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「ブログ感想文」は「読書感想文」よりおもしろい

 他人の家庭生活の内容を公開するような人間がいるから,というわけではなく,・・・・読書感想文は,

 「ただただつらいもの」だから,反対だ,という人は少なくないようです。

 「課題図書」のように,あらかじめ本が限定されるのもおかしな話,という意見もありますし,

 「枚数が制限されているのがおかしい」

 「担任が評価するのがおかしい」

 などの意見もありました。

 批判的なことを書くと,書き直しを命ぜられる場合も。

 だから,思想統制,同調性圧力強化のための「宿題」だとも言われているのです。

 いずれにせよ,強制的に本を読ませることになる「読書感想文」への忌避反応が大きいのです。


 「読書感想文」を廃止して,「ブログ感想文」などとし,対象が中学生なら,少しは興味をもってくれる生徒がいるかもしれません。

***************

 「読書感想文の書き方」という題のブログを事例に示して,

 「この人は何が言いたかったのか」を問えば「国語の問題」になってしまいますから,

 「この人と同じように,自分も生活の中で,大切な部分をごまかして生きていることを中心に書いてみよう」という課題を出す。

 対象のブログの記事で筆者が言いたいことは,「私の記事を読んで,感想を述べている人がいるが,支離滅裂な思考の結果がそこには書かれている。読書感想文は,自分の生活のことを書くべきだと言われているので,おそらく自分自身の生活を書いているのだろう」ということ。

 要は,自分のブログの記事に対して,何か書いている人がいるが,その内容は支離滅裂であることを言いたいだけ。でも,この記事自体が支離滅裂である。

 要は,「私には無関係の話ですよ」という自己保身の主張。

 中学生には,まず,「読書感想文の書き方」というタイトル自体に問題はないか,と問うてみる。

 こういうタイトルの付け方を,自分たちも今までしてこなかったか。

 筆者が問題にしているのは,自分のブログの記事に対する言及なので,そもそも「読書感想文」とは全く異質のもの。ブログの記事に対する感想文は読書感想文ではないので,「自分の生活を書いている」とは限らないことは,中学生にもわかる。

 それなのになぜ「読書感想文」が登場したのか。

 これは,ただ,筆者の「思考回路」によれば,感想をよこした人物の思考を「支離滅裂」と呼びたいこと,その人物の「生活」自体を批判したいので,「自分の生活のことを書く」という暗黙のルールがある「読書感想文」が,どうしてもブログの枕にほしかった。それだけ。

 結果として,冒頭に紹介されていた,読書感想文の事例には,何の意味もないことがわかります。

 こういう手を,教師などは説教をするときによく使うんですね。子どもの側からすれば,

 「まわりくどいことを言って,結局言いたいのは,これだけでしょ」というあれ。

 どうでもいい「事例」(この場合は,昆虫図鑑の読書感想文)はやたらくわしく,

 本来,もっとも大事な,批判の対象になっている「事例」は,5W1Hの何にもふれていない。

 これでは,読者はどこがどのように「支離滅裂」かがわからないのです。

 でも,それを具体的に示してしまうと,自分自身の問題に気づかれてしまう恐れがある。

 「柿」の事例は,まさに自分自身の文章のことを表現している。

 こういう「感想文」が非常にレベルの低いものであることも,中学生にとってはとてもいい勉強材料になるでしょう。

 指導力の低い教師が書く,「職務報告書」も,似たようなところがあります。

 一番大事なところがぼやけていて,どうでもいいことばかりがくわしい。

 大学時代にふれた,教育関係の「読書」の成果がこれなのかもしれませんね。

 では,この「ブログ感想文」への優秀作品は・・・・。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より