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いじめの底流を探ると・・・

 タイトルを見て,びっくりした「いじめ関連記事」がありました。

 「いじめが問題化しないうちに」だったですか・・・。また,「やってしまった」のか!と・・・・。

 記事を読ませていただいてほっとしました。

 「いじめ」は,許してはいけないのですよね。

 「問題化」してからでは,遅いのですよね。

 「問題化」って,本当に「他人事」のように「いじめ」を見ている証拠ですよね。

 教育委員会の中で,うちわでする会話では出てくることがありますが。

 「これだけ問題化する前に,何とかできなかったのか?」とか。

 当事者としては,「いじめ」を見落とさないように,最大限の努力はすべきです。

 しかし,なかなか防げないで,みんな苦しんでいる。

 特に,「帰りの会」などで,「自己申告」できない内気な子どもが被害者になっている場合です。

 休み時間に「いじめ」を見たのに,「通報」できない内気な子どももいます。

 自分が「いじめ」の対象になるのは相当怖いから。

 「帰りの会」のような「公」の場で,見たこと,聞いたこと,気になったことが言えるのは,一部の子どもだけです。

 そもそもそうでないと,「帰りの会」が授業よりも長くなってしまいかねませんからね。

 そういう会で問題がきちんと解決できる学級には,それまではいじめはなかったのかもしれませんが,いつ発生するかはわかりません。

 単純に,一時の不平・不満がいじめの原因とは限らないからです。

 担任教師が「いじめ」発見の手がかりにできるのは,

 「気になったものを目撃した」後の,「帰りの会」の雰囲気です。

 本当に大事なものは,「言葉にはならない」・・・・・特に,当たり前のことですが,教師がいるような場では。
  
 このことを肝に銘じてでないと,いじめ発覚のあと,

 「そんなことは帰りの会であがっていなかった」などと開き直る担任が出てきてしまっては困ります。

******************

 さて,今日の本題は,特に小学校におけるいじめの「底流」についてです。

 担任教師の知らない世界は,いくらでもあります。

 ある小学校で,「ママの会」の自粛を要請したことがニュースになっていました。

 普通に考えれば,「小学校がやりすぎ」と捉えられるでしょうが,

 「ママがやりすぎ」てトラブルが多発するから,小学校がとった措置なのでしょう。
 
 しかし,仮に「自粛」を要請したところで,結束する人たちは勝手に結束します。

 ますます結束を固める人たちもいるでしょう。

 子どもの学校での言動に,大きな影響を及ぼしかねないのが,こうした「ママ」たちの存在です。

 学級内の子どもの「勢力図」ですら描けない教師が,その背景にある「ママ勢力図」を把握できるわけがありません。

 ときどき,「タレコミ」があったとしても,それが正しいといえる証拠はどこにもないのです。

 実は,小学校の「ママ勢力図」は,中学校になっても影響を残していて,

 子どもとは全く関係のない,「ママ」VS「ママ」の構図があるために,クラスを分けなければならない,ということも実際に起こっています。

****************

 海外では,学校の教師は学力をつけるのが仕事ですから,「いじめ」のような「心のゆがみ」がもたらすような問題には教師はタッチしないでよい,という考えのところもあるようですが,

 日本では,「いじめ」は「集団のゆがみ」と捉えられています。

 あまり「個人」には目がいかないのですね。だから,「学級で解決する」という考えが生まれ,それがうまくいかないのは,「学校の先生の責任だ」ということになる。

 教師たちが,もっともっと「個人」への目を鋭くもっていれば,対応への責任感も増すのでしょうが,いかんせん,「そんな余裕はない」と切り捨てられる教師が多い。

 ある意味で,「正しい態度」と言えなくもないのですが,それが「無責任」に見えてしまうのは,この国の場合,仕方がないことでしょう。

 それだけ,教育現場には,優秀な人材が必要である,ということです。

 優秀というのは,子どものためには,どうな労苦もいとわない,そういう堅固な姿勢をもっている人,という意味です。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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