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タイトルごと破綻してしまった「教育ブログ」

 もはや,タイトルごと破綻してきた,「感想文用のブログ」。

 人のブログ記事に対して,読書感想文のように自分の生活を書くのが大事,などと説教を始めたと思ったら,次は植民地教育と同列に扱い出す。さらに,ここには「格好のいいものじゃない」なんていう「本心」がくっついていた。

 植民地教育は,現地の人々の固有の文化を否定する面もあり,「決して,あってはならないもの」のはずが,

 「格好のいいものじゃない」と来た。

 ことは,「格好」がどうこうの問題ではない。

 物事の重要度の違いが判別できていない。

 「見た目」「外見」「外聞」を気にするタイプの人間がつい犯してしまう失言である。

 「格好さえつけば,何の問題ない」というのが,こういうタイプの人間の本性なのであろう。

 上が何だ,下が何だ,上下関係が何だということにこだわっているこういう人間は,本来,上であるはずの人間が,自分に対して下手に出てくると,うれしくてたまらない。(こういうタイプの人たちは,いとも簡単に「だまされる」ので,ご注意を。)
 
 逆に,「自分により上の人間が,そのままの姿勢で自分に語りかけること」「自分より下の人間が,まるで上の人間のようにふるまうこと」については,我慢できない。

 だから,何度となく,「上から目線」だの何だと,メッセージを垂れ流し続ける。

 簡単な話が,「おれたちに上から目線でものを言うな」ということである。

 普通の人なら,「聞き流せばいいのに」「聞く耳を持たなければいいのに」という話である。

 しかし,「聞き流せない」というか,「読み流せない」。

 なぜなら,そこに「自分の真実の姿」が書かれているからである。

 人のブログ記事を,「植民地教育」にたとえたり,記事の内容を「妄想」とよんだりして非難している,「真実」の姿である。
 
 人から感想をもらうときに,低姿勢で書いてもらうことに感謝しているが,これは,そうでなければ私は気に入らない,と言っているようなもの。

 小学校の教師がよく使う手である。

 「~ちゃんは,先生に,~してくれたんだよね。先生,本当にうれしかった!」

 この言葉を,子どもは次のように翻訳する。

 「~ちゃんと同じように,全員,先生に~しなさい」

 困った習慣である。小さい子は,こんな簡単な手で,教師によってコントロールされる。

 私には,これが完全に「植民地教育」と重なって見えてしまった。 

 さて,感想文での「上から目線でものを言うな」というのは,表現力と思考力のない人間が,反論すべき言葉がなくなって,最後に告げる言葉である。

 「上から目線」かどうかは,「受け手の心の許容度の広さと深さ」で決まる。

 イチローが,インタビュアーに,「あなた,上から目線じゃありませんか」なんていちゃもんをつけることはない。
 
 心では思うことがあったとしても。

 態度が気に入らないとき,それを書かないと気が済まない気持ちは,よくわかる。

 しかし,こっちは,内容が気に入らないのである。態度も気に入らないが,そんなことは二の次である。

 一部の教師がもつ人権感覚無視の,教育に対する無責任のかたまりのような空気を全身に濃縮したような,そういう内容が気に入らないのである。書き方がどうこうというのは,二の次である。

 なぜ態度を気にするのか。

 内容も気に入らないのだが,反論できないので,態度の方を問題にするしかできない,ということだろう。

 直接,話しかけない,というところから,まだ「最後」の段階まで余裕があるのだが,その余裕があまりないのは,「たとえ」の質が悪すぎることから明らかである。

 内容の方は,自分に害が来ないように,相手の「妄想」,相手の「頭がおかしい」ということにするのが好きな人間である。

 しかし,今回はやってはならないミスを犯してしまった。

 自分で勝手に妄想しておいて,「こんな妄想をしている人間がおかしい」とやってしまった。

 「みんなが自分の考えを受け入れていると錯覚しているようにも思います」というのは,勝手な想像である。

 そして,「戦前の植民地政策で他の人を教化しようとする意識が身についているような気がします」とあるが,これは勝手な想像を通り越して,妄想である。

 自分自身は,妄想を抱く人間は,妄想を自分が抱いていることに気づかない,ことを知っている。

 だからこそ,重症なのである。

 「私が犯人です」と同じ意味のことを言っているのに,「私はやってない」と言い張る。

 「だって,私は私が犯人ですとは言ってないでしょう」みたいな言い訳をする。

 唯一の救いは,「たかがヒラの教師が,何をほざいてやがる」という「上から目線」を自らはしていないことである。これをしてしまうと,さすがにやらせのフォローが機能しなくなることはわかっているようだ。つじつまがあわなくなってくる。

 どうして「私は下」「相手は上」という意識になってしまうかというと,やはり自責の念があるからだと想像できる。小学校で担任を持っていた経験があるのに,どんな学力を身につけさせることができたか,語ることができない。専科でやってきたから,甘く見られていた。担任おろしの細工をされた。あまりおもしろくない経験だが,自ら語ってきた。しかし,どうしてそうなってしまったのかの分析が足りない。理由は,いくらでも考えられるが,それを自らにあてはめようとはしない。

 相手が「上から目線」という偉そうな態度でいるから,自分自身のことを考えなくてよいのか。

 いや,態度が変わったように思えたら,次は「妄想」とくる。

 結局,どちらにしても,「反省」の機会は一切ないのだ。
  
 それにしても,「やってはいけないこと」をやりすぎる。

 これは,「上から」と思われようが,言わなければならないことである。

 馬鹿なたとえは,やめたまえ。ブログのタイトルが泣いている。

 カルロスさんは書かれているが,賞味期限どころか,消費期限が過ぎている人だから,言われたくない,と私は言いたいわけではない。どんな立場の人間でも,書いていいこととよくないことはある。カルロスさんと同じように,現実逃避の姿勢だけでも,許されない。

 破綻ブログの人間は,自分を地の底においているから,まだ書けるのだと勘違いしているのかもしれない。

 あのブログの内容が,教育委員会の答弁だったら,マスコミがどれだけ騒ぐか,想像してみてほしい。

 最も「役に立たない教育ブログ」だが,こういう感想文用には,非常に「役に立つ教育ブログ」である。

 教師になろうとしている人には,必読のブログといってよい。あってはならない姿がそこに書いてある。

  
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より