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学校の原点は,寺子屋にあり。教育基本法が「原点」?

 日本における学校の原点は,寺子屋や藩校にあると考えることができます。

 ある自治体が施設を残している藩校を訪れたことがありますが,ここで学んでいた子どもたちは,いろんな「悪さ」をしたことも想像できました。

 ごく小さい規模の寺子屋でも,子どもたちが「切磋琢磨」してきた様子を思い浮かべることができます。

 今の塾ではそれは不可能なのでしょうか。

 決してそうではありません。

 子どもの伸びる場所,伸びる力を矮小化してとらえる傾向のある人がいます。

 塾を除外する人は,自分が塾を開業している様子を描いてみてください。

 それだけで,塾では社会性は養えない,なんて言えなくなると思います。
 
 もし,そう言い切れるのなら,その人は学校現場に立っても何の役にも立たなかったことでしょう。

 塾でも,子どもは悪さをするのです。

 いじめで悩む子どももいるのです。

 学校ほどそのダメージがひどくない子どももいれば,その逆の子どももいます。

 塾の場合は,「いつでもやめられる」

 ことが,ダメージをおさえる原因になっていると私は想像しています。

 学校でのいじめのダメージが大きいのは,

 いじめられた子どもが,様々な意味で「引け目」を感じているからだろうと想像してみることも大切です。

**********

 現在の教育行政の原点は,日本国憲法や教育基本法にありますが,

 日本の学校は,それ以前に存在していたことを忘れてはなりません。

 120年以上の伝統がある小学校は多いのです。

 そういう学校が重視してきたのは,何でしょうか。

 社会性などは,地域社会の中で,自然についていたはずです。

 子どもたちは自分たちの「遊び場」の中で,非常に多くのことを学んでいたはずです。

 でも,それでは身に付かないものは何か。

 それが「学力」なのです。

 最低限度の「学習技能」が身についてない子どもが,大学生になる時代です。

 そういう大学生も,教師になれる時代です。

 「学力」の問題を放置して,「教育」の問題を語ることはできません。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
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