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人に「謙虚であれ」という人の謙虚さ

 学校の教師が道徳教育をしにくいのは,

 第一に,ほとんど考える必要のなさそうな子どもが熱心に学び,

 次に,本当に必要のある子どもに響きにくい

 そして学校によっては,教師の多くが

 「そんな建前を教えて何になる

 という姿勢でいることです。

 普段,人に対して「謙虚ではない」人から,

 「謙虚に生きることが大切」と言われても,「はいそうですか」で終わりだし,

 人に対して「やさしくない」人から,

 「人にやさしくしよう」と言われても,「あなたはよくそんなことが言えますね」と反発されるし・・・・

 といった調子で,

 学校のあらゆる授業の中で,最も「充実感が乏しい」と子どもたちが評価している道徳の時間はどうあるべきか・・・・,

 「話し合おう」「何とかしよう」と始めた途端,

 方向はより悪い方へとしか向かいそうもない,そんなジレンマの中にいる教師たちに,

 「救世主」は現れるのでしょうか。

 実は,答えは非常に簡単なのですね。

 「救世主」は,生徒なのです

 生徒が「活動」するからこそ,そこに「道徳的価値」を考えるきっかけが生まれるわけです。

 「実践的活動」の中から,「考える」必然性が生まれてくる。

 そして,ときには,生徒が「教師に望むこと」という切実な「思い」が表現されてくる。

 受け入れるかどうかは別として,「聞く」か「聞かないか」が,

 人間としての「謙虚さ」があるかないかの違いなのでしょう。

 部活動に遅刻してきた子どものせいで,「話し合い」を強制され,かつ,「だれも遅れてこない開始時刻を決定せよ」という命令を受けた子どもたち(決まった時間に来て,活動を始めたかった子どもたち)の身になって考えてみましょう。

 そんなことを強制されたり命令されたりする前に,

 「どうして私たちの声を聴いてくれなかったのか」という声なき声に耳を傾けようとしないような教師に,

 「謙虚さ」を語る資格はないのです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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