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切磋琢磨が必要だったのに,できなかったその理由はわかりますが・・・

 自己主張をするときに,相手の「知的水準が低い」と卑下しながら

 自分の理解が不十分なことを打ち明けていることが,いかに「痛い」ものかを知らせてくれる方が私やカルロスさん以外にいたら,dolceさんも救われたはずなのに・・・・と,本当に気の毒に思います。

 冷静な判断力を失う原因に心当たりはありますが・・・。

 辞書の意味とご自分の乏しい経験によりかかって,

 ああでもないこうでもないと書き散らしているその姿が,

 「切磋琢磨」が必要な人の原型なのです。

 でも,dolceさん流の説明なら,それができない理由はよくわかります。

 露骨な迎合しかされない読者とでは,決して「切磋琢磨」することができないことは,ご自身もおわかりになるでしょうね。

>「学問をし、徳を修めるために、努力に努力を重ねること」だけで、切磋琢磨の意味になると言うのだから、こんな頭では保護者一般から、教員のレベルを疑問視されても仕方がないだろう。

 接続詞の解釈がご披露されていますが,

 dolceさんのおっしゃるように,

>「また」は並列で、二つ以上のことがらを対等に並べる時に使う

 わけですから,

 「学問をし、徳を修めるために、努力に努力を重ねること」も,切磋琢磨の意味になる

 のです。

 たとえば,

 「異口同音」の意味は,

>多くの人が、同じ言葉を口にすること。また、多くの人が一致して同じ意見をいうこと。(四字熟語データバンク)

 とありますが,

 『異口同音』の意味は「みんなの意見が一致すること」であって,多くの人が,同じ言葉を口にしただけでは,『異口同音』の意味にはならない

 と言えますか?

 みんなが同じことを口にするとき,それは「意見」とは限りませんからね。


 彼は教師であり,また,音楽家でもある。

 という場合,

 彼がどんな人かを表現するのに,「教師である」と言ってもいいし,「音楽家である」と言ってもいいし,「教師で音楽家」と言ってもいいのです。

 辞書に書いてあることを鵜呑みにしないのが知性。

 「切磋琢磨」する「仲間」がいたとき,それは「友人」とは限らないでしょう???

 「同じ志をもつ人」くらいなら,いいのでしょうが。

 dolceさんの場合は,

 「切磋琢磨」というとき,辞書に書いてあるから,という理由で,そこに「友人どうし」であることが絶対条件であるように主張していますが,

 そこでいったん,

 辞書にそう書いてあるから

 ではなく,

 「自分自身で切磋琢磨してきたことはなかったかな

 「友人どうしでなければできないことなのか

 と立ち止まって疑問に思う姿勢が,「知性」なのではないですか?


 解釈に課題がある言葉自体を,「翻訳」で語るということも,知的な感性を持っている人にはおそろしくてできないことでしょう。それを平気でやってのけるあたりが,痛いのですよ。

 ・・・・いえいえ,今,気づきました。

 「in addition」の意味を辞書で引いてもらって,「その他に」という訳語を見つけた時点で,

 「おや?」と思っていただけたかも???

 ・・・・しかし,dolceさんの場合,「自己反省」は本当に「口だけ」「形だけ」なので,そんなことは「見なかったこと」にしてしまうでしょうね・・・・。

 私の書いた文章の誤読から,こんな世界まで足を踏み入れてくださるとは,

 まことにまことに,

 「教育が失敗に終わる理由」を考えさせてくれる絶好の題材です。

 dolceさんは,辞書の意味を教え込んでおけば,「知性的なロボット」ができると本気で考えているのかもしれませんね・・・・。

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コメント

http://blog.mage8.com/rongo-01-15
↑ここの記事から
***************************************
今回の文は立場はどうあれ継続して自らを研鑽する事が大事だ、 という事でござるかな。翻訳で一番悩んだのはもちろん「切磋琢磨」でござる。現在では「ライバルや友人と互いに競い高め合う」という意味での使われ方もされるのでござるが、結局詩経の言葉通りに訳したでござる。英語圏の方には読んでも意味わからんでござろうな。詩経=Shi Jing
***************************************

最近ライバルや友人同士でということが解説されています。
戦時中の師範学校で学徒動員が行われ、本来の知識が、兵器工場での流れ作業にマッピングされ本来、切、磋、琢、磨、どの漢字にも全くない友人同士での、、、と言う使い方がはやったということでしょう。

in addition という言葉は付け足しのいみで、後から加えたりした使い方で友人同士という使われ方もするようになったということです。

従いまして、友人やライバル同士でと言う用法は誤りではないもののこれが必要条件と言うことには全くなりません。

一人で切磋琢磨しても良いのです。

本質からあえて目をそらさなければ,自分が保てないという人が教員の世界にいます。こういう人に教育を受けている子どもは気の毒で仕方がありません。

切磋琢磨を機械翻訳して見せたら、、、というところ大爆笑物です。
友人同士でという明らかな蛇足が英文には無いのです。

どうして、蛇足をしてしまったのでしょう、おそらく子供の頃、お世話になった先生が
間違った概念を教えている。

戦時中、学生時代を過ごした人で教師になった人の中には、全くデタラメな知識を
そのまま子供に教えていた人がかなりの割合でいると考えられます。

もちろん、デタラメであってもそこには悪意は無く、ただ知識の元になる書籍などに
検閲が入ったり、没収が行われたり等でしょう。

私が、小学校低学年のころお世話になった先生にそういう人がいましたので良くそういう事情はわかるような気がします。デタラメを押しつけられると、子供はデタラメを信じるか、先生を疑うか、正しい知識を求めて苦しみます。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より