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次は「非言語活動の充実」~それも子どもではなく教師の

 昔,「怒っているのかどうか」を表情から読み取れない先生を見たことがありました。

 発している言葉は「怒っている」ことがわかる内容なのですが,表情は「怒っている」ように見えない。

 笑いを取る「芸」ではないので,本当に別の意味で「怖い先生」でした。

 コミュニケーションは,言語的なものを使う割合が2~3割で,残りは非言語のものを通して行われていると言われています。

 人間は視覚で多くのものを認識し,理解するものだからでしょう。

 いじめられている子どもに,教師が「大丈夫?」と聞く。

 子どもは,「大丈夫」と答える。

 それだけで「大丈夫だ」と考える教師は,いないはずです。

 「見た目で大丈夫かどうかがわかるはず」だから。

 しかし,こういう非言語のコミュニケーション能力が欠如している人がたまにいる。

 「言語化されているものを最重視する」のは,正しい場合もあるでしょうが,そうすべきでない場合もある。

 最近のカメラは,「笑顔」を識別できるようですから,

 いまやコンピュータの世界ですら,「非言語」コミュニケーションの比率が高まっている時代です。

 そのうち,睡眠時間や心拍数,脈拍を記録する携帯電話が現れてくるでしょう。

 また,「声のトーン」などから,その日の体調を診断する機能も開発されるでしょう。

 「ウソ発見機能付き」電話も開発されるかもしれません。

************

 今,教育の世界では,「言語活動の充実」というかけ声のもと,あまり意味のないことに手を出す学校が増えています。

 しかも,私が今まで見てきた発表からは,

 「もっと大事なものが足りていないでしょう」と言いたくなるものばかり。

 研究授業の「話し合いの場」で,「原稿を読んでいる」生徒を育てたいのでしょうか?

 もし,コミュニケーション能力の向上を目指すのであれば,

 まず,その教師にそっくりの,表情のない,声の出し方に課題のある,姿勢の悪い話し方を改善しなければなりません。

 ・・・・・なんてことは,研究協議では言えませんね。

 「心と心の通い合った温かさのあるコミュニケーションが大切だ」

 なんていう棒読みの言葉を無表情でかけられたら,本当に「ぞっと」します。

***************

 これからの教育改革の流れは,「言語活動の充実」から,「体験活動の充実」へとシフトしていくだろう,というのが私の予測です。
 
 これには,自然体験や社会体験の多い子どもの方が,学力がより向上しやすい,という調査結果が必要なのですが。

 「独立行政法人 国立青少年教育機構」という,「国の機関」見え見えの組織がありますが,

 ここには指導者向けの資料があり,参考になります。

 基本的な指導技術として,指導者の「話し方」「聴き方」「立ち位置」「集まり方」「服装」が紹介されています。

 これを中学校1年生から生徒に指導する学校も増えていくことでしょう。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より