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よき理解者VS都合のよい理解者

 辞書で引いて,その意味まで分かっているのに,自分の言葉の使い方が不適切であるのが気づけない人というのは,大人だけでなく,生徒にもいました。

 大人からは,「屈折した心をもつ子ども」という目で見られる子どもでした。

 生育歴やその時の家庭の状況を耳にすれば,多くの人が「なるほどね」と納得してしまうような子ども。

 今から思えば,そうした「屈折」は,その子どもではなく,周囲のあり方そのものだったことがわかるのですが,人間というのはある解釈によって一度,納得してしまうと,そのとらえ方をなかなか変えられない動物であるようです。

 自分がだめだ,だめだ,と言っている,その姿がまさにそのまま,その人間の姿であるというのが,私の名づけた「ミラー現象」なのですが,どうして「鏡」がそこにあることに気づけないのか。

 それは,自分のことを理解してくれる人が,近くにいない,というのが一番の原因なのかもしれません。

 本当は,教師が理解者であるべきでした。

 理解するというのは,ダメなものを放置する,というのではなくて,ダメなことをダメと判断し,それを相手に伝える,というのがここでの意味です。

 「よき理解者」としての教師は,ある意味では,子どもにうるさいことを言わずに,放置するだけの存在でした。

 一部の子どもにとっては,「都合のよい理解者」だったのです。

 教師の中には,「腫れ物には触らない」という態度を首尾一貫?してとる人間もおり,子どもには気づかれているのに,本音を語ることはしない,だから,軽蔑されてしまう,という人もいました。

 幼い子どもの場合は,大人の本心には気づきませんから,言葉をそのまま真に受けて信じてしまいますが,小学校の高学年にもなれば,嫌でも気づいてしまうもの。

 「どうしてもっと本当のことを教師は語らないのか,本当にじれったい」と反抗し出す子どももいれば,そもそも大人というのはそういうもの,とあきらめてしまう子どももいる。

 でも,そういう子どもは少数派かもしれません。

 幼い子どもの場合は,特に。「余計な意見を言ってこない大人」が好きです。

 「よき理解者」ではなく,「都合のよい理解者」を求める傾向のある人というのは,結局は,自分の孤独さをより深めてしまうようなところがあるわけです。

 こういう人間を救うのは,やはり生身の人間でないとダメなのでしょう。

 匿名の「日記」のような文章では,救えませんね。

 だから,「教師」が大事なのです。

 自分の次の受け持ちの先生に,親が,

 「ああ,もう少し早く先生に出会えていれば,子どもはどんなに幸せだったか・・・」

 と涙を流しながら伝えている場面を想像したことがありますか?

 教師というのは,それだけまだ,「大きな存在」「期待される存在」である,ということです。

 これを背負って立つ気のない人が,教師になってはいけません。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より