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単独行動の手柄話が好きなのは,小学校の教師のみ

 中学校の生活指導の基本は,チームワーク

 これが,小学校出身の教師の中に,理解できない人がいるらしい。

 単独行動はいけません

 共通の指導理念があって,協働で取り組むのが,生活指導です。

 これが,「荒れた学校」ほど,

 理念はない

 勝手にそれぞれが動き出す

 動かない人は動かない

 ことが徹底??されているようで,またまたdolceさんがその実態を報告してくれました。

 学年主任は特攻隊長?ではありません。

 学年の教師たちのつまさきを,同じ方向に向けるのが,学年主任のリーダーシップです。

 普通の生活指導ですら,そうであるのですが,

 こと,「いじめ」の問題となると,これは「全校体制」で解決に取り組むべきなのです。

 「全校体制」ということは,「児童」「生徒」の,取り組みに積極的に参加する立場です。

 dolceさんの乏しい指導観の範囲では,こうした「教師集団」「子どもの集団」による適切な行動が,視野に入っていなかったようです。


>(1)職員室から出ると、生徒が生徒をいじめているところを見るかもしれない

>(2)自分も暴力を振るわれるかもしれない

>(3)勇気を出したところで、教育行政の支援が期待できるか?

>この3つが、職員室から出たくなくなる理由だろう。

 3つめが,職員室から出たくなくなる学校というのも興味深い(何を中心において仕事をしている人間かが,よくわかる)ですが,

 若い先生たちに,申し上げます。

 生徒は,基本的に,教師が目の届かないところや場面,時間帯で,いじめをします。

 そして,いじめは暴力を伴うとは限りませんから,見えにくいところで発生します。

 しかし,経験を積むと,生徒の「目」を見れば,だいたいのことがわかります。

 無能な教師がおそれるのは,

 「生徒が目でヘルプサインを送ってきたときに,自分に何ができるかわからない」状況になることです。

 そういう意味では,授業が始まるときでも,「職員室から出たくない」のです。

 次に対教師暴力ですが,生徒から暴力を受ける教師のタイプは決まっています。

 生徒は指導力を感じない教師をターゲットにするのです。

 対教師暴力というのは,

 どういうところに,なぜ,ストレスをためこんでいるのかが,よくわかる瞬間です。

 指導力不足の教師と言うのは,問題行動を起こしている生徒が

 暴力をふるうような行動をとることを前提に物事を考えるのです。

 

 それにしても,小学校の教師と言うのは,

 本当に「単独行動」の話が好きですね。

 ときどき,申し訳なさそうに,「教師のチームワーク」のようなことを書いても,
 
 結局は自分の名前で本を書いて,売らせている。

 教育の主役は,教師ではなく,子どもなのです。

 小学校教育の「名著」とされている数々の本は,まだ,主役を子どもにしていたあたりで,許せる範囲に入ります。

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コメント

大津市の問題の中学校、教師のチームワークは、問題の隠蔽に使われました。
チームワークを発揮する能力が無いのでは無いと言うことです。

問題行動を起こす児童と向き合わない(人権何たら、町の有力者など)そういうことに簡単に負けるからこそいじめがエスカレートするのは容易に想像できます。

タイヤをパンクさせられた、器物損壊で警察に通報し指紋採取などで、指導するチャンスが得られるわけです。野放しにすればもっとひどい問題行動へと深刻化してしまいます。

暴力だけなら、まだ対処は簡単ですが、言葉の暴力、犯罪行為の要求、恐喝などはたちが悪く、なかなか表に出てきません。たとえば万引き強要、あるいは万引き教唆の場合。直接実行するのは問題児童では無く、被害者であるということ、万引きで補導に捕まったとして、その強要、教唆などの事実が出てくるためには根本の問題児童への対処が無い限り、それで終わってしまいます。

また、教師一人の問題にしてしまう傾向があるのは、小学校に限りません、中学、高校でも同様の事が起こります。

教育行政に期待するのは間違いです。公安、検察、弁護士、児童相談所、スクールカウンセラーなどに協力を求める必要があると思います。

ややこしい、『人権擁護団体の長』が加害者の親であるならなおのことです。
こういうとき、カウンセラーは頼りないですね、カウンセラーは女性が多く、暴力沙汰には全く無力です。
 考え方を変えて、指導に当たる教員自身の心をカウンセラーにゆだねてみてはと思います。警察や弁護士を呼ぶとなるとそれなりの覚悟がいります。弁護士には証拠としてどこをどう押さえておけば良いのかということを相談すべきでしょう。

度重なる暴力事件の場合、加害者を医療保護入院させて、入院先で措置入院に変えることも出来るはずです。

暴力に至らないが、挑発行為をさんざん行う者の場合、対応が難しいですが、こういう場合スクールカウンセラーが役に立つと思います。場合によっては児童相談所も同様に協力してくれると思います。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より