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「悪口だ」「嫌味だ」と「相手のせい」にして,自らの責任に目を向けない教師たち

 指導力の低い教師の中に,いつもおどおどしている人がいます。

 いつもだれかが自分の批判をしているように感じてしまう。

 一部の子どもたちが,そういう教師の自信の無さにつけこんで,次々に問題を起こしていく。

 子どもたちは,決して自分たちにとってマイナスになるようなことはしたくはない。

 だから,教師が完全に自信を失って,仕事ができなくなってしまうようなことはなかなかしません。

 逆に,教師を元気づけるようなことも,してくれる。

 こういうのを「生殺し」というのですが,「いじめ」と同じで,ある程度,「抗体」ができると,逆にそれが教師の成長につながっていく。「いじめられっ子」も,逆に堂々と「いじめかえす」ような強さが身についてくる。

 体育会系の組織に身を置いたことがある人なら,よくわかる話でしょう。

 しかし,教師の中には,

 自分の「力」というのがよくわからない。

 「指導力」とは何かがわからない。

 批判を跳ね返す「力」もない。そういう人がいます。

 大人だというのに,現状の問題に対する指摘を「悪口」とか「嫌味」だと言って,腹を立てる。

 「恥」を知らないこういう人間が社会に出ている原因の一つが,「子どものまま大きくなってしまったこと」です。

 コンピュータばかりいじっている子どもが,そのまま社会に出てきたな,と実感される社会人も増えているようですが。

 ここで問題にしたいのは,「子どものまま大きく」なりやすい職業の一つが,「教師」であるということです。

 ここでいう「子ども」の意味の幅や深さを,「子どものまま大きくなってしまった」人間は知りません。

 自分のことが何もわかっていないのです。

 何か問題が起こると,「人のせいにすること」ばかりを考える。

 「担任おろし」の要求を,「自分のせいではない」となぜか言い切れてしまう。

 小学校では,教師に対する「批判」は「悪口」「嫌味」と捉えられやすいからか,一般の人は耳にすることは少ないでしょうが,

 「担任が変わってだめになった子ども」

 はいくらでもいます。

 もちろん,「担任が変わって見違えるようによくなった」子どももたくさんいます。

 「普通にできること」ができなくなった。

 「普通にやるべきこと」をしなくなった。

 「普通はするべきではないこと」をするようになった。

 毎日の子どもたちに対する言葉かけ,子ども一人一人に対する言葉かけの,「教育的価値の格差」は,その教師につきそう機会がもてれば,すぐにわかります。
 
 問題は,そういう「機会」がほとんどないことです。

 授業参観や公開授業は,「そのために何をすべきか」なんて本が売れているのが小学校現場というところなので,ふだんの姿は絶対に見えない,と考えてよいでしょう。

 教師は,評価を受ける「機会」がない。
 
 まともな「評価」機会は,指導力不足を認定された教師が,研修を受けて,現場復帰を果たすための過程くらいしか思い浮かべられません。
 
 そこでようやく,「本当にだめだな」という評価が大勢から下される。

 もし,自分に対して向けられる言葉を,「悪口」とか「嫌味」などといって「言っている相手が悪いのだ」という思考に陥らずに,「本当に自分に足りないものは何か」と発想できたのならば,

 決して「指導力不足」の領域には入らないですんだことでしょう。

 「指導力不足」の教師の多くに共通していることは,「同僚に質問できない」「同僚とコミュニケーションがとれない」(同僚を子どもに置き換えたものが,指導力不足と認定される鍵なのですが)ことです。

 「そんなこと,どうして分からないの?」と思われるのが嫌だからでしょうか?

 定年退職間際の,指導力に課題があった教師が,ときどき新規採用の教師に学校の仕事の質問をしていました。こういう人は,どんなに授業ができなくても,「指導力不足教諭」に認定されずに,職を全うすることができたのです。

 子どもは「叱責」と正しく認識してくれるのに,

 教師は「悪口」に認識してしまう。

 ここに,教育を改革する逆転の発想の鍵が隠されているのかもしれません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より