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現場に出て,驚くこと ~そんな「いじめ対策」があるの?~

 初めて教育現場に身を置くようになった方々が,まず驚くのは,

 「どうしてこんなに『わかっていない』教師たちが多いのだろう」

 ということでしょう。

 採用までの苦労を考えると,何だか馬鹿らしくなる・・・・そう感じる一瞬は,一度くらいは必ず訪れるでしょうね。

 『わかっていない』だけなら,まだ「見すごせる」のですが,

 『見当違い』のことを言い出したり,やり出したりする教師,そして,そうこう言動への批判にいっさい耳をかさない教師もいます。

 管理職は,もう「そういう人間だ」ということは承知しているので,見て見ぬふりをしている。

 そういう教師への「指導」は,「主幹の仕事」だから・・・・。管理職にとっては,都合の良いポストができたものです。
 
************

 教育の仕事というのは,本当に難しいのです。

 偉そうなことを言っていても,自分では全く実践できずに,子どもに馬鹿にされているだけの人もいる。

 本当に仕事もできず,何を考えているのかわからないのに,子どもには慕われている人がいる。

 「教育って,よくわからない」・・・そのように悩むのが,「教師の仕事」だと思えば,

 あとは少しでも多くの教師とタッグを組んで,自分たちにできることを実践していく,それがすべてです。

 たとえば,「いじめ対策」。 

 「いじめ対策」というのは,本来,学校が教育の目標に掲げていることを,今まで以上にきめ細かく,今まで以上に,教員のチームワークを最大限に発揮して,子どもに向き合う,・・・・現場は,それが一番なのです。

 「いじめ対策」の専門家を呼んで,研修でお話を聞く。

 悪いことではありませんが,その研修中に,いじめが起こっていたら,本末転倒です。

 研修は,子どもが学校にいないとき・・・・たとえば夏季と冬季の休業期間中のようなタイミングで行うべきです。

 こんな当たり前のことをせずに,「うちはいじめ対策に力を入れている」なんて言えません。

 「いじめ対策」は,「本来,教師が,やるべきことをやる」・・・・それが一番・・・というか,それしかないのです。

 以下のような「提言?」をしている教育ブログがありました。

**************

 全国の小中高校生全員に,携帯型のいじめ通報装置を配付する。これは,いじめを受けた時にボタンを押せば(いじめの定義にしたがえば,いじめられたと感じた時はいつでも押してよい)

**************

 ボタンを押したら,どうなるって? どこかの機関の人間が飛んできてくれるそうです・・・。

 こういうアイデアを,学級会で子どもが思いつきで提案したとしても,即座に異論が出されてつぶされるだけでしょう。

 「無視を受けている人は,『無視された』と思ったときに,毎回,ボタンを押すのですか?」

 「通報装置は常に手にもって行動するのですか?」

 「いじめられている人が,本当にそんなボタンを押すでしょうか?」

 「遊び半分で押してしまう人がいるのではないでしょうか?」

 「友達の通報ボタンを押す,といういじめが始まるのではないでしょうか?」

 「もしなくしたら,再発行してくれるのでしょうか?」

 「先生に体罰を受けたときとか,先生に無視されたりしたときも押せるのですか?」

 「こんなことを思いつく人って,本当にいじめのことがわかっているのでしょうか?」

 「賛成している先生方が多いそうですよ!」

 「・・・・・・・だから,この学校はいじめが多いんだね・・・・・・」

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コメント

記事で紹介したようなおかしな提言をするのは,現場の人間ではないことを祈るのみです。

間違った分析による間違った明後日の対策の典型的なお話ですね、でもとてもありがちなことだと思います。
すべてはイジメられている子が行動すれば解決すると言う身勝手な思い込みに起因しています。
その真相心理にイジメる側の問題と向き合う自信の無さにあると考えられます。
無意識に厄介な問題を回避しているのです。
イジメはイジメる側の心の問題です。
必ず加害者の怒りや悲しみから弱い子や反撃しない優しい子に向けられ加害者が向き合えないジレンマを発散する事で自分を保つのです。
早い段階で対処しておかないと良心が欠落した人になってしまいます。
また、保身的な学校にとって被害者の問題にしてしまう事が誠に都合が良く
多くの場合被害者の問題にしてしまうのです。
被害者はおとなしいからイジメられ反撃しないし報復を恐れて萎縮しているのです
また集団で暴行が行われ多数派が加害者であるから加害者側と学校が結託することがイジメの隠蔽に都合がいいのです
以上のことから被害者に対策を要求するような学校教師は考え方がすでに腐敗しもはや教育とは程遠い人物であると決定的に定まります
大抵の場合、そういう教師は無能でまともな授業はまったくできません
また、猥褻行為を行う事もしばしばあります

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より