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いざというとき,「先生が子どもの犠牲になる」のは「バカな」こと?

 いざというとき,子どもの命を守るのは,近くにいる大人の義務でしょう・・・・・なんてことを書くと,

 「バカなことを言うな」とお叱りを受けてしまいました。

 「大切な人の命を守るために,自分の身を投げ出す」ことは,教師の仕事というより,人間としてあってもよい態度でしょう。

 小学生くらいの子どもは言います。「なら,自らお手本を示してもらいたい


>一体、学校の先生の仕事とはどこまでの範囲を言うのだろう。
>暴力を振るってくる生徒がいたら、それを制止する責任まであるのだろうか?
>そういう場合、逃げたら職務怠慢となるのだろうか?

>いずれにせよ、危険な場所に遭遇したくない気持ちから、なるべく回避しようとする行動は咎められるべきか?
>つまり、先生はどんな問題に遭遇しても、指導する責任があると言えるのか?

 そこに,自分だけしかいないのなら,逃げていいですよ。でも,学校には,子どもがたくさんいますね

 教師が子どもの暴力を制止するのは,その子どもも含めて,生徒の安全が確保できないと判断された場合です。

 子どもが危険にさらされたまま,

>教師が逃げたら職務怠慢となるのだろうか?

 ・・・・何ていう疑問を書いたりしたら,「教育に情熱をかけていない教師」であることがバレバレになってしまいますが,そんなことはおかまいなし?


 おまけをもう一つ。

>少し、横道にそれたが、私は何かできることから行動を起こそうと思い、学校中の落書きを消そうと思った。
>少しぐらいの落書きはいいと思っていると、落書きはどんどん増えると言うか、すでに相当に派手な落書きが学校のあちこちで見られた。
>それを私は片っ端から消して回った。
>考えてみれば、落書きを消すということは、誰にでもできることである。

 おしい。でも,これが,「落書き」をさらに助長する原因になる可能性がある

 ということに気づけるのが,教師になるのが向いている人の感覚です。

 「よかれ」と思って一人で起こす行動が・・・・・

 その「一人」が,その人でなければ・・・・・

 「オレガオレガ」発想の教師には,そんなことを言っても無駄なんですけど。

 
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コメント

いつも「もし自分が~だったらどうしよう」
などと考えているような教師を,子どもが信頼するわけがありません。

「自己保身」の大切さを「教育に情熱をかける教師」にdolceさんが教えたがっているのは,ある意味では正しい行動かもしれません。

自分の命もかえりみないような教育に情熱をかけている人は,ときとしてドラマみたいな,無茶な行動をとることがある・・・・それを戒める・・・・と解釈すれば。

遠藤さんのことは,私もニュースで知りました。

少なくとも,「殉職」した人間の悪口を言うような教師であってはなりません。

http://d.hatena.ne.jp/rakkochan/20120312/p1
↑福島の防災無線でさいごまで職務をやり遂げた遠藤未希さんの記事です。

ご本人も犠牲になろうと思ってなったわけではないと思います。一瞬の出来事であったはず。

いざというとき、子供をほったらかしにして逃げる教師がいたら、そして教師だけが助かったなら、どうなると予想できるでしょうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「中国古典の言行録」より
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より