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教育に情熱のない人間が語る「いじめ隠蔽」の論理

 いじめを隠蔽する論理を,「出世のため」と考える人がいる,と聞くと,なるほどと思ってしまう人がいるのはしかたがないと思いますが,

 「常に出世のことを考えている」教師はごくごくわずか(東京都は,「出世」したいと考える,力のある人が少なすぎることが問題となっている)であり,それがいじめ等の問題の隠蔽と関連しているかというと,そんなことはまずないだろう,というのが私の考えです。

 こういう,教育現場における重大な問題を,極端に矮小化しようとする主張は,何を隠蔽することに結びつくかというと,・・・・・・・・

 改めて強調します・・・・・・

 教師の指導力の欠如です。あるいは,指導意欲の欠如,と言ってもよいでしょう。

 あるいは,子どもを守ろうとする愛情の欠如,と言ってもよいのです。

***************

 さて,読解力を問う問題を出題いたします。

 次の文章を読んで,下線部の「これ」にあたる内容を簡単に述べなさい。

***************

>本当に日々の教育実践に熱心なら、いつも児童生徒の様子が気にかかるはずです。
>しかし、心は常に「上」ですから、上のちょっとしたご機嫌取りには熱心だが、児童生徒の変化には気がつきにくいわけです。

これは、家庭においても言えることです。

>私の子どもの頃は、夕食は特別のことがない限り家族が揃っていました。
>母親が「お前、今日何かあったの?」と聞くことがありました。
>「別に」
>「いやおかしい。何かあったでしょう?」
>「どうしてわかるの?」
>「顔に書いてある」
>と言われたものです。

>親はいつも子どもの様子に敏感だったわけです。
>ところが、今日では、できないわけでもないのに、揃って食事をすることに関心がない家庭もあるようです。

***************

 正解は,何でしょうか?

 困りますね。こういう文章を書かれては。

 文章そのものに「キズ」のあるものは,問題として出題できないのです。

 「児童生徒の変化には気がつきにくい」原因は,

>心は常に「上」で

>上のちょっとしたご機嫌取りには熱心

 だからなのでしょうか?

 そんなことは言えませんね。

 家庭においても言えることだと思いますが,
 
 「上」がいようといまいとそもそも子どもの教育に関心がない人だから,食事をそろってすることに意味を感じないし,たとえそろって食事をしても,何も気にしないかもしれないのですよ。

 また,食事をそろってできない人にも,教育に関心が高い人はいるわけです。

 何も,様子がおかしいことに気づいたり,声をかけたりするのが,食事中でなければいけないわけではないですから。

 「上ばかり見ている」の「上」にあたる管理職が,

 児童生徒の変化に気がつきやすい教師がいるから機嫌がよくなる
 
 のであれば,「ヒラメ教師」でもよいわけですね。

 でも,dolceさんは,「上」も「下」も,そういう教育に情熱をもった人間を想定できないのです。


>上ばかり見ているから下が見えない

 という主張をしたいために,何か例を出して説明しなければ,と考えたのでしょうが,

 このように「結論ありき」の「後付けの論理」というのは,「最低」なんですよ。それが「ばればれ」であることで負の相乗効果になるのです。

 指導力のない教師が,本当に陥りやすい,「言い訳」とか「悪口」の典型なんです。

 dolceさんが書きたかったのは,次のことなんですね。

>また、あの人は500万で校長職を買ったと噂されていた人もいます。

 dolceさんという人は,

>直接現場で取材しないで、憶測で語ることは関係者にも失礼であり、不遜な態度と思うからです。
>すべては、私が直接体験したこと、そこから感じ取ったことをもとに書きます。

 という言葉と同時に,上のような,「人の悪口」も平気で書ける人なのです。

 私が「慈愛」の精神で・・・というのは,

 こういう人こそ,「いじめ」の標的になりやすいからです。


 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
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  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より