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「言語活動の充実」の評価で,絶対に欠かせない観点

 児童生徒一人一人の能力を向上させるために,

 学校が「言語活動の充実」を至上課題,優先課題として取り組む・・・・別に,悪いことではありません。

 思考力,判断力,表現力に課題がある,という「評価」を受けて,それらを育てていこう,という目標をつくる・・・・悪いことではありません。

 ただ,気になることもあります。

 ある小学校の研究会に出かけると,

 「他の人といかに違う発想ができるか

 「自分の考えにいかにこだわれるか

 を重視した授業を展開していました。

 私(だけではないと思うのですが)が感じる危惧は,

 「人の意見を大切にする」「人の発言をしっかり聞く」活動がおろそかにならないだろうか,

 というものでした。

 子どもが,自分に対する「評価」を気にして,

 「自分の優位性」を強調し出すようになると,

 そこは「言語活動が充実」する空間ではなくて,「自分中心主義の空気が蔓延する」空間になるのではないか・・・・という危惧を感じます。

 「言語活動の充実」を主目標にするのであれば,

 「いかに話すか

 よりも

 「いかに聞くか」「いかに聞けるか

 を重視すべきだというのが私の考えです。


 「学び合い」を無理して設定しなくても,

 教師の効果的・効率的指導によって,

 「しっかり聞ける」子どもを育てて,能力を高めてきたのがかつての教育でした。


 小学校の授業を参観すると,すぐに気づくと思いますよ。

 「賢い子ども」は,すごくよく「聞いている」。そして「考えている」。

 「発言数が多い子ども」は,「よく考えている」と言えるでしょうか。

 教師によって,利用されているだけかもしれませんね(これはわかる人には痛いほどわかるでしょう)。

 「発言数の多い子どもの思考力は高まりにくい」・・・・どなたか,この仮説を証明してくださいませんか・・・。
 
 

 さて,一方の, 「発言しない子ども」の頭の中を「表情で読む」ことができる人はごく少数でしょうが,

 それができていることは,挙手していない子どもを当てて,その子どもが迷いなく自分の考えを述べられている場面で証明されます。

 
 「しっかり聞く」ことよりも,「しっかり話す」ことの方を重視してしまうと,

 理解が深まらないのです。

 
 また,小学校の授業を見て,「やめた方が子どもの頭はよくなる

 と思ってしまうのは,

 「生徒の発言を黒板に書いてしまう」教師の行為です。

 
 子どもは,発言をよく聞かず,「黒板を読む」ことで「理解したつもりになる」。

 
 いかに聞けたかは,「聞いたこと」をノートに書かせればよいのです。

 黒板に書いてはダメ。

 
 子どもは「写す」作業では「頭は使わない」

 「聞く」→「書く」→「考える」→「話す」のサイクルを,大事にした方が,能力は高まるでしょう。

 「読む」→「話す」で終わっている子どもの大量出現を避けることができます。


 教師の発言はもちろん,子どもが子どもの発言を,自分の力で聞き取って,理解して,考えていく習慣。

 それが大事です。

 
 それと,もっともっと大事な「評価」をめぐることで大切にしたいのは,

 その「言語活動」が,

 どれだけ「人(友だち)のための言葉」であるかどうか。

 それを重視してほしいです。

 
 自分の考えを発表するのに,「言語活動」を行うのは当然なのですが,その能力を高める,ということ以上に,

 「どれだけ人(友だち)のための言語活動になっているか」を「評価」してほしいのです。


 自分の考えを伝える,ことよりもまず,人の考えを聞いて受け止める

 それが「言語活動」の基礎・基本であることを,すべての人が共通に認識した上で,研究活動をしたいものですね。

 常に一方通行のブログでこんなことを言うのも何ですが。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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