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2012年8月

文書作成が仕事の「事務方」と教育が仕事の「現場教師」との距離感

 「深い溝」というと,「越えられないもの」と受け止められてしまうので,避けた方がよい言葉かもしれません。

 「距離が離れすぎている」のなら,どちらかが,どちらかに「歩み寄る」ということができそうな気がします。

 私も役所勤めをしていたからよくわかるのですが,

 役所では「文書をつくること」が仕事です。

 「調査のまとめ」「出張の依頼」「資料の作成」などなど。

 すべて「文書」作りが基本で,それが出来上がっていれば,「仕事は終わり」という側面があります。

 しかし,教育現場と言うのは,子どもとの「対面」,課題への「対応」の時間がほとんどであり,「文書作成」というのが「すべてが始まる前」と「終わった後」の仕事ということになります。

 8月18日の神戸新聞NEWSによると,尼崎市教委が,学校の作成する「いじめ報告書」を一新し,「加害者への対応」と「被害者への対応」を分けて詳細に記載させ,提出をこれまでの月1回から事案を把握後,速やかに報告するよう求めたそうです。理由は,市教委が「学校側にアドバイスできるよう体制をつくる」ため。

 文部科学省児童生徒課への取材もしてようで,

 「全国でも先駆的な取り組みと言える。学校側が報告書を書くために細かい調査をすることにつながり、いじめ解消に効果的ではないか」

 と回答した模様。

 尾木ママにも取材は及んでおり,今回の「いじめ報告書」については,「高く評価できる」一方で,

 「実際のいじめ件数は市教委が把握している何十倍もあると思われ、今の職員数で到底対処できるものではない。いじめが起こらないようにする教育を考えていくことも必要ではないか。」と回答。

 「いじめが起こらないようにする教育」は,今,法令に基づいて学校が取り組んでいる教育そのものなわけですが,大事なのは,まず「いじめに対応する」こと。

 しかし,それを事細かに教育委員会に情報を上げることが求められる,ということになると,

 今の教育現場の場合は,「対応だけならまだしも,いちいち報告しなければならないのは,めんどうくさい」から「いじめはなかったことにしたい」という圧力が内部でかかってくる心配をしなければならないのです。

 事務方は文書による評価しかできないので,評価をたくさんしようと思えば,文書をたくさん提出させるようになる。

 これが大学も同じようになっていて,今,教育者・研究者にとっては「本務に支障をきたす」事態になっているのです。

 学校現場の教師も大学の先生も,頭がいい人は,「高い評価を受けるための文書の書き方」を知っています。

 ガイドラインにのっとって,「やるべきことをやっている」ことを書けばよい。

 そして,最初はわざと伏せておいた「さらなる改善策」を入れてその成果が出た,なんて記せば,文書でしか判断できない人間の目をひきつけることができる。

 高い評価を受けるためには,内部で「高い評価が出せる評価」も行うのです。

 「いじめは減ったと思うか」「それはなぜか」というアンケート結果を,ごく短期間の成果を1年間の成果のように見せかければ,きっと「高い評価」が得られるものになる。

 こういう仕組みを,おそらく,「事務方」も知っている。

 そして,「そういう報告」を求めている。

 これが,教育がいつまでたってもよくならない原因の一つなのです。

 尼崎市教委は,「学校側にアドバイスできる」立場なのはわかりますが,アドバイスされないと経営できない校長を任用していることをばらしてしまっていいのでしょうか。

 任用しているのが兵庫県教育委員会で,尼崎市教育委員会としては,「これだけ力のない校長たちを振り向けてきたあてつけ」を県教委にしていると考えることもできそうです。

 「右へ倣え」しそうな教育委員会は,一度,「校長とは何か」を問い直してほしいと思います。

いじめは,癌ではなく,感染症のイメージで

 いじめは,「A」や「Aたち」からのはたらきかけで発生します。

 癌のように,自分の体の中で勝手に発生するものではありません。

 どうしても「病気」にたとえたいのなら,「感染症」のイメージの方がよいかもしれません。

 同じような行動をされても,「うつる」人もいれば,「うつらない人」もいる。

 また,「かかっているのに気づかない」という場合もある。

 受験のときのインフルエンザのように,

 「かかっていることを隠す」場合もある。

********

 「いじめ」を覆い隠しているのは,

 「いじめ」を受けている子どもの「生き生きとした明るい姿」だったりします。

 また,「いじめ」を隠すクラス全体の「空気」も,非常にデリケートなものです。

 それに気づける教師はベテランでもごくわずかしかいないかもしれません。

 生徒の方の気が緩む分,教育実習生のように,来たと思ったらすぐ帰る,ような立場の人の方が気づきやすいという場合もあります。

 あるいは,飛び込みの授業をするような,外部の教師の方が。

 先日,私が行った飛び込み授業では,すばらしいことをノートに書いているのに,発言しない子どもが気にかかりましたが,これはかつて受けたことがあるような「いじめ」を避けるためだ,ということを後で知りました。

 「いじめ」は,「今,起こっているもの」

 と,「これから起こるもの」,「いつ起こるかわからないもの」など,様々です。

 子どもは,「これから起こるもの」がわかっている場合は,自らその災難を避ける努力をします。

 これも,起こってはいませんが,「いじめがある」と言ってもよい状況です。

 強力な「病原体」があるのです。
 
 「いじめ」の対象とならないようにする戦略は,中学校になるとかなり高度化しています。

 最もわかりやすい例は,「いじめる側にまわる」というもの。あるいは,「傍観者になりきる」というもの。

 「いじめられている生徒の側に立つ」「先生に相談する」など,もってのほか。

 自分が「いじめ」の対象になるリスクが最も高いのがこれでしょう。

 いじめられた経験がない人は,

 「いじめられている人が,先生に相談すればいいのに」

 「いじめられている人が,いじめている人に直接言えばいいのに」

 などと考えてしまいますが,

 風邪で発熱している人が,裸で冷蔵庫に入るようなものです。

 熱を下げようとする気持ちは分かりますが,さらに症状は悪化する。

 風邪のように,いつかは治るような面もありますが,そうではない場合もある。

 「いじめ」解決が難しいのは,

 下手な対処法をとると,逆に「いじめ」がより発生しやすくなる,という面もあることです。

 ウイルスのように,その「強さ」が進化する場合があることも,忘れてはなりません。

たとえの質が悪すぎる ~いじめと癌~

 夏休み中なのですが,ブログ村に異様な風が吹いているのが気がかりで記事を書きます。

 嫌なにおいが漂っています。
 

 癌は早期発見が大事。治療できる可能性が高まる。その通り。

 いじめも,早期発見が大事。軽減させるか消滅させることができる。それも,その通り。

 だから,いじめは癌のようなもの・・・・とは,あまりにもレベルの低いたとえ。

 おそらく,

 「人の心の中は,わからない」=「いじめられている人間の心は,わからない」という正直なことを書いているだけだと読み流せる人もいると思います。

 教育現場というのは,そんな教師ばかりなのだと,あきらめている人も多いでしょう。

 「いじめ」には,「いじめる側」「いじめられる側」「傍観してしまう人間」がいるんですよ。

 「いじめられる側」は,何と闘うのか,想像できますか?

 一番きついのは,何だと思いますか?

 「いじめる人間との闘い」ですか。

 「自分との闘い」ですか。

 自分を責めて責めて,極限までいったとき,子どもでもとってしまう行動。

 闘いを終わらせるための行動。

 また,「傍観者との心の闘い」もあるんですよ。

 

 さて,癌にかかった人は,何を恨むことができるでしょう。

 私の父は癌で亡くなりましたが,病床でぼそりと,

 「罰が当たることは,何もしていないのに・・・」ともらしているのを耳にしたことがあります。

 そうですね。

 いじめもそういう子どもを襲うことがあります。

 しかし,癌といじめが決定的に違うのは,

 「相手がいる」ことなのです。

 同じ人間です。でも,考え方は,同じではない。感じ方も,同じではない。

 心が通っていない,と,後で責められるような人間です。

 「考え方の基礎が壊れている」という表現は,使えません。

 「基礎が存在しない」人間が,「いじめ」を放置するのです。

 「頭がおかしい」を繰り返せる人間に,「いじめ」を止める力があるとは思えません。

 事後対応が難しいと自ら明かしています。

 その通りでしょう。正直でよいです。

 でも,対応をしなければいけないのです。

 自分では無理な場合もあるでしょう。

 子どもではなく,親が出てくる場合がそれに当たります。

 子どもが教師の「心」を感じ取ってしまっている場合も同様。

 他の教師と協力して解決に向かうべきです。

 異なる意見に「耳を傾ける」ことができるなら,それができます。

 しかし,それがいかにも不可能に見える記事をわざわざ村に出かけて広める人が放置されている空間というのが,いかにも日本的です。

 こういうところでは,本気で

 「いじめを根絶しよう」

 なんて動きは起こらないでしょう。

 傍観者的な解釈を一方的に表明し,
 
 「人の心の中はわからない」なんて言っているうちは,「いじめ」は絶対になくなりません。

 一歩,異なる自治体に足を踏み入れてみると,

 「これがいじめでなくて,何がいじめになるのか」と驚くこともあるでしょう。

 同様に,「これが体罰でなくて,何が体罰になるのか」と憤ることも。

 「教育先進県」はこの国に存在するのでしょうか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より