ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 指導力不足教員のしぶとさ | トップページ | 【投票受付№1】 「慈愛」の精神で誤りを指摘し続けるべきか,否か(追記及び謝辞あり) »

教員,転じて,プログラマーにて,教員の魂を失う

 今までの経緯を整理しましょう。

>自分の話の展開を都合よくするために、相手の考えも勝手に決めてしまう。
>すべて、自分の都合でシナリオを作って完結したい。
>このような話をどこかで聞いたことはありませんか?

 あります。教育ブログで,読んだばかりです。

 kurazohという人の

>小学校の発想にはないのが,「切磋琢磨」。
>単なる「競争」とはわけがちがう・・・・ことがわからない人が多い小学校。
>教師の人間関係がどこかぎくしゃくしている方が,子どもがぐんぐん伸びていく,そういう学校もあることを知っておいて下さい。

 という指摘に対して,

 dolceという人が,

>人間関係はギクシャクしていた方がよい。なぜなら、その方が切磋琢磨が行われるから。

 という「誤読」「誤解」あるいは「捏造」をやりました。

 ですからそこで「そんなことは書いてない」と言って終わりにしてもよかったのですが、

 dolceという人が、

>友人同士でないと切磋琢磨はできない

 という話を,辞書の意味に基づいて主張してきたので,「それはおかしい」と指摘しましたが,それがどうも理解できないらしい。

>人間関係のよくない間での摩擦や葛藤などの刺激のことを切磋琢磨とは言わない。

 と断言されているのは,摩擦や葛藤を通した切磋琢磨を経験したことがないからでしょう。

 そもそも,切磋琢磨そのものをした経験がないからこそ,こうやって辞書の意味にたよるようなことしかできないのでしょう。

 仮に友人関係にあった者同士が,人格を磨いていくという場合でも,その過程でお互いの関係が「ぎくしゃくする」ことは大いにあるのです。

 むしろ,そういう関係があった方が,「切磋琢磨」になるという場合もある,と考えることはできるのです。

 ちなみに,「原文」では,「人間関係がぎくしゃくしているのは教師たち」で,「切磋琢磨するのは子どもたち」です。これすら「読めていない」のは,批判目的のために何も見えなくなってしまったのが原因でしょう。

>くどいようですが、文を読む時、5WIHにもとづいて検証してみましょう。

 ・・・だそうです。とにかく,自分自身に強く言い聞かせて下さい・・・・・。

 自分が経験したことがないことを通して,他人がそれはできると言っていることを否定することはできないから,辞書にたよるしか方法がない。

 辞書にたよるしかない,というのは,最低の勉強方法ですね。

 ネイティブがその場にいない外国語学習が,これに近いのかもしれません。

 辞書を引けば正しい外国語を書いたり話せたりすることができるようになるわけではないのです。

 日本語そのものをよく理解できていないと,次のような誤解も生まれます。

>「また」は並立の接続詞で、例文も出ています。
>彼は政治家であり、また小説家でもあるる。
>これは、彼は政治家か小説家のどちらかという意味ではありません。両方です。

 政治家か,小説家のどちらかである,というわけではなく,両方ともあてはまる。

 それはその通りです。

 ですから,彼は,「政治家ではない」というのは,誤りです。

 dolceさんは,この誤りを犯していることにどうしても,気づけない。

>学問や人徳をよりいっそう磨き上げること。また、友人同士が互いに励まし合い競争し合って、共に向上すること。(goo辞書)

 が「切磋琢磨」の意味である,という場合,

 (自分自身の努力で)「学問や人徳をよりいっそう磨き上げること」も,「切磋琢磨」の意味として使えるのです。

 ベン図で説明しなくても,分かるはずでしょう。

>先生は、歴史的な言葉の変遷について「もとはこうだった」だが、それから「こういう意味になった(転じた)」それは言葉は生きているからだと強調された。

 という経験があるそうです。

 しかし,「切磋琢磨」の場合は,「災い転じて福」のような「転じて」とは異なり,まさに「加わる」という形で,

 「様々な努力を通して、互いに高めあうことを表す四字熟語となった。」(Freshペディア?)

 ということ。

 どこに「友人でないとだめ」と書いてありますか?

 自分に都合のいいように,二つの辞書の意味を合体させたのでしょうか・・・・。
 
 でも,「転ずる」とどうなるのか,dolceさん自らが身をもって示してくれていますね。

 教育現場にいたころは,

 「頭のおかしい人」などとは,口が裂けても言えなかったでしょうに・・・・。

 プログラマーやただのバンドの指導者なら,これは「あり」なんですね。

 教育者としての魂を失った人です。

(追記)

 嘘つきの子どもが,他の子どもに,「嘘つき!」と言われたとき,先生にこうやって
 
 泣きついてくることがあります。

 先生,あの子,私の「悪口」を言うんです。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

« 指導力不足教員のしぶとさ | トップページ | 【投票受付№1】 「慈愛」の精神で誤りを指摘し続けるべきか,否か(追記及び謝辞あり) »

ブログネタ」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

学力向上」カテゴリの記事

学習の評価」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

教育」カテゴリの記事

言語活動の充実」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/55135438

この記事へのトラックバック一覧です: 教員,転じて,プログラマーにて,教員の魂を失う:

« 指導力不足教員のしぶとさ | トップページ | 【投票受付№1】 「慈愛」の精神で誤りを指摘し続けるべきか,否か(追記及び謝辞あり) »

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より