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dolceさんのような教員が,よい学校のレベルを下げていく

 dolceさんが,というわけではなくて,

 dolceさんのような教員が,というお話ですから,誤解されませんように。

 dolceさんは,次のような学校観,指導観をご披露してくれました。

荒れた学校にいてくれた方が望ましい教員の姿です。

>私は学校へ吹奏楽の指導に行ったりしますが、高等学校で、いわゆるAクラス、Bクラス、Cクラスなどとランクをつけられる中で、実際に指導に入ると何が違うのかということを考えたことがあります。

>コンクールに出ることを想定すると、Aクラスはすぐに上手になって代表になったりします。

>では、B、Cクラスとの違いは何でしょう。

>演奏技術の違いは感じません。

>Aクラスの中にも不器用な生徒もいます。

>違いというのは、生活指導の必要がどのくらいあるかということです。

>B、C、・・・と下がるほど生活指導の比率が高くなります。

>生活指導の比率が高いということは、必然的に音楽そのものの指導時間が少なくなります。

>Aクラスは生活指導などしなくても、すぐに音楽の練習に集中できるわけです。
>だから、すぐに上手になるわけです。

>私が、ここでなぜこういう例を出したかと言うと、生活指導をたくさんしなければならない状況というのは、悪い環境です。人間関係がギクシャクしていることも多いです。

 このご説明の中の「生活指導」が,

 狭い意味の「生活指導」・・・つまり,「問題行動等への対応」であることは明らかでしょう。

 こういう「生活指導」を,単に「音楽そのものの指導時間」を生み出すのが目的であったとしても,やってくれる方と言うのは,学校には絶対に欠かせません。

 しかし,教育者としての立場から,「生活指導」という言葉を正しく使おうとすると,

>B、C、・・・と下がるほど生活指導の比率が高くなります

 というのは,現状としても,指導への姿勢としても,誤りということになります。

 そもそも高校をおそらく「学力水準」でランク付けし,それぞれの生活指導の比重の違いを語ろうとする姿勢自体が「単なる演奏指導者」であることを物語っているわけですが,

 実際には,「Aクラス」の高校の生徒ほど,「真の生活指導」が必要とされている・・・・こういう発想をもっていないと,もしdolceさんが教員だった場合,「Aクラス」だったはずの学校がいつのまにか「Bクラス」になってしまうことが考えられます。

 もちろん,高校ではそんな変化は起こらない,というのが現状でしょうが,だからこそ,「Aクラスには生活指導は必要ない」というのが「常識化」してしまって,「手抜きをする」大義名分となってしまうのです。

 こういう問題がよく発生するのが,公立中学校です。

 公立中学校の場合は,仮に「Aクラス」の学校があったとしたら,それは充実した生活指導のたまものであって,「生活指導に時間をかけている」からこそ,現状が維持できるのです。


>生活指導をたくさんしなければならない状況というのは、悪い環境です。

 と言う場合の「生活指導」がどの程度のレベルのものかは容易に想像できます。

 いつのいかなる学校でも,同じように「生活指導はたくさんしなければならない」のです。

 そして,もし仮に狭い意味の「生活指導をたくさんしなければならない状況」というのは,教師の仕事の本質から言えば,「良い環境」です。

 「切磋琢磨」が必要な状況だからです。

 教育に情熱をかける教師ほど,

 「生活指導をたくさんしなければならない状況」こそ,「切磋琢磨」が必要な状況なのだ

 ということが理解できるでしょう。

 「切磋琢磨」の本来の意味を考えれば容易にわかることです。

>生活指導の問題がない上で、音楽の練習に集中できて、その集中している中で励まし合ったり厳しく目標を追究する中に切磋琢磨という言葉を用いるのです

 というdolceさんの言葉から何がわかるかというと,

 要は「上手に演奏できるようになればよい」というだけで,

 生活指導上の問題を解決していく過程には,何の価値も見出していないことがわかるのです。

 これが「教育関係者」ではなく,

 ただの「演奏指導者」であることの証明です。

>中(ママ)のいい選手同士が研究し合って練習する状況を切磋琢磨というのです

 ということを平気で書くから,

 教育関係者の常識は,世間の非常識とよばれてしまうのではないですか?


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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