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良さや納得できる点を見出そうとするのが「頭(首)を垂れる稲穂」

 辞書にしか目がいかないような人間,辞書の一部にしか目がいかないような人間は,

 ときとして,批判したい人間の文章を全否定しにかかる。

 こういう教師は,ちょっとした問題行動でひっかかった子どもを「全否定」しにかかり,

 コミュニケーションの機会を閉ざす。

 これが「指導力不足教員」への入口になる。

 ちょっとだけ,想像していただければわかると思いますが,

 「指導力不足教員」には,「謙虚さ」「相手の気持ちを分かろうとする態度」のかけらもありません。

 「頭がおかしい」なんて書いてしまう時点で,「人間としてアウト」です。

 「だって,頭がおかしいんだから,知能に欠けるのだから,したかないではないか」

 で,「退場」ですよ。

 「頭がおかしい人の話はすべて間違っている」としかとらえられない人間に,そもそも何も話しても無駄だろう,と考えがちかもしれないのですが,

 学校現場では,やはりその「勘違い」「誤解」を解く努力が必要です。

 子どもの中にも,そういう態度をとるのがいますから。

 dolceさんのような教師に育てられた子どもの中に,

 様々な議論があったとき,

 「だって,辞書にこう書いてありますから!

 と言って譲らない頑なな態度をとる子どもが出てくることは想像できますか。

 もちろん,自分に都合のいいことだけを辞書から拾ってくるような姿勢です。

 カルロスさんの記事から,

 ああ,そんなことはあり得るな,自分にもあてはまるかもしれない・・・・・・

 なんてことを露ほども思わないのが,そういうタイプの人間です。

 自分自身が謙虚でない人間ほど,あいつは謙虚ではない,なんて批判の仕方をする。

 本当に謙虚な人間なら,そんな恥ずかしいことはできないでしょう。

 「辞書引き学習の下らなさ」から,一部を引用させていただきます。

*******************

>辞書も辞典も大好きだが、いくつもながめてからやっと納得するタイプなので、一つの辞書や辞典に書いてあることをすぐに鵜呑みにはしないし、できない。

>「また」や「または」についても、何につけて、独自の解釈をしなければ気が済まない人には、もともと辞書や辞典は必要ないのではないか。

>生徒にもすぐに携帯や端末機器で言葉を調べる者がいて、それだけでわかったような様子でいるのを見ると、まったく勉強をする気がないのだと思ってしまう。

>出典や論拠を示さないと気が済まない教師と出会ったことがある。
>若いのにめちゃくちゃ頑固で、子どもの声にも耳をかさず、同僚の言葉も疑い、ただひたすら本を読んでいた。
>なんとかの教え方とかできる子どもにするためのなんとかとかいうような本ばかり。
>そこに書いてあることだけが正しいと堅く信じて実践していた。
>そんな授業に血が通うはずがない。

*******************

 小学校の学級王国では,

 教師に気に入られるために,

 「教祖を盲信する」ような態度で接することを無意識に身に付ける子どもが増えます。

 枠の中では平等とか言っていても,枠からはみだした異教徒としての子どもは

 完全に排除,否定する排他的な「宗教的権威」をもつのが「学級王国の王」です。

 こういう教師=裸の王様に関してだけは,「革命」の恐怖を植え付ける仕組みが必要なのでしょう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より