授業の達人をめざす前に
教育活動の成果というのは,プラス方向のものしかないと思っている人がいますが,それはとんでもない誤解です。
たった1日で,ふりだしに戻るとか,「悪い方向に流れる」ことは,いくらでもあります。
たった一言で,と表現をかえてもいいですし,一瞥で,と言ってもよいです。
教育の成果は,個人として,また,多くの人間の働きかけの総和によって「何となく」できあがっていくと感じられる面がありますが,ときとして,決定的な崩壊場面が訪れます。
たとえば,教師の生徒個人に対する「期待度」がわかってしまうときです。
教科指導の世界では名が知られているのにもかかわらず,生活指導がうまくいかない教師をどう考えたらいいのか。
同業者の教師には好かれるのに,子どもからは嫌われてしまう教師をどう考えたらいいのか。
贅沢な悩みかもしれませんが,本当の意味で,子どもの成長を願うのであれば,教育の「ツボ」を間違えないでほしいと切に願います。
子どもの成長のあかしを,「何となく感じる」のではなくて,「はっきりと知る」ことができる言葉かけをしている教師を見たことがありますか?
そういう教師から学ぶべきなのは,成長を「はっきりと知る」言葉かけをするまでの,長い長い子どもたちとのやりとりです。
同じ言葉を投げかけても,人が変われば響き方が変わるのです。
それがわかっていない人たちが,授業で失敗している。
授業の中での「失敗状況」は,いたるところで見られます。
それは,授業・・・学習というものが,本来,「そういうもの」だからです。
「授業の達人」といっても,その人は,何人の子どもとどのくらいの時間,「対話」をしていますか?
特定の子どもとの「対話」という「偏りの時間」をどう考えたらよいでしょう?
「授業が上手になりたい」という若い先生たちの強い願望はわかりますが,
「本当になりたい自分」は,「それですか?」と問いかけたくなるときがあります。
逆説的な言い方になりますが,意識としては,「授業をいかに下手にやるか」の方がよほどましでしょう。
最も大切なことは,主役は子ども。生徒が主役である,ということです。
よくわからない・・・・そういう状況に子どもをおくことができれば,授業は半分,成功しています。
« 「4番打者の自覚」は死語になるか? | トップページ | 「2番打者」らしい教師 »
「教育」カテゴリの記事
- 教員になりたての人がすぐ辞める理由(2019.01.12)
- 教育は「願ったもの勝ち」「言ったもの勝ち」ではない(2019.01.08)
- 「一人も見捨てない」は罪な要求である(2019.01.04)
- 列で並ぶこと自体が好きな?日本人(2019.01.01)
「「ゆとり教育」」カテゴリの記事
- 「働き方改革」の前に必要な「学び方改革」(2017.07.01)
- 義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的(2017.05.21)
- 中学校の先生は,同時にいくつの仕事を進めているか(2017.05.01)
- 理解するよりも誤解する人が多い教育論(2017.03.13)
- 小学校による子どもの違い(2017.03.09)
「教職教育」カテゴリの記事
- 「総合的な学習の時間」の指導ができるように教育できるのはだれか(2019.11.24)
- 生徒との対話の中から自然に目標達成へのルートをつくる(2018.12.26)
- 私でなくてもいい,私ではない方がいい(2018.12.14)
- 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか(2017.12.29)
- 日本の教育に欠けている「適時的で適正な評価」の発想(2017.12.25)
「教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事
- 遠慮しないで情報を提供しろ!~いじめを見逃す環境との戦い(2018.12.29)
- 偶然の重なりと緻密な演出~インスタレーションから受けた刺激(2018.12.22)
- 子どもから有能感を奪い取る方法(2018.11.25)
- 量より質が大事なものと,質より量が大事なものとは?(2018.04.23)
- 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか(2017.12.29)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント