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わかりやすい物語が日本を滅ぼす(下)

 佐藤優著『帝国の時代をどう生きるか』(角川Oneテーマ21)から,知識人がとるべき態度の課題について書かれた部分を引用させていただきます。

**************

 過去20年間,日本の知識人,特に私の世代以降の知識人は「大きな物語」を作るという作業から逃げ出してしまいました。その結果,知識人という言葉すら,現下日本では死語になりつつあります。知識人はネット右翼,プチナショナリズム,右派系の論壇誌に展開される過激な排外主義的言説について,知的に最低限必要とされる基準を満たしていないと眉をひそめ批判するか,シニカルに無視するといった対応をとっています。私はこのような態度が知識人としての責任放棄のように思えてならないのです。知識人が「大きな物語」を作るという知識人に課された責務を遂行しないから,このような状態になってしまったのです。

 この知識人という範疇の中には編集者も含まれます。編集者が,難しすぎる内容は読者に理解されないので,知的水準を下げるという形で本という商品の販売拡大を図ってきました。かつてマルクス主義哲学者の廣松渉氏が本は「誰にも相手にされず,理解されないとしたら,インクのシミにすぎないでしょう」と言いましたが,資本主義社会において,売れない商品には意味がありません。

 知識人が,一方において,煩瑣な術語体系の中で,それ自体としては面白い「小さな物語」の構築・脱構築という知的ゲームに熱中し,啓蒙的役割を放棄してしまったために,今日の知的閉塞状況が日本に生まれてしまったのだと思うのです。

***************

 とても長い引用になってしまいました。

 「小さな物語」を「わかりやすい物語」に置き換えてみると,日本に危機が訪れている背景に共通したものがあることがわかります。

 目先のことだけに,こだわる。

 次のこと,次の次のこと…を考えた行動がとれない。

 多くの人がそうなりがちなところに,「知識人」も,乗っかってしまう。

 「知識人」の範囲をちょっと広げてみて,「教養人」にしてみても,同じ。

 「学習人」といってしまうと,すべての人を含んでしまいそうですが,

 たとえ子どもでも,「次の次」を考えられるような,「しかけ」がほしいのです。

 「わかりやすい」は,「売る」ために多くの参考書のタイトルで採用されている修飾語です。

 何でも,かんでも,「わかりやすい」ものを求める。

 知的に負荷がかからない状態というのは,緊張もなくリラックスできて,「心地よい」時間になると思いますが,知性を高めようとするときに,負荷がかからないままでそれを実現しようとするのは,わがまますぎる要求です。

 友だち同士でなければ,切磋琢磨はできない,なんて「わがまま」も,同じ。

 (友だち同士で,切磋琢磨はできない,と言っているわけではありませんよ)

 小学校と中学校の「学習の違い」を,

 「やさしい」「難しい」,「わかりやすて楽しい」「わかりにくくて苦しい」というような対比で多くの子どもは捉えていますが,その原因をつくっているのはどこなのでしょうか。

 小学生に負荷など

 という考え方と,

 小学生だからこそ負荷を

 という考え方は,正反対です。

 後者の立場をとってくれる教師や塾によって,子どもの能力がぐんぐん伸び,前者の立場をとった教師に習い,塾に通わなかった子どもとの「格差」がどんどん開いていってしまうことも,

 「中1プロブレム」の原因の一つになっています。

 中学生は,「他の生徒との比較」が大好きです。

 ほとんどの子どもが100点をとれるようなテストをやっている,小学校のときは,やりたくてもできなかったこの「比較」が,中学校ではできるようになってしまう。そして,

 比較する作業を通して,自信をつけたり,不安を高めたり,自己嫌悪に陥ったりします。

 格差が起こるのは,当たり前のことなのに。

 小学生には,塾ではなく,学校での教育でも,思いきり負荷をかけてあげてほしいと思います。

 しかし,残念ながら,小学校の各教室を見ていると,学校を流れている時間の速さというのは,どの学年でも同じなんですね。

 小学校の教師はある程度は意識されているのでしょうが,6年生と4年生の授業の進み方がほとんど変わらない,というのはちょっと考えられないことです。

 少し難しくなる分だけ,進み方がゆっくりにしよう,という発想もあるのでしょうか。

 「わからない」と小学生に言われてしまうことへのおそれが,どうしても解消できないのでしょうか。

 「わからなくてよい」のです。

 小学校では,「わからない」ことが言えた子どもの評価をどんどん上げていってほしい。
 
 「わからない」ことだらけだった学習が,中学校で学ぶと霧が晴れたようにすっきりと「わかる」ようになっていく・・・・・そんな「おいしい思い」を中学校側にさせるのは,小学校側としては,不本意でしょうか?

 とりとめのない話になってしまいました。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より