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批判してくれる人がいるから,教師や管理職,行政は変われる

 中学校に上がってきたばかりの時期に目立つのですが,担任をやたらと「ヨイショ」して,気に入られるような行動をとる子どもがいます。

 しかし,その「ヨイショ」を真に受けて,「私は子どもの言葉を通して,自分を客観的に見ることができています」なんていう教師がいたら,本当に心配になります。自分の子どもの担任だったら,心の底からがっかりします。

 子どもにとって教師というのは,自分に対する「評価」の権限をもっている人間ですから(小学校は全教科・すべての生活面にその影響が及びますから),子どもが教師を「ヨイショ」して相手の気分をよくする,というのは,私のように「根拠を明確にする」ことを重視しない教師にとっては,有効な作戦となります。

 中学生になってしばらくすると,ごますりではなく,自分の実力がものを言うことに気づいて,教師に対するおかしな呪縛から解き放たれ,急に生き生きし始めます。個性らしい個性をようやく発揮できるようになるのです。

 教師と管理職の関係をとっても同じことが言えるでしょう。

 「ヨイショ」されている管理職はたいてい力のない人だし,「ヨイショ」している教師も同じように力がない。

 恥ずかしげもない内容の「ヨイショ」コメントしかついていないようなブログの人が,自分のブログを「客観的に見る」ことはできないでしょう。

 教師と管理職の関係を,「命令を受けたら,それがいかなる命令であっても絶対に従う」という,コンピュータのプログラムのようなものだと考えている人がいる。「法律にそう書いてあるから」だと言う。

 教育の優先順位をめぐる問題で,

 教育委員会からの出張「依頼」に基づき,校長が出張「命令」を出す場合,

 「授業をどうしても自習にしなければならない」という事情があったとき,

 校長は経営者として,「この出張を命ずることは不適切だ」と判断することができます。

 こういう事情の中,出張命令を出してしまう校長に対して,

 対象の教師が「とても困ります」と意見を言えないような関係ならば,そこには「子どもへの教育を最優先する」という当たり前の学校の姿はありません。

 もちろん,「授業をもたせてあげられるだけまし」のようなレベルの教師の場合,「自習の方がまし」という判断があるのかもしれませんが,「自習」と聞いて大喜びする子どもを想像すると,「学校は何のためにあるのか」と考えさせられてしまいます。

 この事例のような「実態」が常であった地域で,教師の側の要望から「見直し」が入り,あらかじめ計画できる出張は,長期休業中などに集中させる,という方針になったことは以前にご紹介しました。

 校長の命令が,実態としては教育委員会からの命令になっており,教育委員会の方針が変われば,教育が変わる,その一例と言えます。

 私の想像によれば,「部活動に支障が出る」という理由の反対意見が出されたかもしれませんが,

 授業を自習にする出張は歓迎で,生徒が休みの日の部活動が見られない出張は反対だ,というのは,公務員として本末転倒なのです。

 親は,教師の側を支持するかもしれません。

 子どもは喜ぶし,休日に家にいられるのは困るから。

 しかし,公立学校に子どもを通わせている親の中にも,「きちんと授業をしてほしい」と願っている人は少なからずいるはずです。

 こういう「教育現場への願い」に対して,一部の教員は,「苦情」扱い,「モンスター」扱いして,全く耳を貸そうとしない。その現状に対する「あきらめ」のムードが漂ったとき,本当に学校は「死んでいく」のでしょう。

 学校が「死んでしまった」ときに,犠牲になるのは「子ども」なのです。

 このことへの憤りを「ゴミ」扱いできる人が,学校現場にもいるし,社会にもいる。

 これは,むしろ歓迎すべきことです。

 なぜなら,「学校現場」「教育」の「死に体」にようやく気づいて,憤りを感じてくれる人が増えてくれるから。

 道のりは遠いかもしれません。

 そういう「憤り」に,学校側は,「先生方は忙しいので」なんて答えてくるかもしれない。

 うどんづくりに忙しくてラーメンがつくれないラーメン屋ってありますか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より