貢献なんて言葉で逃げることは許されません。

 授業ではなく,「自習」をさせることを堂々と許す仕組みがあることに,疑問を抱いて下さい。

 教師にとって大切な「精神」とは何ですか?

 「自習はやめてください」

 という親の要望に対して,何と答えるべきなのが,「コンプライアンス」なのですか?


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あなたの学校では,「話の聞き方」を指導していますか?

 「素直さ」を他人から認めてもらえるような生き方がプラスになるであろうことは,多くの人が実感していることでしょう。

 ただ教師という職業の場合,「素直」でない側面がヤケに目立つことがある。

 もうそういう「目障りな人たち」がいなくなりつつある学校が多いかもしれませんが,

 「管理職の言うことにいちいち,ケチを付ける」タイプの教員がいる。

 一方の,「素直」すぎる教員というのは,「思考力がないのではないか」みたいな目で見られてしまう。
 
 だから,よくわからないながらも先輩のマネをして,いつの間にかそっくりになっていく。

 何かにつけて難しい顔をして,考え込んでいるようで,これが日本人らしい特徴でもあるのですが,自分のはっきりした考えは言わない。イエスかノーかがわからない話を延々とする人がいる。

 しかし,「素直っぽくなく生きる」ことが,何かステータスのようにふるまってきた人が,現場を去ろうとしている。

 思考停止の人が減れば,学校は改善への道を歩むことができるのです。

 今まで,研修を実施する担当だった事務の人たちは,

 「こんな研修に意味はあるか」

 「すぐに役に立たないではないか」

 みたいな批判にさらされ,「評価」が下がることを懸念して,

 逆に研修の質を下げてしまうという流れがありました。

 学校教育も,教員を対象にしている研修も,そんなに早く「効果」が現れるものではありません。

 「すぐできる~」という,

 学力に課題がある子どもが飛びつきそうな本に,

 教育の仕事を専門にしている教師までもが飛びつくのは,恥ずかしいものです。

 人の話の聞き方を,たとえば中学校ならどのように指導しているのでしょう。

 レベルは高いのかもしれませんが,

 私のところでは,

 「話している人がとても話しやすくなるような聞き方」を生徒に要求しています。

 「やってはいけないこと」は,あえて言わない。

 そうすると,何か問題がおこったとき,「それはなしでしょ」という声が生徒から上がってくる。

 やがて,「話しやすくなる」ことの意味も質的に向上していきます。

 「ただ静かにだまってじっと集中して聞いている」ことで,人は「話しやすくなる」のか?

 という疑問を感じてくれれば,ステップアップできる。

 研修というのは,どのように受けるのがいいのでしょうか。

 それは,

 自分が「研修を受けている」という意識をなくすことです。

 自分が,「研修をつくっている」。

 今,そこで実施されていることを題材に,自分にとっての課題をたくさんみつけておく。

 実際に考えたり,調査したり,実践してみるのは,研修から帰ってからのこと。

 研修では,「どのくらいたくさん自分の課題が見つかったか」がポイントになるのです。

 「自分は何をしなければならないのか」という自覚をもてたかどうかが重要なのです。

 ステップアップしなければならないのは,自分であることの自覚をもつ,

 子どもにそうさせるべきと思ったことは,自分でも実践する。

 これができるかできないかが,指導力不足が改善できるかどうかの大きな鍵となります。


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商売ネタで教育ブログを汚すモラルハザード

 営業妨害だ,裁判だと騒ぎかねないので,タイトルのみ。

 私は今の住居にうつったときに,とてもいい方のアドバイスを受けて,安心して仕事ができる保険に入っています。

 元教師のつまらないセールストークとは天と地の開きがありました。

 教師の研修先で,どうでもいい役所の仕事をするものがありますが,これはほとんど無意味。

 どうみても,指導力不足教員の墓場のように見えてしまう。

 「話す」ことによって,その「話の内容」によって人を動かす仕事の研修を積むべきです。

 ただ,そういう「大切な仕事」に,能力の低い教員を「研修」とはいえ預けることはできない。

 これが制度としての「研修」の難しさです。

 単なる「顧客」としてではなく,「教育に役立てる能力を読み取る」という趣旨で,「話しが上手な人」に多く接すれば,つまらない研修の何倍もの効果が得られるでしょうね。

 でも,それも「運」に左右されるかも。

 どうでもいいこじつけ話が教育ブログに乗っかってくるのが,どうにも我慢ならない晩でした。

 収入が高くて,思考力がついてこない顧客ほどおいしいものはない。

 若い先生へ。

 今はいいサイトがありますから,自分で保険の勉強ができます。

 「理解した」ことに喜んでハンコを押さないように。

 どう考えても今のあなたには必要のない保障がついていたりする。


 ところで,あの資格って,ペーパーテストだけでとれるものなのでしょうか?

 重箱の隅をつつくような問題は,出ないのかな?


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モラルリスクを体験する教師たち

 これから先生になろうとする人たちに,知っておいてほしいことがあります。

 子どもは,先生の目が自分に向くように,「虚偽の申告」をしてくることがあります。

 「机に,○○を入れられました」

 「カバンの○○をとられました」

 真面目な先生の,「心配する表情」だけで「満足」する子どもがいます。

 ベテランならその表情ですべてを悟るわけですが,経験が少ないと,なかなか難しい。

 下手に「自作自演じゃないか」なんて反応を生徒に示すようなものなら,今度は教師不信から新たな「モラルリスク」を生むことになる。

 指導力不足の教員は,モラルリスクによって担任をはずされる「工作」をされる場合もあるでしょう。

 教員ならば,モラルリスクが生まれた背景に目をやらなければならないのです。

 単純に,「嘘はダメ」では,教育になりません。

 自分にとって「何が不足していたか」「不足しているか」を常に問うていく姿勢が大事です。

 対処を間違うだけで,そこは「教育」の場ではなくなってしまうことを念頭においてください。


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点数でおだてたり,点数でけなしたり・・・

 悪口を書いたらいいことはないと,書いておきながら,悪口を書かないと気がすまない人がいる。

 教育現場が最も手を焼いている困った教師の実像を大公開してくれているブログ。

 汚名をすすごうと,必死になって努力しているのはわかるが,何も響いてくるものがない。

 予想通り,またすぐにもとの調子に戻った。

 教育は,信用が第一の仕事なのです。

 もはや何を書いて「点数を稼ごう」としても,無駄な努力なのですが,

 「漢字が得意な子ども」と同じ気分に浸ろうとしているのかもしれませんね。

 たしか「八方美人」的なものいいも非難されていたように記憶していますが,そうせざるを得ないときというのが,人間にとって一番醜いときなのでしょう。

 書けば書くほど泥沼にはまっていく。

 そして,「頭がおかしい」「妄想」「病気だ」という,どうしてもおさえきれない言葉が出てきてしまう。

 「5W1H」も使いどころが間違っている。主張している自分は何も書いていない。

 もしこれが現場の教師だった場合,子どもからは最大級の軽蔑のまなざしを向けられることになるのです。

 しかしそれに対して,恐ろしいほど鈍感な人がいる。

 逆に,恐ろしいほど敏感な人もいるのですが,「思い込み」に過ぎない場合もある。

 自意識過剰がここまでくると,気の毒になってきます。

 どこにもいい顔をしようとするから,自分の矛盾に気づかない。

 教師が自滅していくパターンです。自滅しているのに,その事実をまるで受け入れようとしない。

********************

 公立学校の「異動」というシステムは,「リセットできる」チャンスととらえればいい制度なのでしょう。

 ところが,どうやらそれを「悪用」する教師がいる。

 日本の社会は,特に一般の人たちは,教師の「悪行の追跡行為」「前歴調査」などはしませんから,「新しく異動してきた先生」に特別な偏見をもつことはありません。荒れている学校の場合は,最初はむしろ「期待」の目で見られる。しかし,新たな気持ちで,また同じ問題を繰り返す。

 ブログで「異動」したつもりになっている人がいる。

 それが許せない心は,教育現場に立っているからこそ,わきおこってくる。

  
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教師の性犯罪と交通事故を「同じようなもの」と考える人

 それこそが,「モラル・ハザード」ですよ。

 どうしてわからないの?

 なぜ,「子どもにとっての不幸」という発想ができないのだろう?

 「犯罪」にはあたらない「指導力不足教員」を排除することは,その本人にとっては「不幸」なことなのかもしれないが,

 子どもにとっては大切なことである。

 公立学校が信用されていない現状を,なぜ「理解しようとしない」のか?


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「安っぽい教育論」が好きなのは,今も昔も教師だけ

 私は教師ですから,「安っぽい教育論」でも嫌いではありません。

 「二十四の瞳」みたいな純粋さを,人間として忘れたくはない,という気持ちもあります。

 ただ,実際の現場の教育となると,話は別です。

 「話は別」

 ということに,多くの教員志望者は,教師になって,あるいは教育実習を経験して,初めてわかる。

 無条件に「教師が尊敬される」時代ではなくなったのです。

 だから,コンピテンシーとか,「どういう指導力を身につけなければならないのか」ということに,関心をもたなければならなくなった。
 
 そんなことには関心がなく,ただ自分の教育者としての権威を守りたいだけの人間は,たとえば「子どもの授業評価」と聞くだけで,拒否反応が出てしまう。

 悪い評価結果が出たら,「子どもはそう考えているのだな」と思い,「さあ,次はどうしよう」と考えればいいだけのこと。

 子どもに評価能力があるとかないとか,自由に語らせるのはおかしいとか,そういう発想で反対する人は,おそらくそういう発想だからこそ,子どもから評価されていない教師なのだろうと予想します。

 「ほめる」とか「声かけをどうする」とか考える前に,

 まずは,教育にかかわろうとする人間が使ってはならない言葉を知っておくべきです。

 ある言葉を生徒に投げかけた時に,

>「どうしたんだ,あの先生,とうとう頭がおかしくなったのか」と言われかねない。

 などと書く人がいる。

 子どもがもし本当に「あの先生,頭がおかしい」などと言うのだとしたら,それは日常的に教師が子どもに向かって「おまえ,頭がおかしい」と投げかけている,ということでしょう。

 そんな言葉は使うべきではないし,まねさせるべきではない。
 
 たとえ,自分が言われた言葉だとしても。

 それなのに,何気なくさらっと書いてしまう。

 根本的な前提の部分で,不適格な要素がしみついているこういう人間たちが,どうして教育現場に立ててしまうのか。

 悲しい話ですが,こういう人間だからつとまる,そういう側面が今の教育現場にはあるのですね。

 普通ならば,何も書けなくなって当然である人間が,

 「毛色を変えて」

 安っぽい教育論を展開する。

 この,いかにも寝ぼけた江戸時代の平和ボケ感が,実は今の学校現場には充満しているから,何も変化らしい変化が見えてこない。

 学校を劇的に変えてしまった側の私たちが,何かいけないことをしたかのように思われてしまうのも,無理はないと自覚しています。

 今日のある場所での会議で,大阪の中学校の先生が,

 「先生方というのはみんな保守的で・・・」

 と発言されていましたが,ここでの「保守」の意味は,「変化を受け付けない」という「柔軟性の欠如」のことを意味します。

 でも,確かに「柔軟」にも限度がある。それを生徒指導をすると,嫌というほど味わわされるのが中学校です。

 いつまでたっても「安っぽい教育論」は消え去らない。

 あの有名な先生が,『役立たず』と呼ばれるような現場での一面を想像したくない。

 いつかの時代のどこかの国と同じです。

 だれも自分で責任をとろうとしない。

 これでうまくいくはずだ。という何の根拠もない信仰のもとで,破滅に向かっていく。

 うまくいく根拠があって,それで失敗するより,そっちの方がまし,という人がいなくなるのはいつのことでしょうか。

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「つながり」依存の子どもと「つながり」拒否の教師の溝

 勤務時間中に,携帯やスマホなどの画面を見ている回数や時間が長い教師はいませんか?

 あの保護者面談実況中継をしていた教師のように,書き込みに精を出している人はあなたの職場にはいませんか?

 教師の場合,こういうタイプは少数派だと思います。暇じゃない(はずな)ので。

 生徒の顔より,PCやケータイの画面を見ている時間の方が長いなんていうことが公になってしまったら,教師が余っていることがばれてしまいますからね・・・・。

**************

 さて,教師間の「つながり」がなく,あるいは「つながり」を避けようとしている教師が多い学校では,生徒の荒れや非行などの問題に対処できません。

 一方の子どもたちは,教師の想像を超える情報のネットワークをもち,上手に連携をとって,そういう教師たちをうまくかわし続けている。
 
 教師がそのネットワークの中に入るのは難しいので,お互いの情報交換がないと,わずかで貴重な情報も共有されることなく死蔵され,やがて大きな波に飲み込まれていく。

 私たちは学力が低迷している子どもたちを前に,「言語活動の充実」をかけ声にして教育の改善を図っていますが,「生きる力」という広い解釈で子どもの「力」をとらえると,教師をはるかに上まわる活動をしていることがあります。

 放課後の情報ネットワークによって,4時までの課題がすでに解決された状態で,・・・あるいは,さらにもつれた状態で,・・・問題が複雑化したまま,翌日を迎える。

 情報をもたない教師の手におえるものではありません。

 少なくとも8時から3時までは,教師(の授業)によって,「つながり」は遮断される。

 「再接続」の時間を待ちわびる子どもたちの姿を目にしたことはありますか?

 「学び合い」という「つながり強制」を強いられている子どもたちの,心の声を聴こうとしたことはありますか?

 教師が子どもと「つながり」をつくるための最終手段は,「授業」なんです。

 「授業」での子どもとの「つながり」を拒否し,子ども同士に「つながり」を強制している教師には,何の希望も見えてこないでしょう。

 子どもがはっきりと教師との「つながり」を拒否していることを知った時も,なすべきことは一つ。「授業」での挽回です。

 部活でもできますが,それは,「一部の教師による,一部の子どもたちのためのつながり」発生装置です。

 「授業」のなかで見出した子どもの本当の姿に関する情報の共有は,同じ学年に所属している教師集団にとっての「生命線」になります。

 情報が集まる場所を教師たちはもっているでしょうか。

 情報を集める時間を教師たちは確保しているでしょうか。

 教師は子どもと,非常に長い時間,接しています。問題は,そこで情報が得られていないこと。

 得た情報を共有化する時間がもてていないこと。

 それをどうにかしましょう。
 
 ・・・・という呼びかけで出発した「学校建て直し」は,成功しました。

 

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学力テスト云々以前に自らに問わなければいけないこと

 文部科学省が示している「確かな学力」のイメージがようやくわかった方へ。

 教師だったとしたら,何を問わなければいけないか。

 元教師だったとしたら,何を問わなければいけないか。

 自分は,子どもたちに,人生を送るために必要な力,すなわち生きる力を育てることを意識した教育を行っている(行っていた)と言えるのか?

 そして,知識,技能,学ぶ意欲,思考力,判断力,表現力を育てる授業をしている(していた)のか?

 それを,「やった気がする」ではなくて,どうやって確かめることができるのか?

 知識や技能に関することは,ペーパーテストで簡単に測ることができる。

 自分は,思考力や判断力,表現力をペーパーテストやレポートを通して測る努力をしてきたか?

 学習状況調査では,こういうことも問うんですね。

 問題は,教師が「やってきた」と思っているほど,生徒は授業で「やった」とは思っていないことなのです。

 生徒たちに,試験が終わった後,「みんな忘れた」と言わせてしまうような問題を安易に出していないか。

 評価を適切に行おうとする意思があれば,

 問題づくりに,

 レポート課題の評価に,

 すごく悩んでいるはずです。

 「問題づくり」というレベルになると,

 完全についてこられなくなる人たちもいるでしょう。

 教材会社や教科書会社がつくっている「テスト」で満足している人はさすがに少ないでしょうが・・・。

 驚くことに,「個人の能力の違い」が明らかになりそうなテストや活動を常に避けようとする習性がしみついている人もいるんですね。

 こういう人は,自分が調べられる対象になって,うまく答えられないと逆ぎれするかもしれません。

 「問題が悪い」と。

 しかし,子どもはあなたのおかげで,隣のクラスの友だちが簡単に解けるようになっている問題が,解けないまま放置されているのですよ。

 解けるか解けないかもわからないまま,放置されている子どももいるのです。

 そんな学級を,決して放置してはなりません。

 学力テストがどうのこうのと話題にする前に,やっておかなければならない大問題です。

 あるブロガーは,「できるようにならないのは,教師の責任ではない」と言い切っていましたね。

 「日本は,できない子でも進級できるシステムだから」って理由で。

 こんなことを言うような人間に,税金がつぎこまれきたのです。

 こんな人間が教育問題の何を語れるというのでしょう。


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記事の一部を解禁 ~ほめるといい結果が出ると誤解した人が失うもの~

 教育ブログに寝ぼけた記事が復活してきたので,一部を解禁。

 「ほめ方の本」で子どもの「ほめ方」を学んだ教師だったのだと思います。

 子どもから軽蔑されていた人は。

 大人からも,教師には「そういう本」が必要なんだ,と知られた時点で,恥ずかしくなってしまうようなことです。

 人をほめるという行為によって,そんなにバカにされてしまう人間がいるのかと,

 小学校の教師は思うでしょうね。

 教師の「操作主義」を批判した過去の記事と主張の趣旨は全く一緒ですが,

 中学生というのは,ほめられて素直にうれしく感じてくれるほど単純ではありません(もちろん,単純な子もいますが)。

 「そんな程度のことでほめられるの?」という疑問を抱く中学生の心はおわかりになるでしょうか。

 「あなたにほめられてもうれしくない」と思う中学生の心はおわかりになるでしょうか。

 どんなにくだらない記事に対しても,大賞賛のコメントが必ずついてくるブログがありますね。

 あのようなコメントを読んでうれしく思うような人には,上に書いたような中学生の心理などわからないでしょう。

 中学校1年生に,「先生,字が上手いですね」と言われて,うれしくなる教師がいますか。

 「お世辞」というコミュニケーション手段が理解できない人がいます。

 うれしくなる教師は,自分の字が上手いという自覚があるというだけの人でしょうね。

 「もっとしっかり書かなければ」と気をひきしめるのが普通の教師です。

 もし,字が上手くない自覚があれば,それが褒め言葉ではないことに気づくはず。

 そうです。

 「ほめる」という行為の動機になっているものが何か。何が動機になっていることが望ましいのか。

 「ほめる」ということで,何を伝えたいのか。

 その答えを教師たちはしっかりともっているでしょうか。

 私は直接,面と向かって注意した教師がいました。

 あの場で,あの子をほめていたが,そのときの嫌そうにしていた人間の顔は目に入りましたか?

 「ほめるといい結果が出る」と本に書いてある通りに理解してしまっただけの人が失うものは何でしょう。

 それは,人間としての信用です。

 教師なら,指導力への信頼感です。

 「こういう記事を書けば,こういう人間だと思ってくれるだろうな」と思って書く。

 こういう「ねらい」が見え見えなんですよ。

 明言していた教師もいました。

 「私は生徒に気に入られたいから,叱ったりはしない。ほめてほめてほめまくる。そうすれば,少なくとも,嫌われないですむ」

 大間違いですね。

 動機が情けない。


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学力テストのイメージがわかない方へ

 現実を見ようとしないで,同じような記事を繰り返し書いている方がいるので,

 お知らせします。

 「学力テスト」ではなく,「学力・学習状況調査」が正しい名称です。

 国立教育政策研究所のHPをご覧下さい。 

 TOP > 全国学力・学習状況調査 > 平成24年度全国学力・学習状況調査の調査問題・正答例・解説資料について > 平成24年度全国学力・学習状況調査の調査問題について

 具体的な調査問題をまずは知ることが,

 「学力テスト」の問題や意義を考える上では,欠かせないことです。

 A問題とB問題には,それぞれ異なる「調査」のねらいがあります。

 これとは別に,「学習指導要領の実施状況調査」も,今後,実施されます。

 改訂の趣旨に沿った学習指導がしっかり行われているかどうかを調査するものです。

 これは悉皆調査ではなく,問題も公開されないので,分析結果を通して学校教育の諸問題がわかることになります。もう少し先ですが,「悉皆じゃないからいいや」と思わないで下さいね。

 
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「配慮」能力を欠く教師たちが傷つけてきたもの

 子育てに悩む母親の実態は,ほとんど公の場で話題にされることはありません。

 宮部みゆきの『ソロモンの偽証』では,実際に存在するであろうタイプの母親が何人か描かれています。

[母親] ブログ村キーワード

 よく取材しているものと思います。

 そして,作家のその取材内容に匹敵するほど,教師たちが具体的な情報をもっていることはまずないでしょう。

 教師は,子どもの教育上の問題を母親と話す機会が多いのですが,母親自身の悩みや苦労を聞いてあげる立場ではないと考えている人が多いはずです。そこまでめんどうみきれないし,そういう立場ではないだろうと。

 しかし,教師をある程度つとめていればみんな気が付くでしょうが,

 問題を抱える子ども以上に,母親がとても深刻な状況に陥っていることが多いのです。

 本当は,子どもの問題を解決するためには,母親の方の課題が先に解決されなければならない,ということに気づいていながら,それを話題にすることはまずありません。手助けすることはない。

 下手に親身になって相談を受けたりすると,別の問題が発生することもある。

 教師は「道を踏み外さないため」の防衛手段を,「子どものために一緒にがんばりましょう」というかけ声をかけるというかたちでとっている。

 こういう「かけ声」が,いかに「無責任なものか」,実感できている教師はあまり多くないかもしれません。

 さらには,こういう「事情」を理解できない教師が,たまにいる。

 そして,場合によっては,苦しんでいる母親をますます追いつめていく。
 
 「精神疾患」とか「妄想」なんていう言葉を軽い気持ちで「詳しく」述べる人がいる。

 そういう「文章」を目にした人が,どんな気持ちになるのか,という想像力がはたらかない。

 「配慮」能力を完全に欠いている人間です。

 こういうタイプの教師は,よく保護者とトラブルをおこす。

 「前提」からずれているというか,「前提」を所持していない。

 その最大の原因がどこにあるかは,ここでは書きません。

 人間は,育ってきた環境に非常に大きく左右されるものです。

 まず,自分と言う人間がどういう人間なのか。

 コンピテンシーモデルによって徹底的に分析してみるのはいかがでしょう。

 教員採用の基準を考える上でも,とても有効な手がかりになると思っているのですが・・・。


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「学校社会」は「あきらめ」の境地を味わわせるところ?

 学校には,それぞれのルール,掟がある。

 学級(担任)には,それぞれのルール,掟がある。

 それを受け入れなければ,「学校社会」「学級王国」では生きてはいけない。

 ・・・・・・・そういう「あきらめ」が,

 「いじめ」への無力感を生み,

 無気力な子どもたちを増やし,

 「本物の活力」を奪い,

 未来を暗くする。

 思えば,ことは中学校教育に限ったことではないかもしれません。

 大学もしかり。

 企業社会もしかり。

 しかし,多くの人たちにとって最も身近なのは,地元にある小中学校の教育であるはずです。

 高校は,もはや個人のものだったり,都道府県のもの。

 「私たちの地域」の小学校や中学校に,

 「よそから通ってくる人たち」がつくっているルールや掟が本当にふさわしいものなのか。

 「議論する場」がほしいところ。

 そもそもほとんどの人が,「ヘンなルールや掟」を知らない。

 教師が授業を自習にして,出張に行ってしまうような,そんなおかしな小学校があることを知らない。

 自分のことを大事にしすぎて,ずれまくっている区長は,

 「教師と子どもが向き合い,話し合う時間が足りない」などとおっしゃるが,

 そんな時間を子どもは求めていない。

 子どもは勉強と部活,友達との時間,自分と向き合う時間の方が大事。

 教師とは,授業という時間に,嫌というほど嫌な時間を過ごしている。

 友達は選べるが,教師は選べない。

 「その教師たちの,そのやり方は,本当に正しいものなのか」

 そういう思考力を根こそぎ奪っている「学校社会」が,

 民主的な国家・社会の形成者を育てられるのか・・・・・育てられていない結果が,現状そのものではないか・・・・。

 教師として自問しなければならないところ。

 子どもたちが,少なくとも,生徒会役員レベルの子どもたちが,

 「違う伝統の中を生きている学校」を訪問し,自分たちの学校の良さを発見したり,問題点の解決方法を自ら気づいていけるような,そういう学校がある。

 一番いいところを,宣伝できないのがつらいところ。

 でも,身近な学校の中にも,たくさんあるはず。

 中学生たちが,学校を変える。

 その中学生たちのための,学校だから。

 という発想で支援できる人を,どうしたらつくりだせるだろうか。


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教育実習生の「就職先」情報

 はっきり言って,一般企業に就職が決まったなんて報告は必要ないのですが・・・・。

 でも,「お世話になった」「いろんなことを学べた」と思って入れているのはうれしいことです。

 おそらく,新入社員でさえ言われないであろう厳しいことを3週間言われ続けてきた学生たちには,

 教育実習というのは一生忘れない思い出になって「しまう」ことでしょう。

 とてもいい授業をしてくれたある実習生は,

 だれもが知っている某企業の「営業」に就職が決まった,とのこと。

 「営業」職。

 たいへんそうですね。ノルマなどを抱えていると。

 でも,こういうふうに鍛えられた人が,将来,教師として働いてくれたら,それはまたうれしいこと。

 しかし,「民間人を採用する」というかけ声は立派だったのに,

 「会社で通用しなくなって教育現場を望んできたのではないか」と思われる人が採用されることがある。

 そうです。

 「営業」職のようなタイプの人は,公務員の事務の人(教員を採用する人)にはいない。

 机に座って一日のほとんどを過ごす人たちばかり。

 「民間人ならだれでもよい」わけではないはず。
 
 「経理担当」みたいな人は,事務には向いているかもしれませんが,教師には・・・・考えてほしい。

 でも,「教育現場に向いている人」かどうかが,なぜか,よくわからないらしい。

 また,教員採用の愚痴になってしまいました。

 私の提言としては,PTA活動を何年もやってきた人とか,企業の人事担当者とか,

 そういう人を「採用専門職」として臨時的に雇用してほしい。

 絶対に,今よりは「確かな人」を選んでくれると信じています。

 変えるべきところを早く発見して,変えていく。

 教育にはそれが多すぎてわけがわからないのですが,毎年毎年同じようなことが繰り返されると,本当に黙っていられなくなります。

 教育の仕事に向いている人が,適切に選ばれるしくみを早くつくってください。

 私としては,教育の仕事に向いている人が,教育の仕事を選んでくれるような,そういう仕事をしていきたいのですが・・・。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より