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2012年10月

一般人は「気軽なコピペ」で嘆いていられることも・・・

 社会で起こる様々な不正に腹を立てるのは,だれにとっても当然のこと。

 しかし,教師という立場の人間には,当然のごとく,「配慮」すべきことがあります。

 軽率に社会の問題を教室でふれるわけにはいかないのです。

 昔,「米軍」を目の敵にしていたある社会科の女性が,授業を受けていた生徒を「いじめ」て不登校に追い込んだことがあり,処分の対象となりました。

 こういうのは「ねらいうち」ですから論外なのですが,

 教師がふれる「ある企業の問題」「ある政治家の問題」に,生徒の保護者がかかわっている(と思われてしまう)可能性があることを忘れてはいけないのです。

 教育ブログの世界で,

 「こんな大人がいるなんて許せない」というのは,

 子どもが書くならわかるのですが,

 子どもからみて「大人」が書いているのであれば,

 「大人が大人の悪さを嘆いてどうするのか」

 「あんたに何かできることがあるのか」

 と思われて終わり。

 子どもたちにとって,「嘆いているだけですむ」大人は無責任に見えてしまうのです。

 「不満や怒りの矛先をうつす」

 のは,あの国の政府が得意としていること。

 教育の村では,「教育の問題」の解決方法を考えなければ。

 そのための第一歩は,

 「問題を問題として受け止めること」です。

 それが,今の教育現場にはできていない。

 こういう「体質」は,元教師のブログからもにじみ出してきていることがおわかりになるでしょう。

 いじめ問題にしろ学力低下の問題にしろ。

 小学校の教師には何の緊迫感もないでしょうが,中学校,高校で「寝ぼけた教師」がいたら,それこそ「塾の先生の出番」になってくる。

 「現場はいっぱいいっぱいだ」と宣言してしまうのも,一つの方法。

 実態はどうなのか,外部の目が入りやすくなるでしょう。

 この村の中で論ずるべきことは何か。

 問う前から明らかなことであるはずなのですが・・・・。


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教員採用試験に受かる人・落ちる人

 採用試験の2次の結果がぼちぼち届き始めています。

 あいかわらず,教員向きの人は落ちていて,

 「大丈夫か?」という人が受かっている。

 要は,「成績」が物を言っているわけでしょう。

 ペーパーで点数がとれる人が,圧倒的に有利。

 せっかく,「成績に表れない能力」とか「重箱の隅」とかいう問題に目が向くのに,

 教員採用試験に受かった人には「絶対の信頼をおきたい」人がいる。

 もう少しだけ視野を広めれば,

 「合格している人よりも高い指導力を発揮できる人」がいることくらいわかるはずなのに・・・・。

 「成績に表れない能力」とは,そういうことをさすのです!

 で,これがアドバイスになるかどうかわかりませんが,

 私なりの「合格のコツ」をお教えしましょう。

 「いい点をとる」という話は,もちろん別にして。

 私が見てきた教育実習生のうち,実際に先生になった人の多くは,

 「重い」人たちです。

 指導案をみっちり書いて,自分で話せばそれでよい,という感じの人。

 逆に,採用試験に合格できない人の多くは,

 「軽い」人たちです。

 指導案はかけないけど,子どものペースに合わせて,柔軟な授業ができる人。

 長い目で見れば,どっちを採用した方がいいか,わかるはずなのに・・・。

 この,「重い」「軽い」には非常に多くの意味が含まれていますが,想像できるでしょうか。

 私はどちらかというと「軽い」方が好きなのですが,事務の人たちの受けは悪いなあという気がします。

 フットワークよく,生徒の中に入って授業や部活をしそうな人は,ほとんど受かっていない。

 逆に,デスクワークが似合いそうな人ばかりが,受かっている。

 採用試験を担当する事務の人たちには,現場をよく見て,「指導力のある先生」の近くでしばらく生活してもらいたいのですね。そうすれば,自分たちの「基準」がどこかおかしいことがわかるはず。

 でも,今すぐには無理です。

 ならば,「重い」人を演じるのがベストということでしょう。

 ちょっとやそっとの質問には動じず,表情を変えない。それが肝心。

 決まったことしか話せない。それでいい。口から出まかせは言わない。わかりません,と正直に答えた方が,適当にごまかそうとするより,まし。

 表情を変えずに,「わかりません」と答える。

 私がある自治体を担当していたとき,「表情がない指導力不足教員」に出会いました。

 事務の人は,「表情がない」のと「表情を変えない」ことの区別がつかない。

 だから,「無表情」でもかまいません。

 「重く」受け止めるべきことと,「軽く」受け流すべきことの区別は,教員になってから,少しずつ身につければよいのです。

 ・・・・これは一個人の感覚に基づくものですから,どうぞ判断はご自分でなさってください。

 「受かる」ための一番のコツは,「私は教師になる」というより,「私は公務員になる」という意識を強くもつことかな。

 採用する人は,教育のことがよくわかってないから。

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記事の封印

 一つ,痛烈な内容の記事をまとめたのですが,

 「次の失態」が訪れるまで,しばらく封印しておこうと思います。

 教育という仕事は,信用で成り立っているもの。

 仕事によっては,「次のがんばり」でカバーできる種類のものもあるでしょうが,糊塗しようとすればするほど,醜さが際立つ,というのが「教育」です。

 公立学校の教員には,「異動」という「リセット」のチャンスがある。

 教育ブログも,匿名ですから,それは可能です。

 でも,どうしても「しがみついていたい」ものがあるのが人間なんですね。

 「漢字テスト」で救われるのは,子どもだけです。

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教育委員会が手を焼く「大きい方の子ども」たち

 産経新聞の2週間前の記事に,こういうのがあったようです。

*************

 印南町教委によると、教諭は保護者面談をしていた7月下旬、フェイスブックで「明日のモンスターは一番態度悪い!来なくて良いのに…」「モンスター、態度悪い上に遅刻かよ!」「おーわった♪おーわった♪モンスターやっつけた」などと書き込んだ。誰でも見られる状態だった。

*************

 40代の女性教諭の「本心」が,ありのままに表現されていたフェイスブック。

 こんなブログもかつてはありましたね。

 こういうことに,普通の教師たちは,なぜ憤らないのか。

 それは,みんな同じようなことを感じているからでしょうね。

 「よくぞ本音を語った!」なんてとこでしょう。

 ・・・・・。

 教育委員会は,このような「事件」がおこると,「研修」を強化しなければいけなくなる。

 ICT教育なのか,道徳教育なのか?

 そもそも,教師の「教育」は可能なのか?

 学校には,自浄作用がはたらかない。

 かといって,教育委員会の「洗浄作用」も効き目はない。

 我が子を公立学校に通わせる親は,もはや「教師は敵」「教師は悪魔」だと思って対決していかなければならない時代なのか・・・・?

 こういう事件が起こるたびに,

 「信頼回復につとめ・・・・・」というコメントが出されるが,「回復」?という言葉すら使えない学校も増えてくるでしょう。

 黙々と,「事件」を起こし続けてくれる人たち。

 教育委員会の仕事は,たいへんだということがおわかりになりますか?

 小さい子どもと,大きい子どもの面倒ばかり。

 大きい子どもの方が,本当に手がかかってしょうがない。

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教師の都合ではなく,子どもの心を最重視する学校へ

 予想した通り,「職員室での生活指導」を行っている学校があったようで,コメントでご意見をいただくことができました。たいへんありがとうございます。

 おかげさまで,いくつかの問題が浮き彫りになっています。

 ① 他の教師が見ている前で指導させないと,暴言や暴力をふるうおそれのある教員がいる。

 ② こういう教師が行う「密室」での生活指導は,子どもだけでなく,教師たちもおそれている。

 ③ 職員室に生徒を入れることに抵抗がなく,当然,職員室内で指導することへの抵抗感がない。

 ④ 他の教員や生徒の前に「さらす」ことを「透明性」という理由で正当化している。

*******************

そうとばかりは言えないと思います。
おそらく問題の少ない学校にお勤めかと推測しましたが、
いかがでしょうか。私のところでは、生徒指導は全教員で
行うことを基本とし、職員室で指導することも多いのです。
事が重大であれば別室で、複数の教員で対応しますが、
遅刻指導、服装指導、日常の生活態度に対する指導は、
学年主任を中心として、職員室で指導しています。
当然、教頭も室内にいますので、
学校の置かれた状況や、生徒の現状は管理職者として
十分に把握できます。
(依然、密室での教師の暴言や暴力もなくなりませんし)

「社会では大勢に、自分の行動が見られているのだから
ちゃんとしよう」という自戒や今後の行動を、自ら矯正させる
チャンスなのではないかとも考えます。
他の生徒の目に触れることが問題であることは認識
していますが、いろんな面で透明性を求められる職場です。
密室化しない方が、良いような気もします。
お互い大変な仕事ですが、その分、喜びも多いと思います。
がんばりましょう。

*******************

 まず,私の最初の中学校勤務は,自治体の中で「最も生活指導が厳しい」と評判のところで,どこからどうみても完璧な生徒をつくろうとしていて,教師の側も全く気が抜けないところでした。

 全国大会でトップになれる部活が複数ある,このような学校では,あまり「丁寧な指導」は行われませんでした。指導されるべき場面があれば,すべてその場で行われ,「またあとで」ということはあまりない。

 服装,挨拶,忘れ物・・・すべて「その場」での指導です。他の生徒が見ている前で,ということ。

 職員室がせまいせいもあって,生徒は職員室内の教師に用事がある場合は,入口のところで呼んで,職員室の外に出て来てもらわないといけない。

 考えてみれば,ありとあらゆる「機密文書」であふれているのが職員室という場所で,生徒の入室を許可すること自体,あり得ないという学校も少なくないでしょうね。

>「社会では大勢に、自分の行動が見られているのだからちゃんとしよう」という自戒や今後の行動を、自ら矯正させるチャンス

 という趣旨ならば,そのとき,その場での話が最善でしょう。

 わざわざ職員室まで連れてくる必要はありません。

 二校目の学校は,全く逆で,自治体の中で,すさまじい荒れで「ワースト3」,教員は3年たったらすぐに異動してしまう,そんなところでした。

 はじめ,生徒が職員室に勝手に入り込み,ソファにふんぞりかえっている場面にでくわしたとき,直ちに職員室への入室禁止と,ソファの撤去を決めました。

 生徒指導は,それこそきりがない学校でしたが,職員室内で指導したのは,生徒が勝手に入って来て中で暴れた時と,廊下で破壊行為を続けていた生徒をかかえて連れ込んだときくらいでした。

 職員室は,指導はおろか,入室さえ禁止するのが当たり前だと思っているから,

 「職員室での生活指導は最低」と言っているわけではありません。

 一番は,繰り返しになりますが,

 生徒の心の健康のためです。

 そのことが十分にご理解できないような学校は,やはり私の目から見ると,特殊です。

 人間は習慣の奴隷といいますが,全く異なる指導方針の私の学校の話など,きっと耳にされたことはなかったでしょう?

 多くの中学校では,子どもの心にきちんと寄り添えていません。

 すべて,教師の都合中心でものごとが進みます。

 「全教員が全生徒の生活指導する」のは当然のことですが,

 わざわざ服装指導などを,職員室にいる全教員がするわけではないですよね。

 大きな「方針」と,実際の「指導」との区別ができていない例は指導主事時代にもよく耳にしています。

 もし先生が,通勤途中で接触事故をおこしたとき,教育委員会の事務局の中で,職員が見ている前で指導室長か教育長の前に立たされて,事情を聞かれている場面を想像できますか?

 職員室で生徒をさらしものにすることに,異論を述べる教員はいないのでしょうか?

 それで問題は解決しますか?

 生徒指導は,「密室」で行われるべきこと(プライバシーにかかわることがたくさん出てくる場合)もありますが,職員室でなければ「密室」というのは,あまりに柔軟性に欠ける学校です。

 要は,生徒が心を落ちつけられる場所で,「話をする」。

 それが大事,ということです。

 大勢の教師に「見世物」にされることで,事態が改善されるとは思えません。
 
 誤った方法で先生たちが「頑張っている事例」はこのブログで紹介してきました。
 
 そんなお暇はないでしょうが,どうかご参照ください。

 職員室に生徒が入る習慣がある,という学校については,また別の機会に所見を述べようと思います。


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教師の仕事は子どもの夢や希望を育てるものである

 「教師になるのが夢でした」

 なんていう人を,現場は求めていません。

 「夢のままの方がよかったんじゃないか」

 という声をかけなければならない瞬間が刻々と迫っているから。

 中には,教師になったあとも,そのまま「夢の中」にいる人がいる。
 
 だから,周囲の教師の負担がたえない。

 「教師になったら,こんないいことがある」なんていうイメージを,

 「仕事へのご褒美」だと思うことは決して悪いことではありませんが,

 公立学校の教師になるのであれば,「教育公務員になる」ことの意味を考えてほしいのですね。

 あなたは,だれのための「教師」なのか。

 子どもたちにとって不幸なことに,

 根本的に,

 決定的に,

 絶望的に,

 この部分が完全に欠落している人間が,ときどき間違えて採用試験に合格してしまう。

 あなたは,だれのために「働く」のか。

 最近は,異動のない「私立学校」への就職希望者が増えているという。

 「めんどうな保護者対応がなさそうだから」「深刻ないじめがなさそうだから」などと,正直に,のたまわれる。

 こういうのは,私立学校に入っても苦労するだろう。

 少しでも「楽」そうな・・・・そうそう,費用対効果だ。

 同じ給料なら,ラクな方がいい。

 たのしい方がいい。

 そういう人間たちでもなれてしまうのが教師という職業。

 最初の立ち位置がきちんとしている,

 そういう人を選ぶことはできないのだろうか。

 ある人はこう語った。

 最初から教師になろうなんて考えてたやつに,ろくなやつはいない。

 いや,教師に限らない。

 人間,ふとしたことをきっかけに,実際に自分がつく職というのが決まることが多い。

 それは,だれかが「あなたは~に向いている」というアドバイスを受けて,実際にやってみて,本当にはまった,というケース。

 人間は,自分で自分が何に向いているかはわからない。

 人から,何に向いている,というアドバイスを受ける環境で生きていることが,最も,自分にあった職業を見つけやすい,ということ。

 そういう意味では,教員養成系の大学というのは,どうだろう。

 きちんと,「あなたは教員には向かない」「教員よりも,~が向いている」と言ってくれる先生がいるのだろうか。いないか。教員しか経験したことがない教員に教わっているのだとしたら。

**************

 (追記)こういう記事を書くのも,少し考えものだ,というところもあります。

 面接では,利己性が見える人間より,利他的な人間に高い評価を与えます。

 だから,「ずっと私は先生になりたかった」などという子どものようなことを言う人間は,二の矢への対処を間違えれば,それで終わりになるのです。

 しかし,「子どもに夢を与える仕事」というテーマで,しっかりと論文を書く練習をしてきた人は,面接官の心をつかむ「志望動機」が話せるでしょう。

 面接は,面接官の心をつかむ話をすればよいのです。

 そういうコツだけ知っている人が,本心を隠して高い評価が得られるのが面接だから,本当に評価とはやっかいなものです。


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職員室で,他の教師の見ている前で生活指導を行う学校

 かなり前の話だったと思いますが,

 職員室内で生活指導を行うことの問題をご説明したことがありました。

 まだ,この問題を理解できない「人権感覚」に乏しい教育関係者がいるようなので,一言,書かせていただきます。

 職員室というのは,教師たちが事務的な仕事や授業の準備,学年で小さな打ち合わせなどを行うための場所であって,生活指導をするところではありません。

 しかし,中学校によっては,他の教師に聞こえるところ,見ているところで生活指導を行うところがあるようです。

 これは,教師による「いじめ」です。

 子どもの側に立って考えればわかるでしょう。

 どれだけ屈辱的な場に立たされているか。

 そこで,自分の思っていること,考えていることを,落ち着いて話せると思いますか?

 そんな「話」を聞くつもりは,職員室にいる教師には毛頭ないでしょうね。

 教師たちの面前で生活指導を行うということ自体が懲罰的な意味をもっていることを知っているから,あえて行われていることです。

 もし私がこういう場面に出くわしたら,ただちにお願いします。

 「部屋を変えてやってください。もし必要なら,生活指導担当の私も立ち会います。」

 しかし,力のない教師が指導する場合は,他の教師たちがいる場の方が,安心して「指導」ができるのです。

 生徒が逆ギレしたら,すぐに助けてくれるでしょうし。

 生活指導というのは,「生徒が話をしやすい場」をきちんと提供してあげること,これが大事なところです。

 力のある教師は,そういう環境の学校では,しかたなく,職員室で「説教」などはせずに,本当の意味の「生活指導」を行えるのかも知れませんが,一人だけの力量では,学校を変えることができません。

 すべての教師が,正しい生活指導を行うための,環境をととのえる必要があるのです。

 まとめ。

 職員室で,他の教師の見ている前で指導を行う教師は,最低の教師です。

 自分の「よい」指導を見せつけている教師は,いやらしい教師です。

 今,「叱り方」までマニュアルが必要な時代になっていますから,こういう環境が必要だ,という意見があるかもしれませんが,教員の力量を高めることより,まずは目の前の子どものことをみんなで考えたいですね。


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浄化作用はたらく?「人間は変われる」見本になるか!

 このブログ村の記事に,「カテゴリーの内容に不適合である記事の掲載拒絶機能」でも設けたらどうか,などいう意見があるかもしれません。

 ただ,「教育」には,そもそも「ごった煮」の要素があってもよいだろうと思われます。

 この世にある「教育論」がいかに役に立たないかは現場に出ればわかるものなので,「きれいごと」でお茶を濁す程度のブログなら,それこそ「何でもあり」の方がおもしろいでしょう。

 教育実践のためのヒントは,教育関係の記事より,むしろ社会一般の記事,子どもの日記のような記事の中に,隠れているかもしれません。

 教育ブログは,書いたら書いたなりの「反応」をしてくれる人がいるので,「人間相手」の活動だなあという実感を得ることもあります。

 人のブログの記事に影響を受けて,「みそぎ」を行える人もいれば,おそらく,

 体罰で何度も処分を受けている教師のように,

 「処分が下ると,しばらくはなりをひそめていても,やがて必ず元通りになる」

 人もいるでしょう。

 世の中には,「わかっているけどやめられない」ことばかり。

 教師たちが,その見本を見せてくれている。

 世の中を「浄化」させるのに最も適した方法は何なのでしょう。

 昔,記事に対する批判を受けて,追い込まれるとなぜかすぐに「裁判ネタ」を繰り出す人物がいました。

 人を脅す方法は様々です。

 教育現場にも,「指導」という名の「脅し」が横行しています。

 余暇の時間に読まれる教育ブログの場合は,「浄化」されてつまらないものになるよりは,「体罰教師」のパターンの方が「人気」は上がるかもしれないのですが・・・。

 現場は,良い方向に向かってくれることを願っています。


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モニママの声を現場が生かすには?

 音楽や美術科の教師は,その指導力を合唱コンクールや文化祭で問われてしまうわけですが,そもそも「コンクール」や「祭」は「教育」ではないので,学校としてもその質がどうこうと胸をはって言える筋の話ではないのかもしれませんが,もし「聞く耳をもたない」姿勢を鮮明に出してしまっているのなら,問題ですね。

 今は,どの学校でも「外部評価」を大切にしています。

 それが法令に基づくものであることをご存じの方は少ないかもしれませんが。

 細かいところはやたらに細かく指導が入っており,抜けているところはとことん抜けている,というのは,教師の世界にはよくあることです。

 これが,よく言われる「学校の常識は社会の非常識」というもので,

 「ずれ方」が半端でない人が,決して珍しくはありません。

 実は,モニママと同じ,普通の感覚をもっている人間は,教師の世界にもいるのです。

 しかし,教師は「のびのびとやらせる」第一教という「エセ宗教」を信仰している人が多く,この信仰にもとづくと,「あれこれと他の教師のやることに口出ししない」のが「戒律」となってしまっています。

 ですから,異教徒として,果敢に「攻め」の姿勢に入れる人は少ないですから,学校内は「やりたい放題」になってしまい,よく言えば?「治外法権」,悪く言えば「無法状態」の国が「学校」というところなのです。
 
 中学校などでは今でも徹底してたたきこんでいる「同調性圧力」の弊害が,わが身にも及んでいる事態に,危機感を全く覚えていないわけでもないと思います。

 しかし,「お前はどうなんだ」と言われると何も言えなくなるので,言わない(言えない)だけ。

 もし,文化祭等で「アンケート」のようなものがない学校なら,

 教育委員会に問い合わせてみてください。

 今,●●市の学校で,文化祭や運動会,授業公開に参加した保護者に,アンケートをとっていないのは何校ありますか?

 もし,これで教育委員会が答えられなかったら,「議員さんからの質問なら答えますよね」と続ける。

 そうすると,教育委員会は動かざるをえなくなります。

 教育委員会がめんどうくさそうな態度をとったら,「学校教育法施行規則第67条や68条に関して,教育委員会が学校に指導している内容を教えてください」と聞いてみる。

 現場が動かないから教育委員会が動かざるを得ない,という事態を学校は防ぐべきなのですが,いじめから始まって,学力向上にいたるまで,「戒律」に支配されている学校に期待することは難しそうですね。


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「いじめと自殺との間には何の関係もない」と言い切る人間たち

 相変わらず,他人の頭の固さを強調する方法で,自分の頭の固さを露呈している人がいる。

 教師にはこういうパターンの人間が多いので,注意しなければならない。

 多くの人は,

 「いじめと自殺との間には何の関係もない」と耳にすれば,

 「何の関係もない」はないだろう,と考える。

 当然のこと。
 
 本人に確かめられるわけではないし,本人が「関係ない」と言ったり書いたりしたとしても,自ら命を絶つほどの状況に追い込まれた人の心を想像しないではいられない。

 そう。

 その「関係」を「想像しないではいられない」。

 そういう心が,教師にはほしい。

 数式を持ち出して,

 「これとこれとは関係ない」

 と切って捨てるような人間が,教師には多い。

 大いに自省すべきことがらである。

 「~は,~と関係があると誤解しやすい。それは無理もない。定義の上では,~である」

 「もちろん,全く無関係であるとはいえない。なぜなら,~が~すれば,~も~になるからである」

 こういう説明の仕方ができない人間は,教師には向かない。

 頭が固すぎるから,と言わざるを得ない。


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優秀な教師は2秒でわかる

 アメリカの大学で行われた実験の話だそうです。ラジオで聴きました。

 教師ごとに,講義のようすを,30秒間ずつみせる。

 それで,優秀な教師を選ばせる。

 この結果は,実際に1年間授業を受けた生徒が出す結論とほとんど同じなのだそうです。

 この30秒間,見るのは,「音声なしの映像」だそうです。

 そして,この30秒間を「2秒間」にした実験でも,結果は同じものだったとか。

 ラジオでは,これを国政選挙に応用しようというお話だったのですが・・・・。

 ところで,この実験,日本で行ったら,どういう結果がでると思いますか?

 日本の教師は,ほとんどが,「優秀な教師」になると予想します。

 そして,現実の力も。

 日本の教師のほとんどは,「優秀な教師」なのです。

 これは,私がアメリカの大学教師向けの本を読んでいるから,言えることです。

 ・・・・だから余計に・・・・。


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教育を破壊するのは人である

 責任を「制度」になすりつけようとする卑怯者がいる。

 「親」になすりつけようとする偽物がいる。

 「子ども」になすりつけている,教育の破壊者がいる。

 個性的というのは褒め言葉ではないことを子どもたちは知っています。

 とりえのない人から,せめて何か一つくらいはいいものを,と探しに探してやっと出てくるそれが,「個性」なのですか?と逆に相手から問いかえされてしまっては,元も子もない。

 古い教師というのは,役に立たない教育書ばかり読んできて,夢の世界に入るのが大好きです。

 現実問題に正対しない,そういう人間が書く言葉というのは,決まって「駄本の受け売り」。

 「実践」だ「実践だ」などと大騒ぎしておきながら,慣れの果てが「夢の世界のお話」。

 教育を破壊するのは,制度でなはく,人である。

 実体のない言葉遊びが大好きで,生の子どもに正対することができない。

 以下のことだけは,絶対に譲れない。

 どんな制度下でも,すばらしい人はすばらしい教育をする。

 どんな制度下でも,破壊者はとんでもない教育をする。

 伸び伸びやる教育の対極に,あるイメージの教育を想定して,

 「どっちがいいのか」なんてせまるような視野の狭い人間は,現実の教育現場には,必要ありません。

 伸び伸びなる中にも,しめるところはしめる。

 しっかりしまっていく中にも,のびやかな時間をつくる。

 AかBかなんていう考え方をするような人間は,教育現場に立つと使えないのです。

 Aの中にBがあり,Bの中にAがある。

 教育を破壊するのは,言葉と思考がパターン化している,できそこないのプログラムみたいなものです。

 破綻した後に,すぐに「美談」でお茶を濁してくるような,そんな軟弱な姿勢で教育など語れないはずです。

 恥を知る文化を教えられない人間が,教育に近づくことが,最もおそれるべきことです。


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お化粧しはじめたら,教師は終わり

 狸寝入り。

 あとは,本を書くくらいの仕事しか残っていません。

 明日も,命と命の響き合い?が楽しみです。

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教師になってすぐの人が,初めて知るであろうこと

 いろいろあると思います。

 子どもの学力は,そう簡単には伸びない。

 子どもの中には,本心を悟られないようにすることに「長けている」者がいる。

 親は,心の中で思っていることと,違っていることをよく口にする。

 こんな人でも教師を続けてこれたんだな,という人がいる。

 こんなすごい中学生がいるんだ,と圧倒される。

 部活動の指導って,こんなに責任が重いものなんだ,と実感する。

 指導力のある人とない人のギャップがすごい。

 自分に,期待をかけてくれている人と,そうでない人がいる。

 話しかけやすい教師と,そうでない教師がいる。

 子どもの前と,教師の前とでは,人格が違うのではないか,くらい変わる人がいる。

 校長は,想像していた以上に,学校にいないものだ。どうやって責任をとるのだろう。

 会議は長いが,ほとんど参加していない人がいる。

 生徒に人気がある先生と,そうでない先生がいるのは,自分の子ども時代から知っていたが,その理由のバリエーションがかなりあることに気づく。

 学校には,すごくたくさん仕事をしている人と,非常勤講師と同じ程度の仕事量の人がいる。

 学年によって,全く雰囲気が違う。

 中学校3年生は,すごく大人に見える。(しかし,自分が育てて持ち上がった3年生は,いつまでたっても子どもっぽく見える)

 授業がとても荒れている教師がいる。
 
 実技教科を完全になめている生徒が多い。

 学校では,とてもよくものがなくなる。

 落し物が届いても,ほとんど取りに来ない。

 子どもは,緩いルールの方に簡単になびいていく。

 ***********

 もしあなたが教師2年目で,すぐに異動になり,異動先で中学校3年生の学年主任をやることになったら,最初の学年集会で,何を話しますか?

 学校の中で,教師は,何を考えて毎日を過ごさなければならないのでしょう。

 それは,「自分がリーダーになったらどうするか」です。

 同調性圧力が強い文化の中にあって,自分の頭の中の思考だけですら,「上から目線と受け止められるのがこわい」なんて恐怖心をもっていたら,何も先には進めません。

 今そこに,「指導が成立していない教師」がいるときに,どうフォローできるか。

 「指導方針」もなく,惰性で動いてきて,子どもに完全になめられている崩壊教師を,どう扱うか。

 教師2年目でも,放置してはならない問題なのです。

 「どうしてあたりまえのことを,あたりまえにできない学校になっているのか」

 という問いを持たない教師の集団では,何も変わりません。

 でも,あなたは知るでしょう。

 学校と言うのは,「内部から変われる組織ではない」ということを。

 もし「変える」としても,あなたの想像の及ばないくらいの労力がかかるでしょう。

 それと比べると,荒れた中学生100人を完全におとなしく着席させるくらい,楽なことです。

 楽な方を,集団は選びます。

 個人としての思いは,そうでなくても。

 そのあきらめが,今の,その,現状を招いているのです。


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タイトルごと破綻してしまった「教育ブログ」

 もはや,タイトルごと破綻してきた,「感想文用のブログ」。

 人のブログ記事に対して,読書感想文のように自分の生活を書くのが大事,などと説教を始めたと思ったら,次は植民地教育と同列に扱い出す。さらに,ここには「格好のいいものじゃない」なんていう「本心」がくっついていた。

 植民地教育は,現地の人々の固有の文化を否定する面もあり,「決して,あってはならないもの」のはずが,

 「格好のいいものじゃない」と来た。

 ことは,「格好」がどうこうの問題ではない。

 物事の重要度の違いが判別できていない。

 「見た目」「外見」「外聞」を気にするタイプの人間がつい犯してしまう失言である。

 「格好さえつけば,何の問題ない」というのが,こういうタイプの人間の本性なのであろう。

 上が何だ,下が何だ,上下関係が何だということにこだわっているこういう人間は,本来,上であるはずの人間が,自分に対して下手に出てくると,うれしくてたまらない。(こういうタイプの人たちは,いとも簡単に「だまされる」ので,ご注意を。)
 
 逆に,「自分により上の人間が,そのままの姿勢で自分に語りかけること」「自分より下の人間が,まるで上の人間のようにふるまうこと」については,我慢できない。

 だから,何度となく,「上から目線」だの何だと,メッセージを垂れ流し続ける。

 簡単な話が,「おれたちに上から目線でものを言うな」ということである。

 普通の人なら,「聞き流せばいいのに」「聞く耳を持たなければいいのに」という話である。

 しかし,「聞き流せない」というか,「読み流せない」。

 なぜなら,そこに「自分の真実の姿」が書かれているからである。

 人のブログ記事を,「植民地教育」にたとえたり,記事の内容を「妄想」とよんだりして非難している,「真実」の姿である。
 
 人から感想をもらうときに,低姿勢で書いてもらうことに感謝しているが,これは,そうでなければ私は気に入らない,と言っているようなもの。

 小学校の教師がよく使う手である。

 「~ちゃんは,先生に,~してくれたんだよね。先生,本当にうれしかった!」

 この言葉を,子どもは次のように翻訳する。

 「~ちゃんと同じように,全員,先生に~しなさい」

 困った習慣である。小さい子は,こんな簡単な手で,教師によってコントロールされる。

 私には,これが完全に「植民地教育」と重なって見えてしまった。 

 さて,感想文での「上から目線でものを言うな」というのは,表現力と思考力のない人間が,反論すべき言葉がなくなって,最後に告げる言葉である。

 「上から目線」かどうかは,「受け手の心の許容度の広さと深さ」で決まる。

 イチローが,インタビュアーに,「あなた,上から目線じゃありませんか」なんていちゃもんをつけることはない。
 
 心では思うことがあったとしても。

 態度が気に入らないとき,それを書かないと気が済まない気持ちは,よくわかる。

 しかし,こっちは,内容が気に入らないのである。態度も気に入らないが,そんなことは二の次である。

 一部の教師がもつ人権感覚無視の,教育に対する無責任のかたまりのような空気を全身に濃縮したような,そういう内容が気に入らないのである。書き方がどうこうというのは,二の次である。

 なぜ態度を気にするのか。

 内容も気に入らないのだが,反論できないので,態度の方を問題にするしかできない,ということだろう。

 直接,話しかけない,というところから,まだ「最後」の段階まで余裕があるのだが,その余裕があまりないのは,「たとえ」の質が悪すぎることから明らかである。

 内容の方は,自分に害が来ないように,相手の「妄想」,相手の「頭がおかしい」ということにするのが好きな人間である。

 しかし,今回はやってはならないミスを犯してしまった。

 自分で勝手に妄想しておいて,「こんな妄想をしている人間がおかしい」とやってしまった。

 「みんなが自分の考えを受け入れていると錯覚しているようにも思います」というのは,勝手な想像である。

 そして,「戦前の植民地政策で他の人を教化しようとする意識が身についているような気がします」とあるが,これは勝手な想像を通り越して,妄想である。

 自分自身は,妄想を抱く人間は,妄想を自分が抱いていることに気づかない,ことを知っている。

 だからこそ,重症なのである。

 「私が犯人です」と同じ意味のことを言っているのに,「私はやってない」と言い張る。

 「だって,私は私が犯人ですとは言ってないでしょう」みたいな言い訳をする。

 唯一の救いは,「たかがヒラの教師が,何をほざいてやがる」という「上から目線」を自らはしていないことである。これをしてしまうと,さすがにやらせのフォローが機能しなくなることはわかっているようだ。つじつまがあわなくなってくる。

 どうして「私は下」「相手は上」という意識になってしまうかというと,やはり自責の念があるからだと想像できる。小学校で担任を持っていた経験があるのに,どんな学力を身につけさせることができたか,語ることができない。専科でやってきたから,甘く見られていた。担任おろしの細工をされた。あまりおもしろくない経験だが,自ら語ってきた。しかし,どうしてそうなってしまったのかの分析が足りない。理由は,いくらでも考えられるが,それを自らにあてはめようとはしない。

 相手が「上から目線」という偉そうな態度でいるから,自分自身のことを考えなくてよいのか。

 いや,態度が変わったように思えたら,次は「妄想」とくる。

 結局,どちらにしても,「反省」の機会は一切ないのだ。
  
 それにしても,「やってはいけないこと」をやりすぎる。

 これは,「上から」と思われようが,言わなければならないことである。

 馬鹿なたとえは,やめたまえ。ブログのタイトルが泣いている。

 カルロスさんは書かれているが,賞味期限どころか,消費期限が過ぎている人だから,言われたくない,と私は言いたいわけではない。どんな立場の人間でも,書いていいこととよくないことはある。カルロスさんと同じように,現実逃避の姿勢だけでも,許されない。

 破綻ブログの人間は,自分を地の底においているから,まだ書けるのだと勘違いしているのかもしれない。

 あのブログの内容が,教育委員会の答弁だったら,マスコミがどれだけ騒ぐか,想像してみてほしい。

 最も「役に立たない教育ブログ」だが,こういう感想文用には,非常に「役に立つ教育ブログ」である。

 教師になろうとしている人には,必読のブログといってよい。あってはならない姿がそこに書いてある。

  
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【小学校教育改革】 植民地教育からの脱却

 そうか,あれは「植民地教育」だったのだ!

 ということに気づいたのは,「植民地教育」の意味を,「世界大百科事典 第2版の解説」で知ったからです。

 小学校における「学級王国」の教育を定義すれば,

 小学校の教師は,担任になると,学級の児童たちを自分自身がつくる秩序・文化に同化させ,担任教師に依存して生きる意識を植えつけることを目的とした教育を行う。しかし,子どもにとってみれば,これは自分が本当に必要としている教育の権利を奪われ,支配者としての担任教師の教育を押し付けられて,それを自分のものにするように強制される。一連の非教育体系に他ならない。
 
 ということになりますね。

 こういう状況だけは,避けなければ。

 「あれ」にあたることを,みなさんはどれくらい,思い出せますか?

**************

 植民地教育は,反発心を起こす力がなければ,きれいに染まる。

 小学校で鍛えられたその力は,中学校では部活動で生かされるのかもしれませんね。


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【小学校教育改革】 教師の結束力

 小学校の一番の問題は,管理職にリーダーシップが足りない点でしょう。

 子どもにとっても,もう年をとってしまって,授業ができなくなった人がなる仕事が校長だと私も思っていましたから。

 それにしても,

>イメージが異なるのだろうが小学校では子どもたちの前で教師が一枚岩でなくてもよいのだ。
 
 の1文を読んだときに,背筋がぞっとする思いをしたのは,一瞬,

 「小学校では,子どもたちの前で教師が一枚岩でない方がよい」と読めてしまったからです。

 だれでもいいんなら,学級担任制でなくてもいい

 学級担任制をもたせるためには,私でなければだめだ,という印象を子どもに植え付ける必要がある

 だから,ヘンに一枚岩になって,病気で休んだときに,他の教師にどんどん授業を進められるのはたまったものではない・・・・特に,教え方がうまい教師に・・・・・。

 子どもは頭がいいから,最初は担任教師に気をつかっていても,こういう状況が続くようになると,

 はっきりと,

 ○○先生の方が,●●先生よりいい

 ことに気づいてしまう。

 それを意識の上にあげることを,無意識におさえてきたのに,それがいつかおさえきれなくなるときがくる。

 こういうことを小学校の教師は最もおそれているのではないでしょうか。

 でも,高いレベルでそれが行われているなら,いいのです。

 自殺まで想定に入れて,思い悩んでいる教師を救う手は,今の仕組みでは難しいと思います。

 なかなかカルロスさんのように,小学校の問題点をブログで紹介してくれる方はいませんね。

 ブログ村には,どこをどう読んでも,小学校教師特有の自己満足のかまたりのようなブログばかりが目につきますから。

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「ブログ感想文」は「読書感想文」よりおもしろい

 他人の家庭生活の内容を公開するような人間がいるから,というわけではなく,・・・・読書感想文は,

 「ただただつらいもの」だから,反対だ,という人は少なくないようです。

 「課題図書」のように,あらかじめ本が限定されるのもおかしな話,という意見もありますし,

 「枚数が制限されているのがおかしい」

 「担任が評価するのがおかしい」

 などの意見もありました。

 批判的なことを書くと,書き直しを命ぜられる場合も。

 だから,思想統制,同調性圧力強化のための「宿題」だとも言われているのです。

 いずれにせよ,強制的に本を読ませることになる「読書感想文」への忌避反応が大きいのです。


 「読書感想文」を廃止して,「ブログ感想文」などとし,対象が中学生なら,少しは興味をもってくれる生徒がいるかもしれません。

***************

 「読書感想文の書き方」という題のブログを事例に示して,

 「この人は何が言いたかったのか」を問えば「国語の問題」になってしまいますから,

 「この人と同じように,自分も生活の中で,大切な部分をごまかして生きていることを中心に書いてみよう」という課題を出す。

 対象のブログの記事で筆者が言いたいことは,「私の記事を読んで,感想を述べている人がいるが,支離滅裂な思考の結果がそこには書かれている。読書感想文は,自分の生活のことを書くべきだと言われているので,おそらく自分自身の生活を書いているのだろう」ということ。

 要は,自分のブログの記事に対して,何か書いている人がいるが,その内容は支離滅裂であることを言いたいだけ。でも,この記事自体が支離滅裂である。

 要は,「私には無関係の話ですよ」という自己保身の主張。

 中学生には,まず,「読書感想文の書き方」というタイトル自体に問題はないか,と問うてみる。

 こういうタイトルの付け方を,自分たちも今までしてこなかったか。

 筆者が問題にしているのは,自分のブログの記事に対する言及なので,そもそも「読書感想文」とは全く異質のもの。ブログの記事に対する感想文は読書感想文ではないので,「自分の生活を書いている」とは限らないことは,中学生にもわかる。

 それなのになぜ「読書感想文」が登場したのか。

 これは,ただ,筆者の「思考回路」によれば,感想をよこした人物の思考を「支離滅裂」と呼びたいこと,その人物の「生活」自体を批判したいので,「自分の生活のことを書く」という暗黙のルールがある「読書感想文」が,どうしてもブログの枕にほしかった。それだけ。

 結果として,冒頭に紹介されていた,読書感想文の事例には,何の意味もないことがわかります。

 こういう手を,教師などは説教をするときによく使うんですね。子どもの側からすれば,

 「まわりくどいことを言って,結局言いたいのは,これだけでしょ」というあれ。

 どうでもいい「事例」(この場合は,昆虫図鑑の読書感想文)はやたらくわしく,

 本来,もっとも大事な,批判の対象になっている「事例」は,5W1Hの何にもふれていない。

 これでは,読者はどこがどのように「支離滅裂」かがわからないのです。

 でも,それを具体的に示してしまうと,自分自身の問題に気づかれてしまう恐れがある。

 「柿」の事例は,まさに自分自身の文章のことを表現している。

 こういう「感想文」が非常にレベルの低いものであることも,中学生にとってはとてもいい勉強材料になるでしょう。

 指導力の低い教師が書く,「職務報告書」も,似たようなところがあります。

 一番大事なところがぼやけていて,どうでもいいことばかりがくわしい。

 大学時代にふれた,教育関係の「読書」の成果がこれなのかもしれませんね。

 では,この「ブログ感想文」への優秀作品は・・・・。

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【小学校教育改革】 カルロスさんの読み違い?

 難しいタイトルの,難しい内容で,私の記事を取り上げて下さったカルロスさんですが,

 形だけの話で言えば,教科担任の中学校でさえ,カルロスさんがおっしゃるような状況にはなっていません。

 ですから,小学校を「学年担任団制」にしても,学校文化が変わるほどの大きな変化はないだろうなと私は考えています。

 でも,それは私が小学校で勤務したことがない,中学校の教師だからかもしれませんね。

 小学校の学級担任が背負っているものの大きさを,私がはかりかねているのかもしれません。

 「学級王国」の壁は,鎖国のときの日本より頑丈なのかもしれません。


 仕事量は,小学校教師の場合,増やそうと思えばいくらでも増やせるし,逆も言える。

 中学校教師の場合は,生活指導,委員会指導,行事指導,部活動の指導がゼロなら,まだ教科指導に力を入れて小学校教師のように研究に時間が使えるのですが。なかなか難しい。

 「学年担任団制」にすると,確実に,「会議の時間」は増えることになります。小学校の教師が中学校に来たら,「会議」の多さにびっくりするでしょうね。小学校の教師でも,「外のお仕事」が多い人は,頻繁に「外の会議」に出ているでしょうが。

 小学校の教師が,協働の体制がもしつくれないような人間ばかりだったら,子どもに協調性を重視するような行動を教えるのは無理でしょうし,集団生活の本当の意味をわからせることは難しいでしょう。

 「協調性」は,社会人として必須の力なのですが,何分,採用試験でこれを見抜くのは難しい。

 特に小学校の教師は,学級の国王になれば,何でもできる。

 私は,「みんなでくらすということは,こういうことだ」という実感を,教師にも,子どもにも,実感してもらいたいのです。

 「学級」を,「せまくるしく」「かたくるしい」檻だと思っている子どもにとってみれば,かなりの変化になるかもしれませんが,もっとふつうに「学級」で生活している子どもが,「学級」のよさを本当に実感できるのは,どういうときか,と考えてほしいのです。

 あまりこういうたとえは適切ではないかもしれませんが,開国前の日本の状況が「小学校の学級」です。

 視野を少しでも広げてあげることが,小学校の児童にはプラスにはたらくことと思います。

 高学年だけでもよいので,ぜひとも「学年担任制」をしいてほしいと思います。

 「維新」になるので,・・・という意味で,期待しているのが大阪市なのですが。


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読書感想文の指導で留意すべきこと

 ちなみにこれは「読書感想文」ではないので,それを最初にお断りしておきます。

 特に「読書感想文」を課す可能性がある小学校や中学校の教師が知っておくべきサイトが,「自由に使える読書感想文」というものです。

 読書感想文の書き方だけでなく,使い回しができる「事例」が紹介されています。

 パクリあり。

 タイプ別の感想例あり。

 ばれた時の反省文の見本もあり。

 著作権フリー。

 こういう「便利な」サイトが登場する背景には,

 授業できちんと個々の「読解力」「表現力」を把握しない,教師の姿があるのです。

 どうみても,本人が書いたものとは思えないような感想文を,平気でコンクールに出せる教師は,「不正」に加担していると言えるでしょう。

 最後に一つだけ。

 読書感想文に,本人の「生活」が描かれるということは,「家族」を含めた「プライバシー」を公開することになりかねないわけです。親が知らないうちに,子どもの「読書感想文」によって,親の職業や趣味なども暴かれてしまうおそれがあります。

 「昆虫図鑑」を読んで,「優秀な読書感想文」を書いた当時小学校5年生の家庭状況は,本人の意思とは無関係に,教育ブログ上で紹介されてしまっています。珍しい本を対象にした読書感想文ですから,これは本人を特定する手がかりにもなってしまっています。

 自分の生活を具体的に書け,と教師が強く命じると,子どもは何でも書くおそれがあることを忘れてはいけません。教師がその家族の「弱み」をつかむことにもなりかねないのです。

 おそろしい。子どもが学校で何を書かされているか,回収されてしまったら,親はわからない。

 読書感想文とは,「本の感想」を書くのではだめで,「自分の生活」がどうなのかを書くことが,「優秀賞」をとる条件だ,というのはよく知られていること。

 だから,どれだけプライバシーをさらけだせるかの「踏絵」になっているのが,「読書感想文という課題」だと考えてください。

 一人親の子ども,夫婦仲が悪い子ども,兄弟などに犯罪を犯した人間がいるような場合,「家族」という題の「作文」を書かせるときも同じようなものです。

 小学校というのは,本当にこわいところなのです。

 教師の価値観が,子どもにすり込まれていく。

 教師のくせが,子どもにうつっていく。

 
 読書感想文というのは,一種の・・・・・。


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たった30分でわかる小学校事情

 小学校の校長による学校紹介を「聞き比べ」する機会が家内にあったのですが,その「手ごたえ」は,残念ながら,実際に通わせたい方の説明が「ダメダメだった」ということです。

 時間のほとんどが,記念式典のときにでも話せばよい「学校の歴史」に関することで,一般的に学校説明会で話されるべきことが話されていなかった,だから当然にように質問したが,答えらえなかった,ということでした。

 今年赴任した校長の印象は,

 「準備不足」

 「知識不足」

 というもので,これが東京都の一部の小学校の実態だということです。

 家内いわく,

 「校長はすぐ変わるから,いいでしょう」とのこと。

 私の知り合いの中高一貫校は,その学校に長年いる,ベテランの教師が説明会で話をします。

 一事が万事,ということにならないことを願いたいです。

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【小学校教育改革】 小学校における指導力不足問題の解決法

 小学校教師が授業も生活指導も保護者対応もうまくできず,孤立して生きる気力すら失っていくような事態を救えるものは,何か。

 休ませてしまえばいいのか。

 担任からはずしてしまえばいいのか。

 そんなことで問題は解決しません。
 
 いずれ,担任ができる教師が足りなくなってしまいます。

 今,何とかなっているのは,子どもの数が減っているからです。

 しかし,小学校では大量採用の年代の教師が退職を迎えていますから,教師が足りなくなってきます。

 東京都では,もう小学校の管理職が足りなくなり,中学校の教師が小学校の管理職になり始めています。

 以下は,教員採用に関して,匿名さんからいただいたコメントへの返信です。

********************

 50分の授業を5回くらいさせて,学習指導の力をしっかり見極め,教師に採用するようなシステムができるとしたら,採用される人は今までとかなり変わるかもしれません。
 小学校は一人で勝手にやっていればいいのかもしれませんが,中学校の場合は教科の人間として,学年の人間として,学校の人間としてふるまえる協調性というか「利他精神」が重要なので,3か月くらい実際に働かせてみて,教師としてというより社会人としてやっていけそうかどうか,見極める機会もほしいものです。

 指導力不足の問題がどれだけ深刻か,だれも知らないものはいないのに,「うちは大丈夫だから」なんて安穏としている人間には,公務員の資質はないと言ってよいでしょうね。

 荒れた学校に異動してきた教員が,生徒や教員の前で何かにつけて前の学校との比較を持ち出し,「私の学校では」とやってしまう。もう,あなたは「ここの教師」のはずなのに,心は全く「異動」していないのですよね。

********************

 小学校は,もう単独の担任制ではもたない時代になってきたと思われます。

 では教科担任制がいいのか。

 そういう免許制度になればいいのですが,専門性を高めるための教員養成課程にはなっていない。大学から変えなければいけないので,時間を要します。

 すぐに変えられる仕組みは何か。

 それは,単独の担任制の廃止です。

 副担任制にするのか?

 違います。

 副担任と言えば,小学生から「格下の教員」と見られて,それが授業崩壊のきっかけになりかねません。

 どうするかというと,「担任団制」をとるのです。

 1組の担任,2組の担任,・・・・と一応の「担任」は決まっているのですが,教科によって,単元によって,授業を受け持つ先生が入れ替わる仕組みです。

 そして,「学年主任」=「担任団の長」は,クラス担任はもちませんが,特定の教科は,すべてもつ。

 こういう仕組みにすれば,「学級の担任」が,ほぼすべての教育の責任を「学級の子ども」に対してもつ,という現行のかたちではなく,「学年のすべての教師」が,「学年のすべての子ども」に対して,責任をもつようになり,教師の「チームワーク」による力が,教育実践に反映できるようになります。

 今までの,独善的な学級経営は不可能になり,「話し合い」によって,学年経営の方針が営まれるようになるのです。

 単独のクラスだけ,「話し合い」活動中心の授業を展開して,楽しそうにやってはいるけれども,ほとんど学力がつかず,保護者から不満の大合唱がくる,ということもなくなります。

 指導力に課題がある教師も,自分が苦手とする教科の指導はとりあえず避けられるようになり,得意なところで自分のよさを発揮することができる。

 小学校の先生というのは,「指導力の向上」「授業力の向上」についてはそもそも非常に意識が高く,私にかかわりがある小学校には,毎年,本当に多くの先生が発表会に参加します。しかし,そこで得た財産は,自分のためにしか使われないことが多いでしょう。

 もし,「担任団」制度にすれば,A先生は算数,B先生は国語,などと分担して研究会に参加し,学校に戻って報告会をし,「学んだことの共有化」が図れます。

 この制度で私が優れていると思われる点は3つあります。

1 子どもが,特定の人間に気をつかったり媚を売ったりすることなく,「伸び伸び」と教育を受けられるようになること

2 少なくとも,先生ごとの得意分野の授業を受けることになるので,学力が向上するであろうこと

3 そうやって育った子どもは,中1プロブレムの多くが解消された状態になるであろうこと

 そして,最も優れている点は,

 指導力不足教員が放置されなくなることです。

***********

 大阪市の教育委員のみなさんへ。

 普通の自治体で,こういう「改革」に踏み切れるところはまずないでしょう。

 しかし,大阪市は期待できます。

 大阪市の教育のありようを決められるのは,教員委員のみなさんなのです。

 それが本来の「教育委員会」の仕事です。

 みなさんの決定を受けて,動かざるを得ないのが,教育委員会「事務局」なのです。

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指導力不足問題の軽視が,若い教師の「死」をもたらす

 復古主義は,前近代の場合は,「理想の姿」を追い求めることを意味して,悪い意味はありません。

 しかし,近代以後に使われる「復古主義」というのは,「悪い状態への逆戻り」という意味で使われるのが普通です。

 変革を起こそうとしている,だれかを批判したいときに使う言葉なのです。

 「復古主義は危険だ」などというのが,その典型。

 ブログの記事でざっと検索すれば,よくわかるでしょう。

 自分が批判している相手の主張を,「悪いもの」とくっつけて,「より悪い印象を際立たせよう」,と躍起になるのが,心と視野の狭い人間がよく使う常套手段です。

 相手をおとしめることしか考えていないから,そういうことをしている自分がどう見られるか,ということに気づけない。つまり,自分を知るための「ミラー」がない,そういう人です。

 いつ,どこで,だれが,なんていう情報まで含むような,「具体的な根拠がないことがら」をすべて

 「妄想」とくくってしまい,

 その「妄想」とは,「精神病の症状としてみら」れるなどということまで丁寧に(?)説明している。

 うまく「根拠が言えない」ことが,「妄想といわれてもしかたがない」「精神病かもしれない」なんてことを言っていた教師に習った子どもたちは本当に悲劇だったことでしょう。

 子どもたちが置かれている現実に全く目を向けない,

 私たちからすれば,

 教育に何の情熱も抱いていないようにみえる,

 教育問題の解決に何の意欲も抱かないようにみえる,

 そういう教師を何とかすることが,教育改革の中核中の中核であることは,申し上げるまでもないことでしょう。

 しかし,人間の「意識改革」ほど,たいへんなものはない。

 「教員採用試験に合格した」という過去の事実だけで,「自分は一人前」なんて勘違いする若い教師を生んでしまうのは,どういう「土壌」なのか,一般の方は,想像できますか。

 まだ免許すら取得していない,教育実習生の方が授業がうまい,そんな衝撃的な場面を見たことがある人は,さすがに少数派でしょうが。

 しかし,「うまく小学生や中学生を掌握できない若い教師」がいることは,それほど「空想」の世界の話でないことはわかるでしょう。

 親がもてあましているくらいですから。親は,担任教師に,八つ当たりする。学級経営がうまくできない,保護者対応もうまくできない,そういう若い教師が自殺を考えることについては,「あり得ることだ」と思われる方も多いでしょう。

 こういう教師への理解がなければ,きっと「指導力不足」の問題を真剣に考えることもしなくなるでしょう。

 「教員採用試験」で判断することができる「指導力」は,せいぜい「模擬授業」が成立するかどうか,くらいなんですね。実際の中学生が生徒であるわけではない。「条件つき採用」の1年間は,「日本の将来」にとっても重要な1年間なのです。しかし,そこをスルーされてしまうと・・・。その期間に絶望してしまうと・・・。

 組織に属していない人間の,情熱を持たないで過ごせる「強さ」も,半端ではありません。

 教育現場では,あの組織に属している人間のその「強さ」が,場所によっては,半端ではありません。

 そして,その組織に裏切られた人間の「強さ」は,もう無敵です。

 組織の人間は「弱い」。情熱を持たないで過ごすことはできないのです。


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「万引き」教師の罪の意識はゼロ,恥とは何かも知らず

 いじめが頻発するのに,何の動きをみせない担任。

 魂からの救いの声に,耳を貸さない教師。

 だれも救えない教師。

 現実から逃避している教師たち。

 指導力のない教師は,たくさんいます。

 何しろ,採用試験に合格した教師が,採用試験には受からず,あるいは,教員免許ももっていないけれども塾で教科の学習を教えるプロになった人から授業のやり方を教わるような現状になったわけですからね。
 
 指導力のあるなしは,子どもを見れば一目瞭然。

 同じ程度の能力の集団を,1から10まで引き上げる教師と,

 1のまま足踏みさせる教師のように,

 「相対評価」をすれば非常にわかりやすいのが教師の指導力です。

 (授業を見れば即座にわかる話なのですが,そのイメージがわかない人のために,よりわかりやすい方で説明します。)

 子どもが,○○先生の授業はわからない,と訴えてくる。

 イライラしてくるとお説教が始まり,教科指導にかける時間がどんどん少なくなっていく。

 そして,いきなり自習にさせたり,お説教で時間が終わってしまった場合は,宿題にする。

 一度,採用試験に合格してしまったら,どんなに「豹変」して「ダメ教師」になっても,放置され続けてきた教師たちに,ようやく「社会の目」が向いてきた。

 当初の流れから,免許更新のねらいは,本音と建て前が違うことくらい,どんなに鈍い人でもわかりますよね。

 税金の無駄とは何か,と考えたときに,目で見てすぐわかる無駄から目を背けないようになってきた。

 社会の変化が,ようやく「教師の指導力の問題」を話題にできるようになったのです。

 それにしても,どうしてそこまで「指導力不足」の問題におおいをかけたくなるのでしょうか。

 答えるまでもありませんね。

 私は,今のあのブログの現状は,「罪の意識」との葛藤からもたらされているものだと信じたいです。

 そうでなければただの・・・。そう。現実逃避です。

 あと,蛇足ですが,吹奏楽部の指導は,教育公務員でなくても,さらに,教員免許がない人でもできますので。学力の話題にかかわれない理由は,視野が狭すぎるからです。現実を直視していないくせは,指導力不足教員によく見られる傾向です。
 
 
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力のない教師の授業は,「万引き」と同じ

 力のない教師が盗んでいるのは,子どもの「伸びるべき」時間です。

 子どもがきちんと「伸びる」ことを監督したいのは,管理職だったり,保護者だったり,地域の人たちだったりしますが,こういう人の目を盗んで,力のない教師は子どもが「伸びる」はずだった時間を奪うのです。人の目がなければ,「盗み放題」なのです。

 時間を盗むだけではなりません。

 子どもの大事な「プライド」を傷つけてしまうこともある。

 調子の悪い機械にたとえられた子ども。

 そういう教師は,本当にいろんなものを,「盗んでいる」というか,「強奪している」のです。

 教師による「万引き」防止策が,驚くことに,

 塾の先生の指導とは!

 近い将来,公務員としての教師の仕事は,出席をとったり,教室の掃除を子どもと一緒にしたり,給食の配膳をしたりするのが主で,

 授業は「専門家」がするような時代になってしまうのかもしれませんね。

 あるブログで,あまりにも時代遅れな「万引き指導」の事例を読みました。

 こういう実践例を恥ずかしげもなく出してしまうところに,「万引き」が防止できない痛さがあるのです。

 子どもの時間を盗んではいけません。

 万引きは,お金が有り余っている子どもでもするんですよ。

 ゲーム感覚なんですから。

 「盗み」を「遊び」の延長としてやっている子どもをとめられないのは,

 子どもの貴重な時間を「盗んで」いたり,「仕事」が「遊び」の延長である教師や大人がいるからです。

 一方の,貴重な「伸びる」時間を「盗まないでくれる」ような場では,子どもはルールを守るだけでなく,自ら律して絶対に人に迷惑をかけません。

 やさしい言葉をかければいいとか,

 相手の心の痛みをわからせればいいとか,

 こういうことを書いて「何だか言った気になっている」ような大人が一番情けない存在なんですね。

 そんな大人と強制的に一緒に居させられる,そのストレスが問題を生み出す原因になってしまうのです。

 子どもたちが不満のはけ口を,「万引き」なんかにもっていかないですむような,教師や大人の「情熱」が必要なのですね。

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「やったつもり」授業を一掃するには?

 今日は,南の島国の教育関係者の方々に授業を参観していただきました。

 公用語が英語だったこともよく知らず,意思疎通ができるかどうか不安でしたが,通訳の方のお話を聞かなくても,何とか理解することができました。

 教師と事務方の違いは,授業の目のつけどころにあります。

 想像通り,現場の教師の方ではなく,行政の方の視察だったようですが,

 「ハードよりソフトが大事」という趣旨は何とか伝わったようです。

 ICT機器は,単なる道具に過ぎません。

 効果が薄ければ必要ないものです。

 試行錯誤の上で,自分なりにその使い方をマスターしていかなければなりません。

 私も一度だけ,しまっておいてもらわないといけないはずのプロジェクターの電源コードが見当たらず,参観者を待たせてしまったことがありました。

 大きな全国大会の発表会でも,プロジェクターにパソコンの画面が映らない・・・という報告でとんでいったこともありました。

 こういうレベルでは,授業ではつかえたものではありません。

 やはりパソコンよりもタブレットPC。

 どうしたら,先生方に教育機器を使いこなしてもらえるようになるか?がテーマだったようですが,日常生活の延長線上にくるような道具が一番です。

 家庭電気製品も,まだまだ大きく変化していくことでしょう。

 買って,慣れたら,もう次のレベルのものが,安く手に入る時代です。

 こういう道具をつかいこなせるのが目的ではなくて,あくまでも「授業」をどう成立させるかが,ポイントです。

 「授業」を成立させる,という言葉には二つの意味があって,

 そもそもだれも聞いていない,というのはダメ,というのと,

 だれも理解できていない,というのもダメ,ということ。

 だれがICT機器を使っても,子どもは聞いてくれるようになりますが,それで満足してはいけません。

 一番,手に負えない,「やったつもり」授業です。

 「つもり」授業も一掃したいものです。

 そのためには,まずは,機械なんかに頼らずに,授業を成立させること。

 教育実習生は特に。

 実践力がないまま機械にたよりすぎると,機械の方がありがたく見えてきてしまうので。


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教師として現場に立つ前に・・・宮部みゆき『ソロモンの偽証』の一読を!

 自分自身を,社会を,教師を,親をふくめた大人たちを,徹底的に批判的な目で見ることができる中学生の存在。

 とても重たい台詞が多い小説ですが,この「重さ」に耐えられる覚悟がない人は,教師にならない方がいいでしょう。
 
 教師がよく「世間知らず」と非難されますが,そう言われるケースの一例は,

 「あまりに楽観的すぎる」から。

 一般の社会人からは「無責任」に見えるわけです。

 『ソロモンの偽証』を読めば,少なくとも,心情的には「無責任」ではいられなくなるはずで,そういう意味では分厚い三冊の本ですが,教師(になろうとする人)を覚醒させる効果があるかもしれません。

 100ページに3行ずつくらいの割合で,思わずうなってしまう内容が入っています。

 子どもが怖くなって,教師になるのをやめよう,と思うようになる人も増えるかもしれませんが・・・・。

5行ほど,引用させてもらいます。第Ⅰ部の374頁です。

******************

 同級生や級友だからといって,一切の隔てがないわけではない。現実は逆だ。成績。容姿。運動能力。適切な場面でみんなにウケることを言えるかどうか。性格の明るさと暗さ。ありとあらゆる物差しで,生徒たちは互いを計り,計られる。そうして付き合う相手を決める。先生たちは,人間はみんな平等につくられているというけれど,そんなのは嘘だ。大人の社会に区別や格差があるように,学校のなかにもそれはある。子供は誰でもそれを知っている。理解している。認めている。

******************

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よき理解者VS都合のよい理解者

 辞書で引いて,その意味まで分かっているのに,自分の言葉の使い方が不適切であるのが気づけない人というのは,大人だけでなく,生徒にもいました。

 大人からは,「屈折した心をもつ子ども」という目で見られる子どもでした。

 生育歴やその時の家庭の状況を耳にすれば,多くの人が「なるほどね」と納得してしまうような子ども。

 今から思えば,そうした「屈折」は,その子どもではなく,周囲のあり方そのものだったことがわかるのですが,人間というのはある解釈によって一度,納得してしまうと,そのとらえ方をなかなか変えられない動物であるようです。

 自分がだめだ,だめだ,と言っている,その姿がまさにそのまま,その人間の姿であるというのが,私の名づけた「ミラー現象」なのですが,どうして「鏡」がそこにあることに気づけないのか。

 それは,自分のことを理解してくれる人が,近くにいない,というのが一番の原因なのかもしれません。

 本当は,教師が理解者であるべきでした。

 理解するというのは,ダメなものを放置する,というのではなくて,ダメなことをダメと判断し,それを相手に伝える,というのがここでの意味です。

 「よき理解者」としての教師は,ある意味では,子どもにうるさいことを言わずに,放置するだけの存在でした。

 一部の子どもにとっては,「都合のよい理解者」だったのです。

 教師の中には,「腫れ物には触らない」という態度を首尾一貫?してとる人間もおり,子どもには気づかれているのに,本音を語ることはしない,だから,軽蔑されてしまう,という人もいました。

 幼い子どもの場合は,大人の本心には気づきませんから,言葉をそのまま真に受けて信じてしまいますが,小学校の高学年にもなれば,嫌でも気づいてしまうもの。

 「どうしてもっと本当のことを教師は語らないのか,本当にじれったい」と反抗し出す子どももいれば,そもそも大人というのはそういうもの,とあきらめてしまう子どももいる。

 でも,そういう子どもは少数派かもしれません。

 幼い子どもの場合は,特に。「余計な意見を言ってこない大人」が好きです。

 「よき理解者」ではなく,「都合のよい理解者」を求める傾向のある人というのは,結局は,自分の孤独さをより深めてしまうようなところがあるわけです。

 こういう人間を救うのは,やはり生身の人間でないとダメなのでしょう。

 匿名の「日記」のような文章では,救えませんね。

 だから,「教師」が大事なのです。

 自分の次の受け持ちの先生に,親が,

 「ああ,もう少し早く先生に出会えていれば,子どもはどんなに幸せだったか・・・」

 と涙を流しながら伝えている場面を想像したことがありますか?

 教師というのは,それだけまだ,「大きな存在」「期待される存在」である,ということです。

 これを背負って立つ気のない人が,教師になってはいけません。


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「学力」ネタがいつの間にか500以上に

 2005年から今までの記事で,「学力」にふれているものは500以上ありました。

 中には思い出深い記事もありました。

 教育ブログの場合には,「学力」と言えば学校に行けば身につけさせてくれるもの,というイメージが一般的なのではないでしょうか。

 しかし,元教師によっては,「学校の教師には,学力を身につけさせる責任や義務はない」などと言い切ってしまうものだから,公立学校の信用はこれ以上落ちようのないところまで落ちてしまうし,塾に頼らざるを得ないというあきらめのムードがただよってしまうのです。

 各教科には,目標があります。この目標がどれだけ実現できているかを,観点を決めて,別々に見ていこうというのが,「観点別学習状況の評価」です。

 これによって,学力のイメージがやや具体化するでしょう。

 社会科で言えば,「社会的事象に対する関心・意欲・態度」,「社会的な思考・判断・表現」,「資料活用の技能」,「社会的事象についての知識・理解」の4観点があります。

 私がよく述べてきたのは,「穴埋めプリントだけやっていては,学力はつかないよ」ということ。

 国研が実施した特定の課題の調査の結果でもわかったように,ただ用語を「暗記」しているだけの生徒は,問い方を変えられてしまうと,答えられなくなる事象がある。

 これはつまり,その事象のことを「理解」して「知識」としていたわけでなく,ただ用語として「覚えていた」だけ,ということです。

 よく言われる「情意的な面」の評価の困難さも,生徒に課題をつくらせてみることで,見えないものが見えてきます。

 ただ,教育ブログで紹介させていただいている私の実践は「レベルが高すぎる」ということ。

 本来,それだけのレベルが求められている,というのが持論なのですが,評価には「キジュン」の難しさもあって,どうしても「共通の土台」に立った議論がしにくいのが現状です。

 今,あるものを作成していますが,「問題をやさしくしてほしい」という圧力は強いものがあります。

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「ミセラン2012」へのご招待ありがとうございました

 「未来をつくる1,000人の先生プロジェクト実行委員会」主催のフォーラムへのご招待の案内をいただいていたことに,本日気づきました。

 今のところ,日曜日も18時間以上働いていますから,参加は無理だったと思いますが,案内をいただいたことはうれしいかぎりです。

 以下のような先生を集めたい,という趣旨だったようです。

**************

 日本の教育の向上ためには、何よりもまず、
 現場の先生一人ひとりが生き生きと教壇に立ち、生徒と向き合うことからはじまると考え、
 全国至る所で孤軍奮闘を続けている
 志を持ち、変革に挑戦する気概を持つ先生方を一堂に集め、
 お互いに刺激を受け合い、学び合える
 創発的なプラットフォームをつくろうというものです

**************

 当日は,どのような活発なお話がされたのでしょうか。

 書いたものではけっこう過激なことばかりという人も,実際に会って話すと全然違う,ということがあっておもしろそうでしたね。

 私は教育ブログでは「孤軍奮闘」ですが,現場では先輩の先生方と仲良くなっていますから,やはり対象外だったかもしれません。

 人から受ける刺激というのは人間にとってとても大事なもの。

 もし時間があれば,ぜひともこうした会に参加したいと思っています。

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子どもに教えたくない,最も下劣な個人のけなし方

 教育ブログなのに,教育とは全く無関係の記事というのが,どうも目についてしまいます。

 教育ブログなのに,教育的でないものの書き方ばかりしているブログも。

 教育の問題を覆い隠そうとしたり,教師の弁護ばかりするブログも考えものですが,全く関係なく,他人の悪口だけ書いているブログがあります。

 このブログをお読みのみなさんはよくおわかりかと思いますが・・・・・。

 改善は不可能であろうとあきらめるのが普通の人間でしょうが,

 ことは「教育ブログ」での話。

 しかも,タイトルだけを読むと内容を期待してしまいそうなブログ(それはここも一緒?)。

 仮にも教師として参加している上は,これを放置すべきではない,

 それが今までのスタンスでした。

 もちろん,教師ではなく,一人の人間として放置できないレベルに達しています。

 ですが,問題解決は容易なことではありません。

 昔,子どもは,悪口の天才でした。

 口汚くののしる,そんな大人が減ったからか,今の子どもには,相手を罵倒する語彙にも欠けてきているのかもしれません。

 それはそれでよいことです。

 しかし,逆に言うと,「そういう悪口はよくない」という注意の場面もなくなっているということ。

 「頭がおかしい」という言葉を教育ブログ上で何の気兼ねもなく使える人を何とかしたいのですが,何かよい知恵はないでしょうか?

 あと一つだけ,私の危惧を述べさせてもらうと,

 「頭がおかしい」という言葉を,今,先生が現場で平気で使っているということはあり得るでしょうか?


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視覚支援の学校との交流会

 教員に採用されると,いきなり特別支援の学校の教師になる場合もあります。

 そういうときに,戸惑わないためには?

 教員を目指している人は,本当にありとあらゆる学校を事前に訪問しておくべきです。

 そして,本当に自分はここで仕事ができるのか,自らに問うてほしい。

 できたら,いろんな学校との交流を,自分が中学生や高校生のときに,経験できていると一番いい。

 そう強く思えるのは,そういう体験をしている中学生を毎年見ているからです。

 私の中学校には,視覚支援等の学校との交流を企画・実施する生徒会組織があり,今年は比較的大がかりな交流を実施していました。

 参加は自由なのですが,両校合わせて100人程度が集まりました。

 腕をかすことも満足にできない中学校1年生が,1時間もたたないうちに,頼もしい存在に見えてくる。

 グループごとにゲームやクイズに参加して,お互いの成果を励まし合う。

 視覚支援の学校の生徒からは,「人にやさしくするとはどういうことか」を具体的に学ばせてもらっています。

 私たちの生徒は,視覚支援の学校の生徒に,どんなプレゼントをしているのでしょうか。

 そういう問いを自らに投げかけられる生徒は,きっと教師に向いています。

 こういう体験をしている人に,ぜひとも教師になってほしい。

 視覚支援の学校で,数学の図形はどうやって学んでいるのだろうか。

 授業に参加してみたい。そういう気持ちになってほしい。

 交流会は運営するメンバーが毎年最大半分ずつ入れ替わるので,ときどき大きなイベントになったり,日程調整ができず低調になったり,波もありますが,継続できる環境にある学校はすばらしいです。


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切れ味の悪い「池上彰」と教育問題

 昨日の番組の感想です。

 池上彰も,取材にかける時間とアウトプット=仕事量とのバランスが見合っていないのではないか?と多くの人が危惧する状況になってきたのではないでしょうか。

 視聴率が落ちない限り,今の状況は続くはずで,なかなか厳しそうです。

 特に,昨日のいじめと教育委員会をめぐる問題は,あまりにもありきたりすぎて,「いじめ問題」にしろ「教育委員会」にしろ,本質の問題をつくことができなかった印象です。

 領土問題についても同様です。

 ニュース解説,という趣旨から,もう一歩,踏み込めないものか,今ならまだ池上彰の力で,教育も動くきっかけをつくれないか,と期待を抱いていたので,少しがっかりしました。

 そもそもあの番組は,池上彰の解説を聞いているメンバーが「ふーん」という態度なので,「もし授業ならこんなのでは困るな」というあまりよくないイメージをもっていました。

 ドラマなら,滅茶苦茶にショッキングなエピソードや事件を交えて,いじめを描くことができるかもしれませんが,現実のいじめ問題を正面から取り上げるのは,なかなか難しいだろうなとは思います。

 教育委員がお飾りだから,教育委員会はダメ,と言われても,「ではどうするのか」と聞き手はその先に一歩進むことができない。

 本当の壁はいったい何なのか。

 仮に,ある学校の教師がだれ一人,そこに居られなくなるような事態に陥ったとしても,大津の中学生のアンケートにあったような生の声が,もっと国民に届くようなしくみがつくれないものか。

 学校裏サイトは100%悪ではなくて,そこに真実の訴えはないのか。

 学校はまだ,「問題を隠すことができる」強い「権力」をもっている。

 さらにそれを「ごまかすことができる」強い「権力」を教育委員会がもっている。

 本当は,保護者が最も強く,学校の改革をのぞむべきなのでしょう。

 しかし,「子ども=人質」観が根強く,ごますりかごまかしばかりで教師たちは常に安全圏におかれてしまう。
 
 「だまされた」と後悔する前に,少なくとも,問題の芽には気づいておきたいものです。

 地元の学校で公開が始まっています。

 さすがに公開で「まずいこと」を見せる学校は少ないでしょう。

 ただ,気をつけておきたいことがあります。

 子どもと子どもとの関係が見える授業をしない学校は要注意です。

 小学校ですら,教師が常に授業の主役になっている学校は要注意です。

 先生は,表情豊かでしたか?

 子どもはどうでしたか?

 いつも見慣れている姿を基準にすると,いろんな意味で学校訪問というのはこわいものがあります。

 
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ゴミ箱の中に眠っている「宝もの」

 私は社会科の教師なので,

 「ゴミ箱の中に眠っている『宝もの』」というテーマで,授業案をつくってほしい,と言われたら,こんなプロセスを考えます。

1 私が子どものころ,集めていた「切手」の話。

  「切手」を集め始めたきっかけは,お父さんが廃品回収業を営んでいた同級生から,めずらしい「切手」のコレクションを見せてもらったことでした。使用済みの切手でも,これを「ゴミ」として燃やしてしまうのではなく,外国に輸出すれば,日本の文化を知ってもらうきっかけにもなる。ですから,封筒やはがきに貼ってあった「切手」は捨てずに,集めてほいて「寄付」をするという方法があることに気づかせる。

2 世界の中には,廃棄物から「資源」を取り出して売ることを仕事にしている子どもがいる。

 電気製品のコードを燃やして,中の「銅」を集めて売る子どもの映像を見せる。やけどしたり,有害なガスで体をこわしたりしても,わずかなお金を手に入れるために働いている。リサイクルの仕組みを上手にしないと,こういう労働のためにこきつかわれる子どもが生まれてしまう。

3 「都市鉱山」の話。

 「地下資源」ではなく,「地上資源」とは何か?と聞いてみる。廃棄物のことは2の活動からすぐに思い当ってもらえるでしょう。山積みになった廃車の写真などを見せます。そして,ニュースなどでも報道されていますから,知っている子どもも多いはずの,「携帯電話」からとれる金やレアメタルの話。

4 もう一度,ゴミ箱に目を向ける

 リサイクルの仕組みがかなり進んだ日本には,「ゴミ箱」の中には,本当に「ゴミ」しかないのかもしれない。でも,その「ゴミ」を一つ一つ,もう一度よく眺めてみよう。それがなくせる方法はないのか,それは本当に「ゴミ」なのか。一週間の教室のゴミ箱のゴミから,取り出したものを見せてみる。まだ使える消しゴムや鉛筆,大量の紙ごみなど,改めて考えてみれば,「ゴミ」ではないものを,安易に「ゴミ」箱に捨ててきたということはないか,考えてみよう。コンピュータの「ゴミ箱」は,そこに入れただけでは削除されない。最終的にゴミとして捨てる前に,よく確かめる習慣をつけよう。

5 江戸時代のリサイクル事情

 中学校の歴史の教科書にも出ている話。導入の話に戻り,「大事な仕事」だと改めて考えさせる。

6 ブログなどに紹介されている他人の文章を,「ゴミ捨て場」にたとえている人,その文章を紹介する。

 なぜこの人は,こういう文章を書かざるを得ないのか。どういう経験を経て,こういう人間になっていったのか。子どもは戸惑いながらも,いろんな想像をはたらかせてくれるでしょう。

 私の想像では,「共感」してくれる人はゼロでも,「同情」してくれる子どもは意外といてくれるはずです。

*************

 6は実際には「ゴミ箱」入りになるでしょうが,様々な別の角度から人間を考える題材として使えます。

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批判してくれる人がいるから,教師や管理職,行政は変われる

 中学校に上がってきたばかりの時期に目立つのですが,担任をやたらと「ヨイショ」して,気に入られるような行動をとる子どもがいます。

 しかし,その「ヨイショ」を真に受けて,「私は子どもの言葉を通して,自分を客観的に見ることができています」なんていう教師がいたら,本当に心配になります。自分の子どもの担任だったら,心の底からがっかりします。

 子どもにとって教師というのは,自分に対する「評価」の権限をもっている人間ですから(小学校は全教科・すべての生活面にその影響が及びますから),子どもが教師を「ヨイショ」して相手の気分をよくする,というのは,私のように「根拠を明確にする」ことを重視しない教師にとっては,有効な作戦となります。

 中学生になってしばらくすると,ごますりではなく,自分の実力がものを言うことに気づいて,教師に対するおかしな呪縛から解き放たれ,急に生き生きし始めます。個性らしい個性をようやく発揮できるようになるのです。

 教師と管理職の関係をとっても同じことが言えるでしょう。

 「ヨイショ」されている管理職はたいてい力のない人だし,「ヨイショ」している教師も同じように力がない。

 恥ずかしげもない内容の「ヨイショ」コメントしかついていないようなブログの人が,自分のブログを「客観的に見る」ことはできないでしょう。

 教師と管理職の関係を,「命令を受けたら,それがいかなる命令であっても絶対に従う」という,コンピュータのプログラムのようなものだと考えている人がいる。「法律にそう書いてあるから」だと言う。

 教育の優先順位をめぐる問題で,

 教育委員会からの出張「依頼」に基づき,校長が出張「命令」を出す場合,

 「授業をどうしても自習にしなければならない」という事情があったとき,

 校長は経営者として,「この出張を命ずることは不適切だ」と判断することができます。

 こういう事情の中,出張命令を出してしまう校長に対して,

 対象の教師が「とても困ります」と意見を言えないような関係ならば,そこには「子どもへの教育を最優先する」という当たり前の学校の姿はありません。

 もちろん,「授業をもたせてあげられるだけまし」のようなレベルの教師の場合,「自習の方がまし」という判断があるのかもしれませんが,「自習」と聞いて大喜びする子どもを想像すると,「学校は何のためにあるのか」と考えさせられてしまいます。

 この事例のような「実態」が常であった地域で,教師の側の要望から「見直し」が入り,あらかじめ計画できる出張は,長期休業中などに集中させる,という方針になったことは以前にご紹介しました。

 校長の命令が,実態としては教育委員会からの命令になっており,教育委員会の方針が変われば,教育が変わる,その一例と言えます。

 私の想像によれば,「部活動に支障が出る」という理由の反対意見が出されたかもしれませんが,

 授業を自習にする出張は歓迎で,生徒が休みの日の部活動が見られない出張は反対だ,というのは,公務員として本末転倒なのです。

 親は,教師の側を支持するかもしれません。

 子どもは喜ぶし,休日に家にいられるのは困るから。

 しかし,公立学校に子どもを通わせている親の中にも,「きちんと授業をしてほしい」と願っている人は少なからずいるはずです。

 こういう「教育現場への願い」に対して,一部の教員は,「苦情」扱い,「モンスター」扱いして,全く耳を貸そうとしない。その現状に対する「あきらめ」のムードが漂ったとき,本当に学校は「死んでいく」のでしょう。

 学校が「死んでしまった」ときに,犠牲になるのは「子ども」なのです。

 このことへの憤りを「ゴミ」扱いできる人が,学校現場にもいるし,社会にもいる。

 これは,むしろ歓迎すべきことです。

 なぜなら,「学校現場」「教育」の「死に体」にようやく気づいて,憤りを感じてくれる人が増えてくれるから。

 道のりは遠いかもしれません。

 そういう「憤り」に,学校側は,「先生方は忙しいので」なんて答えてくるかもしれない。

 うどんづくりに忙しくてラーメンがつくれないラーメン屋ってありますか?

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最も役に立っていないブログ

 愚かな「圧力」をかけて,自分を守る。その醜さ加減がわからない。

 そういう人間のうち,最も身近にいるのが,教師や,元教師です。

 最も役に立たないと言っているブログをなぜ知っているのか。

 いつも見ているから。

 自らを満足させてくれるものを見るだけでなく,怒りをおぼえるようなものも見る。

 人間とはそういうものです。

 役に立つ・立たないを決める立場にいる人間はいません。自分だけにとって,というのなら別ですが。

 他人にとって,役に立つ・立たないを決めるような人間が,どういう人間かわかっていて批判しながら,自分はその人間になっている。

 ふつうの人にとっては本当に不思議なことかもしれませんが,教育にたずさわった人間に,そういうのは意外と多いのです。 

 しかし,これこれこういう内容や指摘は何の役にも立たない,と意見を表明することは,だれにでもできます。

 たとえ「頭がおかしい」「思考回路がおかしい」「そんな支離滅裂な文章は何の価値もないゴミと同じだ」と批判されても,意見を表明する権利を奪うことはだれにもできません。

 私は,本当に役に立たないことばかりを書いている(と私が考えている)人にも,「もう書くな」とは言いません。

 「そういうことを書く人間」が書いた内容を読みながら,「こうはなりたくない」と気づける人がいるからです。

 世の中には,他人の文書に平気で罵声を浴びらせる人間がいる。

 「自分を認めている人がいる」ことを証明するために,涙ぐましい努力をする。

 ダメな見本というのが,人間にとっては欠かせません。

 しかし・・・・

 自分と違う世界のよい見本には,人間はよく目を向けるのですが,

 自分と同じ世界のよい見本には,あまり人間は目を向けない。

 これが成長できない人間の弱さであり,成長できない原因です。


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「穴埋め」で点数をとってきた人が,「穴に埋めてきたもの」とは?

 実践を同じブログ村でご紹介させてもらっているので,ご存じの方がいらっしゃるかもしれませんが,私の専門は社会科教育です。

 今,学校現場では,「穴埋めプリント授業」が大手を振ってまかり通っています。

 「穴埋めプリント授業」が「悪者」?と怪訝に思われる方がいらっしゃったとしたら,おそらくその方は「社会科」の授業を受けた経験がないのでしょう。

 「社会科」とは何のために存在する教科なのか,どんな内容を教えることになっているのか,冊子なら167円で購入して読んでいただくことが可能です。

 プリントに空欄があって,そこに「重要語句」を入れていけば授業に参加したことになる,そんな方法で社会科の目標が達成されるとは,その冊子には書いてありません。

 しかし,教師にとっては,準備は楽だし,生徒も頭を使わないですむので楽だし,穴埋めさえ完成すれば,授業に参加した気になるし,寝てさえいなければ,授業が終わった後,みんな同じ「成果物」を残すことができ,試験のときにはその穴埋めの延長のようなことをやっていれば,ただ覚えるだけで社会科の点がとれるようになり,「社会科が得意」になる・・・・そういう「仕組み」になってしまっています。

 そして,どんな「社会人」が生まれているか。

 「穴埋め」・・・・本当に象徴的な言葉です。

 才能を,可能性を,能力向上のチャンスを,すべて「穴に埋め続けてきた」人たち。

 「試験が終わったら,みんな忘れました」とあっけらかんとしている大人たち。

 これを「受験の弊害」と言っていられるのは外部の人間だけで,

 当事者としての教師たちは,もっと「授業で鍛える」ことをしなければ・・・・。

 こういう「問題」の指摘を「授業をしていない人」に認めない人間ばかりだと,教師はラクですね。

 中学生がそれを指摘できるようにする仕組みを今,考えています。


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怒る尾木ママへ 忙しい人ほど,生徒とよく接しているのが教育現場です

 尾木ママが大津市教委にキレているのでしょうか。

 教員の数が少なく,そのために「子どもと接する時間が確保できていない」ですって?

 それは大きな勘違いです。

 子どもにかかわろうとしない教師は,時間にゆとりがあっても,かかわりませんよ。

 学校現場では,時間にゆとりがない教師ほど,生徒によく接しています。

 だから忙しく,ゆとりがなくなるんですね。

 優先順位の考え方に,決定的な違いがあるのです。

 このブログでは何度も書いていますが,

 本当に忙しそうな人は,自分で「忙しい」なんて言っている暇はありません。
 
 「忙しい」と言えているということは,後回しにしていいどうでもいいことをやっている証拠です。

 今,その瞬間に,自分がすべき,最も大事なことは何か。

 「忙しいからできません」の,「できない」内容を箇条書きにしてみてください。

 非常に重要なことばかりではないですか。

 いえ,「できない」ことがろくに言えない人がきっと混じっています。

 では,何で「忙しい」のですか。それは本当ですか。何に,何時間かかっているのですか。

 それすら,言えない人も現場には混じっています。

 「忙しい」と言っていることで「忙しい」だけなのです。

 家に帰る支度で忙しそうにしている人もいます。


 学校が荒れている,授業が荒れている状況を管理職は絶対に隠しておきたいので,授業見学の訪問を簡単に許可しようとしません。

 ひどい学校は,一般の教師の中にも隠しておきたい人がいて,ちょっと用事で学校に立ち寄った際,授業を見ようとすると必死で抗議する人までいます。

 こんな学校に「生徒ときちんと向き合う」なんてことはできないのです。

 だいたい,「生徒が外来者に対して何をするかわからず,危険だ」なんていう理由で訪問を妨害しようとするような学校に,「社会性を育てている」自信などかけらもないことがわかります。

 授業中に向き合えていない教師が,部活動は別として,放課後,生徒と正面から向き合えるわけがないのです。

 教師をただ増やせばよいというものではありません。

 そもそも,子どもの減少のスピードに合ったかたちで教師は減っていませんから,子ども一人あたりの教師数は増えているのです。

 ただ,気の毒なことに,教育行政の世界と言うのは,質の話はできない。

 量とか数とか,数字にできるものでしか仕事ができないから,言えることはたった一つしかないのですね。

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乏しい学力観の人の記事を読むとわかること

 学力についてのイメージが非常に乏しい人は,教育の話題になかなか入ってこれません。

 教育の実態ではなくて,他人のブログの悪口しか書けない。

 不思議なのは,有名な教育者の本は,全集を買ってまで,読んでいる。

 でも,学力のイメージがわいていない。全集が泣いています。

 学力をつけている「著名な教育者」の存在は,どこに飛んでしまったのでしょう。

 教育実習生も同じでした。

 今年の学生には,学習指導に関する本の一部を事前に読んで,レポートを提出してもらっていました。

 レポートを読ませてもらうと,学習指導で,どんな工夫をすべきか,それは理解できているように思える。

 しかし,実践はできない。

 これは,「事実としての認識はあっても,知識として活用できるようにはなっていないこと,つまり理解できていないこと」を意味していると考えられます。

 卒業生のレポートを読むと,何だか理解できているようには思えないところがある。

 でも,実践はできている。

 どこに違いがあるのか。

 それは,自分が子どものときに受けてきた授業が,違うということ。

 それだけ,学校教育,とりわけ義務教育の意味は大きいのだ,ということがわかるのです。

 学力のイメージは,文部科学省の図が一番よいとは思えませんが,とりあえず,「著名な教育者」がやってきたことはそれでわかる,そういうものになっています。

 そういう授業ができるようになるまでには,時間がかかる,と思えることもありますが,

 初任者でいきなりできる人もいる。

 なぜ?

 自分が受けてきた授業のイメージそのままでやっているから。

 
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いじめられている子どもに全く無神経でいられる人間の使う言葉

 自分を励ましながら,いじめと必死に戦っている子どもを見て,

 「よくがんばっているな。」「その調子だ。」なんていう

 「軽い」励ましを行う教師は少なくないのでは?

 教師は,「少しくらいの負荷がかからないと,一人前の人間になれない」と頑なに信じ,

 ついつい「失言」をもらしてしまう。

 
 「壊れない程度の負荷は必要だ」???

 いじめられている子どもは,こう問うでしょう。

 「壊れない程度」とは,どの「程度」なのですか。

 私は必死に耐えています。しかし,どこまで私は我慢したらいいのでしょうか。

 「壊れたら」おしまいなのではないでしょうか。

 そうですね。

 こういう言葉を発する教師は,「壊れるまで」放置するでしょう。

 いえ,「壊れても」放置するでしょう。

 アンケートなどを「形だけ」とって,それで終わりでしょう。

 「余計な証拠」になりかねない「過去のアンケート用紙」なんて,すぐに廃棄してしまうでしょう。

 学校現場の「ありえない」行動を支えるのは,

 「厳しく育ててください」という親のいい加減な要求であり,

 「昔はそんなことくらい耐えるのが普通だった」という安易な経験主義であり,

 何より,子どもに対する愛情の欠如なのです。
 
 信じられない言葉を私自身も教師から聞かされたことがあります。

 「どうせ,他人の子どもだからね」

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学校の原点は,寺子屋にあり。教育基本法が「原点」?

 日本における学校の原点は,寺子屋や藩校にあると考えることができます。

 ある自治体が施設を残している藩校を訪れたことがありますが,ここで学んでいた子どもたちは,いろんな「悪さ」をしたことも想像できました。

 ごく小さい規模の寺子屋でも,子どもたちが「切磋琢磨」してきた様子を思い浮かべることができます。

 今の塾ではそれは不可能なのでしょうか。

 決してそうではありません。

 子どもの伸びる場所,伸びる力を矮小化してとらえる傾向のある人がいます。

 塾を除外する人は,自分が塾を開業している様子を描いてみてください。

 それだけで,塾では社会性は養えない,なんて言えなくなると思います。
 
 もし,そう言い切れるのなら,その人は学校現場に立っても何の役にも立たなかったことでしょう。

 塾でも,子どもは悪さをするのです。

 いじめで悩む子どももいるのです。

 学校ほどそのダメージがひどくない子どももいれば,その逆の子どももいます。

 塾の場合は,「いつでもやめられる」

 ことが,ダメージをおさえる原因になっていると私は想像しています。

 学校でのいじめのダメージが大きいのは,

 いじめられた子どもが,様々な意味で「引け目」を感じているからだろうと想像してみることも大切です。

**********

 現在の教育行政の原点は,日本国憲法や教育基本法にありますが,

 日本の学校は,それ以前に存在していたことを忘れてはなりません。

 120年以上の伝統がある小学校は多いのです。

 そういう学校が重視してきたのは,何でしょうか。

 社会性などは,地域社会の中で,自然についていたはずです。

 子どもたちは自分たちの「遊び場」の中で,非常に多くのことを学んでいたはずです。

 でも,それでは身に付かないものは何か。

 それが「学力」なのです。

 最低限度の「学習技能」が身についてない子どもが,大学生になる時代です。

 そういう大学生も,教師になれる時代です。

 「学力」の問題を放置して,「教育」の問題を語ることはできません。


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いじめの原因を常に極小化・矮小化しようとする教師たち

 「いじめ」が全然わかっていない人がものを書くとすぐにばれてしまうから,こわいものです。

 「いじめ」には,「耐性」を養って避けられる面があることを強調している人がいる。

 こういう人間たちの思考経路をたどると,「いじめ」は防がなくてよいものになってしまいます。

 実際に,防ぐ手段をもっていないでしょう。というか,「いじめをさせない」という強い使命感などないのでしょう。

 「いじめている側」の問題を全く直視していない。

 おそらく,「いじめている側の子どもが,最も心のケアを要する存在だ」なんて言われても,何のことかわからないでしょう。

 ほとんどが個別指導で終わるような塾でも,「いじめ」は存在します。

 自転車の空気が抜かれていたとか,乗り逃げされたとか。

 「いじめ」の原因には,個人の不満の発散,他者をこまらせたりおとしめたりして,自尊感情を維持すること,ただのやつ当たりなど,さまざまなものがあります。

 ネットを介してのいじめの場合は,ほとんど面識もない相手から,「返事がこなかった」というだけでいじめを受け始めることがある。

 教師は,いじめという「問題」の発生源を矮小化,極小化してとらえ,自分の責任を逃れようとする癖があるので,思考の仕方に注意が必要なのです。

 学校では,集団行動に意味がある?

 それはそうです。

 しかし,集団行動は,地域のスポーツクラブでも行っています。

 都市部の中学校野球部では,ふだんは地域のグラブで練習・試合にも出ていて,中体連の大会だけ,学校の部活動に参加するような生徒もいます。

 ときどき,ベンチ裏にいるコーチから指示が出ていたりすると,

 「これが学校のチームと言えるか?」

 と悲しい気持ちになります。

 学校が,「空気のように軽い」存在に思える瞬間です。

 でも,学校名が入ったユニホームを着て活躍しているだけで,子ども自体はその学校の生徒として,輝いています。

 学校には,まだ地域の「看板」としての意味があるのでしょう。

 さて,学校は,集団生活を送ってルールやマナーや思いやりを身につけるところですが,

 何はさておき,子どもが過ごす物理的な時間を考えればわかるように,

 学力を身につけるところです。

 学力への見方や考え方が非常にせまい人は,「勉強ができるだけで,いじめなど平気でやる子どもがいる」と言ってしまいますが,本当に「勉強ができる子ども」が,いじめなどしないのです。

 そういうタイプの子どもでいじめをしているのは,教師から認めてもらえていないことを察知しているからでしょう。小学校では,勉強ができる生徒に冷たい教師というのは,案外いるものです。

 一方,多いケースは,小学校段階ですでに,

 勉強がわからない

 ということを理由に,自尊感情をなくし,自分を大切にしない,そういう子どもが現れていることです。

 誰かに認められたい,という欲求は,強い。

 しかし,自分の気持ちをしっかり表現することが苦手だと,それがかなわない。

 鈍い先生だと,そういうことを理解してくれない。

 そして,そういう欲求が満たされない子どもが,いじめに走ることが多いのです。

 いじめをなくす一番よい方法は,授業の充実です。

 わかるべきところはみんながわかる。

 どこがわからないのかがいえる。

 そういう授業の実践が一番です(もちろん,それが一番,難しい)。


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教師の運動不足解消法

 教師は,1に体力,2に体力,3,4とばして,5に体力,

 と口癖のように言っていた恩師がいます。

 私は3年間,行政職に身をおいていたのですが,不覚にもその間,

 かなり体重を増やしてしまいました。

 そして,その理由を,「階段の上り下り」や「立ち仕事」がなくなったせいだ,

 と勝手に思い込んでいました。

 今,教卓の横の椅子に座って授業をしている人は,まずいないでしょう。

 座りながら仕事ができるのは,ピアノやオルガンを弾かなければならない音楽の教師くらいでしょうか。

 あるいはコンピュータ教室の教師でしょうか。

 基本的に,教師の仕事は「立ち仕事」です。

 職員会議があまりに長いので,「立ち会議」にしよう・・・・なんて提案したことはないですが,そうすれば確実に無駄な話し合いはなくなったはず・・・。

 1時間ごとに教室を動かなければならない中学校の教師は,校舎の構造上,けっこうな距離を歩いたり,階段の上り下りをしなければなりません。

 それがかなりの運動になっていた,と勝手に思い込んでいたのが私でした。

 行政から現場に職場が戻って,体重が元通りになったかというと・・・・。

 昔,小学校の教師が,放課後にみんなでテニスをしているのを見て,とてもラクな仕事だな,と思ったことがある,という記事を書いたことがありましたが,

 あれは,「運動不足解消」のため,「適度な運動で体調を整える」ための,大事な「仕事」だったのですね。

 部活動の指導をしても,ノックを打っているくらいでは,運動にはなりません。

 昼休みに生徒のバレーボールにまじるとか,何かと「体を動かす機会」を探していかないと,いけない。

 これ,40歳代でも,50歳代でも,同じだと思います。

 20歳代のときは,サッカー部のゲームにまぜてもらったりもしましたが,さすがにそれは無理。

 教員バレーの試合があるときは,バレー部の練習に参加していました。1か月前くらいからですかね。

 これも,かなりの運動になりました。

 20年前は,まだ30歳代までの教師が多く,こういう集まりもあったのでしょうが,今はどうでしょう。

 今,思いついているのは,放課後,早歩きで学校を1周して見回りをする,ごみを拾って歩く,こんなものですが・・・・。

 何かよい「実践」をされている方はいらっしゃるでしょうか。


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いじめの底流を探ると・・・

 タイトルを見て,びっくりした「いじめ関連記事」がありました。

 「いじめが問題化しないうちに」だったですか・・・。また,「やってしまった」のか!と・・・・。

 記事を読ませていただいてほっとしました。

 「いじめ」は,許してはいけないのですよね。

 「問題化」してからでは,遅いのですよね。

 「問題化」って,本当に「他人事」のように「いじめ」を見ている証拠ですよね。

 教育委員会の中で,うちわでする会話では出てくることがありますが。

 「これだけ問題化する前に,何とかできなかったのか?」とか。

 当事者としては,「いじめ」を見落とさないように,最大限の努力はすべきです。

 しかし,なかなか防げないで,みんな苦しんでいる。

 特に,「帰りの会」などで,「自己申告」できない内気な子どもが被害者になっている場合です。

 休み時間に「いじめ」を見たのに,「通報」できない内気な子どももいます。

 自分が「いじめ」の対象になるのは相当怖いから。

 「帰りの会」のような「公」の場で,見たこと,聞いたこと,気になったことが言えるのは,一部の子どもだけです。

 そもそもそうでないと,「帰りの会」が授業よりも長くなってしまいかねませんからね。

 そういう会で問題がきちんと解決できる学級には,それまではいじめはなかったのかもしれませんが,いつ発生するかはわかりません。

 単純に,一時の不平・不満がいじめの原因とは限らないからです。

 担任教師が「いじめ」発見の手がかりにできるのは,

 「気になったものを目撃した」後の,「帰りの会」の雰囲気です。

 本当に大事なものは,「言葉にはならない」・・・・・特に,当たり前のことですが,教師がいるような場では。
  
 このことを肝に銘じてでないと,いじめ発覚のあと,

 「そんなことは帰りの会であがっていなかった」などと開き直る担任が出てきてしまっては困ります。

******************

 さて,今日の本題は,特に小学校におけるいじめの「底流」についてです。

 担任教師の知らない世界は,いくらでもあります。

 ある小学校で,「ママの会」の自粛を要請したことがニュースになっていました。

 普通に考えれば,「小学校がやりすぎ」と捉えられるでしょうが,

 「ママがやりすぎ」てトラブルが多発するから,小学校がとった措置なのでしょう。
 
 しかし,仮に「自粛」を要請したところで,結束する人たちは勝手に結束します。

 ますます結束を固める人たちもいるでしょう。

 子どもの学校での言動に,大きな影響を及ぼしかねないのが,こうした「ママ」たちの存在です。

 学級内の子どもの「勢力図」ですら描けない教師が,その背景にある「ママ勢力図」を把握できるわけがありません。

 ときどき,「タレコミ」があったとしても,それが正しいといえる証拠はどこにもないのです。

 実は,小学校の「ママ勢力図」は,中学校になっても影響を残していて,

 子どもとは全く関係のない,「ママ」VS「ママ」の構図があるために,クラスを分けなければならない,ということも実際に起こっています。

****************

 海外では,学校の教師は学力をつけるのが仕事ですから,「いじめ」のような「心のゆがみ」がもたらすような問題には教師はタッチしないでよい,という考えのところもあるようですが,

 日本では,「いじめ」は「集団のゆがみ」と捉えられています。

 あまり「個人」には目がいかないのですね。だから,「学級で解決する」という考えが生まれ,それがうまくいかないのは,「学校の先生の責任だ」ということになる。

 教師たちが,もっともっと「個人」への目を鋭くもっていれば,対応への責任感も増すのでしょうが,いかんせん,「そんな余裕はない」と切り捨てられる教師が多い。

 ある意味で,「正しい態度」と言えなくもないのですが,それが「無責任」に見えてしまうのは,この国の場合,仕方がないことでしょう。

 それだけ,教育現場には,優秀な人材が必要である,ということです。

 優秀というのは,子どものためには,どうな労苦もいとわない,そういう堅固な姿勢をもっている人,という意味です。


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いじめ対策の一つ ~無神経な言葉を使う人間を減らす~

 いじめが導く悲惨な結末は,いじめられた当事者,いじめた人間たち,それを見ていた人間たち,学校の場合は教師たち・・・・・さまざまな「関係者」のコミュニケーションの不具合によってもたらされることに,多くの人たちは気づいているはずです。

 だから,「いじめはガンのようなものだ」という無神経な「たとえ」をし出すような人間がいれば,怒りを覚えて当然でしょう。

 「たとえ」というのは,同じような経験や知識を共有する者同士なら,コミュニケーションの道具として有効に作用するはずですが,

 他人のブログを「公衆トイレ」にたとえたり,

 いじめを「癌」にたとえたりするのは,

 同じ経験や知識を共有する者すら遠ざけてしまう,それこそ無神経な心が生み出す「排泄物」にすぎません。

 癌にかかると,決然と癌と闘う人もいますが,多くの人は「絶望」にかられ,ごく一部の人は,自ら死を選ぶようになってしまいます。

 「いじめはガンと同じようなもの」とは,これを指しているのでしょうか?

 今,いじめを受けて苦しんでいる子どもたちに,「いじめはガンのようなものだ」という声をかけて,救うことができるのでしょうか?

 今,いじめを受けて苦しんでいる子どもがたちが読んだら,どう思うと,受け止めているのでしょうか。

 キハクなら,何という言葉を自分にかけてくる,と想像できるでしょうか。

 それがわからないのなら,全集が気の毒です。決して粗大ゴミにはしないでいただきたい。

 「いじめを受けている子どもを救うつもりで言ったわけではない」・・・・ということでもないのは,

 そのほかの言葉でわかりました。

 しかし,たとえのセンスが醜悪すぎる。

 いじめを考える上で非常に重要な,「いじめる側」や「傍観者」の存在がそこには見当たらない。

 このように,たとえのセンスが悪すぎることを指摘しても,「たとえが理解できないやつは頭がおかしい」「知能の限界」とくる。

 人間のロボット化。そうです。コンピュータの前に長く座っていることで,感情や感性を失っていく。

 感情や感性を失っていくのは,楽器を演奏しているから,ではないことは私でもわかります。

 感情や感性に飢えているから,楽器を演奏する,という想像はできるのですが。

 子育てにしろ,学校現場における教育にしろ,感性に欠ける指導というのは,ろくな結果にならない。

 教師の言動がいじめを助長することがある,という報告は,今まで幾度となく出されてきたはずです。

 それが,いつまでたってもなくならない。

 教師が語っている言葉をしっかりと見つめ直してみる。

 子どもだけのせいにしない。

 これが,重要ないじめ対策の一つです。


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「安定志向」だから公立より私立を選ぶ教師の卵たち?

 私立学校の「採用説明会」の報道を見ました。

 なるほど。

 異動がない。

 親対応がめんどうでない。

 生徒指導が「ラク」そうだし,「たのし」そう。
 
 「志」をもった先生たちと一緒に仕事ができる。

 自分の特技が,思う存分,生かせる。

 さすがに「私立」だけあって,「宣伝」上手なのは間違いないでしょう。

 私立学校の採用が,縁故より人物重視へと変わる?

 それもただの宣伝文句かもしれませんが,

 「安定」の代名詞に思えた公立学校(公務員)がそっぽを向かれ,

 今や「私立学校」の「安定性」に注目が集まる時代に。

 公立学校を卒業した教師の卵たちまでもが,公立学校に背を向けるような時代になったとなると・・・採用担当の人の苦労はますばかり。

 もはや,公務員の資質をもつ人を公立学校は育てることができなくなっているのかも。

 まだ,公務員らしくない教師ばかりの学校は少ないはずですが・・・。

 現実の学校だけでなく,

 教育ブログという窓からながめる学校現場も,なかなか夢のない世界にうつってしまいますね。

 あるのは小学校くらいでしょうか。

 まだ「夢」が見られるレベルです。

 中学校や高校になると,「現実」に目覚めてしまう。
 
 それでも,一人くらいは,「この先生のおかげで」という教師に出会えたから,教師を目指すようになったのでしょう?

 「教育現場がこんなことではいけない」という強い使命感というか,未来を背負う自覚があるから,教師になるという人は少なくなってしまったのでしょうか。

 私は公立学校で最低の現場と最高の現場を経験してしまったので,

 公立学校で「これだけの格差が生じている現実は許せない」という思いを抱いています。

 ブログを公衆トイレにたとえた人がいますが,

 同じ公衆トイレの中にも,とても清掃の行き届いたところと,「こんなところでしたくない」と思えるようなところがあるでしょう。

 最低の学校では,トイレは本当にたいへんなところでした。

 しかし,きれいな花で飾るだけで,変わるときは変わるものです。

 人の心の醜さは,醜いたとえを生んでしまいます。

 「汚言ブログ」には,「気に入らないブログ」しか目に入っていない。

 私は,「汚言ブログ」の中に,公立学校が信頼されない高濃度のエキスを見ている。

 見つめている先は,教育現場です。

 「格差」を生んでいる元凶は,「ものの見方や考え方」を教えない大人たちなのかもしれません。


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人を汚すつもりで,汚れの中に自分がどっぷりつかる趣味の人

 そこまで汚い言葉の群れが自分のHPを満たしたら,普通の人なら自分で気分が悪くなるというものでしょう。

 でも,そんなことはおかまいなしに汚しまくることができる人間が,本当は教師に向いているのかもしれませんね。

 絶対に自分から折れることはないから。


 *************

 今日は,地方にお住まいで,中学生のお子さんをもつ県教育委員会の方とお話しする機会があり,たまたま,最近のテスト問題の話題になりました。

 その方のお子さんは,ヨーロッパとの結びつきが強い時代から,アジアとの関係の方が深い時代へとシフトしているオセアニア州の特色など,学習指導要領や教科書の趣旨にあった学習をして準備していたところ,地理の問題のほとんどが国名や自然地域名(山とか川の名前)を書かせるものだった,ということでした。

 授業にほとんど参加していない,極端に言えば,不登校の生徒でも,覚えてさえいれば,高得点がとれてしまう。

 そんなテストをしている教師は,決して「ごく少数」とは言えないでしょうね。

 教育委員会が学校に出しているほとんどすべての調査内容は,文科省にトスしていくだけなのでほとんど意味がありませんが,ただ一つ,実施すれば教育課程(学習指導要領)の実施状況がすぐにわかる,というものがあります。

 それが,定期考査問題の調査です。

 小学校では業者テストの垂れ流しですが,中学校の場合は,教師が自分でつくる(それも,毎年同じ問題,なんていうことがないように,工夫してつくる)のが常識。

 できるだけ早い時期に,定期考査問題の提出を義務付け,それをもとに各教員の「作問能力」を問い,「評価の妥当性」を問う仕事をするべきです。場合によっては,著作権の侵害も摘発できるかもしれません。

 先にふれたような「課題のある問題」はただちに公開し,改善を指導するべきです。

 もちろん,「優れた問題」の事例もすぐに公開して,「目標」にさせるべきです。

 評価規準はいっしょでも,指導のばらつきは本当に天地の開きほどあるもの。

 今の「観点別学習状況の評価」など,学校によっては全く当てにならない,子どもにとっても親にとっても意味不明の代表のようなものです。

 評価をめぐる学校現場の実態は,惨憺たるものがあります。

 その背景に,指導力の不足があるのも明らかなこと。

 こういう実態を知っている親のうち,

 「うちのような子でもできるような問題だから,かえってありがたい」

 なんて人が多ければ,ここはトイレになり,

 「こんなことでは子どもの努力が報われない」という人が多ければ,

 学校の「汚物」を排除することができるのでしょう。

 それにしても,公立学校の質の低さを,「生徒の質が低いから」と開き直っていた教師による教育ブログには辟易されられましたが,中学校の場合は「他教科の試験問題」など試験監督になったとき以外はほとんど目にしないものなので,課題の発見が遅れがちになる典型的なケースです。

 全国の中学校の管理職のうち,「定期考査問題は,本番実施の前に必ずチェックする」という人は何%くらいいるのでしょうか。


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「妄想」大好き人間の本に頼りきりの世界

 「妄想」という言葉を使って相手を攻撃するのが大好きな人がいますね。

 「慣れ」というのは,おそろしいものです。

 一般の人にとっては,「妄想を抱いている」と批判されるのは,よほどのときに限られるでしょう。

 「妄想」は,医学用語のようなものですから,医者が患者に使うのであれば,・・・・と考えても,この言葉を直接相手に向けて口に出すかどうかは,疑問です。

 様々な精神疾患によって生じ,本人にはそれを抱いたという認識がないことが多いといわれる「妄想」ですが,相手を非難するときに使う言葉かどうかは,中学生でもわかるでしょう。

 実体がありますから,これは「妄想」ではありません。

 ただ,「こういう人でも変わることができる」というのは「妄想」なのかもしれませんね。
 
 いつも「本」で飾らないと記事の説得力が出せないと考えている・・・・というのは,「妄想ではない」と信じていますが・・・・。


 久しぶりに,「飾り」なしの記事になったと思ったら・・・・別の意味の汚言の「装飾」で大忙しだったようです。

 これがまさに・・・。
 

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教育現場に足りないのは,「慣れ」ボケ人間を変える力

 外で夕食をとっていたら,隣のテーブル席にいた大学生(教育実習生か?)が,教育の話をしていたので,ときどき耳を傾けていました。

 女性3人のグループは,自身の中学校時代の経験を語り始め,

 「どれだけ荒れていたか」という内容で盛り上がっていました。

 不思議と,「いじめ」はなかった,とのこと。

 しかし,「いじめ以外のものは何でもあった」と。

 私の2校目も同じような学校でしたから,何となく理解できます。

 そして,次は,教師の理不尽な指導の話へ。

 指導中に,「キレて机を蹴っ飛ばした」というところで大笑いになっていました。

 なぜこの人たちは,教育に関心をもつ大学生になったのでしょうか。

 自分の経験が,どのように生きるのでしょうか。

 私が大学生を見てきたここ数年の経験からは,

 授業をやるにしろ,子どもと接するにしろ,教師の立場になる人間は,

 「自分がどういう教育を受けてきたかに非常に大きく左右される」とみています。

 「これではだめだ」と頭ではわかる授業を,自分もしてしまう。

 人間にとって,一番おそろしいのが,「慣れ」です。

 相手を傷つける言葉でも,平気で言えるような人間,書けるような人間になったのは,

 そういう言葉を使うことへの「慣れ」が背景にあるとみてよいでしょう。

 そういう言葉が,日常的に飛び交う教室,学校では,

 「人を大切にする気持ちをなくすこと」に「慣れ」てゆき,

 結果として,いじめに加担する子どもや教師が増えていくのでしょう。

 大事なのは,「慣れ」でボケている人間の目を覚まさせる,

 ボケ人間の言動の「違和感」が感じられる人,そしてその思いをぶつけられる人です。

 こういう人が,近くにいますか?

 もしいなければ,「習慣の奴隷」になっていることに気づかないで一生を終えるでしょう。

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教師がもつべき子どもとの距離感

 どうしたらこういう能力が育つのか,究明することはなかなか難しいと思いますが,

 「子どもとの距離の取り方が苦手だ」と悩む教師は多いでしょうから,研究対象にしてもらいたいところです。

 「距離感」どころではない,

教師によるわいせつ行為は,報道されるだけでもかなりの数にのぼっていますから,

 「今度はいつ,どこで,だれがやるか」と教育委員会では恐々としていることでしょう。

 議会からは激しい突き上げをくらいますから,研修だ,何だとお茶を濁していますが,一向に解決されない。

 教育委員会も,よくわかっているのです。

 再発防止策は,「そういう教師」には全く役に立たない。

 こういう「子どもとの距離」がわからない教師というのは,犯罪に結びつくわけではない範囲で考えると,非常にたくさんいます。

 「離れすぎている」か,「近づきすぎる」のが問題であるわけですが,

 小学校では,「近づきすぎる」のが問題で,中学校や高校では「離れすぎる」のが問題です。

 また,若い教師ほど,「近づきすぎる」のが問題で,教師も歳を重ねてくると,子どもの方が「離れていく」ので,逆に「近づく」のが難しくなる。

 まず教師は,個々の子どもたちが,どういう距離感をもって教室の子どもたちと接しているのかを十分に観察しなければなりません。

 観察しているときの自分と,観察されている子どもとの距離の問題もありますが,ここではおいておきます。

 教師の目から見て,「近すぎる距離」でお互いに接している子どもを探すと,たいていそこでは,様々な問題を抱えている子どもが視野に入ってきます。

 こういう子どもが自分に近づいてくれたときは,はじめは相手の動きに合わせてしまっていいのですが,徐々に「適切な距離感」を体得させるように指導すべきです。

 話の途中で,視界に入る別の物を題材にして,多少は動きながら,視野を物理的にも精神的にもふくらませるのです。
 
 最近は,狭い道で,人とうまくすれ違うことができないほど,物理的な人との距離感がつかめない子どもが増えています。視野が狭いのです。まだ仮説ですが,ゲームの世界にのめりこんでしまっている子どもは,こういう状況に陥りがちなのではないでしょうか。

 人と少し離れて話すと,他のものが目に入る,他のものに目を移せるゆとりが生じてきます。

 そして離れて話をした後,集中して聞かせたい短時間の話は,距離を縮めて,声のトーンも少し変えて行うのです。

 ちょっと技術的なにおいのする,私としては嫌いな部類の話になってしまいましたが,学校でたびたび見かける「違和感」のうちでそれなりの割合を占めているのがこの「距離感」なので,記事にしました。

 相手(子ども)が求めている「距離感」は,一人一人異なりますし,その日によっても変わります。

 それが感じ取れるようになるのが,「生徒理解」の第一歩でもあるのです。


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「すごい指導法」という傲慢な指導観

 学習指導にしろ生活指導にしろ,「指導法」で簡単に子どもが変わるほど,教育は簡単な仕事ではありません。

 楽器の演奏くらいなら,いくらでも上手くさせることができそうなものですが。

 自分で自分の実践を「すごい指導法」などとして売り出せる傲慢さを,どう考えたらいいのか。

 ある研究会に参加していた教師が,講師に向かって,

 「前回学んだ授業は,自分のクラスでは失敗してしまいました。なぜでしょうか。」と質問していました。

 指導法を学び,授業を見学して,自分の学級でやってみた。

 うまくいかなかった。

 「なぜ失敗したのか」がわからないから失敗したのでしょうが,本を買ってもらっている立場の人間には,「あなたの指導力が低いから」とは言えない。

 「なぜ失敗するか」は語らない。

 「どうしたらうまくいくか」にしぼって語っていく。
 
 「こうしたら私はうまくいった」と語る。

 普通は,多くの人が見て,「うまくいっていると思える授業」ほど,失敗している可能性が高い,という目では見られることがないでしょうから。

 しかし,当たり前のことですが,「こうしたらうまくいく」と説明されて,「うまい授業」ができるなら,日本中の教師から悩み事はなくなります。

 「昔のいい先生の本」があれば,それですんでしまうわけだから,もう「講師」も「研究授業」もいらなくなる。

 授業を失敗する教師に共通しているのは,

 「うまくいく方法」ばかりに気をとられていて,「うまくいった状況とは何か」があまり理解できていないことです。

 単純に,上手に演奏することができるようになったことを「うまくいった状況」と考えていたら,

 その教師は一生「うまい授業」はできないでしょう。

 「どの生徒も集中して話を聴いている」授業を単純に「うまくいった状況」と考えていたら,

 その教師は一生「指導力のある人」にはなれないでしょう。

 「指導力」の定義はいくらでもできるのですが,これだけは忘れてほしくはない,教育の実態があります。

 「子どもの能力を高める」という目標があったときに,

 「指導力のない教師の方が,指導力のある教師よりも,子どもの能力を高めている」という実態を目にすることがあるのです。

 指導力のある教師の目の中には,「うまくいっていることが実感できる子ども」しか入っていないということはないですか?

 完全に「無視されている生徒」「軽視されている生徒」「除外視」されている生徒がいる状況でも,「うまい授業」になることはあります。

 痛々しいのは小学生です。

 あの教師にすがりつくような挙手の態度だけは,私の場合は目にしたくありません。

 「すごい指導法」という大きな看板をめがけて教育の勉強をするのではなく,

 「あたりまえの指導」とか「忘れがちな指導」のような観点で学んでいくのはどうでしょう。


 ところで,自分が書けばよいのに,人に書け,書け,と連呼している人がいますが,

 歳だけとればそういう傲慢な態度が許されるという学校現場や社会の悪習が,

 若い教師や子どもたちが最も嫌う悪臭であることも決して忘れてはいけません。


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指導力のない教師には,絶対に「背伸び」させてはいけない

 シワ寄せが来ます。それも,子どもたちに。

 その教師自身にとっても,非常に危険な状態になります。

 だれが「背伸び」をさせるのでしょう。

 主幹,教頭,副校長,校長・・・だけではありません。

 学年主任も,隣のクラスの担任も,みんな自覚しておいてほしいことです。

 学校で最もやっかいなのが,指導力不足という「自覚症状のない」教師です。

 余計なことをしていたら,周囲がストップをかけなければならない。

 しかし,「聴く耳を持たない」。

 「聴く耳をもたない」教師が,同じく「聴く耳をもたない」子どもに話をしていることの無駄さ。

 一番悲しいのは,子どもが指摘できる問題を持っているのに,指摘する環境にない教師が相手であることです。

 教師にとって非常に重要なのは,「等身大」の勝負です。

それだけで,子どもは心から安心できるのに。

 「虚飾」はすぐに剥げ落ち,なくなった後の子どもの幻滅は想像を超えるものがあります。

 どんな子どもも,一応,教師には「期待」をしているのです。

 「信頼しよう」という意欲はもっているはずなのです。

 しかし,それがことごとく裏切られてしまうような教師がいます。

 授業を5分くらいしたら,すぐにばれてしまう人もいる。

 こういう人が,もし「安全管理」に万全を期さないといけない行事の運営を担当してしまったら・・・・。

 

 いじめについては,これがよくわからない人というのは必ずいます。

 実態を見ようとしない人もいます。

 いじめへの介入をしないことが教育だと考えている人もいます。

 以前にも書きましたが,教師という職業についている人間は,指導力のある人でも,自分のことがよくわかっていない人が多いのです。「自分のことはおいておく」という感覚。
 
 「だからできる」職業なのかもしれません。

 これがプラスに作用するような場面(自分自身への精神的な負荷がかからない)もありますが,マイナスになるのは,子どもに余計な負荷をかけるときです。

 自分のメンツを,子どものメンツに優先してしまう。

 ここに,教師の言動が特定の子どもへの「いじめ」を助長するようになる「起爆剤」が生まれるのです。

 加害者が「安心していじめられる環境」がどうしてつくられるか,あの学校にはそこを明らかにしてほしいものです。

 
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いじめの実態を見ようとしない人間の決まり文句

 なぜ学校現場から,いじめがなくならないか。

 教師がいるその場でもいじめが起こっている学校があります。

 なぜ,放置されているか。

 答えは簡単です。

 教師にいじめをなくそうとする「本気さ」がないからです。

 どうしたら,いじめがなくなるか。

 いじめの実態を見ようとしない人間,

 本当に指導力に課題がある人間が,よく言う「対策」があります。

 それは,

 「良い人間関係を築けばよい」

 というもの。

 何も答えていないのと同じことです。

 戦争をなくすためにはどうしたらいいか?

 という問いに対して,

 「平和な社会を築けばよい」

 と答えて,それで戦争がなくなると思っている人はいないでしょう。

 いじめが発生するまでの過程は非常に複雑で,

 いじめる側も,いじめられる側も,かなり深いところまでつっこんでいかないと,本当の原因はわからない場合があります。

 教室の中で,良い人間関係をつくるということは,そう簡単にはいきません。

 すべての生徒が教師の完全なる「言いなり」になり,不平不満をいっさい言わず,「良い人間関係を保つ」ように見せかけることは不可能ではないでしょう。

 しかし,こういう「無理」は,必ずどこかで「爆発」を見ます。

 結果として「良い人間関係になる」ときには,とても激しいぶつかり合いがあった後などでしょう。

 中学校での教師経験が仮に豊富でも,

 「教師による『圧力』が強い」環境の中でばかりいた人にとっては,「良い人間関係づくり」は困難だと思われます。

 それは,おそらくは「教師にとって『都合の良い』人間関係づくり」だったのでしょうから。

 一見,指導の手が入っていないような環境の中で,本当の「良い人間関係づくり」は実を結ぶのです。

 ただ,こういう「ゆとり」の教育ができる学校は少ないでしょうから,
 
 「良い人間関係」が何を指しているか,わからない人も多いでしょうね。

 「良い親子関係」って何を指すのでしょう。

 「友達関係」の中でも,「男女間の良い関係」とは何でしょう。

 「上級生と下級生の良い関係」とは何でしょう。

 「教師と生徒との良い関係」とは何でしょう。

 これを築くために,教師は何ができるのでしょう。

 答えは,それが実際にそこにある学校から学ぶしかないでしょうね。


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次は「非言語活動の充実」~それも子どもではなく教師の

 昔,「怒っているのかどうか」を表情から読み取れない先生を見たことがありました。

 発している言葉は「怒っている」ことがわかる内容なのですが,表情は「怒っている」ように見えない。

 笑いを取る「芸」ではないので,本当に別の意味で「怖い先生」でした。

 コミュニケーションは,言語的なものを使う割合が2~3割で,残りは非言語のものを通して行われていると言われています。

 人間は視覚で多くのものを認識し,理解するものだからでしょう。

 いじめられている子どもに,教師が「大丈夫?」と聞く。

 子どもは,「大丈夫」と答える。

 それだけで「大丈夫だ」と考える教師は,いないはずです。

 「見た目で大丈夫かどうかがわかるはず」だから。

 しかし,こういう非言語のコミュニケーション能力が欠如している人がたまにいる。

 「言語化されているものを最重視する」のは,正しい場合もあるでしょうが,そうすべきでない場合もある。

 最近のカメラは,「笑顔」を識別できるようですから,

 いまやコンピュータの世界ですら,「非言語」コミュニケーションの比率が高まっている時代です。

 そのうち,睡眠時間や心拍数,脈拍を記録する携帯電話が現れてくるでしょう。

 また,「声のトーン」などから,その日の体調を診断する機能も開発されるでしょう。

 「ウソ発見機能付き」電話も開発されるかもしれません。

************

 今,教育の世界では,「言語活動の充実」というかけ声のもと,あまり意味のないことに手を出す学校が増えています。

 しかも,私が今まで見てきた発表からは,

 「もっと大事なものが足りていないでしょう」と言いたくなるものばかり。

 研究授業の「話し合いの場」で,「原稿を読んでいる」生徒を育てたいのでしょうか?

 もし,コミュニケーション能力の向上を目指すのであれば,

 まず,その教師にそっくりの,表情のない,声の出し方に課題のある,姿勢の悪い話し方を改善しなければなりません。

 ・・・・・なんてことは,研究協議では言えませんね。

 「心と心の通い合った温かさのあるコミュニケーションが大切だ」

 なんていう棒読みの言葉を無表情でかけられたら,本当に「ぞっと」します。

***************

 これからの教育改革の流れは,「言語活動の充実」から,「体験活動の充実」へとシフトしていくだろう,というのが私の予測です。
 
 これには,自然体験や社会体験の多い子どもの方が,学力がより向上しやすい,という調査結果が必要なのですが。

 「独立行政法人 国立青少年教育機構」という,「国の機関」見え見えの組織がありますが,

 ここには指導者向けの資料があり,参考になります。

 基本的な指導技術として,指導者の「話し方」「聴き方」「立ち位置」「集まり方」「服装」が紹介されています。

 これを中学校1年生から生徒に指導する学校も増えていくことでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より