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2012年9月

とぼける教師や大人たち

 いくつかの仕事(to do リストに載せるようなもの)を同時並行で抱えていると,

 ときどき優先順位がわからなくなることがあります。

 特に集中力が必要な仕事が混じっているとき,また,その遂行中に,

 重要度はさほど高くなくても,緊急性が高い問題が発生した場合,

 瞬時に反応できるか,

 「とぼけて見て見ぬをする」か,

 どちらのタイプの教師かを子どもは簡単に見抜いてしまいます。

 だから,それぞれの教師に対する「反応」をするようになる。

 「~しなければならないはずでしょ」

 の言葉に,

 「そんなこと知りません」と言われてしまうのは,恥ずべきことです。

 別の教師のときには,注意を受けるようなことをしない,その事実を知っていれば。

 最悪なのは,子どもに注意もしない,問題も放置しておく,・・・これです。
 
 こういう「とぼける教師たち」の典型を,「いじめ」をめぐる報道の中では

 随所に見かけることになる。

 そして,教育ブログの中にも。

 重要度も,緊急性も,すべて「自分にとっての問題」が優先される。

 「組織にとっての問題」は「なかったことにしたい」・・・・・こういう動きになるのは,組織の人間ならわからなくもないでしょうが,組織には,そんなことはどうでもいい,すべて「自分にとってのことが優先だ」という人がいる。

 これを,教育の世界では,「個人の尊厳」という言葉で正当化しようとする。

 しかし,この「個人」は「教師自身」のことで,「子どもの尊厳」などは二の次である。

 そんな人間がいる。

 「教育の,どこに,問題がありますか?」なんて開き直る人間でも,

 いざ,自分の身に火の粉がふりかかると,

 躍起になって振り払おうとする。

 守りたいものは,子どもではなく,自分なのです。

 これが怒りの源になるのです。

 子どもに降りかかる火の粉には目もくれない大人たち。

 自分の利益しか見えてないような人間たちがよく使う言葉があります。

 「それがどうかしましたか?」

 
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教師の「そのくらいにしておけよ」はいじめ荷担者の言葉

 ふと思い出したようにふれる話題ですが,もし書き忘れていたら,と思い,メモしておきます。

 大津の「いじめ自殺」に至る過程での生活指導で,教師が言ったとされる言葉が,

 「そのくらいにしておけよ」です。

 関西と関東では,語感が異なるかもしれませんので,ご意見をうかがいたいのですが,

 時代劇にはまっていたことがある江戸っ子?の私にとって,

 「そのくらいにしておけよ」は,弱い町人をボコボコにしている子分に対して,親分か兄貴分がかける言葉です。

 「そこまでは,やってもかまわない。でも,これ以上は,いい」という意味を含む言葉です。
 
 これは,いじめ隠蔽体質という問題ではなく,

 教師のいじめ荷担体質という問題のあらわれです。

 教師公認のいじめがあった,ということです。

 特定の個人に対する暴力的行為,いやがらせ行為は,禁止するのが教師の仕事です。

 「そのくらいにしておけよ」は,禁止行為ではなく,「そこまでは許すぞ」という推奨行為です。

 いじめる側は,権威のお墨付きのもと,いじめ行為に及んでいたと考えるべきです。


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病気を揶揄する表現者たち

 安倍元首相の「腹痛」を揶揄した番組出演者,ツイッターでの発言者が批判されているそうですが,

 こういう人は教育ブログにも存在しますね。

 自分を不愉快にさせた個人を攻撃したいわけですが,それに「巻き込まれている人」の存在が目に入らない。

 忠告に,一切,耳を貨さず,同じような「病気」「精神疾患」などの解説を繰り返す。
 
 解説するのが大好き?なのが「統合失調症」。

 こういうタイプの人間が教育現場に立つと,どういう失態を繰り返すかまで教えてくれているのに,一向に改善される見込みがない。

 人の心の痛みがわからない。

 こういう人に,「自分も傷つけられたんだから,相手にも同じ思いをさせてやろう!」と言っている子どもを,どう指導できるのか。

 指導できるわけがない。

 「そういうやり方で,人を馬鹿にすることができるんだ,攻撃できるんだ」と子どもに学ばせているブロガー。

 テレビのワイドショーをにやにやしながら視聴している子どもを想像すると,ぞっとします。

 低俗な番組やコメンテーターだけが悪いわけではないでしょう。

 子どもたちに接する機会があるすべての大人は,どんな言葉を発しているでしょう。


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「2番打者」らしい教師

 野球をあまりご存じないと,よくわからない話かもしれません。

 野球をある程度ご存じの方だと,タイトルだけ見ていただいて,どれだけ想像(妄想?)できるかで,その方の経験がわかります。

 もし,「2番打者らしさ」を,「送りバントが上手」「比較的小柄で器用」というイメージでとらえていらっしゃるならば,伝統的を重んじる,悪く言えば,型にはめるのが好き,そういうタイプの方で,

 自分を犠牲にして,生徒たちや他の教師たちのために尽くすことに生きがいを求める

 という教師を思い浮かべられるでしょうか。

 そういう「2番打者」らしさを,自身では,どのように発揮されてこられたでしょうか。

 授業での「送りバント」とは何でしょう。

 生徒が前に進む=理解したり,理解したことを表現したりするために,教師が犠牲になることですね。

 教師の犠牲とは何でしょう。

 ここが授業とは言わず,教育で最も重要な「ツボ」の一つです。

 「送りバント」が成功すれば,得点のチャンスが拡大します。

 授業の中で,教師は「送りバント」をどのくらい成功させることができるでしょう。

 *******

 最近は,「型破りな2番打者」も登場しています。

 「2番目の打者」という考え方に基づき,長打力もあり,打力がクリンアップに匹敵する,そういう選手です。

 授業には導入というのがあるのですが,導入に力を入れすぎてしまい,展開に入ると生徒の学習熱もクールダウン,なんていう場合があります。

 威圧的な「2番打者」は,導入でアップをして,展開では温まった体を一気に動かすような,そういう「起爆剤」的な材料を繰り出す。

 こういう授業は毎回は難しいかもしれませんが,「4番打者のようなホームラン」が打てる選手だ,ということがわかると,ピッチャーは「警戒」します。

 生徒は「期待」してくれます。

 この「期待」というのが,何よりも大切なものです。

 教師は,子どもの成長を「期待」する。

 子どもは,教師の「器用さ」「意外性」を「期待」する。

 「期待できる環境」が教育を変えるためのキーワードです。

 「子どもへの期待をもてない」教師は,「2番打者」失格です。


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授業の達人をめざす前に

 教育活動の成果というのは,プラス方向のものしかないと思っている人がいますが,それはとんでもない誤解です。

 たった1日で,ふりだしに戻るとか,「悪い方向に流れる」ことは,いくらでもあります。

 たった一言で,と表現をかえてもいいですし,一瞥で,と言ってもよいです。

 教育の成果は,個人として,また,多くの人間の働きかけの総和によって「何となく」できあがっていくと感じられる面がありますが,ときとして,決定的な崩壊場面が訪れます。

 たとえば,教師の生徒個人に対する「期待度」がわかってしまうときです。

 教科指導の世界では名が知られているのにもかかわらず,生活指導がうまくいかない教師をどう考えたらいいのか。

 同業者の教師には好かれるのに,子どもからは嫌われてしまう教師をどう考えたらいいのか。

 贅沢な悩みかもしれませんが,本当の意味で,子どもの成長を願うのであれば,教育の「ツボ」を間違えないでほしいと切に願います。 

 子どもの成長のあかしを,「何となく感じる」のではなくて,「はっきりと知る」ことができる言葉かけをしている教師を見たことがありますか? 

 そういう教師から学ぶべきなのは,成長を「はっきりと知る」言葉かけをするまでの,長い長い子どもたちとのやりとりです。

 同じ言葉を投げかけても,人が変われば響き方が変わるのです。

 それがわかっていない人たちが,授業で失敗している。

 授業の中での「失敗状況」は,いたるところで見られます。

 それは,授業・・・学習というものが,本来,「そういうもの」だからです。

 「授業の達人」といっても,その人は,何人の子どもとどのくらいの時間,「対話」をしていますか?

 特定の子どもとの「対話」という「偏りの時間」をどう考えたらよいでしょう?

 「授業が上手になりたい」という若い先生たちの強い願望はわかりますが,

 「本当になりたい自分」は,「それですか?」と問いかけたくなるときがあります。

 逆説的な言い方になりますが,意識としては,「授業をいかに下手にやるか」の方がよほどましでしょう。

 最も大切なことは,主役は子ども。生徒が主役である,ということです。

よくわからない・・・・そういう状況に子どもをおくことができれば,授業は半分,成功しています。


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「4番打者の自覚」は死語になるか?

 本日,閲覧していただいた記事の中に,以下のものがありました。

 3年以上も前に記した内容ですが,今でも言いたいことは全く変わっていません。

 これを「進歩していない」と捉えることもできるでしょうが,学校が変わらない,変われない主な原因はこれだ!という私のような主張は,「敵をつくりたくない」人は言わないことなので,初めて聞くような人もいるかもしれませんから,再掲させていただきます。

********************

 【再掲】 教師と4番打者の自覚 (2009年5月の記事より)


 私は,日本の教育はもっと早く変わるチャンスがあったのに,それが実現できなかった一番大きな原因は,教師たちにあったと考えています。

 それは,教師の力が優秀ではなかったからとか,教師の資質・能力に問題があったからとか,そういう理由ではありません。
 
 問題は,「心がまえ」にあった(ある)のです。
 
 野球にたとえると,私の理想の教師像は,常勝チームの4番バッターのようなものです。

 結果が出れば持ち上げられるが,結果が出せなければ「4番のせいだ」といって叩かれる。

 本物の4番打者は,「勝ち負けは,チーム全体の問題なのだから,俺に言うのは筋違いだ」という当たり前の言い訳など決してしません。

 そして,変に自分を責めるのではなく,「期待に応え続けよう」と努力する。

 批判は,だまって受け入れる。ただひたすら,改善の道を模索する。何をやっているか,やろうとしているのかを説明する。協力を依頼する・・・。そういう当たり前のことができない人がなぜ教育関係者に多いのでしょうか。

 残念ながら,今の教育では,一部の子どもにとって,クリンナップは「塾の先生」になっているのかもしれません。
 学力は高めてくれる,勉強を好きにさせてくれる,学校の友達関係の悩み事の相談には乗ってくれる,楽しい海外旅行の経験の話をしてくれる,・・・
 子どもが求めているのは「点数」だけではありません。

 自虐的な教師たちは,下位打線でもスタメンはスタメンだ,とか,「つなぎができる打者であれば・・・」などと「プレッシャーのかからない位置」を求めていく。

 公立学校の教育現場では,ときどき学級が崩壊して「代打」「代走」が出されることがあるのはよく知られているでしょう。

 ベンチの隅にずっと座っていても,同じ給与が維持できて,2軍に落ちて調整していても,年度が変われば昇給していく,・・・そんなことが許されてよいのか?という「声」に,学校現場は「野次だ」といって耳をふさいだり,聞かないふりをしていたりしてきましたが,そのことが,「教育が変わらない」原因の一つになってきたのです。

 「学校は危機的状況にはない」
 「企業のマネジメント理論は学校の役に立たない」
 「企業のマネジメント理論は危機的な状況にある企業をみれば怪しいものであるといえる」

 確かに,今までの学校の教師の中には,何の危機も感じないで生きてこられた人がたくさんいたのでしょう。

 それが,免許更新制度が始まったり,たいした差もつかない成果主義が導入されたくらいで大騒ぎし,「自分の身分保障の危機」ばかりにあわてている現状を見れば,「何が危機だったのか」ははっきり見えてきたはずです。

 教師が地域を取り込み,「改革」に成功している学校というのは,「自分の身分の危機」を心配する前に,「もっと何とかしてあげたい子ども」のことを考え,「よりよい教育」を求めて努力を続けているわけです。

 だから子どもや地域が動くわけです。

 「今のが限界だから,あきらめてもらおう」などとは言わないのです。

 4番バッターが,「私の打撃には限界があります」と言って,3割,30本以上は打てませんと公言しますか。

 仮にそういうとして,「それはそうだな」とうなずいてもらえる数字というのは,どの程度の数字でしょうか?

 「公教育に限界がある」のは当たり前です。

 ただ,「最低保障をすればいい」などといったときの「最低レベル」というのはどんなレベルなのでしょう?

 もし最低保障が「学習指導要領のレベル」だとすると,それは達成されていません。

 もし,「私」の教育の機会が潤沢だから,それを活用するのが合理的だという論理があるとしたら,「公教育が公的資金をさいて『私』を活用しないのはなぜか」ということが問題になるでしょう。

 もし「最低保障」を果たすために,「私」を活用した方が「公教育」によるものより半分とか3分の1のコストでできるとしたら,政策上どうするのが最適なのか,という話になっていってしまいます。

 「私」の活用を「公教育」の側が拒絶しているとしたら,それは自分たちにとって恵まれた既得権益を守りたいだけに他なりません。

 「自分に何がどれだけできるのか」を真剣に考えようとしない教師をどう変えていくのか。

 こういうことを正面きって行っていく主体に行政がなれなかったことも,日本の教育が変わらない原因の一つでしょう。

*****************

 今,巨人の村田選手は,昨年までの「4番打者」から,「つなぎ」の野球の一員としての役割を担わされて,やや不調の状態のようです。

 現場でも,こういう人が少なくないはずです。

 4番打者でも送りバントをする,そういう「つなぎ」の野球が大事なんだ,なんて主張する人間が学校で満ちてくると,塾が学校になる時代が遠からずやってきます。

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相手の主張の「根拠」を考えれば,どういう人間かがよくわかる

 なぜその生徒は,そういう主張をしているのか。

 その根拠は何か。

 問題行動を起こした生徒と向き合っている場面を想定しましょう。

 「根拠? そんなものはもっていないだろう」というのは先入観。解決が先送りされかねない。

 多くの生徒は,「根拠」を語ることができません。

 だから,「根拠は何か」などという愚問はしない。

 何が根拠になっているのかを探るような会話をすることが大切です。

 そうすれば,「根拠」があったことにお互いが気づけます。

 大人の書いている文章の根拠を考えてみましょう。

 なぜ,この人は,こういうタイプの文章を書いているのか。

 ある人は,人から見下されることを非常に嫌うタイプである。

 そして,非常に正直な人である。

 だから,「上から目線でものを言うな」と直言している。

 こういうのは,「根拠」を探る必要のない相手です。

 わかりやすいこと,この上なし。

 ある人は,人から批判されることを非常に嫌うタイプである。

 そして,非常に正直な人である。

 だから,「悪口を書くな」と直言してくる。

 これも,「根拠」を探る必要のない相手です。

 これだけ気が小さいと,どれだけ生徒からなめられるか,心配になるほどです。

 教育現場に出ると,本当に「気が小さい」大人たちにたくさん出会うことができますよ。

 そういう人の主張の「根拠」を考えれば,どのような人間かすぐにわかります。

 子ども相手なら,何とかなるなんて甘い考えで,教育現場に入り,子どものまま大きくなっただけのような人間を救うのは,「大人の教師」しかいません。

 「大人の教師」を,仙人のようにしたてておきたいのは,子どものまま大きくなっただけの教師であって,本当に「若い教師を大人にしてくれる大人の教師」とはどういう人か。

 教育現場に立ったら,ぜひともよく見定めて下さい。

 蛇足ながら,「自分の考え」の「根拠」を後から考えるというのは,どういうことでしょう?

 「後付けの論理」が得意な教師も困りものです。


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能なしの鷹は,爪がないのを隠して,「さとす」のが得意

 そういうタイプの教師をよく見かけますね。

 爪を出しっぱなしにする,「能ある鷹」。

 こういう教師もいます。

 ある意味では,本当に頼りがいのある人です。

 ただ困るのは,こういう人が「折れた」ときです。

 「折れる」原因にはさまざまあるのですが,多いのは「能なしの鷹」から足を引っ張られること。

 「能ある鷹は爪を隠す」なんて陰口を言っている,何もできない教員がいたら,嫌な気持ちになるでしょう。

 「隠してるわけじゃない,いまだかつて爪がはえたこともないやつが,何を強がっているのか!」

 なんて周囲の人は笑っても,

 幾度となくピンチを救ってあげた側が,救われた側にからかわれるのはつらいものです。

 「能ある鷹」は,現場から離れて,評論家になってしまったり,大学に行ってしまったりする。

 もったいないことです。本人がそれで成功していればよいのですが。

 一方,本人なりの理由で「折れる」場合もあります。

 これも気の毒なこと。

 現在の中学校現場というのは,「爪を隠す」ゆとりなどないのです。

 爪を抜かれた教員たちで満たされている学校現場が,いかに悲惨なものか。

 そういう声は,このブログ村では聞こえてこないでしょうね。

 こんなところに記事を書いているゆとりなどないはずです。

 そういえば,昔はいらっしゃいましたか・・・。

 異動されてから,ご無沙汰です。

 「能ある鷹」たちの足を引っ張らない。

 それだけしないでくれれば,よくなる学校がどれだけあることか。

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「できない人の分析」は避けたがる教師たち

 学校が小規模化するにつれて,

 「当たり前のことができなくなっている教師」が増えてくる。

 たった200人くらいの中学生を,ろくに整列させることができない。

 教師というのは不思議なもので,

 自分が教えればいいのに,教えることをせずに,

 若手ができないことを嘆くことができる人がいる。

 ちょっとだけ離れて学校を眺めるだけで,

 本当に無数の「他人事」姿勢にふれることができます。

 どうしてあなたはそこまで「当事者」らしくない態度をとることが可能なのか?

 なぜそんな「評論家」でいられるのか?

 謎はまだ解けていません。


 「謙虚でありたい」なんてことを言う人間は,その言葉通り,謙虚ではない場合が多い。

 謙虚である人は,そもそもそんな話題を口にすることはないのです。

 ましてや,先に言ったことの意味も忘れて,「あいつは謙虚じゃない」なんてことを言えてしまう。

 「評論家」は,「余計なお世話」が好きなのですが,

 現場はそんなことにかまっている余裕はないのです。 


 どんな教師がダメか,どんな人間がダメかは,よくわかっている。

 しかし,それが自分に当てはまっていることだけが,どうしてもわからない人間がいるのが,私にとっては本当の謎です。

 身近に,それを指摘してくれる人が,・・・・わからせてくれる人が,どうして一人もいなかったのか???

 校長や教頭,副校長から,あなたは年に何回くらい,直接的に指導を受けますか?

 今は,自己申告の面接等があるので,最低でも年に3回は顔を突き合わせて管理職と話ができる機会があるでしょうが,初任者研修や,会議のような他の教員がいる場を除くと,私でもほとんどそういう機会はありませんでした。

 処分に該当するような事故を起こした人は別として,一般の教員は似たようなものではないでしょうか。

 しかし,本当にそれでよいのか。
 
 管理職の嘆きは,異動の時期に本当によく耳にしましたが,

 「どうして教育されなかったのか」「教育できなかったのか」

 は,実際に該当する教師に会ってみると,すごく納得してしまう場合もあるし,本当に疑問になる場合もある。

 後者の方が多いことを願うのみですが,教師教育はどうあるべきなのか。

 孤立傾向が強く,被害妄想的な教師を,安心させて「仲間」にできる教師集団はどうしたらつくれるのか。
 
 こうした研究ができるような人と,こういう研究に協力できるような学校が,

 いそうでいない。ありそうでない。

 私たち教育関係者というのは,「できない人の分析」というのは避けたがるものです。

 醜い人間の姿があらわになるからか。

 自分も他人事でなくなってくるからか。

 だから,問題はいつまでたっても解決しないのですね。

 
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教育現場における教師が教師をターゲットにする「いじめ」

 これから教師になろうとする人にとっては,見て見ぬふりができない話題でしょうね。

 教職課程の「勉強」で,「職場での『いじめ』にどう対処するか」という内容はあったでしょうか。

 難しいのは,

 「いじめ」は子どもの世界の話,そうでなければ「嫁姑」という家庭内の話,そういう認識が一般的であることでしょう。

 社会人たるもの,競争を勝ち抜くため,組織内ではどんなに厳しいことでも耐えるべきだ,なんていう高度経済成長期的?発想も,依然として残っている職場も多いことでしょう。

 教師が教師からいじめを受ける?

 何を甘ったれたことを・・・なんていう反応をしそうな教師ばかりが目に浮かびます。

 あるブログで目にしたのは,

 「部活動の指導がなってない」と「いじめ」られた教師の話です。

 それに該当する教師は,すべての中学校にいるのではないか,と思われる事例です。

 授業もうまくできない,問題行動を起こす生徒を叱ることができない,部活動の指導も,専門的な知識も技能もないので,子どもにばかにされる,・・・・・職について1か月もしないうちに,

 「辞めたくなった」という経験は,多くの教師がするでしょう。

 学校現場に必要なのは,「辞めたくなった」人に,「教育的な言葉をかけてあげられる先輩教師」なのですが,子どもが減ってどんどん小規模化している学校では,なかなかそういう「いい先輩」にめぐりあえない可能性もあります。

 だから,初任者研修では,すべての初任者が,毎回,カウンセリングを受けるようなしくみを早急につくるべきでしょう。

 臨床心理士もピンからキリまでいますから,少なくとも2~3人と話ができた方がよいです。

 そこで,「カウンセリング」の手法も体得することができ,相談できる人ができ,苦しさを共有できる人ができることは,教員生活を送る中で,大きな財産となることでしょう。

 (内緒の話ですが・・・・行政の側は,カウンセラーを通して,まだ組織に染まりきっていない教師たちから,現在の教育現場の問題を次々に把握することができるようになります。)

 教師の,教師に対する「いじめ」の具体的事例,

 もっともっと,公にしてもいいのではないでしょうか。

 そうすれば,もしかしたら,「昔は,フォローできる人が学校にいた。だから,厳しいことを若い人には言えた。今は,すぐつぶれてしまうから,何も言えなくなった。だから,何もできていないのに堂々としている教師が増えた」なんてことがわかってくるかもしれません。

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「悪口だ」「嫌味だ」と「相手のせい」にして,自らの責任に目を向けない教師たち

 指導力の低い教師の中に,いつもおどおどしている人がいます。

 いつもだれかが自分の批判をしているように感じてしまう。

 一部の子どもたちが,そういう教師の自信の無さにつけこんで,次々に問題を起こしていく。

 子どもたちは,決して自分たちにとってマイナスになるようなことはしたくはない。

 だから,教師が完全に自信を失って,仕事ができなくなってしまうようなことはなかなかしません。

 逆に,教師を元気づけるようなことも,してくれる。

 こういうのを「生殺し」というのですが,「いじめ」と同じで,ある程度,「抗体」ができると,逆にそれが教師の成長につながっていく。「いじめられっ子」も,逆に堂々と「いじめかえす」ような強さが身についてくる。

 体育会系の組織に身を置いたことがある人なら,よくわかる話でしょう。

 しかし,教師の中には,

 自分の「力」というのがよくわからない。

 「指導力」とは何かがわからない。

 批判を跳ね返す「力」もない。そういう人がいます。

 大人だというのに,現状の問題に対する指摘を「悪口」とか「嫌味」だと言って,腹を立てる。

 「恥」を知らないこういう人間が社会に出ている原因の一つが,「子どものまま大きくなってしまったこと」です。

 コンピュータばかりいじっている子どもが,そのまま社会に出てきたな,と実感される社会人も増えているようですが。

 ここで問題にしたいのは,「子どものまま大きく」なりやすい職業の一つが,「教師」であるということです。

 ここでいう「子ども」の意味の幅や深さを,「子どものまま大きくなってしまった」人間は知りません。

 自分のことが何もわかっていないのです。

 何か問題が起こると,「人のせいにすること」ばかりを考える。

 「担任おろし」の要求を,「自分のせいではない」となぜか言い切れてしまう。

 小学校では,教師に対する「批判」は「悪口」「嫌味」と捉えられやすいからか,一般の人は耳にすることは少ないでしょうが,

 「担任が変わってだめになった子ども」

 はいくらでもいます。

 もちろん,「担任が変わって見違えるようによくなった」子どももたくさんいます。

 「普通にできること」ができなくなった。

 「普通にやるべきこと」をしなくなった。

 「普通はするべきではないこと」をするようになった。

 毎日の子どもたちに対する言葉かけ,子ども一人一人に対する言葉かけの,「教育的価値の格差」は,その教師につきそう機会がもてれば,すぐにわかります。
 
 問題は,そういう「機会」がほとんどないことです。

 授業参観や公開授業は,「そのために何をすべきか」なんて本が売れているのが小学校現場というところなので,ふだんの姿は絶対に見えない,と考えてよいでしょう。

 教師は,評価を受ける「機会」がない。
 
 まともな「評価」機会は,指導力不足を認定された教師が,研修を受けて,現場復帰を果たすための過程くらいしか思い浮かべられません。
 
 そこでようやく,「本当にだめだな」という評価が大勢から下される。

 もし,自分に対して向けられる言葉を,「悪口」とか「嫌味」などといって「言っている相手が悪いのだ」という思考に陥らずに,「本当に自分に足りないものは何か」と発想できたのならば,

 決して「指導力不足」の領域には入らないですんだことでしょう。

 「指導力不足」の教師の多くに共通していることは,「同僚に質問できない」「同僚とコミュニケーションがとれない」(同僚を子どもに置き換えたものが,指導力不足と認定される鍵なのですが)ことです。

 「そんなこと,どうして分からないの?」と思われるのが嫌だからでしょうか?

 定年退職間際の,指導力に課題があった教師が,ときどき新規採用の教師に学校の仕事の質問をしていました。こういう人は,どんなに授業ができなくても,「指導力不足教諭」に認定されずに,職を全うすることができたのです。

 子どもは「叱責」と正しく認識してくれるのに,

 教師は「悪口」に認識してしまう。

 ここに,教育を改革する逆転の発想の鍵が隠されているのかもしれません。

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腐敗物で満たされる?学習の評価

「観点別学習状況の評価」を「評定」の材料に使うようになってから,超短期的なせまい視野で子どもの学力をみようとする教師が増えてしまいました。

 授業をして,小テストをして,できていたら「十分満足」。

 次の日には忘れてしまっていても,その「十分満足」という評価は「不変」。

 賞味期限がごく限られた食品は,何日もたたないうちに腐敗するのです。

 そういう「腐敗している」状況を,「十分満足」などといって子どもに返しているおそれがあるのが,通知表です。

 学習の過程の評価が大事。

 それは本当に大切な考え方です。

 観点別学習状況の評価は,そのためにある,と言い切ってもよいでしょう。

 しかし,総括をするときに,この評価がどれだけ役に立つものなのか。

 学力の調査で,小4はかなりできているのに,同じ問題を小5,小6に解かせると,どんどん正解率が下がっていく,という算数の問題があることはよく知られています。

 指導要録に記載された「評定」など,全くあてにならないのです。

 私立中学校で,そんなものを選考の材料にしないのは,正しい判断でしょうね。

 通知表や指導要録というもので最も重要なのは,

 「腐敗しない財産」に関する記述です。

 容易に得たものは,失いやすい。

 こんな簡単なことは,子ども自身がすでによくわかっていることです。

 あらゆる困難を乗り越えて,その子どもが獲得したものは何か。

 その過程には,どんな苦労があったか。

 こういう「物語」を知る立場に上級学校の教師が立てれば,少しは「指導要録を見る」機会も増えるでしょうが・・・。

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創造的な活動とは?

 学習の評価にこだわり出すと,思考が短絡的になりやすく,いらいらするのが教員は常でしょう。

 子どもの思考まで評価の対象にしようとすると,これは至難な業であることは,経験が豊富な教師ほどよく知っているものです。

 私が書いている文章を読んで,私がどこまで深く考えているか,とても浅い話なのか,あるいは本当に自分がそうだと思っていることを書いているのか,そんなことはごくわずかで,決して本音は分からないように書いているのか,読んで下さる方が正しく把握することは無理なことでしょう。

 なぜなら,私ですら,わからない部分があるからです。また,守秘義務の関係で書いていないことも多いからです。

 保護者面談などで,必ず相談されることがある内容について,今年は私の回答を統一することにしました。

 その答えはここではふせておきますが,関連のある話を白取春彦著『頭がよくなる思考術』から引用させてもらいます。

************

 したがって,生産的であるか怠慢であるか,他人が外から見て判断することなど本当はできないのである。

 わたしは,ある成績優秀な生徒を知っている。彼はクラブ活動を終えて遅く帰宅すると,机に向かうわけでもなく,じっと何もしないでいる。傍からすれば,どうしても放心しているようにしか見えない。

 しかし,・・・・・(大事な部分は省略させていただきます)・・・・・そして,机に向かって長い時間をかけて練習問題をしている他の生徒よりもはるかに良い成績を得ているわけである。

************

 創造的な活動のプロセスは,外部からは見えにくいものです。

 子どもはいつどんなときも創造的な活動を頭の中でしている,と信じることで,教師の教育観は大きく変わることになるかもしれません。

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教師の「考え」とは何か?を知る機会をもとう!

 教師に限らず,大人も,子どもも,

 「利己的選択の思考」をしやすいのが人間というものです。

 どういう手段や方法が自分にとってもっとも多い利益をもたらすかを考える。典型はゲームで勝つための考え方だが,現実においてもこの打算的思考によって態度や手段を決めることが多い。(白取春彦著『頭がよくなる思考術』より,以下同様)

 教師は,自分の指導によって,子どもの能力が高まったのだ,ということを「信じたい」性質をもっています。

 子どもの能力を高めるのが,教師の仕事だから,という「固定観念」をもっているからです。

 子どもの能力は,教師のはたらきかけだけで高めることができるものではありません。

 すでに子どもが理解し,活用することができるようになっていることを,教師が確認しているだけの授業なのに,「指導法がよい」などと評価されている授業を参観すると,本当に大人というのは「自分たちに都合のよい解釈をするのが得意」な生き物だということを実感します。

 子どもの方は,「どういう答え方をすれば,教師を喜ばせることができ,自分に対する評価が高まるか」という「考え」に基づいた態度をとっている場面があります。

 では,こうした「打算的思考」から解き放たれるためには,どうしたらいいのか。

 それは,どのように「考える」ことが大切かを,確認する場面をつくる,ということでしょう。

 さらに言えば,そういう「考え」には,どのような「制約」があるか,を知っておくことが欠かせないのです。
 
*****************

 「本質把握のための思考」とは

 何が本質なのか,何がもっとも重要なことなのかを資料を基礎に洞察して抽出する思考。


 「知識の連絡による思考」とは

 読書をして内容を理解しようとしているときの思考。また,仕事などにおいてデータや情報を理解するとき,一般的な状況理解のときの考え方。


 「経験の反省にもとづいた思考」とは

 次に何が起きたら事態がどうなるかを自分のこれまでの経験や現在の情実からシミュレーション的に想像すること。

*****************

 資料を基礎に,知識を基盤として,経験と情実に照らして洞察する頭のはたらきが大切だとしたら,

 資料の内容を理解したり,収集して分析したりすることができない人
 
 知識が乏しい人

 経験が乏しい人

 は,とても不利な状況におかれているのです。

 地図を持たない人に,広大な砂漠の真ん中で「水のありかを探せ」というのは酷なこと。

 では,若い教師には,「考える」ことはできないのか。

 とんでもない。

 若い教師ほど,「学校教育の意義と問題点」を肌で感じてきたばかりの人はいません。

 それがわかっていない人を,決して教師にはさせない,というのが行政の役割です。
  
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教師の「考え」とは何か?

 「考える」とは何か。

 そのときどきの状況によって,異なる傾向をもつ思考を,いくつか組み合わせて使うことであるということを,『頭がよくなる思考術』(白取春彦著,ディスカヴァー・トゥエンティワン)は教えてくれています。

○利己的選択の思考

○経験の反省にもとづいた思考

○感情的混乱の妄想

○知識の連絡による思考

○本質把握のための思考

○論理的思考

 このうち,最後の「論理的思考」は,数学や論理学のカテゴリーでの抽象的思考なので,除外しておいてよいでしょう。

 現実の人間関係や状況判断に用いられる「思考」に限定して「考える」「考えさせる」ことの意味を「考え」ます。

*************

 大人は,子どもは,教師は,児童生徒は,どのように「考え」ているのか。

 「感情的混乱の妄想」は,生活指導の場面ではよく見られます。

 怒りや悲しみなどのために,事実と想像が混在しているのが特徴で,また個人個人の特性として,悲観的にものをとらえたり,自己肯定感に乏しい場合にもよく見られる。

 この場合は,事実と想像を分けて「考え」させることが大事です。

 ただし,固定観念にしばられていたり,人が語る,自分に都合の悪い「事実」をすべて「聞かなかったこと」「なかったこと」にできるような大人に正しく「考え」させることは非常に困難です。

 生活指導の場面では,子どもを指導する教師だけでなく,教師を指導する教師が必要になってくるケースがあります。

 ただ,小学校では当然のこととして,中学校でも,他の教師の生活指導に対して「指導」できる教師は,たとえ「生活指導担当主幹」という立場でも,なかなか難しいものです。

 そういった指導を「可能」にするためには,

 教師はこういった「傾向」をもって「考え」をもちやすいということ,

 指導力のある教師というのは,こういう「考え」方をする「傾向」があること,などを研修等でしっかり学んでいく機会をもつことが大切になります。

 その「傾向」については,次回,ご紹介します。


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子どもを感動させることに必死な教師は気色悪い

 ときどき,自意識過剰か,駄作本の読み過ぎで,

 教師になるのに「子どもに感動を与えよう!」などと意気込んでいる人を見かけます。

 子どもたちが引いているのに全くおかまいなしで,自己満足を得ようとするこのタイプの人は,昔ならすぐに挫折を迎えたのですが,

 最近は「空気が読めない」どころではなく,

 子どもが全く見えていない人間が登場するようになりました。

 小学校なら学級崩壊をおこしてどこに問題があったか考えるチャンスも生まれるのでしょうが,中学校の場合は,もう子どもの側も,放置しておくしかなくなります。

 「子どもを感動させている自分」に感動したいような人は,教師にならないでほしいですね。


 テレビドラマの「先生もの」は,あくまでも先生が「主人公」なのであって,子どもは「道具」です。

 その感覚で,子どもを自分が感動するための「道具」にしようとする人が登場してしまった。

 現実の学校現場というのは,主人公は生徒たちなのであって,教師は「脇役」なのです。

 脇役は,自分の力で子どもを感動させようなんて考える必要はありません。

 卒業式の前の日など,一回くらいはいいかもしれませんが。

 子どもには,本当の充実感を味わい,感動にひたれるような「プロセス」を,組織として用意する。

 それが教師の仕事です。

 音楽を聴いた。感動した。それが1か月後,何かの役に立っていますか?

 私の小学校のとき,音楽の先生はよくクラシックのレコードをかけてくれました。

 近所のおばさんでもできるような授業でしたね。

 この時間は,放課後の遊びの計画を練るのにもってこいでした。

 直接的なメッセージは,恥の感性がない「伝える側」は,伝えやすいのかもしれませんが,

 「伝わりにくい」ことを自覚するべきです。

 伝えにくいものが,最も伝わりやすいのが,教育という仕事の特徴なのです。

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ノートをとっていない生徒より,ただコピーしているだけの生徒を気にかけてあげよう!

 先日,ある先生の授業を参観した学生が,

 「ノートをとっていない生徒」

 「話を聞いていない生徒」

 をどうして注意しないのか? という趣旨の質問を投げかけてきました。

 高校の教師なら,

 「それは生徒の自己判断」などと捨てておけるのでしょうが,義務教育となると,

 やはり気になる人は気になるのでしょう。

 できれば,該当の生徒とよく話をしてから,質問してもらえると,正確なことがわかったかもしれないのですが,

 案外,生徒は授業の内容を聞いていないようで聞いていて,それで十分に理解できてしまっていたのかもしれません。

 私語をしながら授業の内容は頭に入るという猛者もいますから,
 
 そういう生徒の態度を気にするよりも,

 「わかったふりをしている生徒」にだまされないよう,気を使う方が大事かもしれないのです。

 こういう話は,小学校の教師にはあまり理解できないかもしれません。

 小学校では学習習慣を徹底させていますね。

 授業規律を重視しているというか。

 ほとんどの子どもは聞き手にまわって,一部の子どもの意見をもとに板書が構成され,それを写すだけで,教師から目をつけられることはありません。

 しっかりうけているふりをしていれば,いくらでもごまかせるのです。

 ごまかしているかどうかは,直接,子どもに質問をしてあげればわかりますが,小学校の教師は,特に研究授業では,そういうめんどうくさいことはしません。計画と違う方向へ進むことになる可能性があるからです。

 私は小学校の授業で,指導案どおりに進むような授業をする教師ほど信用しないことにしています。

 自己完結型の教師が好んで読みそうな「参考書」が,たくさん出版されていますね。

 今,小学校教師向けの本は,大人を馬鹿にしているのか?と疑問に思うほど,「ていねい」なつくりになっています。中学生でも真似ができそうな・・・。

 余計なことはこれくらいにしましょう。

 見た目にだまされてはいけません。

 授業を受ける態度を気にする教師ほど,子どもとの息が合わなくなる人はいません。

 教師と子どもの呼吸が合っていない授業というのは,参観している方が,息苦しくなってきます。

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子どもへのまなざしでわかること

 どういう教師か,

 どういう教師になりそうな人か,

 ということは,子どもへのまなざしでわかります。

 子どもへのまなざしを分析できる専門家はいるでしょうか。

 いたらぜひとも教員採用の場面で活躍してほしいものです。

 昨日は,大学生が授業を見学に来てくれました。

 私が確認してみたかったのは,大学生の子どもを見る目でした。

 昔,ある指導主事が,初任者研修で「死んだまなざしをしている人間がいる」という話をしたということを,参加者から聞いたことがありました。

 研修の場では,仕方がないかなと甘いことも考えますが,

 これが現場で,ということになったら,話は別です。

 子どもから,「先生,何かあったのですか?」「具合悪いのですか?」などと声をかけてもらえるような「死んだまなざし」なら,普段はそうではないことがわかるのですが,

 恒常的に「まなざしが生きてない人」が,教員の中には見受けられます。

 少なくとも,こういう人だけは教員に採用してほしくない・・・・その優先順位?を考えてみるときに,かなり上位に来そうなのが,この「まなざし」です。

 ふと,ある組織の人たちが目に浮かびました。

 考えてみたら,そこに「生きたまなざし」はどこにもなかったですね・・・。

 「死んだまなざし」に写っていたものは,何だったのでしょう?

 ちなみに,子どもは材料ひとつで授業へのまなざしが一変します。

 大学生はさすが若いからか,ある教育機器で資料を提示したところ,急に強い反応を示してくれました。

 こういうのを使いこなせる世代が,これから現場には増えていくのでしょう。

 電子黒板なんて必要ありません。

 大画面テレビと,タブレット機だけあれば十分です。

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現場に出て,驚くこと ~そんな「いじめ対策」があるの?~

 初めて教育現場に身を置くようになった方々が,まず驚くのは,

 「どうしてこんなに『わかっていない』教師たちが多いのだろう」

 ということでしょう。

 採用までの苦労を考えると,何だか馬鹿らしくなる・・・・そう感じる一瞬は,一度くらいは必ず訪れるでしょうね。

 『わかっていない』だけなら,まだ「見すごせる」のですが,

 『見当違い』のことを言い出したり,やり出したりする教師,そして,そうこう言動への批判にいっさい耳をかさない教師もいます。

 管理職は,もう「そういう人間だ」ということは承知しているので,見て見ぬふりをしている。

 そういう教師への「指導」は,「主幹の仕事」だから・・・・。管理職にとっては,都合の良いポストができたものです。
 
************

 教育の仕事というのは,本当に難しいのです。

 偉そうなことを言っていても,自分では全く実践できずに,子どもに馬鹿にされているだけの人もいる。

 本当に仕事もできず,何を考えているのかわからないのに,子どもには慕われている人がいる。

 「教育って,よくわからない」・・・そのように悩むのが,「教師の仕事」だと思えば,

 あとは少しでも多くの教師とタッグを組んで,自分たちにできることを実践していく,それがすべてです。

 たとえば,「いじめ対策」。 

 「いじめ対策」というのは,本来,学校が教育の目標に掲げていることを,今まで以上にきめ細かく,今まで以上に,教員のチームワークを最大限に発揮して,子どもに向き合う,・・・・現場は,それが一番なのです。

 「いじめ対策」の専門家を呼んで,研修でお話を聞く。

 悪いことではありませんが,その研修中に,いじめが起こっていたら,本末転倒です。

 研修は,子どもが学校にいないとき・・・・たとえば夏季と冬季の休業期間中のようなタイミングで行うべきです。

 こんな当たり前のことをせずに,「うちはいじめ対策に力を入れている」なんて言えません。

 「いじめ対策」は,「本来,教師が,やるべきことをやる」・・・・それが一番・・・というか,それしかないのです。

 以下のような「提言?」をしている教育ブログがありました。

**************

 全国の小中高校生全員に,携帯型のいじめ通報装置を配付する。これは,いじめを受けた時にボタンを押せば(いじめの定義にしたがえば,いじめられたと感じた時はいつでも押してよい)

**************

 ボタンを押したら,どうなるって? どこかの機関の人間が飛んできてくれるそうです・・・。

 こういうアイデアを,学級会で子どもが思いつきで提案したとしても,即座に異論が出されてつぶされるだけでしょう。

 「無視を受けている人は,『無視された』と思ったときに,毎回,ボタンを押すのですか?」

 「通報装置は常に手にもって行動するのですか?」

 「いじめられている人が,本当にそんなボタンを押すでしょうか?」

 「遊び半分で押してしまう人がいるのではないでしょうか?」

 「友達の通報ボタンを押す,といういじめが始まるのではないでしょうか?」

 「もしなくしたら,再発行してくれるのでしょうか?」

 「先生に体罰を受けたときとか,先生に無視されたりしたときも押せるのですか?」

 「こんなことを思いつく人って,本当にいじめのことがわかっているのでしょうか?」

 「賛成している先生方が多いそうですよ!」

 「・・・・・・・だから,この学校はいじめが多いんだね・・・・・・」

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授業研究の効果的な方法

 小学校では,子どもは

 担任の教師に「気に入られるように」行動するのが当然です。

 いつもそばにいる教師は,一人しかいませんから,ふつうのしつけを受けている子どもはそうします。

 「関心・意欲・態度」も評価されるのですから,そういう行動をとることの「重要性」はますます増しています。

 ということは,子どもの様子を見ても,教師の指導力は判断できないようになりました。

 ○○的な事象に興味があるから,積極的な態度で授業を受けているとは限らず,

 担任の教師に認められたいから,褒めてほしいから,そうしているかもしれないのです。

 (どちらかというと,こっちの可能性の方が高いでしょう)

 教師にとって,純粋にどれくらいの「授業力」がついたかを試そうとするのならば,

 自分の学級で授業をしてはいけません。

 子どもによる教師への「思いやり」,教師による子どもへの「思いやり」の要素が多分に入り込んでしまうので,

 教師や子どもの「本当の力」がわからないからです。

 これを,「学級指導の力」を調べるための研究授業,というのなら,話は別です。

 しかし,「授業の力」は,「評価」の呪縛から解放された子どもを対象にしたものであるべきです。

 あるいは,これからの「授業研究」はこのようにしたらどうでしょう。

 授業が終わった後,たとえば子どもが35人,参観者が35人だったら,子どもと参観者の1対1の面接を実施するのです。

 参観者は,授業の中で,「自分だったらこういう発問をするだろうな」と思いついていたとしたら,それを聞いてみます。

 また,授業中の発表の意図をもう少しくわしく聞いてみます。

 授業研究のときにしかできないことは,子どもが実際に授業を習っていない人に直接質問を受けたり,考えを伝えたりすることです。

 大事なのは,子どもから「ホンネを引き出す」ことです。

 「普段の授業は,本当につまらない」なんていう貴重な「証言」をしてくれる子どももいるかもしれません。

 授業後の協議会がいい意味で盛り上がるとしたら,優れた授業研究になるでしょうね。

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内田樹の『街場の文体論』と教師の言葉

 この本で紹介されているような,「どこに行くかわからない」授業を,本当は学校の教師もしたいのだと思います。

 したくても,他に教えなければならないことがあるから,できない教師。

 したくても,能力的に無理なので,できない教師。

 もちろん,全くの指導案どおりに授業をしなければ気が済まない教師も,いるでしょう。

 冗談まで毎年同じ,という人もいますね。

 自分がどういう教師にあてはまるか,知りたい方は,ご自分の能力のことは完全に脇に置いておいて,この内田樹の本を通読されることをおすすめします。

 たとえ,「教えなければならないこと」を「教える」のだとしても,そこに「何がこめられることが大事か」という,ごくごく当たり前のことが,あらためて自覚できるようになると思います。

 「すべての子どもに伝わる言葉」とは何か。

 あなたなら,どんな答えを想像しますか。

 私たち教師は,どのような「鉱脈」をもっているのでしょう。

 目に見えるものを追い求めすぎて,何も見えないままで終わる教師にはなりたくないものです。

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結びつけること,しばりつけること

 学習指導要領に示された内容は,現場の教師にとっては「しばり」になります。

 もっと自分が教えたいことがある,という教師の場合,「あのような内容」だけしか教えられない,というのは,不満でたまらない・・・・どうしても,他のことを教えたい・・・・と,ストレスを抱え込んでいるかもしれません。

 しかし,同年齢の子どもたちが,学習指導要領に示された,同じ内容を学んでいるということに,大きな意味があるとしたら,そちらを優先すべきでしょう。

 教育は,「しばり」によって「むすび」をつくりだしている・・・・と考えると,その根っこには「宗教」と同じようなところがあるのかも・・・。

 英語の「religion」の語源はラテン語の「religio」です。

 「再び結びつける」という意味です。

 「結びつける」という言葉は,「しばりつける」という意味にもとれる。

 「結びつけられた」人々を外部から見たら,「しばりつけられる」ように思える・・・・それは宗教のことを考えれば,とてもわかりやすいことでしょう。

 宗教の定義には,認知する能力といった合理主義の観点からのものと,依存感情といった情緒主義の観点からのものなどがあります。

 こうした定義はどちらかが正しく,どちらかが誤っているというのではなく,「人間の心と行動」に関することですから,いろんな面があることは言うまでもないことでしょう。

 教育実践を担っている学校の教師たちは,学者のように「どちらかの立場に立つ」ことを強く求められる存在ではありませんので,「いろんな立場がある」「いろんな考え方がある」ことを前提として,そういう人間社会のありようを子どもに気づかせていくことが仕事であるといってもよいかもしれません。

 上司の命令に従わず,処分を受けることがわかっていたとしても,自分の個人としての思想・信条の自由を優先させる人間が教師の中にいても,それはそれで「そういう人間がいるということを教える」ことになっているのが,教育現場というところの特徴です。「公務員の資質を欠いた自分勝手な人間」と思われてしまうリスクをおかしてでも,自分のやりたいことをやる」・・・そういう行動をとることを生徒に認めてしまうというのは,組織の人間としては困ったものではありますね。「むすびつき」が壊れる。

 子どもから,「組織の人間としてしばりつけられている」という印象を受けずに,「先生方は互いに教育に向けての強い信念で結びついている」と思われるのは,なかなか難しいことかもしれません。

 荒れている学校の最大の問題は,「(上から)言われてしかたがないから,(好きでもないけど)仕事だから,こんなことをお前たちにしているんだ」というメッセージを子どもに伝えてしまう教師と,「どうでもいい。自分は自分のやりたいようにやる。話し合いはいらない」という教師がいることです。
 
 教師教育の重要性が叫ばれていることが,こういう話でよくご理解いただけるでしょう・・・・?。

 「しばり」と「むすび」。

 あらためて,教師の仕事の楽しさを実感します。

 子どもには,「むすぶつこうとする力」にあふれているからです。

 その力を支えるのは,教師の,「むすびつこうとする力」です。

 名が知れた教師の本を買って,猿まねを試みることではありません。

 子どもがそういう教師の子ども向けの本を読んで,自分の授業に全く参加しない,そういう光景を想像してみてください。

 どういうところで,人は,人と「むすびつかないか」。

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アメリカのbaseballの終わりと日本の教育

 IBAF18U世界選手権の日米戦。

 たまたま見ていた時間帯に,アメリカの「暴力プレー」が立て続けに2度,起こりました。

 アメリカのbaseballは「終わってしまっていた」ことがよく分かりました。

 ダイヤモンドの中で,アメリカンフットボールのようなプレーをする選手が混じっているということは,アメリカの「恥」でしょう。

 日本の「野球」が「baseball」に変わって,世界標準になってくれることを望んでいます。

 野球は,サッカーやハンドボールなどと異なり,道具をそろえるのにお金がかかります。

 私がお世話になっていた方の中に,途上国の野球少年を日本で古くなった道具を贈ることで応援している方がいらっしゃいます。

 企業の「広告」「宣伝」目的ではなく,純粋に,「野球を楽しんでほしい」と願っている人々が,あのプレーを見たら,さぞやがっかりされることでしょう。

 アメリカで活躍している日本人選手が増えていますが,ぜひ,「野球人」としてのコメントを寄せてほしいものです。

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 アメリカのあのラフプレーのような,「教育」は「そこ」にありませんか。

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大学が必要としている先生

 大学教育のブログ村では,すでに話題になっているかもしれませんが,

 本日,ある方からお聞きした「学会」の存在に衝撃を受けました。

 テーマは,大学で単位を取得することができずに,途中でやめてしまうような「低学力」の学生の教育。

 これも「学会」なのですね。

 大いなる「研究対象」になっている・・・・いえ,大学の経営上も切実な課題になっている・・・・そういうもののようです。

 私なりの印象で言えば,「成功例,実践例をパクリたい人たちの集まり」なのでしょう。

 そういうところで行き着く結論は,

 高等学校で,同じような「低学力」の生徒への指導に定評のある人を,大学の講師として雇って,とにかく途中で大学を辞めずに,授業料を納め続けてくれるように「教育」してもらうことが,一番いい方法

 というものではないでしょうか。

 大学としては,最も労力のかからない「近道」。

 中学校の教師としては,

 「どうしてそういう人が大学に入学できるの?そこで何を学べるの?」

 と疑問に思うわけですが,

 「受験料を払って,試験を受けさえすれば誰でも入れる」

 大学があるのだから,仕方のないことです。

 こういう現状に,指導ができる立場はだれですか?

 ・・・という問いは,だれでも答えられるのでしょうが,

 こういう現状を,どうしたら解決できますか?

 ・・・・・という問いには,答えられる人がいない。

 それが日本の大学教育の現状なのですね。

 でも,本来それは,「大学教育」の問題ではないのですよね。

 それを完全に放置している組織はどこにあるでしょう・・・。

 大学が必要としている先生とは,

 アルファベットの書き方の指導ができる人???

 なんでしょうか・・・。

 確かに,

 20歳前後の青年のプライドを傷つけることなく,根気よく分数の計算を教えられる人は,60歳を過ぎた人にしかできないような気もしますね・・・・。

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あなたはきっと,いい先生になれます

 右を向けば,心が洗われるような笑顔に出会い,

 左を向けば,即刻,その場で注意を促すべき行為に出会う。

 それが学校現場というところです。

 ある瞬間は精神科医で,瞬きをした後は,外科医にならなければならない。

 40人学級だからではありません。

 2人学級でも,そういうことはあり得ます。

 「切り替え」が瞬時になされることが,大事なところ。

****************

 佐藤優の読書論に関する本で,どこかの参考書の「国語の問題の解き方」が紹介されていました。

 要は,「徹底して,相手に合わせきること」が,正解にたどりつく方法であるということ。

 書き手や作問者の感性,言葉のとらえ方,世界観・・・・すべてを合わせ,

 「自分の価値基準は捨て去る」・・・・これが,満点をとるコツなのですね。

 実は,こういう能力は,教員になって,子どもを相手にするときも必要な資質ですから,案外,大事な「選考材料」になるかもしれません。

 教師の中には,

 「どうあっても,自分の言語空間が絶対基準である」人間や,

 いちいち辞書を引いて,「これはこういう意味だ」と説教を始める人間がいる。

 簡単に言えば,生徒や同僚の言語空間に入っていけない人間です。

 教育現場と言うのは,こうした融通のきかない,

 「やっかいな人間」への対処も学ばなければいけないところなので,実はそんな人間でも役には立っている。

 ただ,大人も子どもも,

 「できれば,いなくなってほしい」と願う。

 子ども同士の問題なら,まだ,「聞き分けのない人」ですまされますが,

 教師対子どもの関係で言えば,

 「え~,それはないでしょう」という異議も唱えられないのが,悲しいところ。

 コミュニケーションにこうした障害がある場合の対処法は,

 「期待しない」「そういうものだとあきらめる」ことが肝心。

 私が長い時間かけで,このブログ村でも証明しました。

 しかし,やっかいなのは,「そういう空気」だけは,読めてしまう人も中にはいる。

 聴覚が弱っている高齢者が,悪口だけは聞こえてしまう・・・という・・・。

 教師社会というのは,こういう二重苦,三重苦にも耐えられる岩盤のような精神力が求められます。

 ・・・・・親がそういう人間だった?

 あなたはきっと,いい先生になれます。

 子ども時代に鍛えられた財産は大きい。

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慣れることに,慣れてはいけない

 多くの人が語っている「教訓」の一つでしょう。

 教育現場には,多くの「馴れ合い」が見られます。

 「けじめのない」学級,学校では,

 チャイムと同時に授業が開始できません。

 教師が,教室に来ない。

 生徒が,授業の準備をしていない。

 開始から1分後に,教師が入室。

 挨拶後,生徒が廊下のロッカーに教科書やノートを取りに行く。

 こういう環境が,「馴れ合い」の一例です。

 「学校生活に慣れること」・・・・中学校1年生の入学時には,「望ましい姿」として,この言葉を使います。

 しかし,これが,「時間を守らないことに慣れること」

 「忘れ物をして叱られることに慣れること」

 「友達からいじめを受けることに慣れること」であってはならないのは,当然のこと。

 教師の側からすると,手を抜いた授業をするのに慣れること。

 これを戒めなければなりません。

 教師にとって怖いのは,「生活指導」への「慣れ」です。

 ワンパターンではいけません。

 簡単に,問題行動を「類型化」してはいけません。

 問題が起こる背景は,子どもによって,状況によって様々です。

 「慣れてきたときが,一番危ないとき」という話は,

 様々な職業でも言われていることでしょうね。


 「人間は習慣の奴隷」という言葉も,以前にこのブログでもご紹介しました。

 改めて,自分が「慣れてしまっている」問題点を見つめ直していきたいと思います。

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教師による個人差が大きい価値観

 すでに先週からスタートしている中学校もあるかと思います。私の学校は1日の土曜日から始まりました。

 中学校に限らず,始まりから生活指導で振り回されているところも多いでしょうね。

 中学校の教師の中には,子どもを振り回すのが本職の人もいれば,振り回されて目が回っている人もいる。

 様々です。

 みんな目が回っていて,冷静さを欠くとき,ふと,本当にあるべき指導の姿を中学生が「つぶやく」こともあります。

 子どもの声には,常に鋭く反応できる癖をつけておかなければなりません。

***************** 

 酒井穣著『リーダーシップでいちばん大切なこと』(日本能率協会マネジメントセンター)の60頁で紹介されている図に関する一言です。

 人間の自由を規制する価値観には,四種類あり,個人差が大きい順に並べると,

 「美醜」「善悪」「損得」「快・不快」というものがあるとのこと。

 これを見てまず感じたことは,

 中学校の教師の場合は,「快・不快」の価値観が,案外,人によって大きく異なっているだろう,ということです。

 教育の世界ですから,「損得」という価値観が顔を出すだけで「不快」になる人もいれば,そうではない人もいる。

 たとえば運動会のクラス対抗リレーがあったとして,バトンを渡すコツを自分のクラスの子どもだけに教える教師がいるとする。

 これを,「不快」と感じる人がいるかどうか。

 「担任なら当たり前」という教師が多いとき,「不快」と感じる人がどのくらいいるのか。

 教師の号令によって,生徒がきちんと整列している。

 これを,「快」と感じるか,「不快」と感じるか。

 生徒が自分に挨拶をしてくれない。これを「不快」と感じるかどうか。

 個人差が,大きいのではないか,と思われます。

 ここでは,別に,その「個人の価値」を見定めよう,という意図があるわけではありません。

 「善悪」については,どうか。

 これは,案外,教師集団の場合は,違いがないのではないでしょうか。

 また,教育現場では,「美醜」の価値観の違いが問題になる場面は少ないのではないでしょうか。

 私の思い込みかもしれません。
 
 筆者が指摘しているように,「快」「不快」の価値観は,基本的に他の価値観とも連動しているものです。

 教師自身の「快」の感情で突っ走っているように思える人を,どう「抑える」か。

 相当難しいチャレンジです。

 教師が「快」の感情で突っ走り,中学生の側は「不快」で満たされる空間は,外部の者でないとわかりにくい。

 自分自身がそういう状況に陥っていることを,どのように「理解」し,どう「抑える」か。

 当面の課題にしたいと考えています。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より