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大阪市の小中学校におけるタブレット端末利用

 大阪市教育委員会が2日に発表した内容によると,

 小中学生に授業用のタブレットを配布するということですが,

 私が驚いたのは,これにかかる費用が毎年

 50億円「しか」かからない,ということです。

 数年前に「職員厚遇問題」が読売新聞で取り上げられたとき,

 ヤミ年金・退職金,係長以下の職員に提供していたスーツの費用,管理職でない係長職に支給していた管理職手当,ヤミボーナス,本来,危険や困難を伴う業務に支払われるべき手当のはずなのに,そう思われない業務への手当て,職場の親睦団体への助成,職員互助組合への補助・・・これらを合計すると

 百数十億円になりました。

 ***************

 記事しか読んでいないのでわからないのですが,

 児童・生徒への配布に先行して,教員への配布は済ませることができるのでしょうか。

 私の個人的な意見を申し上げると,

 児童・生徒がもつ意義も大きいですが,通信を可能にすることのリスクが高すぎて,

 「余計な指導」が増えるため,教師たちは苦労するだろうなと思われます。

 児童・生徒がもつ前に,まずは教員がタブレット機を授業で駆使できるようにすることが重要だ,ということです。

 ソフトを買わなくても,ネット上に教材はあふれていますので,

 それを提示して授業を展開することによる効果は大きいと思われます。

 もちろん,子どもがもつ端末との通信により,

 小テストの実施

 体調管理

 提出物の確認

 などなども容易にできるようになり,業務の省力化は進みますが,

 携帯電話=通信機器=ゲーム機=音楽録音再生機をもたせた親が実感しているように,

 端末をもった子どもは自分の「生きる力」を発揮してきます。

 どういう対策を立てているのか,お聞きしてみたいところです。

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コメント

先行してタブレット機を活用している地域の授業事例をみると,残念ながらタブレット機がなければできないという授業はありません。

特に少人数の学校では,子どもが黒板に来て書けばすむことを,機械を通してやっている。

機械が人間の生活を幸福にしてきたのか,歴史を考えれば,光だけでなく陰の部分を見ようとしない限り,「機械」を利用する人間ではなく,「機械」を利用する人間に利用される人間になってしまうのです。

子供にパソコンを持たせたとき、ネット上の罠についてさんざん教えました。
いわゆるフィッシング、なしすまし、チェーンメールなどです。
フィッシングについては届いたメールを生け捕りにして、ペイパルなのにリンク先がロシアであることとか、デリゲートサーバーの存在、などアカウントの更新と偽ってカード情報をデリゲートサーバーが読み取る仕組みとか、そういうの全部知っている限り教えました。
それとか、出会い系と言われるサイトの危険性、ただ単にアダルトサイトと言うだけなら問題は比較的少なく、罠を仕掛けてくる相手の恐ろしさとかも教えておきました。

しかし、まじめな子なら教えても大丈夫なのですが、悪知恵しか働かない子には、寝た子を起こす危険性があり、犯罪の手口を教えてしまい、類似した犯罪を思いつく結果にもつながります。

最近は、FaceBookとかでなりすまし人物が悩み事相談として悪徳超高額インチキの有料メール交換サイトに誘う手口が広まっています。どうしてその知恵を役に立つことに使わないのかと正直、悲しくなります。

そういうトラップを知ることは悪いことでは無く、それらを乗り越えて良い人生を持てる子に育てられると良いと思います。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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    「歴史の活力」より
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  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より