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たとえの質が悪すぎる ~いじめと癌~

 夏休み中なのですが,ブログ村に異様な風が吹いているのが気がかりで記事を書きます。

 嫌なにおいが漂っています。
 

 癌は早期発見が大事。治療できる可能性が高まる。その通り。

 いじめも,早期発見が大事。軽減させるか消滅させることができる。それも,その通り。

 だから,いじめは癌のようなもの・・・・とは,あまりにもレベルの低いたとえ。

 おそらく,

 「人の心の中は,わからない」=「いじめられている人間の心は,わからない」という正直なことを書いているだけだと読み流せる人もいると思います。

 教育現場というのは,そんな教師ばかりなのだと,あきらめている人も多いでしょう。

 「いじめ」には,「いじめる側」「いじめられる側」「傍観してしまう人間」がいるんですよ。

 「いじめられる側」は,何と闘うのか,想像できますか?

 一番きついのは,何だと思いますか?

 「いじめる人間との闘い」ですか。

 「自分との闘い」ですか。

 自分を責めて責めて,極限までいったとき,子どもでもとってしまう行動。

 闘いを終わらせるための行動。

 また,「傍観者との心の闘い」もあるんですよ。

 

 さて,癌にかかった人は,何を恨むことができるでしょう。

 私の父は癌で亡くなりましたが,病床でぼそりと,

 「罰が当たることは,何もしていないのに・・・」ともらしているのを耳にしたことがあります。

 そうですね。

 いじめもそういう子どもを襲うことがあります。

 しかし,癌といじめが決定的に違うのは,

 「相手がいる」ことなのです。

 同じ人間です。でも,考え方は,同じではない。感じ方も,同じではない。

 心が通っていない,と,後で責められるような人間です。

 「考え方の基礎が壊れている」という表現は,使えません。

 「基礎が存在しない」人間が,「いじめ」を放置するのです。

 「頭がおかしい」を繰り返せる人間に,「いじめ」を止める力があるとは思えません。

 事後対応が難しいと自ら明かしています。

 その通りでしょう。正直でよいです。

 でも,対応をしなければいけないのです。

 自分では無理な場合もあるでしょう。

 子どもではなく,親が出てくる場合がそれに当たります。

 子どもが教師の「心」を感じ取ってしまっている場合も同様。

 他の教師と協力して解決に向かうべきです。

 異なる意見に「耳を傾ける」ことができるなら,それができます。

 しかし,それがいかにも不可能に見える記事をわざわざ村に出かけて広める人が放置されている空間というのが,いかにも日本的です。

 こういうところでは,本気で

 「いじめを根絶しよう」

 なんて動きは起こらないでしょう。

 傍観者的な解釈を一方的に表明し,
 
 「人の心の中はわからない」なんて言っているうちは,「いじめ」は絶対になくなりません。

 一歩,異なる自治体に足を踏み入れてみると,

 「これがいじめでなくて,何がいじめになるのか」と驚くこともあるでしょう。

 同様に,「これが体罰でなくて,何が体罰になるのか」と憤ることも。

 「教育先進県」はこの国に存在するのでしょうか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より