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いじめ隠蔽の本質を「成果主義」に求めると,真の「本質」が隠蔽される

 『木走日記』7月12日の記事,「学校がいじめを隠ぺいする本質的理由」の副題は,

 ~教育現場に成果主義を導入した悲惨な結果

というものでした。

 成果主義を導入したことが,悲惨な結果を招いた,と述べているようですが,

 この見方・考え方で,誤解をされる方がいらっしゃるかもしれません。

 上記のブログにも,

 成果主義自体が問題なのではなくて,

 「成果」の捉え方が問題だったと書かれています。 

 企業で,「売り上げ倍増」という目標を設定した結果,

 売り上げは倍増したが,利益は半減した,なんてことになったら意味はないわけです。

 「何を成果とするか」を安易に考えたことが問題だったわけです。

 「いじめを五年間で半減を目指す」という「目標」を,そのまま評価してしまおうという,

 「安直な成果主義」は,

 「いじめ」と認定する数を減らせばよい

 という「安直な達成方法」を招いてしまう

 それではいけません。

 目標は,「いじめのよりよい解決」「いじめ解消に向けての地道な努力・取り組み」でなければならないのです。

 ただ,「質」で評価するには,評価者の「質」が問われてしまいます

 それより,「量」で評価するのが簡単。アルバイトの高校生でも,いえ,中学生でも,報告された数字が「増えた」「減った」などということはわかります。

 「成果主義」が悪い,という言い方が,教師の手抜きを助長します

 この点につきましては,以前も述べさせていただいております。

 「安直な成果主義」が悪いのです。
 
 学習指導で,小学校の「100マス計算」レベルの安直な方法は,成果がすぐに分かります

 だからこそ,多くの教師が飛びついて,飽きていったのです。

 生活指導については,「安直な」方法など,絶対に通用しません

 「いじめの撲滅」は,それこそ「絶えざる努力」が必要なのです。

 「数が減った,よかったね」ではないのです。

 「見逃しているいじめは本当にないだろうか」と,常に問い続けなければならないのです。

 いじめ隠蔽・放置の本質は,

 教師たちの無責任体質情熱や使命感の欠如指導力の不足によるものです。

 教師が事実を隠したのは,目標の立て方が悪かったからだ,という「言い訳」も,考えてみればおかしな話です。

 
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コメント

dolceさんという人には,「学校教育」というものへの基本的な理解が欠如しています。
荒れた中学校に転勤して,「学年主任」をつとめた,と書いていたと思いますが,
「学年主任」ならこんなことは絶対に頭に思い浮かべられないだろうな,ということを書いていますし,絶対に頭に思い浮かべられないとだめだな,ということが書いてありません。
生徒に「やりがい」を感じさせた経験が一度もないのでしょうか。

内側から見た富士通「成果主義」の崩壊 (ペーパーバックス) [単行本]
城 繁幸 (著)

ご参考まで

表面的な成果主義で大失敗した企業があります。たしかフジツウだったと思いますが
成果=売り上げ ということになると組織はだんだん不正な手段へと、、
成果ということがそういう表面的な事と結びつけられて、頭の良くないトップが簡単にだまされ、悪い方向へ、、、、これは学校に限ったことでは決してありません。

チームワークが隠蔽に使われたのも数字が表に出ないことを目標にしていることをその学校職員や教員が皆、共通の認識として持っていたということになるのです。

いじめの無い学校=いじめとして報告されない学校

学校全体でいじめに対する認知機能を無くしてしまうことがいじめの無い学校という認識になったのです。

けがをしたとき普通は痛みを感じます。痛みを感じるからこそ危険な行為に及ばないのです。痛みを感じなくなったら、、、恐ろしいことです。

この記事へのコメントは終了しました。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より