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【小学校教育改革】 小学校における指導力不足問題の解決法

 小学校教師が授業も生活指導も保護者対応もうまくできず,孤立して生きる気力すら失っていくような事態を救えるものは,何か。

 休ませてしまえばいいのか。

 担任からはずしてしまえばいいのか。

 そんなことで問題は解決しません。
 
 いずれ,担任ができる教師が足りなくなってしまいます。

 今,何とかなっているのは,子どもの数が減っているからです。

 しかし,小学校では大量採用の年代の教師が退職を迎えていますから,教師が足りなくなってきます。

 東京都では,もう小学校の管理職が足りなくなり,中学校の教師が小学校の管理職になり始めています。

 以下は,教員採用に関して,匿名さんからいただいたコメントへの返信です。

********************

 50分の授業を5回くらいさせて,学習指導の力をしっかり見極め,教師に採用するようなシステムができるとしたら,採用される人は今までとかなり変わるかもしれません。
 小学校は一人で勝手にやっていればいいのかもしれませんが,中学校の場合は教科の人間として,学年の人間として,学校の人間としてふるまえる協調性というか「利他精神」が重要なので,3か月くらい実際に働かせてみて,教師としてというより社会人としてやっていけそうかどうか,見極める機会もほしいものです。

 指導力不足の問題がどれだけ深刻か,だれも知らないものはいないのに,「うちは大丈夫だから」なんて安穏としている人間には,公務員の資質はないと言ってよいでしょうね。

 荒れた学校に異動してきた教員が,生徒や教員の前で何かにつけて前の学校との比較を持ち出し,「私の学校では」とやってしまう。もう,あなたは「ここの教師」のはずなのに,心は全く「異動」していないのですよね。

********************

 小学校は,もう単独の担任制ではもたない時代になってきたと思われます。

 では教科担任制がいいのか。

 そういう免許制度になればいいのですが,専門性を高めるための教員養成課程にはなっていない。大学から変えなければいけないので,時間を要します。

 すぐに変えられる仕組みは何か。

 それは,単独の担任制の廃止です。

 副担任制にするのか?

 違います。

 副担任と言えば,小学生から「格下の教員」と見られて,それが授業崩壊のきっかけになりかねません。

 どうするかというと,「担任団制」をとるのです。

 1組の担任,2組の担任,・・・・と一応の「担任」は決まっているのですが,教科によって,単元によって,授業を受け持つ先生が入れ替わる仕組みです。

 そして,「学年主任」=「担任団の長」は,クラス担任はもちませんが,特定の教科は,すべてもつ。

 こういう仕組みにすれば,「学級の担任」が,ほぼすべての教育の責任を「学級の子ども」に対してもつ,という現行のかたちではなく,「学年のすべての教師」が,「学年のすべての子ども」に対して,責任をもつようになり,教師の「チームワーク」による力が,教育実践に反映できるようになります。

 今までの,独善的な学級経営は不可能になり,「話し合い」によって,学年経営の方針が営まれるようになるのです。

 単独のクラスだけ,「話し合い」活動中心の授業を展開して,楽しそうにやってはいるけれども,ほとんど学力がつかず,保護者から不満の大合唱がくる,ということもなくなります。

 指導力に課題がある教師も,自分が苦手とする教科の指導はとりあえず避けられるようになり,得意なところで自分のよさを発揮することができる。

 小学校の先生というのは,「指導力の向上」「授業力の向上」についてはそもそも非常に意識が高く,私にかかわりがある小学校には,毎年,本当に多くの先生が発表会に参加します。しかし,そこで得た財産は,自分のためにしか使われないことが多いでしょう。

 もし,「担任団」制度にすれば,A先生は算数,B先生は国語,などと分担して研究会に参加し,学校に戻って報告会をし,「学んだことの共有化」が図れます。

 この制度で私が優れていると思われる点は3つあります。

1 子どもが,特定の人間に気をつかったり媚を売ったりすることなく,「伸び伸び」と教育を受けられるようになること

2 少なくとも,先生ごとの得意分野の授業を受けることになるので,学力が向上するであろうこと

3 そうやって育った子どもは,中1プロブレムの多くが解消された状態になるであろうこと

 そして,最も優れている点は,

 指導力不足教員が放置されなくなることです。

***********

 大阪市の教育委員のみなさんへ。

 普通の自治体で,こういう「改革」に踏み切れるところはまずないでしょう。

 しかし,大阪市は期待できます。

 大阪市の教育のありようを決められるのは,教員委員のみなさんなのです。

 それが本来の「教育委員会」の仕事です。

 みなさんの決定を受けて,動かざるを得ないのが,教育委員会「事務局」なのです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より