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教員採用試験に受かる人・落ちる人

 採用試験の2次の結果がぼちぼち届き始めています。

 あいかわらず,教員向きの人は落ちていて,

 「大丈夫か?」という人が受かっている。

 要は,「成績」が物を言っているわけでしょう。

 ペーパーで点数がとれる人が,圧倒的に有利。

 せっかく,「成績に表れない能力」とか「重箱の隅」とかいう問題に目が向くのに,

 教員採用試験に受かった人には「絶対の信頼をおきたい」人がいる。

 もう少しだけ視野を広めれば,

 「合格している人よりも高い指導力を発揮できる人」がいることくらいわかるはずなのに・・・・。

 「成績に表れない能力」とは,そういうことをさすのです!

 で,これがアドバイスになるかどうかわかりませんが,

 私なりの「合格のコツ」をお教えしましょう。

 「いい点をとる」という話は,もちろん別にして。

 私が見てきた教育実習生のうち,実際に先生になった人の多くは,

 「重い」人たちです。

 指導案をみっちり書いて,自分で話せばそれでよい,という感じの人。

 逆に,採用試験に合格できない人の多くは,

 「軽い」人たちです。

 指導案はかけないけど,子どものペースに合わせて,柔軟な授業ができる人。

 長い目で見れば,どっちを採用した方がいいか,わかるはずなのに・・・。

 この,「重い」「軽い」には非常に多くの意味が含まれていますが,想像できるでしょうか。

 私はどちらかというと「軽い」方が好きなのですが,事務の人たちの受けは悪いなあという気がします。

 フットワークよく,生徒の中に入って授業や部活をしそうな人は,ほとんど受かっていない。

 逆に,デスクワークが似合いそうな人ばかりが,受かっている。

 採用試験を担当する事務の人たちには,現場をよく見て,「指導力のある先生」の近くでしばらく生活してもらいたいのですね。そうすれば,自分たちの「基準」がどこかおかしいことがわかるはず。

 でも,今すぐには無理です。

 ならば,「重い」人を演じるのがベストということでしょう。

 ちょっとやそっとの質問には動じず,表情を変えない。それが肝心。

 決まったことしか話せない。それでいい。口から出まかせは言わない。わかりません,と正直に答えた方が,適当にごまかそうとするより,まし。

 表情を変えずに,「わかりません」と答える。

 私がある自治体を担当していたとき,「表情がない指導力不足教員」に出会いました。

 事務の人は,「表情がない」のと「表情を変えない」ことの区別がつかない。

 だから,「無表情」でもかまいません。

 「重く」受け止めるべきことと,「軽く」受け流すべきことの区別は,教員になってから,少しずつ身につければよいのです。

 ・・・・これは一個人の感覚に基づくものですから,どうぞ判断はご自分でなさってください。

 「受かる」ための一番のコツは,「私は教師になる」というより,「私は公務員になる」という意識を強くもつことかな。

 採用する人は,教育のことがよくわかってないから。

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コメント

採用試験に受かる人、と受からない人とに分けるとそもそも何がなんだか解らなくなってしまいそうです。
そもそも、教師として採用すべきで無い人が何故受かってしまうのか、その問題が大きいと思われます。

その例
「大塚友意」
http://momoiropink777.blog97.fc2.com/blog-entry-1273.html
「森田直樹」
http://megiya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/30-c025.html

教師に向いていない人が採用されるだけなら、大きな社会問題にはなりにくい。
けれども、上記のような人物が積極的に採用されてしまうもんだいは計り知れないほど大きい。

いずれも、反社会性人格障害が間違いなく有りと思われます。
また、演技性人格障害も見受けられます。
さらに、サイコパスの可能性も否定できません。
サイコパスは25人に1人の割合で存在すると言われています。
無作為に100名採用したら4人はサイコパスです。
採用試験においては、おそらく100人中20人ぐらいが優位に採用されていると考えられます。

実際、高校生の時にデートレイプなんてことをやって妊娠させたやつが今では小学校教師をやっています。

採用試験で、反社会性と演技性の人格障害をもつ者を厳重に排除することを考えなければならないと思います。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
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    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より