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2012年7月

【お知らせ】夏休みをいただきます・・・皆様,お元気で

 突然ですが,明日から24時間のスケジュールが完全に埋まってしまっております。

 こっそり更新するかもしれませんが,

 dolceさんが鏡の存在に気がつかれたようなので,お約束は果たせたと思っております。

 何かあれば,カルロスさんが書いてくれるでしょう。よろしくお願いします。

 伊東先生も,いろいろ両立させるのは難しそうですが,ぜひ頑張って下さい。

 ブログ自体は閉じませんので,これからも過去の記事をどうぞご覧下さい。

 ブログ村の教育ブログでは,ようやく

 「いじめ」関連の記事が書かれ,注目されています。
 
 教育行政をはじめとした「改革」に多くの方の関心が集まり,

 何かが少しでも前進することが,自殺した少年の供養に,そして,ご遺族のためにもなるものと信じています。

 決して帰っては来ない少年ですが,教育界は,O市O中の少年のことを,絶対に忘れません。

 これからも,新しいニュースには注目したいと思います。

 私の方は,通常の学校がある時期より,夏休みの方が忙しい,というのも変な話ですが,
 けっして,「アルバイト」をしているわけではないので・・・・誤解のありませんように・・・。

 ブログ村の皆さんのご健康をお祈り申し上げております。

 では,しばらく,さようなら。

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小学校教師が「その後」を知るチャンス

 中学校に入学すると,子どもたちは,担任の教師だけでなく,実に多くの教師たちとコミュニケーションをとらなければならなくなります。

 しかし,それが,一部の子どもたちにとっては,かなり面倒くさい。

 一日,何度も,何人もの教師たちと教室にいたり,廊下ですれ違ったりすることになる。

 できれば,「私にはかまわないでほしい」と思う子どもも出てくる。

 「かまってほしい」けど,「かまわないでほしい」・・・・というのが,子どもです。

 「甘えさせてくれる人にはかまってほしい」けど,「厳しくしてくる人はかまわないでほしい」のです。

 一人一人違う教師なのですが,中学校の場合,ある点については,「みんな同じ」になることもある。

 生活指導上の姿勢です。

 だから,だらしない服装や頭髪をしていると,

 実に多くの教師たちから,同じような声をかけられる。

 だらしない服装には,ありとあらゆる「可能性」が秘められているからです。

 「いじめ」「ネグレクト」「怠惰」「悪い方への協調性発揮」などなど。

 残念ながら,そういう「めんどうくささ」に「中学校の教師たちは,みんな嫌いだ」という思いを抱くようになる生徒も出てくる。

 だれ一人として,「それでもいいよ」とは言わないので,

 「話をしたい相手がいない」。

 中には,そのことをわざわざ小学校まで出向いて行って,もとの担任教師に訴える子どもも出てくる。

 こういうのを,「甘え」と言いますが,

 中学校1年生にとっては,初めて出くわす大人からの「集中攻撃」が原因だったからで,仕方がないことかもしれません。

 本当に「野放し」だった小学校生活が恋しくなった子どもは,

 「中学校のつまらなさ」を大々的に宣伝しにかかる。

 ・・・・・・実は,こういう子どもほど,中学校できちんと教育をすると

 上級生になったときに,下級生の面倒見のいい中学生に成長します

 下級生たちの中には,「とても厳しい上級生」と思う子どももいるでしょうが。

 中学校はどういう「教育」をするのかというと,

 それは人との「コミュニケーション能力」を向上させることに結びつく,教科,特別活動,総合的な学習の時間をはじめとしたありとあらゆる場面での取組です。

 小学校時代,子どもはほとんど唯一,頼れる存在である担任ばかりを見ています。

 どこかで,子どもが「目線を向けている」人間の数と,「目線を向けている」時間の長さに関するデータを集めた人はいないでしょうか。

 小学校では,異常なほど長い時間,担任教師を見ている子どもがいるのでは?

 でなければ,本など,「人間以外の何か」など。

 中学校では,とても大勢の教師たちに,一斉に目を向けられるという宿命がある。

 だからこそ,いい,と言えるか,その逆か。

 荒れた中学校では,「コミュニケーション能力」の向上に失敗します。

 私が実際に足を踏み入れたそういう学校では,まず,何をおいても

 教員間の「コミュニケーション」が乏しい。 

 近くにいる人の顔を見ない。

 顔(やその近く)を見ない人が職員室にいたら,「おや?」とすぐに気づくはずです。

 子どもは,「見られていない」と実感すれば,

 何でもやりはじめます。
 
 荒れている学校は,こういう悪循環があるからこそ,荒れている。

 小学校に,卒業生は集まってきますか。

 夏休みを前に,ぶらっと立ち寄る子どもも多いのではないでしょうか。

 中学校や,子どもの変化を知るチャンスです。


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劣等感への対応が左右する小中学校教育の質

 教育学者はこういう研究のためのデータをもっているでしょうか。

 日本には,教師の実態をきちんと把握している専門家はいるのでしょうか。

 そんなものを研究しても,「残念な結果」しか出てこない,と感じるか,

 「おもしろい結果」が得られそうだ,と感じるかも,人によって違うでしょうね。


 私は,小学校教育の質を左右している要因の一つに,「学力的な劣等感」があり,

 中学校教育の質を左右している要因の一つに,「コミュニケーション能力に対する劣等感」がある,

 と考えています。

 そして,教育の成果のよしあしは,それぞれの課題の影響力が少なくなるように,どれだけの「工夫」がなされているかによるのです。

 私の考えとしては,小学校の場合,教師も子どもも,「学力的な劣等感」を克服するというよりは,それを覆い隠す方向に向かい過ぎているのが問題であり,

 一方の中学校では,「コミュニケーション不全が起こらない」ような取組を教師も子どもも積極的に進ようとするのが一般的です。ただ,残念ながら,子どもは小学校のときよりは「話さなくなる」し,反対方向へとひきずろうとする教師も少なくないため,成果が出せないでいる学校が,「荒れて」いきます。

 
 教師にとって,

 中学校教育の場では,自分自身の学力が問われる場面があまりなく,

 小学校教育の場では,不特定多数との「コミュニケーション」を必要とする場面があまりない。

 だから,劣等感を覚える場面が少ないということなのですが,実は,このことも,学校教育の質の向上のためには,よくない現状なのかもしれません。

 小学校の教師は,「クラスの子どもの人間関係」の問題で困ったとき,校内で相談できる教師は何人いるでしょう?

 中学校の教師は,「教科書に書かれていることの根拠」を知りたいと思ったとき,校内で相談できる教師は何人いるでしょう?

 教師間の「つながり」は,それほど「広く」も「強く」もないかもしれない,ということに,初任者などは気づいて愕然とするようになるかもしれません。

 だから,「外に出ていく」機会が増える。本を買う。

 個人の力量を高めることは,とても重要なことです。

 小学校でも,中学校でも,できること。

 しかし,中学校でなければできないこと,やらなければならないことがあります。

 教科担任制であり,学年経営が非常に重要であり,子どもの成長が著しい時期である中学校。

 教員間のコミュニケーションの質が,学校教育を左右していきます。

 子どもへの教育は一定程度の成果をおさめるとしても,教員間ではどうか。

 実は,互いに「評価」は(おそらく正確な「評価」です)なされている。

 問題は,子どもと違って,「低い評価」しか得られない人が教師集団の中で放置されていることです。

 「子どもと違って」と書きましたが,学校によっては,「子どもと同じように」,です。 

 小学校教師が,中学校現場を見ると,自分自身の劣等感をもとにして,中学校教育の問題を指摘するという特徴がありますが,どうしても大事なところがずれてしまうのですね。

 また,劣等感ではなく,優越感をもっている人が現場を語ると,また大きなズレを生じることになってしまいます。

 それについてはまた別の機会で。


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教師の差別意識がいじめを生み,育てる

 dolceさんは,このブログにとって,本当に最高の題材を提供してくれますね。

 荒れた学校にいる教師の「子ども観」「人間観」「教育観」は,やはり一般の感覚とはかけ離れたものがある,という印象があります。

 dolceさんという人は,教育,という仕事への情熱を,どこにあると考えているのか,よくわかりません。

 以下の話は,「作り話」ではないそうですが,「直接体験したこと」ではないと思われます。

 それなのに,いい加減な「因果関係」もふくんで記述をしています。

 長いですが,とても参考になるので,引用させていただきます。

 下線は,気になるところで,私が引きました。

*******************

>なんと、わざわざいじめの原因を作っている校長もいました。
>信じられないでしょうが、作り話ではありません。

>その中学校では数人、登校しない男子生徒がいました。
>不登校ではありません。
非行を働く生徒たちです。

>始めは学校に来ていましたが、街で何かやっていた方がおもしろいと感じるようになったのか、学校に来なくなったのです。恐らく、家は出るもののゲームセンターへ行っていたと思われます。

>校長は、点数稼ぎのために、教育委員会に、ウチの学校は不登校の生徒はゼロという報告をしたかったわけです。

>そこで、あれこれ策を練って悪たちを登校させるようにしたのです。

>ところが、登校するようになった悪たちは、校内で悪さをするようになったのです。

つまり、いじめが起こるようになったわけです。

>それまで、いじめをする生徒がいなくて、学校は平和だったのに、いじめをする生徒が登校するようになって、いじめが起こるようになったのです。

困った生徒たちは、校長にも、何とかしてくれるように頼みに行きましたが、校長はのらりくらりと交わすだけで何の対策も取りませんでした。

>人が死ぬほどのことはなかったせいか、表面には出ませんでした。
>そのうち、校長は栄転していきました。

*******************
 
 問題です。

 1.問題行動を起こす生徒たちが登校させることに成功した「策」とは何でしょうか。

 2.なぜ,どのような「いじめ」が起こったのでしょうか。

 3.なぜ,困った生徒たちが,「校長先生」にまで,相談しに来たのでしょうか。

*******************

 できればdolceさんにお答えいただきたいのですが,

 答えたら,自分にとって「都合が悪いこと」を書かざるを得ないので,

 無理でしょうね。

 誤答例です。

 1.学校に来て,気に入らない生徒や教師をどんどんいじめていいよ。と校長先生が言ったから。

 2.校長先生がすすめたから。先生に注意されることはないから,ありとあらゆるいじめをした。

 3.生徒は,校長先生がすすめたからとは知らずに,先生方がいじめを見ても何も指導してくれないので,校長のところにやってきた。


 dolceさんの論理?予想?がおかしいのは,いじめが起これば,それが原因で学校に来なくなる生徒が出てくる可能性がありますね。

 そうすれば,不登校の数が増えるおそれがあります。

 だから,「不登校の数をなくす」目的で,「いじめるのがわかっていて,登校させる」というのはおかしいのです。

 普通に考えれば,「登校させたら,いじめや暴力行為が起こらないように,目を光らせておく」のです。

 でも,そういう能力が教師にない,というのが前提の話なので,仕方がないですか。

 
 dolceさんのような差別意識も,子どものいじめを助長する原因になることを,若い先生方はしっかりとむねにやきつけておいてほしいと思います。


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教育に情熱のない人間が語る「いじめ隠蔽」の論理

 いじめを隠蔽する論理を,「出世のため」と考える人がいる,と聞くと,なるほどと思ってしまう人がいるのはしかたがないと思いますが,

 「常に出世のことを考えている」教師はごくごくわずか(東京都は,「出世」したいと考える,力のある人が少なすぎることが問題となっている)であり,それがいじめ等の問題の隠蔽と関連しているかというと,そんなことはまずないだろう,というのが私の考えです。

 こういう,教育現場における重大な問題を,極端に矮小化しようとする主張は,何を隠蔽することに結びつくかというと,・・・・・・・・

 改めて強調します・・・・・・

 教師の指導力の欠如です。あるいは,指導意欲の欠如,と言ってもよいでしょう。

 あるいは,子どもを守ろうとする愛情の欠如,と言ってもよいのです。

***************

 さて,読解力を問う問題を出題いたします。

 次の文章を読んで,下線部の「これ」にあたる内容を簡単に述べなさい。

***************

>本当に日々の教育実践に熱心なら、いつも児童生徒の様子が気にかかるはずです。
>しかし、心は常に「上」ですから、上のちょっとしたご機嫌取りには熱心だが、児童生徒の変化には気がつきにくいわけです。

これは、家庭においても言えることです。

>私の子どもの頃は、夕食は特別のことがない限り家族が揃っていました。
>母親が「お前、今日何かあったの?」と聞くことがありました。
>「別に」
>「いやおかしい。何かあったでしょう?」
>「どうしてわかるの?」
>「顔に書いてある」
>と言われたものです。

>親はいつも子どもの様子に敏感だったわけです。
>ところが、今日では、できないわけでもないのに、揃って食事をすることに関心がない家庭もあるようです。

***************

 正解は,何でしょうか?

 困りますね。こういう文章を書かれては。

 文章そのものに「キズ」のあるものは,問題として出題できないのです。

 「児童生徒の変化には気がつきにくい」原因は,

>心は常に「上」で

>上のちょっとしたご機嫌取りには熱心

 だからなのでしょうか?

 そんなことは言えませんね。

 家庭においても言えることだと思いますが,
 
 「上」がいようといまいとそもそも子どもの教育に関心がない人だから,食事をそろってすることに意味を感じないし,たとえそろって食事をしても,何も気にしないかもしれないのですよ。

 また,食事をそろってできない人にも,教育に関心が高い人はいるわけです。

 何も,様子がおかしいことに気づいたり,声をかけたりするのが,食事中でなければいけないわけではないですから。

 「上ばかり見ている」の「上」にあたる管理職が,

 児童生徒の変化に気がつきやすい教師がいるから機嫌がよくなる
 
 のであれば,「ヒラメ教師」でもよいわけですね。

 でも,dolceさんは,「上」も「下」も,そういう教育に情熱をもった人間を想定できないのです。


>上ばかり見ているから下が見えない

 という主張をしたいために,何か例を出して説明しなければ,と考えたのでしょうが,

 このように「結論ありき」の「後付けの論理」というのは,「最低」なんですよ。それが「ばればれ」であることで負の相乗効果になるのです。

 指導力のない教師が,本当に陥りやすい,「言い訳」とか「悪口」の典型なんです。

 dolceさんが書きたかったのは,次のことなんですね。

>また、あの人は500万で校長職を買ったと噂されていた人もいます。

 dolceさんという人は,

>直接現場で取材しないで、憶測で語ることは関係者にも失礼であり、不遜な態度と思うからです。
>すべては、私が直接体験したこと、そこから感じ取ったことをもとに書きます。

 という言葉と同時に,上のような,「人の悪口」も平気で書ける人なのです。

 私が「慈愛」の精神で・・・というのは,

 こういう人こそ,「いじめ」の標的になりやすいからです。


 
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「いじめ」と「けんか」の区別

 同業者として,O市O中の人には,たくさん聞きたいことがあります。

 たとえば,「けんか」だったとした「暴行事件」に対して,どんな「指導」を行ったのか。

 O中の場合とは異なると思いますが,その「指導」が次の,というか,以前よりも激しい「いじめ」に発展するおそれというのが中学校にはあります。

 中学校内では,「見つかったらまずい」「人に見られたらまずい」という意識が加害者側にはたらきますから,「何事もない」ように見えますが,教師の目の届かないところでは,激しい「いじめ」が繰り返される可能性があるのです。

 それをよく知っている保護者,いじめられている生徒というのは,教師による「指導」「介入」を避ける傾向があります。

 どんなに体中にあざをつくって片足をひきずっていても,

 「道で転びました」

 などといって,真実を告げようとしません。

 そういうふうに,「いじめた生徒をかばう,いじめられた側の生徒がいる」という可能性を,教師たちは,

 「いじめではなくけんかだ」と結論づけた時点で,ゼロと考えてしまったのでしょうか。

 ふつうの中学校教師の感覚で言うと,そんなことは絶対にないはずです。

 今のところ,マスコミの報道では,自殺をした男子生徒がかなり「弱い立場にあった」ことが伝わってきていますが,本当のところ,いじめた側の生徒たちと対等の力をもっていたのかもしれません。

 それなら,生徒のことがほとんど見えていない教師集団は,「いじめではなく,けんかだ」と認識してしまうことはあり得ると思います。

 もし,そうでなく,
 

 「いじめ」と認定すると,指導上,めんどうくさいことになる・・・・・・・

 「いじめ」を受けた側の生徒が,「いじめではない」と言っているのだから,

 「いじめ」と考えなくてよいだろう・・・・・・


 こんな経緯であったとしたら,許せないことです。

 今,大きなニュースが少ないので,報道はここに集中しています。

 新しい事実が,次々に明らかになると思われます。

 あとは,マスコミの力次第で,

 「教育委員会」の問題など,「改革」をしかけるとしたら,今がそのタイミングということになります。

 ある人は,報道をもとに,「さもそこにいたかのように批評する人がいる」と批判していますが,

 「そこにいるのに何も見えてない人」もたくさんいるのですよ。

 直接体験しているのに,何もわかっていない人,

 誤った「固定観念」で物事を決めつける人が語る言葉は,伝聞の言葉よりも質が低いのです。

 
 男子中学生の死を無駄にしないためにも,

 何か行動を起こせないか,じっくり考えてみたいと思います。

  
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いざというとき,「先生が子どもの犠牲になる」のは「バカな」こと?

 いざというとき,子どもの命を守るのは,近くにいる大人の義務でしょう・・・・・なんてことを書くと,

 「バカなことを言うな」とお叱りを受けてしまいました。

 「大切な人の命を守るために,自分の身を投げ出す」ことは,教師の仕事というより,人間としてあってもよい態度でしょう。

 小学生くらいの子どもは言います。「なら,自らお手本を示してもらいたい


>一体、学校の先生の仕事とはどこまでの範囲を言うのだろう。
>暴力を振るってくる生徒がいたら、それを制止する責任まであるのだろうか?
>そういう場合、逃げたら職務怠慢となるのだろうか?

>いずれにせよ、危険な場所に遭遇したくない気持ちから、なるべく回避しようとする行動は咎められるべきか?
>つまり、先生はどんな問題に遭遇しても、指導する責任があると言えるのか?

 そこに,自分だけしかいないのなら,逃げていいですよ。でも,学校には,子どもがたくさんいますね

 教師が子どもの暴力を制止するのは,その子どもも含めて,生徒の安全が確保できないと判断された場合です。

 子どもが危険にさらされたまま,

>教師が逃げたら職務怠慢となるのだろうか?

 ・・・・何ていう疑問を書いたりしたら,「教育に情熱をかけていない教師」であることがバレバレになってしまいますが,そんなことはおかまいなし?


 おまけをもう一つ。

>少し、横道にそれたが、私は何かできることから行動を起こそうと思い、学校中の落書きを消そうと思った。
>少しぐらいの落書きはいいと思っていると、落書きはどんどん増えると言うか、すでに相当に派手な落書きが学校のあちこちで見られた。
>それを私は片っ端から消して回った。
>考えてみれば、落書きを消すということは、誰にでもできることである。

 おしい。でも,これが,「落書き」をさらに助長する原因になる可能性がある

 ということに気づけるのが,教師になるのが向いている人の感覚です。

 「よかれ」と思って一人で起こす行動が・・・・・

 その「一人」が,その人でなければ・・・・・

 「オレガオレガ」発想の教師には,そんなことを言っても無駄なんですけど。

 
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dolceさんの「独断専行」は,夕食のメニューを勝手に決めた程度のこと

 職員室に閉じこもらないで,教室にいるようにする,程度のことを,

 「独断専行」などと大げさな言葉で批判する人が,その「荒れた中学校」にはいたのでしょうか???

 これが,「勇気がいる」ほどの,「いいこと」でしょうか?

 教室にいるのが,そんなに怖かったのですか

 そもそも「教室にいる時間を増やす」などということは,だれか人に相談してから決めることですか???

 こういうのが,「現場感覚がずれている」ことを示す象徴的な言葉の一つなのです。


>独断専行とは「勝手にやるな」ということですが、教師自身が生徒に対する時、そういう雰囲気を持っていると、子どもの自主性は伸びないように思います。

 この文は,わかりやすく表現すれば,

 生徒の行動に対し,「独断専行だ」「勝手にやるな」と言って批判するような態度を教師自身がとると,子どもの自主性は伸びないように思います。

 となりますが,

 それは,「行動」の内容によるわけです。

>「この先生は何でもやらせてくれる」
>と子どもが感じると、子どもは予想もしていなかった良いことをすることがあります。

>時にはよくないこと、失敗もあるかも知れませんが、どちらにしても「自分で考える」という力はつくと思います。

 小学校の教師の指導観の典型ですね。

 残念なのは,よくないことを「よくないことだ」と毅然とした態度で指導しない小学校教師がたくさんいるのです。

 それを放っておくから,一部の子どもが本当に「何でも」やるんですね。

 「自分の判断でしっかりとした行動をとることができる」と信頼されるから,「何でもやらせてくれるようになる」わけです。

 このあたりも,本当に深刻な感覚のズレなんですね。
 
>「任せる」ということは、相手を信頼することでもあると思いますが、相手を信頼しない人が意外に多いのには驚いてきました。

 「何を任せるか」によるわけです。

 「休み時間の教室には,教師は絶対に入らない。中でどんなことをしてもいい。みんなを信頼しているから」と言える学校は,なかなかないですよ。

 それは,子どもだから,いじめもすれば,暴力をふるうこともあるからです。

 そういうのから逃げていながら,「信頼してます」などと口先で言って,自分が「良い先生」のふりをしていることが可能なのです。最低の教師ですね。

>見ていないところでは、ズルいことをするかも知れない。サボるかもしれない

 これは,可能性の話ですね。

 だからこそ,職員室に閉じこもらないようにしたわけですよね。

 それは,正解なのです。

>私は、教育の第一歩は子ども(児童生徒)を信頼することだと思います。

 ・・・・信頼されたことがない人というのは,信頼する,ということの意味も分かっていないのかもしれません。

 O中学校の教師たちも,いじめの加害者を含め,あらゆる生徒たちを「信頼」していたのでしょうね。

 「おしつけられた」ことを「信頼された」ことと勘違いできる人は,おしつける側から見れば,本当に「もうけもの」ですね。

 こういう誤解は,別に悪いことではありません。

 誤解で世の中が良い方向にまわり,理解することで悪い方向にまわる,

 ということも少なからずあるでしょう?

 「誤解でご成婚,理解で離婚」とは名言?ですね。


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荒れた中学生と「ヤクザ」を同列に語るdolceさんの笑えない教育観

 dolceさんは,

 「ヤクザ」と言えば「すぐにキレて,拳銃で撃つ人」と短絡的に考えてしまう人のようです。

 こういうのを,何というかは,ご自分が書かれていました。

>不信感や猜疑心ばかり持っている人の範疇では、子どもは伸びないと思います。

 と書いた後で,

>「先生はヤクザに注意ができますか?」
>と言われたことだそうです。
>そういえば、運転中に、前が開いているのにも関わらず進まない車に、催促をしたら、運転手が降りてきて、いきなり銃で打たれたという事件がありました。
>相手がヤクザとわかっていたら、催促はしなかったかも知れません。

 とか,

>ヤクザでなくても、構内で徒党を組んでいるいわゆるワルと言われている生徒たちには、注意をしないという傾向があります。
>こういうところは、他の生徒たちが不満に感じることでもあります。
>なぜ注意しないか?
>答えは簡単です。
>怖いからです。

 ということが平気で書けてしまう,その大胆さ

 自分が批判している人間が自分であることに気づけない人の「思考のメカニズム」が分かれば,学校での「無駄な時間」が減り,「有効な生活指導」が増えることにつながるでしょう。

>自分は前線に立ったことのない人、立とうとしない人、それでいて口だけで空想を言っている人が、最も軽蔑する人だと思っています。

 目くそ鼻くそを笑う,というやつでしょうか。

 前線に立って逃げている教師は軽蔑されると書いている自分がいるのを忘れている

>教育の第一歩は子ども(児童生徒)を信頼することだと思います。

 それならば,

>構内(ママ)で徒党を組んでいるいわゆるワルと言われている生徒たち

 も信頼してはいかがでしょう?

 身体検査をしてからでないと,注意ができないのですか???

 それとも,心理テストとか脳波の検査をして,自分に危害を加える意図がないことが証明されないと,注意はできませんか?

 びくびくしながら中途半端に介入してくる教師が
 
 一番狙われやすいことくらい,実体験がなくても想像できることでしょう。

 dolceさんが,一番危険な状況にあったということがよくわかりました。

 つづきも楽しみに読ませていただきます。


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いじめ隠蔽の本質を「成果主義」に求めると,真の「本質」が隠蔽される

 『木走日記』7月12日の記事,「学校がいじめを隠ぺいする本質的理由」の副題は,

 ~教育現場に成果主義を導入した悲惨な結果

というものでした。

 成果主義を導入したことが,悲惨な結果を招いた,と述べているようですが,

 この見方・考え方で,誤解をされる方がいらっしゃるかもしれません。

 上記のブログにも,

 成果主義自体が問題なのではなくて,

 「成果」の捉え方が問題だったと書かれています。 

 企業で,「売り上げ倍増」という目標を設定した結果,

 売り上げは倍増したが,利益は半減した,なんてことになったら意味はないわけです。

 「何を成果とするか」を安易に考えたことが問題だったわけです。

 「いじめを五年間で半減を目指す」という「目標」を,そのまま評価してしまおうという,

 「安直な成果主義」は,

 「いじめ」と認定する数を減らせばよい

 という「安直な達成方法」を招いてしまう

 それではいけません。

 目標は,「いじめのよりよい解決」「いじめ解消に向けての地道な努力・取り組み」でなければならないのです。

 ただ,「質」で評価するには,評価者の「質」が問われてしまいます

 それより,「量」で評価するのが簡単。アルバイトの高校生でも,いえ,中学生でも,報告された数字が「増えた」「減った」などということはわかります。

 「成果主義」が悪い,という言い方が,教師の手抜きを助長します

 この点につきましては,以前も述べさせていただいております。

 「安直な成果主義」が悪いのです。
 
 学習指導で,小学校の「100マス計算」レベルの安直な方法は,成果がすぐに分かります

 だからこそ,多くの教師が飛びついて,飽きていったのです。

 生活指導については,「安直な」方法など,絶対に通用しません

 「いじめの撲滅」は,それこそ「絶えざる努力」が必要なのです。

 「数が減った,よかったね」ではないのです。

 「見逃しているいじめは本当にないだろうか」と,常に問い続けなければならないのです。

 いじめ隠蔽・放置の本質は,

 教師たちの無責任体質情熱や使命感の欠如指導力の不足によるものです。

 教師が事実を隠したのは,目標の立て方が悪かったからだ,という「言い訳」も,考えてみればおかしな話です。

 
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カルロスさん・匿名さんに感謝申し上げます(+一言もあり)

 カルロスさんは,中学校の実態もよくご存じのようです。

 私の文章の意図を「ふつうに理解してくれる」小学校の先生は,とても貴重な存在です。

 (もっと理解してもらえる努力をしなければならないのですが・・・・・)

 dolceさんの実践から,私とカルロスさんが感じたものは,共通したものでした。

 子どもが,完全に「見下されています」。

 おそらく,「問題行動を起こす子ども」は,「頭が~」だから,「問題行動を起こす危険がいつもある」。そういう発想がdolceさんにはあるのでしょう。

 「問題行動」を問題視するのではなく,「人間(の頭)」そのものを問題視する。

 そういう教師が多い学校は,簡単に荒れてしまうでしょう。

******************

>言うまでもなく失敗学の先生の提案は生徒と向き合えと言っている。

>人間扱いをせよと言っているのが伝わる。

>決して威圧的で強圧的な指導を言っているとは思われない。

>たとえ警察の介入を求めるようなことを言っても一人ひとりの人間としての責任を問えと言っているのだ。

>教師、学校管理者、教育委員会のそれぞれの立場、そしてそのようなところに追い込まれた生徒たち。

>それに対して批判的な考えの裏に見えるのは生徒を見下した指導者面である。

>差別意識と教師と生徒の関係の考え方は切り離せないものがある。

******************

 正しい読解と,より深い示唆をいただきました。

 ありがとうございます。

 一言,とは,中学校の「部活王国」については,ほとんど「勤務時間以外」の話ですから,

 「勤務時間内」が中心の小学校教師の話と重ねるのはちょっと違うなと言うことだけです。

 匿名さんからは,

>大津市の問題の中学校、教師のチームワークは、問題の隠蔽に使われました。

>チームワークを発揮する能力が無いのでは無いと言うことです。

 というご指摘をいただきました。

 私はこういうのは「チームワーク」と呼びたくないのですが,確かに困ったものですね。

 テレビでは,「いじめがあったことを知っていた」教職員は,ゼロだった,という報道がありました。

 これも,チームワークのなせるわざでしょうか???


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単独行動の手柄話が好きなのは,小学校の教師のみ

 中学校の生活指導の基本は,チームワーク

 これが,小学校出身の教師の中に,理解できない人がいるらしい。

 単独行動はいけません

 共通の指導理念があって,協働で取り組むのが,生活指導です。

 これが,「荒れた学校」ほど,

 理念はない

 勝手にそれぞれが動き出す

 動かない人は動かない

 ことが徹底??されているようで,またまたdolceさんがその実態を報告してくれました。

 学年主任は特攻隊長?ではありません。

 学年の教師たちのつまさきを,同じ方向に向けるのが,学年主任のリーダーシップです。

 普通の生活指導ですら,そうであるのですが,

 こと,「いじめ」の問題となると,これは「全校体制」で解決に取り組むべきなのです。

 「全校体制」ということは,「児童」「生徒」の,取り組みに積極的に参加する立場です。

 dolceさんの乏しい指導観の範囲では,こうした「教師集団」「子どもの集団」による適切な行動が,視野に入っていなかったようです。


>(1)職員室から出ると、生徒が生徒をいじめているところを見るかもしれない

>(2)自分も暴力を振るわれるかもしれない

>(3)勇気を出したところで、教育行政の支援が期待できるか?

>この3つが、職員室から出たくなくなる理由だろう。

 3つめが,職員室から出たくなくなる学校というのも興味深い(何を中心において仕事をしている人間かが,よくわかる)ですが,

 若い先生たちに,申し上げます。

 生徒は,基本的に,教師が目の届かないところや場面,時間帯で,いじめをします。

 そして,いじめは暴力を伴うとは限りませんから,見えにくいところで発生します。

 しかし,経験を積むと,生徒の「目」を見れば,だいたいのことがわかります。

 無能な教師がおそれるのは,

 「生徒が目でヘルプサインを送ってきたときに,自分に何ができるかわからない」状況になることです。

 そういう意味では,授業が始まるときでも,「職員室から出たくない」のです。

 次に対教師暴力ですが,生徒から暴力を受ける教師のタイプは決まっています。

 生徒は指導力を感じない教師をターゲットにするのです。

 対教師暴力というのは,

 どういうところに,なぜ,ストレスをためこんでいるのかが,よくわかる瞬間です。

 指導力不足の教師と言うのは,問題行動を起こしている生徒が

 暴力をふるうような行動をとることを前提に物事を考えるのです。

 

 それにしても,小学校の教師と言うのは,

 本当に「単独行動」の話が好きですね。

 ときどき,申し訳なさそうに,「教師のチームワーク」のようなことを書いても,
 
 結局は自分の名前で本を書いて,売らせている。

 教育の主役は,教師ではなく,子どもなのです。

 小学校教育の「名著」とされている数々の本は,まだ,主役を子どもにしていたあたりで,許せる範囲に入ります。

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続・教師を志す上で,心構えとして持っていてほしいこと

 教職を志す人に,読んでもらいたい文章です。

>いじめや暴力等の、学校における望ましくない環境を改善するためには、心が伝わる方法をとらなければならないと思っています。

 この文には,「教師から子どもへ」という言葉を補って読んで下さい。

 こういうことを言える学校は,基本的に荒れていないところに限ります。

 つまり,教師の「心」が子どもに「伝わってはいけない」学校が,「荒れた学校」だからです。

 その場合の教師の「心」とは,「私が標的になるのは嫌だから,安全な職員室にこもっていたい」というものです。

 荒れた学校で,指導力のない教師たちがたくさんいる学校では,

 こういう教師の「心」が生徒に読み取られないよう,最大限に努力する必要があるのです。

 荒れた学校では,「3年間だけ,我慢しよう」という言葉が平気で語られています。

 上のような文章が,「指導力のない教師」によって書かれているんだなあと思えるセンスが大事です。

 正しい「心が伝わる方法」をしっかりと指導していたら,そもそも「いじめ」や「暴力等」は防げるのです。

 子どもから子どもへの心が伝わる教育をしていなくて,

 教師から子どもへと心が伝わる教育をしていればいいなんていうのは,教師のただの自己満足にすぎません

>自ら泥をかぶることなく、いかにも「・・・すればよい」など高みの見物で意見を言っている人

 がそっくりそのまま自分のことを書いているブログですから,どうぞご参照下さい。

>管理的手法とは、校則などをきめ細かく決めて対処しようとする考えです。

 こんな程度の「管理的手法」がまともな「管理的手法」だと考える人がいることは,残念ながら否定できないですね。書いている人が実際にいますから。

 「管理」=「」という短絡的な発想が,指導の幅の狭さ,レベルの低さを物語っています。

 そういう教師や指導しか,目にしてこなかったのでしょう。

 生活指導のレベルの低く,荒れた学校が多い地域では,仕方のないことです。

 こういう人には,「教育課程の管理」「安全管理」「危機管理」という言葉は通用しないのかもしれませんね。

>社会見学や遠足の時、細々と規則をつくる人たちがいますが、私は「服装はどうしますか?」の質問に対し「派手でない服装」と答えただけでした

 それは正解です。

 どんなに荒れている学校の問題行動が多い生徒でも,校外の活動をするときは,「まとも」になります

 社会に迷惑をかけるのではなく,「存在価値のない教師たち」を困らせるために問題行動を起こすわけなので,校外に出ると,「とてもいい生徒」になる場合が多いのです。

 ですから,服装や行動のことで,必要以上に心配することはありません

 学校の外でわざわざ「恥」をかきたくない,という子どもの「心」が伝わっていない教師は,何も言わないのが得策です。

 こういうときだけ,教師が生徒に調子のいい言葉,「信頼しているから」と伝えるのは,「生徒を見下す」指導をしている人間の言葉です。

>君たちは立派だ?

 そういう言葉は,学校に戻った後の,日常生活の積み重ねを見た後,言って下さい。

 また,そういう言葉自体が,「生徒を見下している」証拠なのです。

>別にうるさいことを言わなくても、子どもたちは立派にやる。

>一人も非常識なことをする者はいませんでした

 非常識なことをする者がいない=立派なこと

 荒れた学校でも,これだけ生徒をバカにした教師もいませんレベルが低すぎて,話にならないのです。

 これを「心を尽くして語る」のは,なおさら逆効果です。

 非常識なことをする者がいない=当たり前のこと

 なのです。そういう空気をつくらなければ,「荒れる原因」はなくならないのです。

>いい空気に包まれたら、いじめもないでしょう。

 教師の側が,勝手にいい空気に包まれたような気分になっても,いじめがなくなるわけではありません

 もう一度,前の記事に戻って,この事例と前の事例がきちんとつながるのかどうか,検証してみてください。

 
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ほとんどあてにならない文科省の「調査報告」

 毎日jpの記事で,自殺に関する文科省の調査と警察庁の調査を比較すると,結果の数字に大きな開きがあることが示されています。

 文科省の出している数字は,警察庁の3分の1以下。

 しかも,文科省の出した数字の半数以上が「原因不明」による自殺。

 文科相は,今ごろ「調査の仕組みの課題」に気づいたようですが,遅すぎです。

 数字と,勝手に学校や教育委員会が解釈している「原因」だけまとめて,合計は「こうでした」と垂れ流す,

 「高校生のアルバイトでもできる仕事」をまず反省してください。

 「原因不明」とされた2010年度の自殺者「87人」については,遺族の希望のあるなしにかかわらず,再調査を命じるくらいの「真剣さ」がない役所に,

 「学校を指導する能力」があると言えるのか,どうか。

 遺族の意向で『自殺』ではないことにする,あるいは,『原因不明』だということにする,なんてことが仮にあったとしたら,亡くなった子どもは本当に浮かばれませんよ。

 警察の記録と,教育委員会の記録が食い違っていることの問題性に,今頃気づいたのでしょうか???

 いっそ,「警察との連携強化」ではなく,「警察におまかせする」・・・・警察官による校内巡回を依頼する,交番を学校の正門の近くに移転する・・・・ようにお願いしたらどうでしょう。


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【提案】 いじめ撲滅に向けて教育委員会がなすべきこと

 文科省に数字をあげるために,教育委員会は毎年,いじめ等の調査を行っています。

 しかし,文科省側への注文としては,いじめについては,

 件数や大まかな原因を把握するだけでは,だめです。

 少なくとも教育委員会レベルでは,

 いじめ1件につき,必ず1枚以上の報告書を添付させるのです。

 これをやったら,報告書をつくるのが面倒くさいから,いじめはなかったことにする,・・・・そういう学校が増えて,文科省にあがる数字はさらに実態からかけ離れて減っていくだろう,と予測する人もいるでしょう。

 私は,そうは思いません。

 いじめの発生とその指導の実態,指導の経過や結果等を,管理職が知らないケースの方が多いと思うのです。

 生活指導の記録の付け方もわからないような教師がいるからです。

 記録をとる気のない教師もいます。

 記録の付け方を示してあげるしかありません。

 「訴え」があった時点で,「いじめ」はあったものとして,まずは書類を作成し,そこにその後の聞き取り調査の結果等を記入させるようにする。

 本当の初期指導から,記録は決して加工することなく,残しておくことが重要です。

 学年をまたいで,とか,学校をまたいで,とかいう「いじめ」もあります。

 「指導過程」の情報は,必ず引き継がなければなりません。

 そのためのフォーマットを,教育委員会が作成し,その用紙の使用を義務付けるのです。

 ○いじめが分かった経緯(本人の訴え,目撃者の訴え,担任の気づき,など)

 ○事実確認の内容(いつ,どこで,だれが,だれに,何をしたなど)

 ○聞き取り調査の内容(原因,背景,影響など)

 ○指導内容,指導方法の内容(指導言も含めて記述)

 ○経過観察の内容(主に担任が把握し,面談結果などを記述)

 ○事後指導の内容と結果とその分析等(全体指導とその効果など)

 さらに,いじめた側の反省文や,いじめられた側の「訴え」をまとめたものなども,補助資料として添付します。

関係者の生徒の名前だけでなく,指導したり面談したりした教師の名前も,忘れてはいけません。

 病院のカルテと同じ要領です。

 私が以前,勤めていた「荒れていた学校」では,「いじめ」に限らず,ありとあらゆる「生活指導の記録」を,職員室のだれの目にもふれられるような形で残していました

 「問題履歴」をその都度,見せるわけではないですが,ある程度,たまったときに,本人や保護者に見せると,「記録が残るのはまずい」という意識がはたらき,途中で生活が改まる生徒もいます。

 記録は大事です。

 いつ,だれの目に触れてもいいように,書くのです。

 プライバシーがどうのこうのと言って,記録をとらない学校もあります。

 指導した生徒名を残さないような記録は,記録ではありません。

 家宅捜索された学校も,もしかしたら,

 「有効な手がかりになるような資料は何ら見つからない」おそれがあります。

 私が教育ブログを代表するダメブログに認定?しているところでは,

 「何か出るのだろうか?」なんてとぼけたことが書かれています。

 この人の学校には,いじめの指導記録など,存在しなかったのは明らかです。

 本当に当事者意識がゼロの元管理職。

 「いじめがあったなんて,聞いてません」などということを平気で言えるようなとぼけた管理職らしさが,文章ににじみでています。

 「いじめがあったかなかった」は判定しにくいから,何もしない,そんな態度が平気でとれる人間。

 「いじめの相談があった」時点から,だれがだれに何を言ったり,だれがだれから何を聴いたのか。

 そういう記録が残らないような学校をつくるのは,やる気のない管理職であり,いじめがあったことにしたくない教育委員会なのです。

 そういう姿勢があるからこそ,このような問題が起こるのです。

 もし,資料が警察の手に渡らないように,「シュレッダーするなどして廃棄せよ」という指示があって,消滅させていたら,これは問題ですが,そもそもそういう資料がない,というのは,それをはるかに上回る問題です。

 「いじめ指導カルテ」を持っている学校は,どのくらいあるでしょうか。

 すでに,そういう指導カルテを示していたり,指導過程や指導結果などを報告させている教育委員会はどのくらいあるでしょうか。

 そこまでやる,やりきる,そういう強いメッセージを教育委員会は学校に送るべきでしょう。

 愚の骨頂は,「いじめ撲滅プラン」などを出させて満足しているような状況です。

 そんなことで満足しているような教育委員会は,

 「いじめ認定撲滅プラン」を実行しているようなものです。


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一般の企業や役所と学校の一番の違い

 学校の教師にしか,わからないかもしれません。

 教師は,「忙しい」「早く家に帰りたい」ことを「言い訳」にして,

 学校にある様々な「文書資料」を「自宅」に持ち帰ります。

 引率で出張していた先の「競艇場」に「通知表」をもちこんで,作業をしている教師もいました。

 車上荒らしにあって,車から個人情報や成績データが入ったUSBメモリごと盗まれる事件もときどき起こります。

 一般の企業や,役所では,

 持ち出しが禁止されている重要な資料を,職場から持ち出すことはあまりないはずです。

 怖くて持ち出さないのが普通でしょう。

 ・・・・・・・・・・

 ここまでの話で,「それなら」と思いついた方は,どのくらいいらっしゃるでしょうか。

 そうですね。

 「家宅捜索」は,「学校」と「教育委員会」だけでは,不十分です。

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教師を志す上で,心構えとして持っていてほしいこと

 教師を志す人に読んでもらいたい文章です。

>先生としての仕事を選んだ以上、子どもと楽しく勉強することを夢見ていた人は多いだろう。

 楽しく勉強するために,教材研究は徹底的に行ってください。

 「楽しさ」を,「映画を鑑賞する楽しさ」と同レベルで考えてはいけません。

 知的な活動の「楽しさ」を味わわせるのが,教師の仕事です。

 また,どんな心がすさんだ生徒にも,語りかける言葉をたくさんもてるようにしてください。

 荒れた生活をし,学校にそれを持ち込むような子どもにも,授業の中では,あたたかい言葉をかけてください。

 問題行動を起こした時は,別です。

 毅然とした態度がとれますか?

 とる自信がない人は,教師になってはいけません。

 塾にでも就職してください。

 塾では,「もう来るな」と追い出すことができます。

 学校は,そうは行きません。

 「教育」するのが仕事ですから。

>車は傷つけられる。4本のタイヤが全部パンクしていたこともある。

 こういうときは,警察に被害届を出してください。

 あるいは,本当に心配なら,学校の敷地内に駐車するのはやめて,監視カメラ付きの,駐車場を借りてください。

>男子8人の生徒が徒党を組んで、ひどい髪型、服装で授業時間に関係なく、廊下を歩きまわる。

 8人だろうと10人だろうと,もし髪型や服装に課題があれば,個別に指導する必要があります。
 
 一度にやるべきときは,複数の教員で対応してください。もし自信がなければ,指導場面は,教師2人と生徒1人という関係になるようにしてください。

 授業中に廊下を歩き回る生徒がいる場合は,管理職も含めた巡回を行ってください。

 見つけ次第,一度,指導のための部屋に呼んで,話をしてから,教室に戻してください。いきなり教室に戻してはいけません。

 中学校の場合は,必ず空き時間の教師がいます。

 「空き時間」は,「休み時間」ではありません。「教材研究の時間」にできるのは,学校が落ち着いてからの話です。

>教師には挑戦的な態度。

 管理職に挑戦的な態度をとる教師がいるのと同じです。

 挑戦的な態度をとってくれることを,感謝しないといけません。

 そういう態度をとる生徒ががらっと変わるその瞬間を楽しむことが,教師の仕事の醍醐味でもあります。

 早い話,たった一言だけで,態度を変えることも可能です。

 多くの教師は,状況を悪くする言葉ばかり使います。

 悪い見本はそこらじゅうに転がっているので,そうならないように,学習してください。

>先生たちは授業がすむと、さっさと職員室へ帰って出ようとしない。

 私は授業がすむと,直接,次の授業のクラスに行くようにしました。荷物は全部,持って移動します。

 ぜひ,そうして下さい。次の授業がないときは,しばらく教室に残って,質問を受け付けてください。

 また,教室の様子をよく見てください。ふだんの授業では見られない子どもの様子がよくわかります。

>あちこちに落書き。

 朝早く来て,生徒が登校する前に,すべて消してください。

 生徒がいる時間に発見した場合は,生徒たちといっしょに消してください。

>授業をやっていると、何か臭ってくる。薬物の臭いだ。
>臭いのする方へ行くと、トイレの中で何人かが集まって薬物を吸っている。
>注意すれば、食ってかかって暴力を振るう可能性もある。

 暴力を振るわれることも想定して,まずはやめさせてください。

 人数が必要な場合は,見回りの先生を集めさせてください。

>徒党を組んだ生徒たちは、学校中の生徒の中で「気に入らない」と思う生徒を、校舎の影などに連れて行って殴る。

 情報が入ったら,すぐに聞き取り調査を行い,指導に入ってください。

 こういうとき,指導の仕方をだれと相談してから,など気を使う必要はありません。

 まずは事実確認です。時間をおいてはいけません。

 警察の取り調べを受ける立場になると,「こうやればいいのか」とよく理解できます。

>こういう状況では、先生たちは授業に行って帰るという最低限の仕事しかしない。

 こんなことを言う教師がいたら,あるいは,こんなことをしている教師がいたら,

 こう言ってあげてください。

 「あなたのような教師は,この学校には必要ありません」

>職員室は先生たちが集まっているので、安心感のある砦のようなものだ。

 こんなことを思っている教師がいたら,

 こう言ってあげてください。

 「今,あなたのクラスでAさんがいじめを受けているようです。どうしますか?」

>こんな状況では、先生たちは毎日学校へ行くのが憂鬱である。

 「こんな状況」を打破する。このために「先生たち」は学校に行くのです。

 「憂鬱」でもなんでも。仕事ですから。

>徒党を組んでいる生徒たちは、学校を破壊したいと思っている。

 「学校」というよりも,本当は「何の役にも立たない教師」を破壊したいのです。

 でも,それを避けてくれるうちは,感謝しなくてはいけません。

 まだチャンスをくれているのです。

 以上が,大事な「心構え」です。

 この「心構え」すらできない教師たちがうようよいる中で仕事をしなければならない場合もある

 それも,「心得」ておいてください。


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安易で無責任な教師たちの実態を知る方法

 dolceさんのブログが,また注目を浴びそうです。

 安易で無責任な教師たちの実態が,綴られています。

 ・・・・・・・・・・

>と、挙げればきりがないが、こういう状況では、先生たちは授業に行って帰るという最低限の仕事しかしない。
>とにかく、職員室は先生たちが集まっているので、安心感のある砦のようなものだ。

 

 こういう教師たちが,子どもを「見殺し」にするわけです。

 なぜ,問題行動に立ち向かわないか。

 「自分がやられるのがこわいから」だそうです。

>それをまともにしようと正義感を出す先生がいれば、攻撃の対象になりかねない。

 おい! だから何ですか?

 正義感を出してはいけないのか?

 攻撃の対象になってはいけないのか?


  
 こういう教師たちだからこそ,「荒れている」のが,なぜわからないのか?


 ・・・・・・

 と,教育に情熱をかける教師が言うかもしれません。

 そんな内容です。

 事例で挙げられている学校なら,何をどうすべきか?
 
 自分たちで考えて,わからないなら,

 「全保護者たち,地域の人たち」に,泣きついたらどうですか?

 どうして夜中になる前に,泣きつかなかったのですか?

 そうですね。「手遅れ」になっていることを,自ら明かすことになるからですね。

 「こうなる前に,どうにかならなかったのか」・・・・そう言われるのが,嫌だったからですね。


 
 私が異動した2校目の学校は,こういうことをやった直後の状態だったので,

 「教師不信」が頂点に達していました。

 
 それを払拭するためには,どうすべきか。

 「全員が犠牲になる」つもりで,子どもに向き合うしかないのです。

 「私たちの学校は,すべての教師が,すべての子どもを指導する学校です」と言い切って,その通りするしかないのです。

 学校崩壊は,1年で立ち直りました。

 問題行動を起こす生徒をゼロにすることはできません

 しかし,問題行動から逃げる教師をゼロにすることはできました

 3年後には,地域から生徒が集まる学校に変わりました。

 学校は,教師の「態度」次第でがらっと変わるのです。

 これは,あくまでも私の体験に基づいた話です。

 愛知県や滋賀県で,それができるかどうかはわかりません。


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わかりやすい物語が日本を滅ぼす(下)

 佐藤優著『帝国の時代をどう生きるか』(角川Oneテーマ21)から,知識人がとるべき態度の課題について書かれた部分を引用させていただきます。

**************

 過去20年間,日本の知識人,特に私の世代以降の知識人は「大きな物語」を作るという作業から逃げ出してしまいました。その結果,知識人という言葉すら,現下日本では死語になりつつあります。知識人はネット右翼,プチナショナリズム,右派系の論壇誌に展開される過激な排外主義的言説について,知的に最低限必要とされる基準を満たしていないと眉をひそめ批判するか,シニカルに無視するといった対応をとっています。私はこのような態度が知識人としての責任放棄のように思えてならないのです。知識人が「大きな物語」を作るという知識人に課された責務を遂行しないから,このような状態になってしまったのです。

 この知識人という範疇の中には編集者も含まれます。編集者が,難しすぎる内容は読者に理解されないので,知的水準を下げるという形で本という商品の販売拡大を図ってきました。かつてマルクス主義哲学者の廣松渉氏が本は「誰にも相手にされず,理解されないとしたら,インクのシミにすぎないでしょう」と言いましたが,資本主義社会において,売れない商品には意味がありません。

 知識人が,一方において,煩瑣な術語体系の中で,それ自体としては面白い「小さな物語」の構築・脱構築という知的ゲームに熱中し,啓蒙的役割を放棄してしまったために,今日の知的閉塞状況が日本に生まれてしまったのだと思うのです。

***************

 とても長い引用になってしまいました。

 「小さな物語」を「わかりやすい物語」に置き換えてみると,日本に危機が訪れている背景に共通したものがあることがわかります。

 目先のことだけに,こだわる。

 次のこと,次の次のこと…を考えた行動がとれない。

 多くの人がそうなりがちなところに,「知識人」も,乗っかってしまう。

 「知識人」の範囲をちょっと広げてみて,「教養人」にしてみても,同じ。

 「学習人」といってしまうと,すべての人を含んでしまいそうですが,

 たとえ子どもでも,「次の次」を考えられるような,「しかけ」がほしいのです。

 「わかりやすい」は,「売る」ために多くの参考書のタイトルで採用されている修飾語です。

 何でも,かんでも,「わかりやすい」ものを求める。

 知的に負荷がかからない状態というのは,緊張もなくリラックスできて,「心地よい」時間になると思いますが,知性を高めようとするときに,負荷がかからないままでそれを実現しようとするのは,わがまますぎる要求です。

 友だち同士でなければ,切磋琢磨はできない,なんて「わがまま」も,同じ。

 (友だち同士で,切磋琢磨はできない,と言っているわけではありませんよ)

 小学校と中学校の「学習の違い」を,

 「やさしい」「難しい」,「わかりやすて楽しい」「わかりにくくて苦しい」というような対比で多くの子どもは捉えていますが,その原因をつくっているのはどこなのでしょうか。

 小学生に負荷など

 という考え方と,

 小学生だからこそ負荷を

 という考え方は,正反対です。

 後者の立場をとってくれる教師や塾によって,子どもの能力がぐんぐん伸び,前者の立場をとった教師に習い,塾に通わなかった子どもとの「格差」がどんどん開いていってしまうことも,

 「中1プロブレム」の原因の一つになっています。

 中学生は,「他の生徒との比較」が大好きです。

 ほとんどの子どもが100点をとれるようなテストをやっている,小学校のときは,やりたくてもできなかったこの「比較」が,中学校ではできるようになってしまう。そして,

 比較する作業を通して,自信をつけたり,不安を高めたり,自己嫌悪に陥ったりします。

 格差が起こるのは,当たり前のことなのに。

 小学生には,塾ではなく,学校での教育でも,思いきり負荷をかけてあげてほしいと思います。

 しかし,残念ながら,小学校の各教室を見ていると,学校を流れている時間の速さというのは,どの学年でも同じなんですね。

 小学校の教師はある程度は意識されているのでしょうが,6年生と4年生の授業の進み方がほとんど変わらない,というのはちょっと考えられないことです。

 少し難しくなる分だけ,進み方がゆっくりにしよう,という発想もあるのでしょうか。

 「わからない」と小学生に言われてしまうことへのおそれが,どうしても解消できないのでしょうか。

 「わからなくてよい」のです。

 小学校では,「わからない」ことが言えた子どもの評価をどんどん上げていってほしい。
 
 「わからない」ことだらけだった学習が,中学校で学ぶと霧が晴れたようにすっきりと「わかる」ようになっていく・・・・・そんな「おいしい思い」を中学校側にさせるのは,小学校側としては,不本意でしょうか?

 とりとめのない話になってしまいました。


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「下々根性」を捨てることが,政治を変える力に

 書かれていることの,品位だけでなく,格が低すぎる,とは,痛烈な批判ですね。

 でも,そういうレベルのことしか書けない人には,それなりの理由があるのです。


>野田総理は財務省出身で、生粋の官僚的精神を身に着けている人ですよ。
>だから、財務省のポチと言われるんですね。
>財務省のブルドッグて書いていた週刊誌もありました。
>官僚的精神だから、野田総理にとって国民は下々の者なんです。


 批判している相手が,自分たちのことを「こう思っている」

 だから,政策が「こうなんだ」,自分たちへの態度が「こうなんだ」

 というのは,
 
 中1のけんかの仲裁に入るときに,よく子どもの口からもれてくる言葉です。

 
 こういうことを書いても,何の意味もないことは,自分が同じような方法で批判されているわけだから,わかるはずなのに・・・。それが,わからないから,こういう記事が生産されてしまう・・・・。

 「教材」としては,本当に「もってこい」のものばかりで助かるのですが・・・・。

 「慈愛」の精神に基づいて申し上げれば,

 「これ以上,ご自身の品位を下げる行為はさしひかえられるべきです。


 
>財務省のブルドッグて書いていた週刊誌もありました。

 こんなものを紹介することに,何の意味があるのでしょう。

 自分の頭で物事を考える力のある人の文章なのでしょうか?


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【投票受付№3】 指導力不足教員との「出会い」(途中経過あり)

 報道では,次々に教師個人や学校全体,教育委員会の問題が明らかになっています。

 いろいろな問題を起こしている,あるいは,防ぐことができないでいる,

 広い意味の「指導力不足教員」は,どのくらいいるのでしょうか

 今回のアンケートでは,

 生徒として,保護者として,教師として,どんな立場でもけっこうですので,

 「指導力不足教員」と実際に出会った経験をお持ちで,「何とかしなければならない」「何とかしてほしかった」という思いを抱いている方に,ご協力をいただければと思います。

 該当される方は,ランキングポイントのためのバナー「教育論・教育問題」をクリックして下さい。

 よろしくお願いいたします。

*****************

 (途中経過) 今のところ,読者の皆様におきましては,指導力不足教員対策に関心をお持ちの方は少ないように見受けられます。こういう教員の問題は,「当事者」経験がないと,なかなかその深刻さがわからないものかもしれませんので,今後も広くその課題と改善のための方策を考えていきたいと思います。

 かなり前に書いたことかもしれませんが,私が指導力不足教員をどうするか,面接で聞かれて答えたことは,

 「成功体験をもたせて,何が大切なのかに気づいてもらう」というものでした。

 同じ現場にいる人なら,何とかできるのですが,「」や「インターネット上の記事」を読んでもらっただけで,改善される,というのは考えにくい・・・・でも,何か行動を起こしてくれる先生がいるかもしれない・・・・という思いで,書いていこうと思います。

 ご協力,ありがとうございました。


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dolceさん程度の「指導」なら,必要がない場合もある

 ごく「ふつう」の記事をお書きになっていても,

 あれあれ?

 という言葉がたくさん登場してきますね。

>だから、指導するということは、指揮をする場合なら「指揮棒を右手に持って」「棒と腕が一直線になるようにして」「この位置に構えて」「こういう図形を書くように」・・・と具体的に示さなくてはならない。

 今上に書かれたようなことは,「見た」だけでできる子もいますね。

 教師の指揮が正しければ,の話ですが。

 私には,「指導する必要のないこと」に見えます。

 ふだん「見せている」ことが指導だ,と言われてしまえば,ああそうですね,思うまでです。

 問題集を解かせるときに,「問題集を開いて」「ノートを開いて」「鉛筆を持って」などとは「指導」しないでしょう。

 そもそも,「指揮者」は大勢は必要ないので,「わざわざ指導しなくても,できる子」を選べばすんでしまう,ということもあるでしょう。

 指導力のない教師は,

 指揮が上手にできる子どもとできない子どもの違いを,具体的に説明することができないでしょう。

 指揮者に求められる能力は何か,を説明することができないでしょう。

 中学生の指揮者が陥りがちな間違いを,具体的に説明することができないでしょう。

 
******************


>講師が立て板に水のごとく、機械語のプログラムを説明していたのに感心して、ある人が質問をした。
>「一体、どのような勉強をしたら、先生のようになれるんですか?」
>と、そうしたら、講師はちょっと得意顔になって
>「そりゃあ、何百冊と本を読むことですよ」
>と言った。

>私はそうだろうなと思った。


 これ,私にとっては,「まさか」のオチです。

 でも,「やっぱりか」のオチでもある。

 これ,「指導力のない講師」の典型ですよね・・・・。

 ある意味,とても「よくできた話」です。

 でも,読み続けていくと,「本気でそう思っていた」ことがばれてしまって・・・。


 自分ができることと,人に教えることは違う,という根本的なことが,分かっていない

 本を読めばできるようになるなら,教師は必要ないのです。

 もしかして,本を読ませるのが,教師の仕事と思っている???

 指導力不足の教員の典型的な姿の一つです。

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カルロスさんに一言,申し上げたき儀

 カルロスさんは小学校の先生だったでしょうか。

 「内容」が乏しいので,いつでも「方法」にこだわってしまう小学校教師・・・・なんてことをかつて書いていましたね・・・。

 中学校の場合は,「内容」の方に偏りがありすぎて(これ,二つの意味があるの,分かります?),

 それはそれで問題なのですが,

 小学校の場合は,「方法のみを売り物にできるという,おそろしい世界で,

 「ちょっと真新しいことに激しい関心をもつ」人たちを,本当に大勢見てきました。

 それを,カルロスさんの記事で,思い出してしまいました・・・・。

 小学校の研究会に参加すると,その「人口の多さ」に圧倒されます。

 以前,ふれたかどうか忘れましたが,有名な小学校の研究会に参加する先生方は,

 発表している「教祖」から絶対に目をそらさない

 という原則を貫徹しているのでしょうか。

 いろんな人が質問を投げかけたりするときに,私の感覚では,

 「話している人の方を向く」のが礼儀だったりするのに,

 そういう会に参加している人は,

 「教祖から目をそらさない」のです。

 「内容」に関心があるわけではなくて,

 「教祖がどういうふうに反応するか」に関心があるんだということがよく分かりました。

 それはそれで,いい勉強法とも考えられなくもないですが。

 小学校の教師は,

 どうやって「人を差別しないように,目線や表情に気を配るか」の研究・・・・だったりして。

 話がそれました。

 ランキングポイントのバナーを活用した「アンケート」では,

 今のところ,№2より,№1の方がクリック数が多かった,という状況です。

 もちろん,本ブログに訪問される方の中には,検索語から入ってこられる方もいらっしゃって,そういう方が過去の記事でクリックしてくださった,ということも考えられるので,あくまでも,目安です。

 明日は,「第三弾」を考えています。

 dolceさんの方は,すぐにでも対応が可能ですが,

 O市の方は,きちんとした情報がほしい,というのが,本音です。

 今,在校生に直撃取材するメディアも現れ始めました。

 中学生ですから,変にあおられて,調子に乗る子が出ないとも限らないので,

 「余計なことは話すな」という学校の指導を超好意的にとらえると,その意味はよく分かります。

 でも,「隠蔽体質」が問題になっている今,この時期は,言葉を選ばなければなりません。

 どういう立場の人も,「言葉」を選んで,語ってほしいところです。

 カルロスさんに一言,申し上げたいことは,

 私にとってのブログの「成功」「失敗」は,

 ランキングポイントが上がる,下がる,たくさん入る,入らない,そういうことではありません

 「参考になった」と思う人が,素直にクリックしてくれる,そういう環境であるかどうかもわかりません。

 注目してくださることはうれしいことではありますが,

 問題は,教育現場がよくなるか,どうか,です。

 教師の力量が,向上するか,どうか,です。

 教師の力量というのは,本を読めばよくなるとか,ブログを読めばよくなるとか,

 そういうものではないでしょう。

 まずは失敗を失敗としてとらえ,成功も失敗ととらえるところから,新しい教育の姿を創造していく・・・それも,今すぐにできるぞ,というものではありません。

 失敗学から,創造学へ,工学的なものの考え方なら,応用していけるかもしれませんが,

 教育はそう簡単なものではないでしょう。

 失敗の状況すら理解できないレベルに,私も今,あるのかもしれません。

 でも,たとえば実質的に「指導力が不足している教員」が放置されている現状を何とか打破するための戦略を生み出したい,という気持ちは,人一倍強いものがあります。

 簡単にここからは教育の創造だ,などと言えないのですが,いつかはやらなければならない,成し遂げなければならない,そういう気持ちを,ブログタイトルに込めている,というのが現状です。

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「いじめ」「自殺」報道の怖さ

 昨日,アンケートのような形をとらせていただいたのは,今回のような「いじめ」「自殺」報道によって,いじめを受けていた生徒が自殺するに至るまでの「苦しみ」を,勝手にイメージして語ってしまうおそれがあることを,自分自身にも言い聞かせつつ,読んでいただく方にもわかってもらいたかったからでした。

 「いじめ自殺」と書いてしまうことで,もう「立場」がはっきりしてしまいます。

 この記事では,「いじめ」「自殺」と表記を変えさせていただきました。


 いじめの中には,被害を受けている本人が

 「これはいじめではありません

 「私は大丈夫です

 と言い張るものがあって,こういう場合ほど,

 「耐えきれなくなった」ときの反応が,大きいものになってしまう・・・・・

 このことはよくご理解いただけるのではないでしょうか。

 ですから,

 「本人が大丈夫だと言っているんだから,大丈夫です

 なんていう会話が教員の中でかわされた経緯があったとしたら,これはとんでもないことなのです。

 もちろん,これも想像なのですが,今までの報道による印象は,あまり「手が打たれた形跡を感じられない」というものでした。

 また,報道による印象は,学校は情報統制をしいている。それも,おそらくは,教育委員会の指示によるものである・・・・・・ほぼ完全に,「わるもの」ができあがっています。

 できれば,学校側の説明を聞く機会がほしいところです。

 プライバシーの内容にふれてしまうために,ほとんど聞けない内容なのかもしれませんが。

 ネット上の情報というのは,おそろしいものです。

 一定のモラルやルールを守りつつ報道する企業も,今回は,結果としていじめた側の生徒の個人名を流出させ,家族構成や転校先まで公開されてしまう現状をつくってしまいました。

 どこかの時点で手を打っていれば・・・・と悔やんでも仕方がないことなのかもしれませんが,学校としては,「チャンス」が何回あったのか,真剣に考えてもらいたいと思います。

 今回のことで,

 「教育委員会」のあり方にも深くメスが入るべきでしょう。

 O市以上に「鉄壁」の教育委員会が,すぐそこにあるかもしれません。

 露骨に,「隠せ」という教育委員会は,本当にないのか。

 「問題行動」「いじめ」の件数を,勝手に書き換えて文科省に報告している教育委員会は,絶対にないのか。

 これは,「確かめることが不可能」なことではなく,

 学校からの「告発」で,簡単に公にできる問題です。

 本題から話がそれてしまい,申し訳ございません。

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O市O中の「いじめ」アンケートで生徒が書き残した「知的財産」

 O市の痛ましい出来事については,教育委員会や学校の対応のまずさが重ねて報道されている状態が続いています。

 マスコミは,大きなニュースがないせいもあるでしょうが,もうしばらくバッシングが続くことでしょう。

 読売新聞が配信しているニュースに基づいて申し上げれば,

 アンケートには教師を批判する内容が書かれていたとか。

 せっかくの「知的財産」を,生かせなかった学校と教育委員会。

 中学生によって示された「知的財産」とは,

●担任は,いじめている側の生徒らの前で,いじめられている生徒に『大丈夫か』と尋ねるべきではない。

 という指導の絶対原則です。


 自殺があったことよりも,

 いじめがあったという事実が,残念だ,と書いてしまった学校・・・・・。


 教員も校長もすぐに異動させることができてしまう公立学校の場合は,こういう「過ち」が繰り返される可能性もあります。

 私が期待したいのは,校長や教員による「言い訳」ではなく,

 「生徒会」による「宣言文」です。

 これも,教員たちのコントロール下におかれてしまっているとしたら,意味がないのですが・・・・。

 
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指導力不足教員にも,(問題を隠そうとする)思考力はある

 もちろん,もっぱら,自分を正当化するための思考力です。

 dolceさんは,ほぼ正確な自己理解ができています。

>世の中には変な人がいますから、あまり気にしてもしょうがないと思うのですが、ちょっと普通とは違うなと感じるものもあります。

>普通とは違うなと思うものは
>(1)あまり、気にする必要のない言葉に過剰反応する(あら探しに熱心という意図も感じる)
>(2)特定の言葉に過剰反応するあまり、最も大切な文章の要旨をとらえていない
>(3)当方が大した人間ではないと力説し、巷の評価を下げようとする意図が感じられる
>(4)他人には厳しく自分には甘い
>の4点にまとめられます

 これは模範解答に近いですね。

 でも,残念なことに,自己評価ではなく,「他人」の話なのです。

 これを私は「ミラー現象」と呼んでいます。

 「裸の王様」は,自分で鏡を見て自分の姿を見ているはずなのに,それを「他人」と錯覚してしまっている

 そういうことです。

 驚きますね。

 「頭がおかしい」なんて人をこきおろしておきながら,

>断っておきますが、私の評価を下げようとしても、ムダなことです。
>だって、もともと、私は大した人間ではないですから。

 なんて書いている。相当に,「大した人間」ですよ。

>他人のあら探しには熱心で、些細な事にも厳しい口調になるのに、自分が間違えた時は「沈黙」です。

 ・・・・ええっ! まさにそれはdolceさんの姿そのものですが・・・・。

 dolceさんは,以前にご自分の演奏の動画をブログに掲載されていましたが,『巷』ではご本人がだれか,皆さんご存じなのでしょうか?

 ネット上で使われている「巷」とは,どこの世界のことでしょう?

>巷の評価を下げようとする意図

 という意味がわかりません。

 なぜ「巷の評価が下がるか」が,どうして自覚できないのでしょう?

 謙虚さがないから?

 やはり,「裸の王様」だからでしょう。
 


 さて,指導力には様々な場面における,様々な能力をさすわけで,

 クローンを相手にするのではない限り,子どもは教師たちの指導力の違いを常に肌で感じながら学んでいます。

 「指導力のある教師」というのが「空気のように自然」であることが望ましいのですが,

 そういう学校の場合は,気の毒なのは

 「指導力が不足している教師」です。

 ろくでもない「決まり」を強制的につくらせて,「自分たちで決めた(?)ことなんだから,どんなことがあっても守れ」などという
 
 「あの」障がい丸出しの教師は,子どもがそういう「決まり」を「守らない」ことを通してさらに「いい気になって」子どもをいじめていきます

 まだ,生徒に対してそうやって「優位に立てる」,落ち着いた学校ならよいのですが,

 そうでないと,授業そのものが「崩壊」します。

 「指導力が不足している教師」に,最も腹を立てているのは,本当は,子どもなんですね。

 でも,そういう子どもは自分の気持ちを抑圧しなければならないので,そのつらさが分かっている私が,強く腹を立てているのです。

 
>とにかく、実際に授業を任されている人は思考力不足教員ではないでしょう

 このdolceさんという人は,O市が今,たいへんになっていることは承知されているのでしょうか。

 それとも,「あの思考」力をもって,「教師は正しい」と主張するのでしょうか。

 自分たちは正しい,ということを人に訴えるための思考力だけは,本当に豊かであるようです。

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【投票受付№2】 O市O中生「いじめ自殺」をめぐって(追記あり)

 O市O中生の「いじめ自殺」後,遺族だけではなく,いじめの加害者やその家族,在校生たちが心を痛める状態が続いています。

 ここ連日のニュースでは,学校や教育委員会の「隠蔽体質」が明るみになり,

 一方,報道の「真実の暴露体質」の影響によってか,いじめた生徒の名前が知られることになり,

 学校関係者は「早く夏休みになってほしい」と願う毎日になってしまっていることがうかがわれます。

 ネット上では,さまざまな情報が得られます。

 私が今,手に取っているのは,この学校の校長が発行した『学校便り』です。

 そこには,亡くなった生徒や遺族への思いがほとんど表現されておらず,

 「ああ,こういう学校だからこそ・・・・」という印象が強く残る言葉ばかりが綴られていました。

 中学校側=在校生たちの立場に立った,以下のような考え方を理解したい,という方もたくさんいらっしゃるでしょう。

 「そっとしておいてあげてほしい

 しかし,遺族側や亡くなった当時中2の子どもの立場に立った,

 「真実を明らかにしてほしい

 「学校や教育委員会の問題を明らかにしてほしい

 という声が多いのも確かです。

 裁判が始まれば,様々な事実が明らかになってくることでしょう。

 

 今,ブログ村の教育論・教育問題畑では,ほとんどこの問題で注目されている記事はありません。

 今回の投票は,

 本ブログでもこの問題にふれるべきか,どうか,という点について,投票をいただけたらと思います。

 「学校の混乱を助長する」ほどの力は本ブログにあるとも思えませんが,

 そもそも読者がいなければ,書く意味もないことは確かです。

 
 「第三者機関」の一部?として,こういう教育ブログにも,意見表明の必要性があるとお考えの方は,下のバナーをクリックしてください

 よろしくお願いいたします。

**************

 今回の「いじめ自殺」の件については,「静観すべき」というのが良識なのでしょうか。

 今のところ,投票が少ないので,まだ検討中です。

 一つだけ。

 O中の「学校便り」のタイトルは,

 あの,事件が起こった直後も,変わることはなく,

 「やっぱり○中がすき(+ハートマーク)」です。
  
 今も,同じです。

 このタイトルと,事件に関する説明は,ミスマッチとしか言いようがありません。

 事件の背景や保護者説明会,全校集会に関する記載以外の,

 「通常の記事内容」としての「生徒会後期役員選挙結果」や「11月の行事予定」がいっしょに

 載せられているという神経も,私にはとうてい理解できません。


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【中学生の保護者へのアドバイス】 夏休みの学習法は?

 Q.夏休みは,子どもにどんな勉強をさせたらいいでしょう?

 A.一番いいのは,親子の「会話の質を向上」させることです。

   「言語活動の充実」が求められているのは,学校よりも家庭生活です。

   「勉強しなさい」

   「片付けなさい」
 
   「早く寝なさい」

   という指示とそれに対する生返事,あるいは無言の服従や反発などに限られていた家庭では,

   子どもが3~6歳くらいの頃の会話を一度,思い出してみてください。
 
   今より少しましな「言語活動」を子どもはしていたのでは?

   「勉強」しなければいけないのは,子どもよりも,親なのですね。

   塾へと追い出せば,その苦労もなくなりますが。

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【中学生へのアドバイス】 夏休みの学習法

 Q.夏休みは,どのような勉強をしたらよいですか?

 A.7月上旬の今の時期に,質問してくれたのはラッキーでしたね。

   定期考査では,自分のさまざまな課題が見つかったでしょう?

   目標を達成できた人は,次の目標が見つかりましたか?

   夏休みの学習法は,自分で見つけ出すものです。

   でも,夏休みに入った後では,自分でやりながら,

   「こんな勉強でいいのかな?」と疑問に思った場合,なかなか先生に相談しにくい時期ですね。
   
   ですから,

   まず,今のうちに,夏休みの学習を始めてみましょう。

   その途中経過を,教科の先生に見てもらおう。

   それで,その学習の方法でよいのかを,相談しよう。

   きっと,一人一人に合った学習のアドバイスをしてくれるはずです。

   どの学年の生徒でも,ポイントは,夏休み前から始めることです。

   そして,夏休み期間に,自分が一人でできる学習のパターンを知ることです。

   問題集やドリルをやる?

   ・・・・そういう,だれでもできるような勉強については,質問しないでくださいね。

   問題集が終わったら,

   もっと難しい問題集をつくってみよう。

   「問題」を自分で考えたりつくったり,自分で解決することを,「学習」といい,

   与えられた「問題」を解くことを,「勉強」といいます。

   与えられた「問題」を解くのが「学習」だと思うのを「やめる」ことで,

   「意味のない質問」と「意味のある質問」の「意味」がわかるようになるでしょう。


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わかりやすい物語が日本を滅ぼす(上)

 少し長くなりますが,『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』(内田樹・高橋源一郎/ロッキング・オン)の「まえがき」から,SIGHT編集長でこの本のインタヴュアーの渋谷陽一さんの言葉を引用させていただきます。

*****************

 変えようとは思うのだが,どう変えたらよいかわからない。その方法も,ヴィジョンも見えない。それが今,多くの人の共有する閉塞感ではないだろうか。だから,それに対応する「こうしたらいい」というわかりやすい物語は,政治の現場やメディアなどあちこちで流通し,人気を集めたり,集めなかったりしている。そして,恐ろしいことに,人気を集めている物語のほとんどが,新しい右肩上がりの幻想を語っているものである。(中略)

 前述のように,今,人気を集める多くの物語が,喉越しのよさと口当たりのよさを売り物にしているのに対し,この内田・高橋両氏の語る思想は,一見,かなり商品性が低いように見える。しかし,僕は音楽評論家として仕事をしてきた人間だが,ポップ・ミュージックに付き合って50年,最終的に勝つのは,苦く喉越しの悪いリアルだということを知っている。

*****************

 勝ち負けを考えてブログの記事を書いているわけではありませんが,

 「苦く喉越しの悪いリアル」から目をそらすのは,一日でも,一秒でも早い方がよいでしょう。

 今までは,教師たちの「喉越しの悪い苦い現実」を見て見ぬふりをしてきた子どもたち。親たち。そして同僚の教師たち。教育委員会の人間たち。

 「悪さの宣伝」になりそうなことを,徹底的に避けてきた,管理職たち。

 「危機への対応」の観念を全く持っていない,管理職たち。

 「問題を起こしてくれた方が,やめさせるきっかけになるからいい」と思って,放置している管理職たち。

 若い教師の活躍の芽をつむ元管理職たち。

 何も,「変わる必要はないのです。

 「見なかったもの」を「見る」ようにすれば,それでよいのです。

 いじめの件で,教育界の「隠蔽体質」がまた明らかになりました。

 「見ようとしない」ことは,教育の放棄にあたります。

 しかし,「問題を見ようとしない体質」

 「自分たちの過ちを認めようとしない体質」の純度がほとんど100%になっている人を,

 どう変えるか・・・・・これは本当に難しい課題です。


 最初に挙げた本の内容にはいっさいふれませんが,内田樹と高橋源一郎がどこかdolceさんという人と似ているところがある・・・・・ということに私は気づかされました・・・・ある人物評を述べている,ごく一部のところでですが・・・・とだけ書かせていただきます。


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【投票受付№1】 「慈愛」の精神で誤りを指摘し続けるべきか,否か(追記及び謝辞あり)

 いつも本ブログをご訪問されている皆様には,感謝申し上げます。

 今回は,本ブログでは初めての試みになりますが,ランキングのためのバナーを利用した「アンケート」を実施させていただきたいと思い,お願い申し上げます。

 最近は,毎日ほぼ200名の方に,ご訪問いただいております。

 皆様のうち,dolceさんの様々な問題を含む「指摘」に対し,

 「慈愛」の精神をもって,その誤り等を書き続けていくべき,と思われる方は,

 下にある「教育論・教育問題」のバナーをクリックして下さい。

 投票数は,「INポイント」に反映されますので,皆様からも確認していただくことができます

 どうぞ,よろしくお願いいたします。

***************

 (追記) ヘンなタイトルをつけたせいでしょうか。

  「注目記事ランキング」の上位に掲載していただきました。

 また,上記の点については,10人に1人くらいの割合で,賛同してくださっている状況です。

 (実際のアンケートではないので,普段の日とポイントを比較してみての予想ですが)

 「教育」の可能性を信じている方が1人でもいらっしゃる・・・・ことを信じる結果になったということで,記事作成は続けることにいたしました。

 ご協力,ありがとうございました。 

*****************************

 (追記2) また,始まりましたね。

  期待に応えてくれました。

  ほぼ正確な自己理解ができているのに・・・。

  邪魔なのは,「映っているのが自分であることが分からない鏡」の存在です。


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教員,転じて,プログラマーにて,教員の魂を失う

 今までの経緯を整理しましょう。

>自分の話の展開を都合よくするために、相手の考えも勝手に決めてしまう。
>すべて、自分の都合でシナリオを作って完結したい。
>このような話をどこかで聞いたことはありませんか?

 あります。教育ブログで,読んだばかりです。

 kurazohという人の

>小学校の発想にはないのが,「切磋琢磨」。
>単なる「競争」とはわけがちがう・・・・ことがわからない人が多い小学校。
>教師の人間関係がどこかぎくしゃくしている方が,子どもがぐんぐん伸びていく,そういう学校もあることを知っておいて下さい。

 という指摘に対して,

 dolceという人が,

>人間関係はギクシャクしていた方がよい。なぜなら、その方が切磋琢磨が行われるから。

 という「誤読」「誤解」あるいは「捏造」をやりました。

 ですからそこで「そんなことは書いてない」と言って終わりにしてもよかったのですが、

 dolceという人が、

>友人同士でないと切磋琢磨はできない

 という話を,辞書の意味に基づいて主張してきたので,「それはおかしい」と指摘しましたが,それがどうも理解できないらしい。

>人間関係のよくない間での摩擦や葛藤などの刺激のことを切磋琢磨とは言わない。

 と断言されているのは,摩擦や葛藤を通した切磋琢磨を経験したことがないからでしょう。

 そもそも,切磋琢磨そのものをした経験がないからこそ,こうやって辞書の意味にたよるようなことしかできないのでしょう。

 仮に友人関係にあった者同士が,人格を磨いていくという場合でも,その過程でお互いの関係が「ぎくしゃくする」ことは大いにあるのです。

 むしろ,そういう関係があった方が,「切磋琢磨」になるという場合もある,と考えることはできるのです。

 ちなみに,「原文」では,「人間関係がぎくしゃくしているのは教師たち」で,「切磋琢磨するのは子どもたち」です。これすら「読めていない」のは,批判目的のために何も見えなくなってしまったのが原因でしょう。

>くどいようですが、文を読む時、5WIHにもとづいて検証してみましょう。

 ・・・だそうです。とにかく,自分自身に強く言い聞かせて下さい・・・・・。

 自分が経験したことがないことを通して,他人がそれはできると言っていることを否定することはできないから,辞書にたよるしか方法がない。

 辞書にたよるしかない,というのは,最低の勉強方法ですね。

 ネイティブがその場にいない外国語学習が,これに近いのかもしれません。

 辞書を引けば正しい外国語を書いたり話せたりすることができるようになるわけではないのです。

 日本語そのものをよく理解できていないと,次のような誤解も生まれます。

>「また」は並立の接続詞で、例文も出ています。
>彼は政治家であり、また小説家でもあるる。
>これは、彼は政治家か小説家のどちらかという意味ではありません。両方です。

 政治家か,小説家のどちらかである,というわけではなく,両方ともあてはまる。

 それはその通りです。

 ですから,彼は,「政治家ではない」というのは,誤りです。

 dolceさんは,この誤りを犯していることにどうしても,気づけない。

>学問や人徳をよりいっそう磨き上げること。また、友人同士が互いに励まし合い競争し合って、共に向上すること。(goo辞書)

 が「切磋琢磨」の意味である,という場合,

 (自分自身の努力で)「学問や人徳をよりいっそう磨き上げること」も,「切磋琢磨」の意味として使えるのです。

 ベン図で説明しなくても,分かるはずでしょう。

>先生は、歴史的な言葉の変遷について「もとはこうだった」だが、それから「こういう意味になった(転じた)」それは言葉は生きているからだと強調された。

 という経験があるそうです。

 しかし,「切磋琢磨」の場合は,「災い転じて福」のような「転じて」とは異なり,まさに「加わる」という形で,

 「様々な努力を通して、互いに高めあうことを表す四字熟語となった。」(Freshペディア?)

 ということ。

 どこに「友人でないとだめ」と書いてありますか?

 自分に都合のいいように,二つの辞書の意味を合体させたのでしょうか・・・・。
 
 でも,「転ずる」とどうなるのか,dolceさん自らが身をもって示してくれていますね。

 教育現場にいたころは,

 「頭のおかしい人」などとは,口が裂けても言えなかったでしょうに・・・・。

 プログラマーやただのバンドの指導者なら,これは「あり」なんですね。

 教育者としての魂を失った人です。

(追記)

 嘘つきの子どもが,他の子どもに,「嘘つき!」と言われたとき,先生にこうやって
 
 泣きついてくることがあります。

 先生,あの子,私の「悪口」を言うんです。


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指導力不足教員のしぶとさ

 子どもにそこまでの能力を求める教師は少ないでしょうが,

 自分の欠点から目をそらせようと努力することにかけては右に出る者がいない,という人がいます。

 そういう子どもにときどき出会いますね。

 こういう能力は,どこで培われてきたのでしょうか。

 やはり,「ピンチ」を何度か経験してきたのでしょう。

 「最大のピンチ」で負けて現場を去ってしまったのが「あの方」ですが,

 「どうしても辞めてくれない」と研修担当が嘆く指導力不足教員の「しぶとさ」が,これだ,という記事が最新のものです。

 「切磋琢磨」は,「友人関係のような,いい人間関係でなければ成立しない」というのは,

 再度引用している説明からも,

 ただの自分の「考え」であることがばれてしまっているのに,

 それも忘れ,相手の批判に終始する。

 教師が学校内にしろ,学校外にしろ,トラブルを起こした場合,

 その原因や責任は教師の側には100%ない,ということはまず考えにくい。

 外部から見れば,あるいは教室内の場合,子どもや教師から見れば,

 教師の方にほとんどの責任があることもあります。

 でも,それを絶対に認めようとしない。

 「ああ言えばこう言う」の永遠の繰り返し。

 もうすでに「終わっている」のに,「反論できなくなった方が負けだ」と確信しているのか,

 「言い訳」を繰り返していくのですが,

 やればやるほど苦しくなっていく。

 しかし,それで「みじめになっている」自分には「気づけない」。

 その最大の原因が,相手側を「知能が足りない」と言って自分の考えを述べてしまっていることにある。

 こういうタイプの指導力不足教員を辞めさせることの難しさを,

 改めて実感させてくれる記事でしたね。

 でも,もうずいぶん前から一般の方が「おかしい人ですね」ということに気づける状況に陥っているので,あとは少しでも思いやりのある人が,近くで何とかしてあげてほしいと思います。

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良さや納得できる点を見出そうとするのが「頭(首)を垂れる稲穂」

 辞書にしか目がいかないような人間,辞書の一部にしか目がいかないような人間は,

 ときとして,批判したい人間の文章を全否定しにかかる。

 こういう教師は,ちょっとした問題行動でひっかかった子どもを「全否定」しにかかり,

 コミュニケーションの機会を閉ざす。

 これが「指導力不足教員」への入口になる。

 ちょっとだけ,想像していただければわかると思いますが,

 「指導力不足教員」には,「謙虚さ」「相手の気持ちを分かろうとする態度」のかけらもありません。

 「頭がおかしい」なんて書いてしまう時点で,「人間としてアウト」です。

 「だって,頭がおかしいんだから,知能に欠けるのだから,したかないではないか」

 で,「退場」ですよ。

 「頭がおかしい人の話はすべて間違っている」としかとらえられない人間に,そもそも何も話しても無駄だろう,と考えがちかもしれないのですが,

 学校現場では,やはりその「勘違い」「誤解」を解く努力が必要です。

 子どもの中にも,そういう態度をとるのがいますから。

 dolceさんのような教師に育てられた子どもの中に,

 様々な議論があったとき,

 「だって,辞書にこう書いてありますから!

 と言って譲らない頑なな態度をとる子どもが出てくることは想像できますか。

 もちろん,自分に都合のいいことだけを辞書から拾ってくるような姿勢です。

 カルロスさんの記事から,

 ああ,そんなことはあり得るな,自分にもあてはまるかもしれない・・・・・・

 なんてことを露ほども思わないのが,そういうタイプの人間です。

 自分自身が謙虚でない人間ほど,あいつは謙虚ではない,なんて批判の仕方をする。

 本当に謙虚な人間なら,そんな恥ずかしいことはできないでしょう。

 「辞書引き学習の下らなさ」から,一部を引用させていただきます。

*******************

>辞書も辞典も大好きだが、いくつもながめてからやっと納得するタイプなので、一つの辞書や辞典に書いてあることをすぐに鵜呑みにはしないし、できない。

>「また」や「または」についても、何につけて、独自の解釈をしなければ気が済まない人には、もともと辞書や辞典は必要ないのではないか。

>生徒にもすぐに携帯や端末機器で言葉を調べる者がいて、それだけでわかったような様子でいるのを見ると、まったく勉強をする気がないのだと思ってしまう。

>出典や論拠を示さないと気が済まない教師と出会ったことがある。
>若いのにめちゃくちゃ頑固で、子どもの声にも耳をかさず、同僚の言葉も疑い、ただひたすら本を読んでいた。
>なんとかの教え方とかできる子どもにするためのなんとかとかいうような本ばかり。
>そこに書いてあることだけが正しいと堅く信じて実践していた。
>そんな授業に血が通うはずがない。

*******************

 小学校の学級王国では,

 教師に気に入られるために,

 「教祖を盲信する」ような態度で接することを無意識に身に付ける子どもが増えます。

 枠の中では平等とか言っていても,枠からはみだした異教徒としての子どもは

 完全に排除,否定する排他的な「宗教的権威」をもつのが「学級王国の王」です。

 こういう教師=裸の王様に関してだけは,「革命」の恐怖を植え付ける仕組みが必要なのでしょう。


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「知識」に対する「知識」が足りない教師たち

 教師や元教師がこのようなブログを書くのは,けっこう勇気が必要ですね。

 それは,自分の教育への見方・考え方,理解の幅広さ・深さなどがわかってしまうからです。

 どんなレベルでも,全くそのことが気にならない人だけが,こういうブログを書き続けることができているのかもしれません(私をはじめとして)。

 「匿名さん」から,たいへん貴重なコメントをいただいております。


***************

負の連鎖を断ち切る、とても重要で、簡単なようでもなかなか思うようになりません。

私が考えるに、子供たちに知識ゼロからの正しい知識の構築方法を教えるのが良いと思いますが、あまりにも浅はかな辞書引きをしていたのでは全く無理。

調べるとき、もっと深く、突っ込んだ調べ方を教えないとなりません。
もちろん、型にはめた知識を押しつけたり、個人の曲解を示したりでは、デタラメを教えていることになります。

ゼロから構築すれば、と言っても、すでにいろいろな資料や解説があり、どれがどういう理由で正しいといえるのかということを話せるようになることでもクリーンな知識の構築に役立つと思います。

***************

 今日は,他校の若い先生とお話しする機会があって,

 「知識を教える」ということについて,私の見解を述べる場面がありました。

 「知識」とは,「知識」として教えるものではない・・・・というのが,私の意見です。

 考えたり,調べたり,まとめたり・・・・そういう活動の中で,子どもが理解できた程度のことが,その子どもにとっての「知識」です。

 ですから,「何年にだれが何をしました」ということは,「知識として教える」ようなものなのか,考えてもらいました。

 子どもたちにとって,考えたり,考えついたことを表現する手段として,知識が必要になる課題や場面を設定して,子どもが自分からアクセスしていくものが,学校で「学ぶ」知識だ,という認識が必要だろう,と。

 知識を求める意欲の引き出し方が,

 「テストに出るから」

 ではなく,

 「この課題を解決したいから」

 となるようにすることで,教科の目標は達成されやすくなるのです。


 最低なのは,辞書で引いて,何かわかった気にさせてしまうような教師です。


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カルロスさん VS dolceさんの応酬を教材化する

 悪口を言った言わないでもめる女子中学生の指導をしていると,

 毎年,dolceさんタイプの「戦い方」をする子どもに必ず出会います。

 「私は,そんなこと言っていない。あっちが,勝手にでっちあげたことです

 「いつ私がそんなことを言った? 何月何日の何時何分に?

 これは相手をやりこめようとする(口を封じようとする)方法の一つで,

 小学生でも使うことがある「戦法」です。

 自分も相手と同じようなことをしているのがわかっているために,少しでも自分が優位に立とうとしてとろうとする「知性的でない」「低レベル」な「戦法」です。

 dolceさんのような大人の場合は,相手に

 「知能に課題がある」「頭がおかしい」と言ってしまうのですが,

 そこまでいったら,もうアウトです。

 「頭がおかしい」人が「頭がおかしい」なんていうことを言う

 なんて始まるのが小学生や中学生のレベルですからね。

 dolceさんの場合は,

>私のプログ記事を読んで、批判することは大いに結構だ。
>しかし「どこに、そんなことが書いてありますか?」と問い返さなければならない、批判とは言えない批判が多いのにも閉口する。

 と書いている自分自身が,まさにそのことをしている。

 私のブログに書いてあることを,dolceさんが曲解して批判を始めたことは,すでに述べました。

 こういう人と「争う」には,

 「同じレベル」になってはいけないのです。

 では,カルロスさんはどのように「反撃」すべきか。

 「第三者」は,どうすべきか。

 学級での自治会の話し合いで,総攻撃を受けることになる人はだれかはわかっていますが。

 「切磋琢磨」を人が避けてしまうような人間にだけはなるな,というのがこの教材のオチです。

***

 なお,「切磋琢磨」の原点,英訳に関しては,コメントで匿名さんが明快な解説があるサイトをご紹介くださいました。ありがとうございます。


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本質の部分ではなく,「つけたし」に目が行く子ども

 「学び合い」は,とてもいい「学び方」です。

 教師がいなくてもできる「学び方」だからです。

 問題がある教師であるほど,「学び合い」は望ましい学習のあり方かもしれません。

 しかし,「学び」は協力し合う「仲間」がいないとできないことかというと,

 そんなことはありません。

 本質と「つけたし」が逆転する現象は,いたるところで見られます。
 
 授業を参観していると,

 「つけたし」の方が「わかりやすい」(実際は,「わかったような気になっただけ」)ため,

 そっちばかりを重視する教師や子どもをよく見かけます。

 授業の目標から離れていき,

 「安易な理解」の方に目が向いていく。

 日常的な,生活の中でもいたるところにある現象です。

 本質から目をそらし,どうでもいいことばかりを子どもに教え込む教師たち。

 今まで,教育の場で再生産されてきたこの連鎖をどこかでたちきらなければなりません。


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指導力不足教員のガス抜き

 学校には,「指導力不足」認定予備軍の教師が何人かいるでしょう。

 こういう先生たちは,ときどき何かを「やらかして」くれます。

 一番困るのは,子どもをターゲットにした「ストレス発散」ですね。

 「権力」にいたぶられた経験があり,恨みが残っている人は,「権威」「権力」にたてつくことでストレスを発散しますが,そうでない人たちは,安全に攻撃できる弱い立場の人間をターゲットにします。

 小中学生のころ,この被害にあった方は多いのではないでしょうか

 この被害から救うには,「指導力不足」教員の近くにいる先生方の努力が必要です。

 様々な方法による「ガス抜き」をすることで,

 子どもへの被害を最小限にくいとめることができます。

 今まで,組合活動のようなものが,「ガス抜き」効果をもっていた学校もあるのでしょうが,

 組織率が低下し活動が「おっくう」になってきたその集団は,

 さらに「ストレスを増幅させるもの」になりかねません。

 一番いい「ガス抜き」は,

 「人の悪口を言わせること」ですかね。

 その内容にはいかなる論理性も必要ありません。

 ただの「ガス抜き」ですから。

 ある程度,頭がはっきりしている人は,

 自分が言っていることのおかしさに気づくのでしょうが,

 「本物」はそうはいきません。

 ますます自分の「本物らしさ」をふりまくだけになってしまうのですが,

 それでも,子どもに被害が加えられるよりはまし。

 どんどん「ガス」を抜いていきましょう。

 ・・・・でも,その「ガス田」の無尽蔵さにあきれ果ててしまうことも・・・・。


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辞書を引く前に,本文をよく読むことが学力向上&コミュニケーション不全の解消の近道

 ちょっとレベルが高い話でしょうか。

 英語が苦手な人は,意味が分からない単語を片っ端から調べていこうとするので,いっこうに読み進められない。

 だから,まずは通して読んで,一応の内容をつかみ,できたら単語の意味も類推していく・・・・・・

 こういう学習方法が身に付いている人は,辞書を使うのは「最後」ですね。

 本文もろくに読もうとしないで,

 辞書の意味から入ろうとするようなdolceさん流の勉強方法は,「三流」ということになります。

>何かの本に、学力をつけるためには辞書をひく労を厭わないことと書いてありました

 そうですね。でも,その前に,しっかり「本文」を読みましょう。

 その方が,「言葉の意味を類推する力」がついて,学力向上にはもってこいですよ。

 最後に辞書で引いて,意味が当たっていたりすると,自己肯定感も増しますからね。

 

>「学問をし、徳を修めるために、努力に努力を重ねること」だけで、切磋琢磨の意味になると言うのだから、こんな頭では保護者一般から、教員のレベルを疑問視されても仕方がないだろう。

>少なくとも正しい言葉の使い方をしてほしいと思います。
>それには、常に辞書で確認する態度が大切と思います。
>「辞書にたよる」という言い方をし、辞書を使うことが、あたかもいけないことのような印象を与える人がいますが、そうでしょうか?

>辞書にある意味でなくて、オレの頭の中にある意味が正しいんだと言いたいのでしょうか?
>そうだとしたら、それはとても不遜な態度と言わざるを得ないでしょう。
>それは、オレの言うことは間違いない、いつも正しいという思い上がった態度、上から目線まっしぐらではないでしょうか?


 こういうのを,「自己主張」と言います。

 辞書の意味の誤読だけしていればまだましなのですが,

 こういう余計なことをたくさん書くので,

 「辞書の意味を持ち出す理由

 がばれてしまうのです。

 当たり前のことを書いて,いちいち

>オレの言うことは間違いない、いつも正しいという思い上がった態度、上から目線まっしぐらではないでしょうか?
 
 とからんでくるような教員は,やはり現場にもたくさんいますね。


 ところで,「また」の用法はお分かりになりましたか?

 まずは,よく「本文」をお読み下さい。

 
 自分の都合の悪いことを徹底的に読み飛ばして,

 何とか食いつけそうなところだけ,辞書にすがって「主張」するのは,

 あまり「知性的」とはよべないと思われます。


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切磋琢磨が必要だったのに,できなかったその理由はわかりますが・・・

 自己主張をするときに,相手の「知的水準が低い」と卑下しながら

 自分の理解が不十分なことを打ち明けていることが,いかに「痛い」ものかを知らせてくれる方が私やカルロスさん以外にいたら,dolceさんも救われたはずなのに・・・・と,本当に気の毒に思います。

 冷静な判断力を失う原因に心当たりはありますが・・・。

 辞書の意味とご自分の乏しい経験によりかかって,

 ああでもないこうでもないと書き散らしているその姿が,

 「切磋琢磨」が必要な人の原型なのです。

 でも,dolceさん流の説明なら,それができない理由はよくわかります。

 露骨な迎合しかされない読者とでは,決して「切磋琢磨」することができないことは,ご自身もおわかりになるでしょうね。

>「学問をし、徳を修めるために、努力に努力を重ねること」だけで、切磋琢磨の意味になると言うのだから、こんな頭では保護者一般から、教員のレベルを疑問視されても仕方がないだろう。

 接続詞の解釈がご披露されていますが,

 dolceさんのおっしゃるように,

>「また」は並列で、二つ以上のことがらを対等に並べる時に使う

 わけですから,

 「学問をし、徳を修めるために、努力に努力を重ねること」も,切磋琢磨の意味になる

 のです。

 たとえば,

 「異口同音」の意味は,

>多くの人が、同じ言葉を口にすること。また、多くの人が一致して同じ意見をいうこと。(四字熟語データバンク)

 とありますが,

 『異口同音』の意味は「みんなの意見が一致すること」であって,多くの人が,同じ言葉を口にしただけでは,『異口同音』の意味にはならない

 と言えますか?

 みんなが同じことを口にするとき,それは「意見」とは限りませんからね。


 彼は教師であり,また,音楽家でもある。

 という場合,

 彼がどんな人かを表現するのに,「教師である」と言ってもいいし,「音楽家である」と言ってもいいし,「教師で音楽家」と言ってもいいのです。

 辞書に書いてあることを鵜呑みにしないのが知性。

 「切磋琢磨」する「仲間」がいたとき,それは「友人」とは限らないでしょう???

 「同じ志をもつ人」くらいなら,いいのでしょうが。

 dolceさんの場合は,

 「切磋琢磨」というとき,辞書に書いてあるから,という理由で,そこに「友人どうし」であることが絶対条件であるように主張していますが,

 そこでいったん,

 辞書にそう書いてあるから

 ではなく,

 「自分自身で切磋琢磨してきたことはなかったかな

 「友人どうしでなければできないことなのか

 と立ち止まって疑問に思う姿勢が,「知性」なのではないですか?


 解釈に課題がある言葉自体を,「翻訳」で語るということも,知的な感性を持っている人にはおそろしくてできないことでしょう。それを平気でやってのけるあたりが,痛いのですよ。

 ・・・・いえいえ,今,気づきました。

 「in addition」の意味を辞書で引いてもらって,「その他に」という訳語を見つけた時点で,

 「おや?」と思っていただけたかも???

 ・・・・しかし,dolceさんの場合,「自己反省」は本当に「口だけ」「形だけ」なので,そんなことは「見なかったこと」にしてしまうでしょうね・・・・。

 私の書いた文章の誤読から,こんな世界まで足を踏み入れてくださるとは,

 まことにまことに,

 「教育が失敗に終わる理由」を考えさせてくれる絶好の題材です。

 dolceさんは,辞書の意味を教え込んでおけば,「知性的なロボット」ができると本気で考えているのかもしれませんね・・・・。

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dolceさんのような教員が,よい学校のレベルを下げていく

 dolceさんが,というわけではなくて,

 dolceさんのような教員が,というお話ですから,誤解されませんように。

 dolceさんは,次のような学校観,指導観をご披露してくれました。

荒れた学校にいてくれた方が望ましい教員の姿です。

>私は学校へ吹奏楽の指導に行ったりしますが、高等学校で、いわゆるAクラス、Bクラス、Cクラスなどとランクをつけられる中で、実際に指導に入ると何が違うのかということを考えたことがあります。

>コンクールに出ることを想定すると、Aクラスはすぐに上手になって代表になったりします。

>では、B、Cクラスとの違いは何でしょう。

>演奏技術の違いは感じません。

>Aクラスの中にも不器用な生徒もいます。

>違いというのは、生活指導の必要がどのくらいあるかということです。

>B、C、・・・と下がるほど生活指導の比率が高くなります。

>生活指導の比率が高いということは、必然的に音楽そのものの指導時間が少なくなります。

>Aクラスは生活指導などしなくても、すぐに音楽の練習に集中できるわけです。
>だから、すぐに上手になるわけです。

>私が、ここでなぜこういう例を出したかと言うと、生活指導をたくさんしなければならない状況というのは、悪い環境です。人間関係がギクシャクしていることも多いです。

 このご説明の中の「生活指導」が,

 狭い意味の「生活指導」・・・つまり,「問題行動等への対応」であることは明らかでしょう。

 こういう「生活指導」を,単に「音楽そのものの指導時間」を生み出すのが目的であったとしても,やってくれる方と言うのは,学校には絶対に欠かせません。

 しかし,教育者としての立場から,「生活指導」という言葉を正しく使おうとすると,

>B、C、・・・と下がるほど生活指導の比率が高くなります

 というのは,現状としても,指導への姿勢としても,誤りということになります。

 そもそも高校をおそらく「学力水準」でランク付けし,それぞれの生活指導の比重の違いを語ろうとする姿勢自体が「単なる演奏指導者」であることを物語っているわけですが,

 実際には,「Aクラス」の高校の生徒ほど,「真の生活指導」が必要とされている・・・・こういう発想をもっていないと,もしdolceさんが教員だった場合,「Aクラス」だったはずの学校がいつのまにか「Bクラス」になってしまうことが考えられます。

 もちろん,高校ではそんな変化は起こらない,というのが現状でしょうが,だからこそ,「Aクラスには生活指導は必要ない」というのが「常識化」してしまって,「手抜きをする」大義名分となってしまうのです。

 こういう問題がよく発生するのが,公立中学校です。

 公立中学校の場合は,仮に「Aクラス」の学校があったとしたら,それは充実した生活指導のたまものであって,「生活指導に時間をかけている」からこそ,現状が維持できるのです。


>生活指導をたくさんしなければならない状況というのは、悪い環境です。

 と言う場合の「生活指導」がどの程度のレベルのものかは容易に想像できます。

 いつのいかなる学校でも,同じように「生活指導はたくさんしなければならない」のです。

 そして,もし仮に狭い意味の「生活指導をたくさんしなければならない状況」というのは,教師の仕事の本質から言えば,「良い環境」です。

 「切磋琢磨」が必要な状況だからです。

 教育に情熱をかける教師ほど,

 「生活指導をたくさんしなければならない状況」こそ,「切磋琢磨」が必要な状況なのだ

 ということが理解できるでしょう。

 「切磋琢磨」の本来の意味を考えれば容易にわかることです。

>生活指導の問題がない上で、音楽の練習に集中できて、その集中している中で励まし合ったり厳しく目標を追究する中に切磋琢磨という言葉を用いるのです

 というdolceさんの言葉から何がわかるかというと,

 要は「上手に演奏できるようになればよい」というだけで,

 生活指導上の問題を解決していく過程には,何の価値も見出していないことがわかるのです。

 これが「教育関係者」ではなく,

 ただの「演奏指導者」であることの証明です。

>中(ママ)のいい選手同士が研究し合って練習する状況を切磋琢磨というのです

 ということを平気で書くから,

 教育関係者の常識は,世間の非常識とよばれてしまうのではないですか?


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指導力不足を環境のせいにできる教師たち

 学校には,特に公立の中学校には,目標の達成や解決が困難な課題がたくさんあり,多くの教師は悪戦苦闘しているのですが,

 「あきらめている」教師,

 その原因を「他者に転嫁している」教師もたくさんいます。

 「切磋琢磨」が,限られた空間の,しかも「仲の良い,良い人間関係のなかでしかできない」と考えている人間が教育現場にいた(いる)ことは,

 「切磋琢磨できる場所がなかった」と堂々と言えるような人間を許してしまう原因になり得ます。

 dolceさんの「反論がいかにおかしいかということは、やはり普通の教養人ならわかるでしょう」という投げかけに対して,簡単に説明しておきましょう。

 dolceさんの以下のコメントに対して。

>切磋琢磨が行われている環境は人間環境の良い状況を想定して用いられる言葉です。

>この私の説明に反論して、お前は読解力がないし、経験が不足しているから、人間関係がギクシャクしている中でも切磋琢磨は行われるということがわからないのだと言うわけです。

 私が「読解力がない」と指摘したのは,

 そもそも私は

>小学校の発想にはないのが,「切磋琢磨」。
>単なる「競争」とはわけがちがう・・・・ことがわからない人が多い小学校。
>教師の人間関係がどこかぎくしゃくしている方が,子どもがぐんぐん伸びていく,そういう学校もあることを知っておいて下さい。

 と書いたように,小学校には切磋琢磨する,子どもに切磋琢磨の場を与える,という発想がないというのが私の主張でした。学級王国というところは,そういうところなのです。

 このことに対する反論はあって当然なのですが,

 どこにも書いていない

>人間関係はギクシャクしていた方がよい。なぜなら、その方が切磋琢磨が行われる

 ということに対してご自分の考えを述べている。

 dolceさん流に書けば,「知性の欠如」が原因なのでしょうか。
 
 そういった「ずれ方」をしているご自身に自ら追い打ちをかけるように,

>切磋琢磨というのは、人間関係の良い間で行われる行動

 と決めつけ,

>人間関係はギクシャクしていた方がよい。なぜなら、その方が切磋琢磨が行われる

 のはおかしいと主張されている。

 しかし,仮に,私が,

>教師の人間関係がどこかぎくしゃくしている方が,子どもがぐんぐん伸びていく,そういう学校もあることを知っておいて下さい。

 ではなく,

>教師の人間関係がどこかぎくしゃくしている方が,子どもがお互いに切磋琢磨して成長していく,そういう学校もあることを知っておいて下さい。

 と表現していたとしても,dolceさんの批判は的外れであることは一目瞭然でしょう。

 いずれにせよ,

 dolceさんは人間関係がぎくしゃくしている学校で教員が
 
 「学問や人徳をいっそう磨き上げること」はできない,と宣言しているわけですから,

 無責任な指導力不足教員にとっては願ってもない「教祖」になってくれる存在でしょうね。

 症状が重くなってきているので,そろそろ決定打がくるころかもしれません。


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「よさをPRする」戦略のウラが見えるのが情報リテラシー学習

 様々な改革のうち,新しいことを取り入れて

 「先進性」「独自性」をアピールしようと考えている組織は,

 それらが不足していることを証明しているのと同じです。

 学校や学級の目標で,「あいさつをしよう」「教室をきれいにしよう」「整理整頓を心がけよう」

 というのがある場合は,

 「あいさつができない」「教室や身の回りがきたない」

 ことを証明しているのと同じです。

 だれが何を目標にしているか,何をPRしているかによって,

 現状がどうであるかを想像する。

 情報リテラシー学習には,そういう能力も高めようとしています。

 「良さをPRする」動機の中には,

 「高い評価を得られるようにするため」

 「よい評判がほしいため」

 というものがあるのは当然でしょう。

 そして,「よい評判を獲得しよう」とするとき,

 ポジティブ情報を多く発信するのが戦略としては正しいのでしょう。

 しかし,そこには,「現状のネガティブ情報は隠しておく」という戦略があることもわかります。

 教育ブログにも,

 「ポジティブ情報を多く発信する」

 というポリシーをもっていることが想像できるものがたくさんあります。

 一方で,「自分ではなく,他者のネガティブ情報をより多く発信する」

 ことに重きをおいているものも。

 ネガティブ情報が多いブログで,「信頼」を得ることは非常に困難なことでしょう。

 しかし,教育現場の,特に,教師の実態に関する「現状の課題」を多面的に分析するためには,
 
 だれかによる情報の発信が必要だと思われます。

 このブログを継続的にお読みいただいている方は,おそらく「現状の課題」に大きな関心をお持ちなのだろうと思います。

 先日は,ある大学の先生から,

 公立中学校の授業が,「塾化している」という指摘をいただきました。

 これも,「社会のニーズ」といってしまえば,その通りなのかもしれません。

 「学校の存在理由」が,変化しているのかもしれません。

 ただ,学校教育が目指している目標を脇に置いて,負担感の低いことをしている教師が増えることにはやはり危惧を抱きます。

 学校のよさとは何でしょう。

 それをPRできる「資格」のある学校がどれくらいあるのでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より